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政治家・江田三郎の人間力   北岡和義

(「江田三郎の人間力」巻末追加)

 もちろん二世、三世議員は政治家のDNAを受け継いでいる血縁だから、政治家に相応しい資質を備えた人物は決して少なくない。なべて世襲議員だからダメ、という短絡した批判は当たらない。逆に親をはるかに凌ぐ実績を残した優れた二世政治家もいる。

 問題は人間力である。多くの人々を惹きつける個性とか、指導力、確固たる決断力、国民を納得させる演説に長けている能力は、生来のものに加え、選挙の洗礼、政治行動、体験から学ぶことで成長する。国政を担任する胆力、一億二千七百余万人の国民の安全と生活を守る責任感。まさに今問われているのは政治家の人間力ではないか。

 参議院選挙で圧倒的な国民の批判票に晒された安倍政権が居座りを決め込んだとき、その対極に民主党がいて参議院で多数を制した。しかもその参議院の議長の座に江田三郎の長男が満票で指名された、という事実に目を奪われる。

 江田五月、横路孝弘、榊原英資、石井紘基……ぼくらは“安保世代”と呼ばれた同時代人である。現代史を紐解いてみれば、先述したが、六〇年安保闘争こそ戦後史の分水嶺だったと想う。そしてぼくらは学生服でデモの隊列にいた。最後に再度、安保闘争の場面を再現しておく。

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 日米安全保障条約の改定に政治生命を賭けた政治家・岸信介。岸は戦後の歴代宰相の中でも異色といっていい経歴を有する。日米開戦を決断した東条内閣の商工大臣、その前は革新官僚として渡満、満州国の経営に当たった。松岡洋右、鮎川義介と並ぶ“満州三スケ”の一人である。

 そして彼らの政治で三一〇万人の国民が犠牲となった。中国人や韓国人やフィリッピン人らアジアの人々の夥しい犠牲を出した。こうした歴史の事実があり、戦争の被害者だった中国や韓国の人たちがA級戦犯を合祀している靖国神社に参拝することを問題視している。

 日本が戦艦ミズーリ甲板で降伏文書に署名した九日後、一九四五年九月一一日、連合国軍最高指令官、ダグラス・マッカーサー元帥は東条英機首相をはじめ閣僚だった東郷茂徳外相、賀屋興宣蔵相と岸信介商工相らにA級戦犯として逮捕状を発した。

 その岸信介が一九五七年二月二五日、石橋湛山首相の病気引退で内閣総理大臣となった。巣鴨プリズンから釈放されて八年二か月、衆議院議員となって三年一〇か月で日本の頂点に立ったのである。

 岸が総理の座に就いてすぐ行動したのは自分を逮捕したマッカーサーの甥、同姓同名のダグラス・マッカーサー駐日大使との会談だった。

 宰相・吉田茂がサンフランシスコ講和条約と同時に署名した日米安全保障条約は、米軍の日本駐留を認める「駐軍協定」である。一方的な片務条約だとして岸は安保条約をアメリカと対等の双務条約に変えたかった。小泉政権の自衛隊イラク派遣という政治決定は、四〇数年前の岸政権による安保条約改定が源流ではなかったか、というのがぼくの歴史解釈である。

 日米が同等の立場を模索、独立国の矜持を確立したかった戦前の革新官僚・岸信介がアイゼンハワー大統領と交わした改定安全保障条約を国会が批准するかどうかは、平和憲法の日本の分岐点だった。もちろん江田三郎ら社会党や総評は総力をあげて反安保闘争に突入してゆくのである。

 しかし浅沼稲次郎や江田三郎ら社会党指導者は、安保が盛り上がる前年秋には「安保は重い」と本音を漏らしていた。しかも六〇年一月二四日には社会党を離党した西尾末広一派が民社党を結成し、社会党は分裂した。

 安保条約改定阻止は、ほぼ同時進行した三井三池闘争とともに、歴史的な戦後保守・総資本と革新・総労働との総力挙げた戦いだった。未だ国家崩壊という敗戦の傷跡は癒えていない。安保闘争は戦争推進勢力に対する平和を守る戦い、という雰囲気が漂っていた。

 岸政権の大蔵大臣は二代後の宰相となる佐藤栄作、農林水産大臣は後の宰相・福田赳夫、衆議院安保特別委員長は小沢佐重喜だった。

 社会党の横路節雄は安保七人衆の一人として「極東の範囲」について政府を追及する。安保条約に謳う「極東」とはどの範囲を指すのか。この答弁で藤山愛一郎外相はじめ政府答弁が二転三転した。

 岸はアイゼンハワー米国大統領の訪日を取り付けた。アイク訪日は六月一九日。それまでに安保条約の国会批准の道筋をつけておかなければならない。五月一九日までに衆議院本会議で議決しておかないと、六月一九日に間に合わなくなる。






