第七章 英国留学 目次前へ次「非行少年の保護」

  ストに怒らぬ国民

 英国生活で困ったのはストライキである。郵便ストがあると日本からお金が届かない。裁判所との連絡事項があったのだが、これも不可能だ。地方公務員のストがあるとゴミの収集が完全にストップする。オックスフォードでは付近で燃やすとか、適当な場所に捨てるといった形で処理できる。しかしロンドンではどうにもならない。長期に及ぶと歩道はゴミに埋まってしまい、歩行者は車道を歩くようになる。交通ストなんかも、予告なしに起こる。私もロンドンヘ出かけ、突然の地下鉄ストに当たって動きが取れなかったことがある。

 二年目の冬には、電力ストがあった。大学の寮ではエネルギー源が電気に限られていたのでまったく困り果てた。地域ごとに時間を決めて一日数時間ずつ配電されるので、その間に料理などすべてをやって下さいという。それ以外の時間は真っ暗やみで、暖房もなくお茶も飲めない。寝るより他しようがなかった。

 しかしあらゆるストについて、イギリス人は怒らない。新聞も冷静な報道ぶりだ。電力ストの時は「本日は女王陛下は、ロウソクの光で晩さんの後のティーをお楽しみになった」という調子だ。病院で困っている事例が報道されたりするが、だからといってストに対する怒りの声が紙面に溢れるわけではない。事実、国民全体も冷静に不便を耐えしのんでいる。郵便ストの時は外国向け郵便をドーバー海峡の向いのカレーに運び投函するヤミ郵便が出たと報じていた。しかしそれがスト破りにあたるかどうか、というようなことをのんびりと論じている。当時の日本の交通ストとは大きな違いだと思った。

 長期にわたって経済活動を低下させるストが英国経済を疲弊させているということがいわれ、私もそういう側面は大きいと思う。しかし英国民は依然として「労働争議による不便は、国民全体が耐えなければならない」と考えている。熱しにくい、そしておそらくはさめにくい国民性はストへの対応に最も良く現れている。

 グラスゴーのような労働者の街でパブに行き、英国の労働者と接することもあった。パブに来る労働者を英国労働者の代表扱いするのも失礼かも知れないが、政治的意識がそれほど高いとも思えなかった。英国労働運動は栄光の歴史を持っている。大労働組合が数々の権利を勝ち取り、そして労働者の政党が政権の座に着いている。権利の拡大や権力の前進と、労働者階級の知的道徳的成熟とは比例していたのかどうか。労働運動の輝ける前進が、労働者階級に「ワン・パイント(大ジョッキ一杯程度)のビール」しかもたらさなかったのではないかという疑問も湧いた。

 四十五年四月には、日本から渡英した時の飛行機の切符の残りでオーストリア、イタリア、スイスなどを旅行して回った。七月には、日本からの留学生三家族でスコットランドヘ自動車旅行した。車は最初の年に留学生三人共有で八百CCくらいのヒルマン・インプを買い、翌年にはもう一人加わって四百CCくらいのモーリスミニを追加した。ともに中古だが、よく走り英国の制限速度七十マイル(百十二キロ)で飛ばすことができた。この二台で、日本人がほとんど行かないグレート・ブリテン島の北の端ジョン・オ・グロウツやスカイ島まで足を伸ばした。秋には私の家族だけでドイツ、フランス自動車旅行、十二月には学生がチャーターした飛行機でスペイン旅行もやった。

 最初の旅行だけは、安いホテルだが予約して、なんとか人並みのものだった。スコットランドではベッド・アンド・ブレックファスト(宿泊と朝食)と呼ばれる民宿に泊まった。日本の民宿よりはるかに小規模で、千円程度で泊まれる。二度目のヨーロッパ旅行も予約なしで、汚ない安い宿ばかり利用した。この時はアルコールランプを持参して、ホテルを朝出るときに水をもらい、ソーセージを煮て食べるのが昼食。時々はちょっと贅沢しようとインスタントラーメンを食べたりした。せっせせっせと走り回り、有名な建物や記念碑の前で写真を撮るという日本人らしい旅行だった。

 失敗も多い。イタリアでは、盗難に用心せよといわれて折畳み式の傘の中に金を隠していた。ポンペイの遺跡にバスが着いたとき、雨が降り出し、傘貸しを商売にするイタリア人五、六人が寄って来た。あまりしつこいので「俺は良い傘を持っているんだ」というつもりで、傘を広げたとたんに紙幣がヒラヒラと。バラまかれてしまったのである。傘貸しと私が、競争してそれをひろう。もちろん傘貸しがひろうのは私のためではない。「返せ」と要求したら渋々差し出すのだが、回収率六〇%というところだったろうか。私はリラをばらまいたのに、ドルを返した男もいた。

