第九章 父江田三郎と私 目次前へ次「病み上がりの出陣」

   誕生日、父の死

 父の病状の悪化とともに直後に迫った参院選のことが心配になってくる。私はまず十五日に学生時代の友人、倉持和朗君(現社市連事務局次長、板橋区議)らから、父の跡を継いで立候補するように説得された。十九日にガンだということを聞いて、社市連幹部に知らせ対応策を検討してもらった。このときには、父を参院選の候補者に立てることは絶対に不可能であるから、「何か方策を見出していだだきたい」という私に対し、「君が立候補するしかない」という話になった。二十日も同じことが続く。

 私が父の政治路線に全面的に賛同していたことは前に書いた。しかし政治の未来について私は悲観的だった。裁判の仕事に自分の一生を賭けてみようという意志がしだいに強まっていた時期でもあった。どんな説得に対しても私はこの気持を説明し、「私の意思が変わることはありません。私にこだわっていたら時間的に間に合わなくなります。候補者を立てなければならないんなら、別の人を説得して下さい」ときっぱり断っていた。二十日には弟の拓也に声がかかり、拓也は了承した。

 二十日に父の意識がもどったとき、病状はかなり大変だから療養に専念するように父に告げた。「後のことは僕がきちんと決めるからまかしてくれ」というと、父は黄疸で山吹色に変わった眼を開けて大きく「ウン」とうなずいた。二十一日にも父はいろいろいうが、すでに何を言っているのかわからない。拓也のことも言ったが 「最高裁はどうなのか」と聞く。「それも手を打った」と答えておいた。

 その頃私は裁判所の仕事もあるし、一日に二、三時間ぐらいしか眠る暇がない状態が一週間ぐらい続いていた。二十二日には学生時代から知り合いで研究会仲間でもある榊原英資君(埼玉大助教授)が電話してきて「ちょっと会いたい」という。昼ごろ病状を確認すると「あと一週間は大丈夫だが、一ヵ月が限度」という。夕方、榊原君と都内で会った。これも「政治をやれ」という説得であった。「二月の研究会でのお父さんの話は、君に語りかけたんだぞ」とまでいう。それでも私の心は動かなかった。

 話合いの途中医師から電話がかかり、父が呼吸困難になったから気管切開をしたいと了承を求めて来た。もちろん「お願いします」と答え彼とタクシーに乗って病院に向かった。彼は車内で「そんなこと言ったって、日本の官僚もダメになっているんだぞ」と言った。私には、日本は政治はダメだが、官僚がしっかりしているから、何とかなるとの考えがあった。当時大蔵官僚であった榊原君自身が官僚がダメだという。「官僚もダメ、政治もダメならどうしようもないなあ」という思いがふっと湧いた。

 気管切開は結局行われなかった。医師、看護婦があわただしく動き、ノドに赤チンを塗るなどの準備の段階で父の呼吸は止まってしまった。すぐに装置が設置され、人工呼吸が始められた。どの程度続いたのだろうか。とにかく脳波が止まり、瞳孔も開き、脈拍も止まり、なおかつ父の胸だけは上がったり下がったりする。まったく静寂そのものとなった病室の中で人工呼吸のザアザアという音だけがひびいていた。

 なぜこんなにしつこく人工呼吸をするのだろうかと思った。父は苦しみもなく息を引き取り安らかだった。その安らかさを人工呼吸の音が妨げているように思えた。政治家は安らかに死ぬことさえも許されないのかと、発想が飛躍していく。

 「今日は俺の誕生日だ」ということを思い出した。前日は午後九時ごろ家に帰って、一日早く三十六回目の誕生日を妻と子どもたちに簡単に祝ってもらっていた。しかし当日はすっかり忘れていた。医者の予想を裏切り続け、病状をどんどん悪化させて、わざと選んだように私の誕生日に父が死んだということに、何かを感じるべきかと思った。

 「死」そのものに直面して、人生についての考え方の転換もあった。裁判官というのは六十五歳まで身分が保証され、衣食住にこと欠かない安定した生活を送れる。それなりにやりがいのある仕事であることも確かだ。しかし私もどうせ死ぬんだ。自分の生き方として、もう一度冒険を試み、翔いてみる必要があるかという気にもなった。

 こういう思いが一時に頭の中にあふれた。私自身の小賢しい理屈を並べているよりは、みんなの声を運命と聞くべきであるのかなという気になった。人間の知恵というのは、自然の大きな流れの前ではそれほど大したことではない。決断する気になった。拓也に「オマエやる気が出てきたか」と聞くと、「全然出ない」という。「俺がやろうか」と告げた。

