第九章 父江田三郎と私 目次前へ

   病み上がりの出陣

 二十六日は朝から新聞、雑誌、テレビのインタビューが続いた。胃は急速に悪化し、横浜市内のホテルでベッドに横たわり、時々吐き気で中断しながらのスケジュール消化であった。途中日大駿河台病院に場所を移し、入院してもインタビューの残りを消化しなければならなかった。一日八時間の政治は、最初から崩れてしまった。

 この時期までの私の発言は、次々活字になったが、正直なところあまり評判は良くなかった。社市連内部でも反発があるとか、選挙の票を減らすとか、影響を心配してくれた人もいる。軽率な発言をするなと忠告してくれた人もいる。「なかなか面白いことをいう」と賞めてくれた人は、少ししかいない。

 混乱した中の発言であり、いろいろ不適切な表現があった。今後の私の言動も含めて、社市連の内外を問わず、正面から批判してもらいたい。実際には私の入院のため、きちんとした討論ができなかったが、相互批判を通じて人も組織も鍛えられる。「沈黙は金」という政治は、私が打破したいものの一つである。

 入院して検査後「相当に深い潰瘍で切らなければならない」といわれた。参院選は迫って来る。無理はできない。手術までの間に、一日一仕事ずつ片づけていくことにした。

 六月一日には、友人の上着を借りてポスター用の写真を撮った。
 二日には、立候補声明と社市連代表就任の記者会見をやった。
 三日には、胃の三分の二を切除する手術をやった。

 NHK政見放送のビデオ録りは、期限ぎりぎりまで延ばしてもらった。その時も流動食ばかりで、医師は「体力的に耐えられるかどうか」と心配していたが、何とかなった。記者会見と政見放送の内容は以下のようなものだ。

記者会見で

 父江田三郎が去る五月二十二日急逝したことは、皆様ご承知のとおりです。私は、それ以来、愛し続けてきた裁判官の職を去り、今後進むべき道について考えてきましたが、社会市民連合の一員に加わり、父の最後の仲間と共に、政治の場で働く決心をしました。

 社会市民連合から、その代表として、参議院選挙に全国区から立候補しないかとのお誘いがありましたが、これを、素直に受諾致します。

 私は自分の良心に反する政治をしないことを、この際、宣言します。そして、一人ひとりの優しさ、温かさ、清らかさというものを、大切にし、育んでいきます。

 今までの政治には、常に暗いイメージがつきまとっていました。これでは、誰も政治に近づこうとしません。私は、このイメージを変え、政治を、明るい清潔なイメージのものに変えたいと思います。そうしてこそ、私たち誰もが政治に気軽に参加し、生活を健康で快適なものにしていくことができるのです。

 父がレールを敷いた社会市民連合の組織と運動についての考え方は、私の以上のような政治目標の達成のためにまさにぴったりなのです。

 ところで、私はここ数週間の過労のため、胃潰瘍が悪化し、直ちに手術を受ける必要のあることが、医学的検査の結果判明しました。政治への挑戦に当たり、まず、体の健康を確保しておかなければならないので、これから約一ヵ月間、治療に専念します。そうでないと、健康な心が生かせませんから。父と社会市民連合に寄せられた皆様方の期待と思いを、今後とも私どもに注いで下さるようお願いします。

 NHKテレビ政見放送で

 社会市民連合の江田五月です。父江田三郎は、生前、多くの皆様方から力強いご支援を頂きましたが、志なかばで、去る五月二十二日急死致しました。これまでのご支援に対し、父に代わり、心からお礼申し上げます。

 私は、この九年間裁判官をしておりましたが、父の死後、退官し、父の最後の仲間と共に、社会市民連合の一員として、政治の場で働く決意をしました。困難ではあっても、裁判官時代と同様、自分の良心に反する行動はとらないことを固く心に誓っております。

 さて、わが国では、政治に、ずっと暗いイメージがつきまとっています。腹黒いボスが、薄汚れた取引をするのが政治だという感じが、しみついています。そのうえ、これまでの政党は、すべて、どこかに閉ざされた部分をもっています。そのため、ちょっと物事を真面目に考える人は、何となく政治に口出しするのをはばかることになり勝ちです。今のわが国の政治の実態をみると、これも当たり前だと思います。