 ケルンでは真理子が事の中で寝てしまったので、そのままにして大寺院を見に行った。帰ってみると車のドアが開いていて、真理子は起きている。車内に置いてあった約五万円が盗まれていた。ひょっとして真理子が誘拐でもされたら、とひやっとしたものだ。

 感心したこともある。スペイン人に「かつては世界を制覇したスペインが、いまやOECDで後進国に区分けされているではないか。どう思うか」ときいてみた。すると「それでいいんだ。日本など先進国が国土を汚し健康を犠牲にして工業生産にはげんでくれる。そのおかげで、私たちは青空の下で果物を作ったりして暮らしながら工業製品も手に入れられる。これが我が国のやり方なんだ」という答えだった。まだフランコ独裁の下のスペインだったが、こういう考え方も一つの見識である。

 ところで私の渡航目的は海外裁判制度の研究だから、各都市で必ず裁判所に立ち寄ることにしていた。英国を含め、西欧諸国では裁判所が必ず町の真ん中にある。ドライブ用の地図にも分かりやすく示されている。おそらくそれだけ市民に親しみを持たれているのだろう。日本の地図で裁判所の所在地を示す記号はあるのだろうか。あったとしても、私自身その記号を知らない。

 旅行中商店をのぞくと、いろいろ良いものがある。特に小物ではスイスのサラダボウルとか、オーストリアのコークスクリュウとか、ヴェネツィアグラスとか至る所に特徴ある品物が並んでいる。妻は「買おう、買おう」というのだが「もう少し待て。もっといいものがある」などとごまかして、結局ほとんど買わないで帰った。妻はいまでも時々「あの時買えばよかったのに」とグチをいう。

 パーティーだ、旅行だと遊んでばかりいるようだが、その間に研究は進めていた。研究のため脇目も振らないのではなく、仲間と交際しながら研究を忘れないというのが「英国紳士流」なのだ。そうはいっても、二年目の九月頃からは図書館に籠りっ切りになることが多くなった。

 英国法における「自然的正義の原則」は二つの要素に集約される。一つは「何人も不利益を受ける時、告知、聴問の機会を与えられる」である。つまり不利益を受けるときには、事前にそのことを知らされ、それについての自己の意見を聞いてもらうチャンスが与えられるということだ。もう一つは「何人も自分自身について自ら裁くことはできない」である。自分が利害関係を有することについては、他人が裁くという原則である。

 私の論文では、この二つの原則が、判例を中心に組み立てられた英国の法の中で、歴史的にどのように展開して来たかを跡づけたわけだ。まとめる作業が遅れ、提出期限直前には私と妻が昼夜兼行、食事中にもどちらかはタイプを打っているというあわただしさで、ようやく間に合わせた。

 最後には親孝行をしておこうというので、私と妻の両方の母親を呼んだ。二年近く住んだオックスフォードに別れを告げ、母たちと共にデンマーク、スウエーデン、アイスランド、ニューヨーク、ワシントン、サンフランシスコ、ハワイという経路で帰国した。

 二年間の英国滞在で感じたのは、やはり東欧旅行と同じく、西欧人が国家を「人為的なもの」と見ているということである。大陸諸国はいつも国境が変わっているのだからもちろんのこと、島国である英国でも同じことだ。一つの島だから昔から自然に一つの国になっているとは考えていない。原住民であるケルト人はもとより、ゲルマン人も征服され片隅に追いやられて、アングロサクソソが支配することになった。今のエリザベス女王の祖先は、オランダから呼ばれたオレンジ公ウィリアムで、当初は英語を話すことすらできなかった。こういう変転極まりない歴史の中で、一つの国にまとまり、共同生活する必要があるから、今の国家を選んでいるという意識が国民に定着している。

 私の同僚の学生の中でも、王制について「安上がりだからいいんだ」という意見が平然と述べられていた。「米国の大統領選挙を見てみろ。あんなお祭り騒ぎを繰り返していたら、国としては出費がかさんで大変だ。国民を統合していくために、何かが必要だとすれは、王制は極めて安上がりだから、我々は王制を選んでいるんだ」というわけだ。

 東欧と比較して、やはり西欧では自由な論議がふんだんになされているだけに、国民の表情は明るい。物質的にもまだ西欧の方が豊かだろう。しかしこれは一般論で、東欧の中でも国、地域によって違いがあり、西欧の中でも同じことだ。国による違いの方が、体制の違いよりも大きくなってきつつあるように感じた。

 さらにいえば「国民性」という言葉も使われるが、個性の違いも大きい。西欧諸国では国民性による違いよりも、個人個人の個性の違いの方が大きいと言い切れる。そういう意味では、日本人はまだまだ個性の違いが少ない均質的な国民であろう。


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