江田五月 活動日誌 2002年10月 (25日) >>日程表 ホーム総目次10月目次前へ次へ


10月25日(金) 鳥取補選応援、石井紘基さん悲報、「テロの世紀」

今日は、鳥取市のホテルを7時20分に宣伝カーで出て、鳥取県東部を回りました。もちろん、参議院鳥取選挙区の補欠選挙の応援です。私の応援する候補は、東部が弱いと言われていますが、なかなか良い反応をいただき、元気付けられました。この地域は果物の産地で、柿がたわわに実り、天気は素晴らしい秋晴れ。ご機嫌で流し街宣を続けていたところに、悲報が入りました。

11時15分ころ、東京事務所から携帯に電話。「石井紘基さんが暴漢に…」と言うのですが、最初は何のことかよく分かりません。その上、電波状況が良くなく、一度切れて再度繋がり、石井さんが暴漢に刺殺されたことを知りました。

浦富海岸の駐車場に車を止め、詳しい事情を知ろうと携帯電話にかじりついていたのですが、それ以上は分かりません。取りあえず、一緒に街宣に回っていた小川敏夫さんと、直ちに東京に戻ることにしましたが、飛行機の便がなかなか取れず、やっと鳥取空港からの便があり、昼食はコンビニのおにぎりで、13時15分のフライトで羽田へ。

空港から病院に駆けつけると、奥さんのナターシャや長女のターニャも呆然。お慰めの言葉もありませんでした。その後、検死が終わり司法解剖に向かうご遺体と対面しました。私も、司法の仕事をしていたので、一般の人より慣れている方ですが、愕然としました。致命傷と一見して分かる左脇腹の傷は、鋭い刺瘡で、手慣れている感じです。享年61歳。

石井さんとは、学生運動時代以来の40年以上の友人です。なかなか思慮深く、人の話をじっくりと聞き、ねばり強く解決の道を探すタイプです。卒業後は旧社会党の本部に入り、私の父に傾倒して若手の活動家になりました。1977年に父が離党したとき、いち早く馳せ参じ、父の急死の後、私の選挙の時からずっと傍らで手助けしてくれました。参議院議員に当選後、私の秘書を10数年務めてくれましたが、裁判所から政治の世界に飛び込んだ私にとっては、「秘書(ひしょ)」というより「師匠(ししょう)」で、二人三脚で仕事をしてきました。もちろん家族ぐるみのお付き合いです。

石井紘基さん

社民連公認で出た最初の選挙は落選。その後日本新党が生まれ、その公認で当選。私も喜んで世田谷区内の街頭演説などで応援しました。議員になってからのめざましい活躍は、よく知られています。政治や社会の黒い部分に鋭く迫る気迫は、他の追随を許しません。

犯人の見当がつきかけているようです。政治テロだとすると、現職国会議員の刺殺は浅沼稲次郎さん以来。21世紀になって、世界も日本も「テロの世紀」に入るのだけは、なんとしても防がなければなりません。決意を新たに、民主主義のために戦います。

今日は、弁護修習の恩師、高木右門先生も享年93歳でご逝去。最終新幹線で帰岡。


「悪い奴ほど良く眠る」

24時過ぎ、帰宅。石井紘基さんの刺殺犯は、色々な情報はあるようですが、まだ判明していません。あくまで私の直感ですが、この事件は、構造的な不法を鋭く追及してきた石井さんに対し、痛みを感じた構造悪が、牙を剥き出して反逆して来た「政治テロ」だと思います。今、私が一番恐れるのは、犯人が自殺することです。そうして事件の真相部分が、深い闇の中に葬られ、「悪い奴ほど良く眠る」とされてきたのが、これまでのこの種の事件の顛末なのです。捜査当局の努力に期待すると同時に、市民も監視を強めなければなりません。


石井紘基さんを偲ぶ  江田 洋一 

石井紘基さんが狂気の刃に命をとられた。あまりに突然だった。

10時30分から数人の国会議員たちと、補欠選挙後の民主党のあるべき姿を相談し始めたところ、突然に携帯電話とメールが入って来はじめた。「石井さんが自宅前で刺された」「意識不明の重体」「……」。江田議員に第一報を入れて、国会前から数人の国会議員とタクシーに飛び乗り、国立病院東京医療センターの集中治療室に向かう。病院到着は11時40分頃。集中治療室で緊急の手当てをする医療スタッフ。既に搬送時には、心停止状態。懸命の処置にもかかわらず、ついに12時5分万策尽きた。控え室は深い悲しみにつつまれた。奥さんのナターシャさん、娘のターニャさんに、かける言葉が見つからない。

石井さんとの出会いは、1983年私が大学4年生の時。江田五月さんの最初の衆議院選挙の時だった。東京から颯爽と選挙応援に来て、選挙の背景などを若いスタッフに懇切丁寧に教えてくれた。その指導のかいあって、もちろん江田五月は初陣をトップ当選。翌年大学卒業時に、「国会の秘書」にならないかとお誘いもしてくれた。悩んだ結果、損害保険会社に就職したが、職場が東京本社でもあり、折に触れ食事や酒を飲みに連れていってくれたり、ゴルフに誘ってくれたりした。初めてのゴルフ練習は神宮外苑で、あの頃はまだおしゃまだった愛娘のターニャさんも一緒だったことを、今でも鮮明に覚えている。
 