 しかし皆さん、このことは悲しいことです。政治が、私たち一人ひとりの毎日の生活に、深くかかわっていることは、今さら私が申すまでもないのですから。

 そこで私は、まず、この政治の持つ暗いイメージを、明るい、清潔なものに変えたいと思います。そうして政治を、誰もが、気軽に口出しし、気軽に参加できる、身近かなものにしたいと思います。

 社会市民連合は、そのための組織です。誰でも気軽に参加できるガラス張りの組織で、そこでの公開の場で行われる決定に裏はありません。

 私は、その組織の代表の一人として、私たち一人ひとりの毎日の生活に根ざした問題につき、現実に即して大胆で、かつ緻密な解決を探っていきたいと思います。

 今の時代は、例えば、資源の問題とか人口問題のような世界的大問題と、日常生活の中で起きてくる問題が、複雑にからまりあっているので、とりつくろいの政策のつなぎ合わせでは、大混乱になりかねません。そういうことをきちんとふまえたうえで、私は、みんなの参加により、お互いのために、具体的提案をしていきます。時には、例えばマイカーは高い税金を覚悟しようとか、多少耳にいたいことも、勇気を持って提案します。

 そうした提案と実行を、みんなの参加で行っていくことにより、政治の力で、生活を健康で快適なものにしていけるのです。

 明るく清潔な政治をめざす社会市民連合の江田五月に、皆様方の積極的ご支援をお願いします。

 結局十六日の公示には間にあわず、三十日まで入院生活が続いた。入院中は規則正しい生活で良く眠れ、精神的に落ち着いた。社市連の各種の提案、菅君らの「無から有への挑戦」、力石定一氏の「日本経済の条件」、正村公宏氏の「現代の資本主義」などを読んだりした。

 三十日退院後、渋谷で第一声を上げた。おかゆをいつも持ち歩いて、一日六回、しかも一回に一時間ぐらいかけてゆっくりと食べなければならない。選挙カーには乗らず、別の車で次の街頭演説会場にいかなければならない。手のかかる候補者であった。それでも倉敷、岡山、大阪、京都、名古屋、横浜、川崎、浦和、大宮などへも出かけた。

 どの演説会場でも反響は大きかった。岡山では土砂降りの雨なのに、多数の人が駅頭で待っていてくれた。新宿の街頭演説では、宣伝カーから下りると聴衆に取り囲まれ、もみくちゃにされた。「俺はどこへ行きゃいいんだ」ときいたら、誰かが 「国会へ行けばいいんだ」と答え、再び拍手が起こった。最終日の夜、吉祥寺駅前では、あらかじめ場所取りをする人手のない悲しさで、ある候補者から七時半までという約束で場所を譲ってもらった。その後、駅からやや離れたデパートの前へ場所を移して最後の三十分の訴えをすると、大勢の人たちが宣伝カーについて歩いて来てくれた。

 「今、日本では組織に属していることから物事を発想するのではなく、一人ひとりで自立し、判断できる市民が数多く誕生しつつあります。新しい日本の政治の夜別けが始まろうとしています」と結んで八時きっかりに演説を終わった。

 選挙運動をやってみて、いかに既成政党の妨害が激しいかがわかった。人手も多いし、マイクの威力も私たちのとは比べものにならないほど大きい。特に社会党がひどかった。私たちの妨害だけのために隣に来て大声で演説し、やむをえず私たちが引き上げると、してやったりと場所を変える社会党の車もあった。そういう行動の中に、社会党の救い難い頽廃を見た。

 運動での反響は私の予想以上だった。マスコミによる当落予想でも、トップグループに入っていると報道された。しかし何票ぐらいかというのは全く予測がつかなかった。開票の結果、一三九万二四七五票ということになったが、それが多いとも少ないとも言い難い。岡山県では一区、二区とも衆院選でも当選しかねないほどの票が集まった。有難いことだ。

 しかし社市連の他の候補者の結果は、あまり芳しくなかった。選挙というのは、時間と金をかけ、組織を持っている人たちが強い。そう簡単にムードで変えて行くことはできないのだ。結局この参院選で、自民党はまだまだ強いということを、誰もが再認識せざるをえなかったのではないか。そういう現状の中で、政治改革を訴えて当選した国会議員として、責任の重さを痛感した。