 一瞬の静寂の後は、雑踏である。さまざまな人たちの弔問、新聞記者の取材、何が何だか自分自身でも分からないような時間が過ぎた。睡眠不足の緊張もあった。今にして思えば、自分は裁判官であるから政治的発言はできないのだということを、よく自覚していたなと思う。

 午前一時すぎの記者会見で、私は次のように述べた。

 (父は)入院の前日までご存知のとおりの状況で、至る所走り回って、断崖絶壁でギリギリまで、生命の切れるギリギリまで政治のため国民のために働いた。父の気持は、残念至極の気持は、筆に書くにも書けないほど残念至極だったと思います。私ももちろん立場がありますので申しにくいことですが、親父の残念さは息子の残念さです。(中略) きょうは私の誕生日です。誕生日に間に合うように急いで生命を縮めていった父を思うと天の啓示かと思います。(北岡和義「社会市民連合の遙かなる長征」による)

 さっそく、横浜地裁所長に電話し、辞職の手続きを取ってもらいたいと伝えた。私は時間が気がかりだった。所長は「私自身が最高裁へ行って手続きしましょう」といってくれた。お世話になった矢崎氏にも電話で「辞職することにしました」と報告した。

 父の死後は誰もが「眠らなければならない」というのだが、ほとんど眠れない日が続いた。いろんなことを考えた。父が私の誕生日に死んだことについて、一生懸命その理由、意味を考えたりした。推理小説のように一連の事実を思い浮かべ、私の考え及ばないような落とし穴がどこかにしかけられていたのではないかとも考えた。これからやっていく政治の内容についてもさまざまに考えていった。興奮し、また混乱していた。二十六日、私自身が胃潰瘍で入院するまでは、この状態が続いた。

 二十四日が葬儀で、同じ日に私の辞職が閣議で了承された。夕方、葬儀が行われた麻布の一乗寺で、その時の気持を語りたいと思い、記者会見をさせてもらった。裁判官から政治へ転進するに至った心境の変化、私自身の政治についての考え方など、一時間あまりしゃべり続けた。政治部記者に集まってもらっての記者会見としては、あまりにも破天荒なものであったらしい。

 発言の中身にも拙劣な表現が多かったのだろう。「父を殺した政治が憎い。その敵打ちのため政治をやる」「政治は嫌いだ。思うようにできなかったら、いつでもやめる」「政治家になっても一日八時間しか仕事しない」「家族に犠牲がかかる政治は嫌だ」「財界、官界との交際やスポーツにまで文句をいわれる筋合いはない」「いまの市民運動ではダメ。生まれ、つぶれ、また生まれという繰り返しが必要だ」など、政治家としての 「問題発言」がいくつもあった。

 私が強調したかったのは、政治の体質の根本的変革の必要性だった。国民が政治家にすべてをまかせきり、政治家もその権力の大きさを誇示しているのではダメだ。政策立案過程をできるだけ公開にする。ボスが全事項を決定するのではなく判断の分業をする。そのためには国民の広汎な層が政治に参加する必要がある。逆に政治家自身も、市民感覚から遠ざかった生活をしていたのではダメだ。何事も神聖不可侵なものはないのだから、一度決めたことがうまくいかないときは、やり直しすることを躊躇してはいけない――。その真意については、もちろん今でも間違っているとは思っていない。

 翌二十五日は出版記念会が急拠切り替った追悼集会である。そこでは以下のようなあいさつをした。

 本日は亡き父、江田三郎の遺作「新しい政治をめざして」の出版記念会に、皆様御多忙中のところ、このように大勢の方々がお集まり下さいまして、心からお礼申し上げます。これほどまでに多くの皆様方の願いと思いを、父に代わり厚く感謝します。父は弱冠二十四歳から政治を志し、戦前は農民運動に身を捧げ、一時は身体の自由まで捧げました。戦争中は厳しい弾圧の中で志の堅持と身体の自由を見事に両立させ、戦後国会議員として在職二十五年、昨冬の総選挙で落選してからは、結党以来参加し、限りなく愛し続けた社会党の頽廃と決別し、政治の可能性を信じて社会市民連合を作りました。その可能性が、まさしく見事に現実として花を開こうとした矢先、今月二十二日、急逝したことは皆様ご承知のとおりです。