5年後、石井さんから、真剣に相談を受けた。「東京3区から衆議院議員に立候補することにしたので、国会事務所に自分の補充として秘書として働かないか?」 江田議員からもお誘いいただき、会社を退職し、私設秘書として「衆議院議員江田五月秘書」になった。いわゆる石井さんは、私にとっては秘書として、兄弟子であり、まさに直系の師匠だ。そのご縁で江田五月の秘書をつとめて15年になる。

国会議員に当選されてからも折に触れて色々なお誘いをいただき、楽しい思い出が一杯だ。殊に、この9月に行われた民主党代表選挙では石井さんと菅さんの選対で一緒に地方議員対策をやり、「久々に石井・洋一コンビの復活だな」と政治的に多少成長した私を誉めていただいたばかりだった。

今月18日の国会開会日に議事堂の中央広間で衆議院災害特別委員長として天皇陛下をお迎えした時、お会いしたモーニング姿の石井さんの笑顔が最後となった。まだまだこれから働き盛り、やるき満々だったご様子だっただけに余計無念が募る。

石井さん本当にご苦労様。洋一は頑張ります。心よりご冥福をお祈り申し上げます。


石井紘基議員の死を悼む(党声明)
民主党

本日、わが党所属の石井紘基衆議員が自宅前で何者かに刺されて死去するという、極めて凄惨な事件が起こったことに、深い悲しみと強い憤りを覚える。

石井議員はこれまで、数々の疑惑追及に挑むなど毅然として政治をはじめ社会の不正と闘ってきた。それだけに、このような卑劣かつ残虐な犯罪の犠牲となったことは極めて残念である。ここに石井議員の死を悼み、心よりご冥福をお祈りするとともに、ご家族の方々に謹んで哀悼の意を表する。

この度の事件は、現職国会議員が刺殺されるという、極めて異常なものである。動機は現時点では明らかでないが、暴力によって政治活動を封殺することは断じて許し難い。司法当局に対し、一刻も早い犯人逮捕と事件の解明を求める。

これまでわが党は、このような暴力や不正を決して許さず、公平・公正な社会の実現をめざしてきた。民主党は、石井議員の志を継ぎ、引き続き正義を実現するための闘いに全力を挙げていくことを、あらためて宣言する。


石井紘基さん逝去  羽場頼三郎

石井紘基さんが突然この世を去られた。石井さんは私にとっても先輩。江田五月東京事務所の責任者としてご指導をいただき、ご自身が議員になってからも私に対して様々な情報を提供してくださった。今、手もとに「利権列島」という本があるが、これもわざわざ私に送ってきてくださったものであり、実はここの記述を市議会での質問の参考にしたこともある。

不正を許さないといった姿勢は本物で、少々のことでは真似のできないものだった。

事件の背景もまったく不明なので推量でしかないが、石井さんに腐敗を追及されるとまずい誰かがやったか、やらせたかに違いないような気がする。

今はただご冥福を祈るしかない。


石井議員   くりはら  

昔父の店に江田さんとやってこられたことがあるようで母も驚いていました。戦後政治家が野蛮な人間の手によって尊い命をなくしてしまったのはこれが3人目だということのようです。残念でなりません。


ご冥福をお祈りします。   トモ

石井紘基先生の事件を聞き、何か胸につまる思いです。
故石井先生のことは、以前父から少し話を聞きました。是々非々で熱血漢の人だということです。

今は、ご家族のお気持ちを考えると、やはりやり切れません。事件の背後や補選に故石井先生を絡めず、騒がず、ただ残されたご家族をそっとしておいてあげるのがよいのではないかと思います。

ご冥福をお祈りします。


必ず遺志は継ぐ  江田五月

統一補選で鳥取市郊外の浦富海岸にいたとき、「石井紘基さんが暴漢に刺殺された」との電話が飛び込んできた。秘書の声は震え、私の心臓は早鐘を打った。紺碧の秋空と群青の日本海が、あまりにも不釣合いだった。

私たちは学生運動以来の仲だ。私は退学で東欧へ。後に彼は、社会党本部からモスクワ大学へ。その都度友人たちと、送別の高楼に登った。マルクス法哲学を学んだ彼は本格的理論家で、本格的才媛のナターシャを連れて帰って来た。

父・江田三郎が離党したとき、彼は黙って従った。父が死の床に伏したとき、彼は私に「親父の後を継げ」と迫った。そして、秘書として私を助けてくれた。

彼の国会での舌鋒は鋭かった。綿密な調査があるから、敵は彼を恐れた。彼を襲った刃は、単なるはぐれ右翼ではない。事件の本質を見なければならない。

浅沼事件のとき、委員長代行だった父は、「おまえらに何が出来るか」と警護の警官を払い除けた。石井さんは、そんな父を愛した。警護強化など求めてはならない。「踏みにじられし民衆に、命を君は捧げぬ」という若き日の歌声が、石井さん、聞こえるよね。必ず遺志は継ぐ。合掌。

 ●故・石井紘基議員 略歴
 1940年、東京都世田谷区生まれ。93年に日本新党から衆院選に出馬し、初当選。自由連合、さきがけを経て、96年に民主党に参画した。当選3回。民主党東京都総支部連合会副会長の他、今臨時国会では、衆議院の災害対策特別委員長を務めていた。

(民主党メールマガジンDP-MAIL 第70号 2002年10月31日掲載)


11/29 故石井紘基議員に対する追悼演説(石原伸晃議員)

石井君は同志であり師だった 江田五月(週刊朝日11月8日号掲載)


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