 政治は常に現実から出発し、理想の社会へと一歩でも二歩でも近づけていく作業だ。しかし理想の社会がどういうものであるのか、意見の対立もあり、簡単には決まらない。いやたとえ意見の対立がなく、100%の賛成が得られたとしても、固定的な形で理想社会はこれだと決めてはいけないのではないか。どういう社会でも矛盾は起こり、解決の必要な問題がでて来る。一人ひとりの個性的、自主的な意見を生かし、社会全体で生き生きと理想の社会像について模索をしていく社会――それこそが理想社会だと私は考えている。そういう社会に一歩でも近づくことが、今の政治の課題なのだ。

 産業革命以来長く続いた産業至上主義は世界史的な転換を迫られている。生産の量が拡大すればするほど人間の幸福も増大するという生産力信仰はすでに崩れている。観念的な表現だが、社会を構成する個人が、いかに互いに信頼し合えるか、連帯して行けるかが、人間の幸、不幸を左右する時代になってきている。社会の中の信頼、連帯の問題と政治が真正面から取り組まなければならない時期だ。

 こういう時代の経済は自然の生態系と調和の取れたものでなければならない。日本でもエネルギー多消費型産業から省エネルギー型産業への転換は緊急課題である。国民生活も、「使い捨て」の異常な姿から、一つ一つの品物を大切にし、それぞれの品物が刻んだ年輪を楽しむ姿勢へと転換を迫られている。便利さばかり追い求めるのではなく、不便を楽しむのだ。こういう一人ひとりの生き方を変えていく方向でなければこれからの経済は構想できない。

 現在の社会はあらゆる面で転換を迫られており、新しい社会をどうしても作らなければならない。そういう時期だけに、これまでの社会の不合理、不平等、不公正、矛盾に対し、批判の日を持ち、怒りの心を持ち、改革への情熱を持つことが大切だ。とくに日本では自民党独裁による政治が二十年余りも続いただけに、現実社会の諸矛盾はあまりにも大きい。こういう怒りと情熱を持つ人が新しい社会主義者なのである。

 いままで社会主義の教条とされてきた国有化、官僚統制、隅々までの計画化などは、経済的効率も公正も保証しない。これらの教条を日本で実現することには反対する。人類社会が発生した時から追い求めてきた理想である自由、平等、連帯、公正などの基本的諸価値を真の意味で実現していく。これらの理想は、アメリカ独立宣言、フランス人権宣言などに掲げられたと同時に、古今の社会主義者が理想としたものでもある。

 私のいう新しい生き生きとした社会に終点はない。人間は毎日毎日問題を探り出し、それを解決するための作業を続けていく存在なのだ。終点があるとするのは、人間の営みを冒涜した不遜な考え方だ。―― 今、私が政治について持っている基本的な考え方は、こんな内容だ。

 社会市民連合は、一つの実験的な組織である。今まで日本の革新政党は共産党を典型とする民主集中制モデルを理想として作られてきた。党役員の構成、規約その他実際の姿を見れば、民主集中制とは、現実には、党中央が末端党員を縛る上命下服の制度となっていることが明白であろう。他方、自民党は利権でつながっているだけである。しかし社会市民連合は自立した個人の集まりである。個人の自主的な創意工夫、主体的な活動を最大限に生かそうとする組織なのだ。どんなに社市連が発展しても、自民党や共産党のようにならないことだけは断言していい。

 社市連はまだ弱い。私は土曜、日曜、祭日までもほとんど休むことなく、地方の集会などで走り回っている。一日八時間どころか、十数時間も政治に費しているといっていい。それはこの時期における私の義務であろう。しかし市民感覚を失わないためには、たまには妻と映画を見て街をうろつき回ったりしたい。放電しっ放しで頭脳のバッテリーがあがってしまわないためには、まとまった読書もしたい。そのためには、社市連がある程度の力量を持たなければならない。

 こういう私の願いがかなえられる日も近いのではないか。五十二年に三回も開かれた社会党大会は、国民から遊離したこの政党の矛盾が覆い隠せないものであることを示した。父のいった社会党の短期急落の予想はますます確かなものになろう。離党した田英夫、秦豊、楢崎弥之助、阿部昭吾各氏らとはもちろん、さらに多くの人々と私たちは手を結ぶことになろう。

 「裁判官はやれはやるほど好きになった。私に向いた仕事だ」と前に書いた。今まだ経験は浅いが、「政治もやれはやるほど好きになった。私に向いた仕事だ」と書けそうな気がしている。


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