父江田三郎の遺影が飾られた追悼集会
壇上で挨拶する (京王プラザホテルで)

 父の愛し集めたコレクションは、民芸のおもちゃ、古道具、花と木といろいろ変転してきました。父は一つのコレクションを始めると、それに徹するのではなく、ある程度集まったところで次のコレクションに変えるというところがありました。これを人は節操の無さというかも知れません。しかし政治家の仕事は常に全国を飛び回らなければ果たせないところがあります。それは過酷な旅といえましょう。父の趣味は、この政治の任務を楽しく果たしていくために、実に有益なのでした。コレクションの質を高度にすることにより、旅が収集の方法として有効でなくなるのでは、収集のために旅を楽しむということができなくなります。こうしてみると、父の趣味における変節は、政治の過酷さを緩和しこれを楽しむという目的に奉仕していくことになりましょう。これが父の政治の方法なのです。

 そして父が最後に作り上げた社会市民連合は、まさしく政策における変転と政策決定方法における一貫性を政治組織の原理としたものであったのであり、父の生き方を原理とした政治組織なのであって、これが花開き、結実することこそが父の政治的芸術の完成であった訳です。

 その種を植えつけたばかりで急逝した父の無念は、想像を絶するものがありましょう。父は種を植えつける作業に生命を捧げました。どういう花が咲くのか、父には種を植えつけたものとしてわかっていたからこそ、一つでも多くの種をまくために生命を捧げたのであります。これは、父が共に闘った農民の直観でありましょう。

 また農業というのは、土壌が良くなければ収穫はあがりません。花は路傍のスミレも、大輪のボタンも、ペンペン草でさえも、それぞれに美しい愛すべきところがあります。しかしどのような花でも、土が良くないと育ちません。父の作った社会市民連合は、私の聞くかぎりでは、この土壌のようなものと思われます。種類は何であっても、美しい花を咲かせるための。肥えた土壌を作る仕事が、社会市民連合の組織論であるようです。父のいう新しい政治は、土壌に目を向けた政治であります。

 父は死を知っていたのではないかと思います。今から考えてみると、父の落選後の挙動には、その節がいくつもあるのです。

 父は今年に入り「俺ももう六十九歳だ。君たちのように若くない」と言いはじめました。これまで口にしなかったことです。そして四月中旬以後、口をすっぱくして医師の検査を説得しても、どうしてもこれを容れなかったのは、これを受け入れた瞬間に父の種まきの仕事が終わることを知っていたからでしょう。

 私は父に休養と診療をすすめたことを、今では後悔しております。父は種をまきながら命絶えることを希望していたように思えるのです。

 そして父は、その肉体が種まきのできる限界に達するまで、一粒でも多くの種をまいて、あとは仕事を終えて永遠の休息に入ったのです。

 父はもう一つ最後の種をまいたようです。私の誕生日に死ぬという父の最後の行動により、私は裁判官の職を去りました。父は死までも一つの種にしたのです。

 私は裁判所と、裁判官の仕事を心から愛しています。この清潔さの中にいるうちに、九年間の裁判官生活で、私は政治の実践と無縁な全くの市民となっていたのであります。政治は泥沼であり、これは常識人のする仕事でないと思っていたのです。

 その私に、今何だかとりつかれたように、政治への情熱がわいてきているのです。父のいう新しい政治、能力ある人がどんどんリクルートされる組織、実りある政治討論、明るいきれいな政治、これを実現するための政治原理を、つかみかけてきたような気がするのです。今は人に語りかけたくて仕方がないのです。

 しかし父の死によって芽生えた新しい政治の芽は、まだ未熟で、いつ踏み倒されるかもしれません。

 父の死は道をはずれた孤独の死、ハムレットの悲劇の死ではなく、政治的大勝利を生み出す死であります。父のこの命をかけた大仕事を何が何でも実現させることが、社会市民連合のためというより、むしろ日本の政治のため、日本国民のため、その政治的成熟のために必要であります。

 そして国民という土壌を十分政治的に成熟させて、父のような命をかけた政治活動をしなくてもすむように私も頑張ります。

 父は落選して一市民として永眠しました。その最後の書「新しい政治をめざして」により、ますます多くの市民、江田三郎ができることが父の希望であります。私も努力します。勇気を持ち、全力をあげて今日から出陣しましょう。


第九章 父江田三郎と私 目次前へ次「病み上がりの出陣」