しかし安保改定阻止に立ち上がった大衆行動は総評・社会党ブロックと全学連によって次第に盛り上がり、アイク訪日に間に合わない情勢となってきた。
期限ギリギリ、五月一九日深夜、衆議院議長・清瀬一郎は警官隊五〇〇人を院内に入れ、本会議場前に座り込んだ社会党議員の排除を命令、開かれたドアに殺到した自民党議員だけで会期の延長と改定安保条約など三議案を強行可決した。
これを民主主義の暴挙と怒った国民は国会周辺を取り巻き、労組員や学生だけでなく大学教授や作家、演劇人ら国民ぐるみの反政府運動として高まりを見せ始めた。
浅沼委員長、江田書記長らは安保反対のデモ隊の先頭を歩いた。
そして迎えた六月一五日。6・1統一行動日には国労、動力車労組の主要機関区、操車場で未明から実力行使、私鉄労連は全国九〇組合が早朝時限スト、炭労、合化労連、全港湾などが二四時間スト、紙パルプ労連一〇組合が半日スト、その他タクシーや商店街三万店閉店など全国で五八〇万人が安保反対に立ち上がったのである。列島騒然、反安保ゼネストの様相に岸政権は慄然とした。
東京では一〇万人が国会議事堂やアメリカ大使館を取り巻いていた。
午後五時一五分ころだった。右翼の維新行動隊が安保阻止新劇人会議など演劇人や文化人のデモ隊に釘がついた棍棒で殴りこんだ。眺めていた警官隊はこの暴力行為を阻止しなかった。ケガ人は八〇人に上った。
この右翼の暴力に国会周辺は殺気だってきた。夕闇迫るころ全学連は国会突入を叫び機動隊と睨みあった。
国会議事堂南通用門前。「社会党国会議員団」のタスキをかけた、白髪の江田三郎が宣伝車の上で、全学連の隊列に軽挙妄動を諌めた演説を行っていた。この光景を目撃した模様を北沢方邦が本書で書いている。
南通用門の交差点の対角線に首相官邸がある。
 全学連の学生たちがトラック二台にロープを結び、引きづりだした。機動隊の放水に学生が興奮する。デモの先頭集団が国会構内に入り込んだところへ機動隊が襲い掛かった。警棒が学生らに激しく打ち下ろされた。隊列が崩れ、頭や顔から血が流れている学生を警官が片っ端から逮捕していった。
この時、デモ隊と機動隊の衝突で東大生・樺美智子さんが死んだ。検察当局は圧死と発表したが、社会党参議院議員で医師だった坂本昭は扼殺説を主張した。
この日深夜、防衛庁長官・赤城宗徳が渋谷・南平台の岸の私邸に呼ばれた。蔵相・佐藤栄作蔵相、通産相・池田勇人、自民党幹事長・川島正次郎が同席した。
「自衛隊はどうだね、赤城長官」
岸はデモ隊鎮圧に自衛隊の出動を促した。
川島や佐藤は自衛隊出動に積極的だった。
赤城は言下に断った。
「自衛隊を出したら武器を持たざるをえない。機関銃くらいは持ってゆく。そして、場合によっては武器を使うかもしれない。そうなると・・・犠牲者が出る。死者がでれば、デモは今は東京だけだが、革命的に全国に発展する。そうしたら、収拾がつかなくなる」
赤城はこの時の話を自著『60年と私』に書いている。
樺さんが死んだ翌十六日、岸首相はアイク訪日中止を決定した。圧倒的な国民のデモに権力が敗北した瞬間である。この時、退陣を決意した、と岸は後日のインタビューで語っている。
周知のとおり岸信介は安倍晋三・現首相の祖父、佐藤栄作は大叔父である。赤城宗徳は事務所の不明朗な会計処理で農水大臣を辞任した赤城徳彦の祖父だ。福田赳夫の息子が小泉政権の内閣官房長官・福田康夫であり、江田、横路につては既述した。小沢佐重喜の息子が現民主党代表・小沢一郎であることは言うまでもない。

機動隊と対峙しながら国会突入をやめるよう学生たちを説得しようとした江田三郎。総理大臣の指示を決然と断った赤城宗徳。主義主張は違うが、国家二分の危機に彼らは命を賭けていた。
その時、六歳だった安倍晋三はデモ隊の声を「どこか祭の囃子のように聞こえ」「アンポ・ハンタイ、アンポ、ハンタイ」と祖父や親爺(安倍晋太郎・元外相)の前で足を踏み鳴らし、「アンポって、なあに」と無邪気に祖父・総理に訊いた、と安倍首相本人が自著『美しい国へ』(文春新書)で書いている。
日本を破滅させた革新官僚や軍人たち、岸信介は自主憲法に執念を燃やしたが、果たせず死んだ。その孫が憲法改正を政治日程に乗せようとしている。日本はいま、安倍政権により再び歴史の曲がり角に立たされている。
ぼくの江田三郎を探す旅は未だ終わらないかも知れない、と思い始めている。


北岡 和義 (きたおか・かずよし)
1941年岐阜県生まれ。64年南山大学文学部卒。読売新聞社入社、千葉支局、北海道支社編集部記者を経て横路孝弘衆議院議員秘書。74年フリー・ジャーナリスト。79年渡米。在ロス日本語テレビ・JATV社長。06年帰国。日本大学国際関係学部講師。著書に『べらんめえ委員長』など。


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