民主党 参議院議員 江田五月著 国会議員― わかる政治への提言 ホーム目次
第5章 国会の機能低下と政治不信

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依らしむべし、知らしむべからず

 国会の機能を低下させ、内部の動きを不透明にしている最大の原因は、戦後の一時期を除く四十年近い期間、自民党が単独政権を維持していたことであろう。その結果、政府与党と行政機関との癒着が進み、「運命共同体」ともいうべき関係ができ上がった。

 この関係によって生まれる最大の不都合は、行政情報の独占が進んだこと。行政機関は与党に気がねして、野党へは情報を極力提供しないように努めるようになっている。

 野党議員が建設省へ資料を要求したら、すでに新聞報道された内容が、タイプ印刷になって届けられた。これではラチがあかないというので、国会の委員会を通じて資料を再要求したところ、ほとんど同じ内容の資料に、大げさなマル秘マークが押されて届けられたというあきれ返った話もある。田中金脈事件が話題になりつつあった時の、本当の話である。役人は「民をして、依らしむべし。知らしむべからず」というわが国古来の支配原理から、ほとんど前進していないのだろうか……。

 その一方、与党議員を通じて本当のマル秘情報が、自民党実力者等の後援組織、関係団体等にリークされる。文字どおりの「情報化社会」 にドップリ浸っているのは、政・官運命共同体とその周辺の一握りの人々だ。

 アメリカと日本の情報の扱いの違いを端的に示しているのが、金大中事件である。法治国家日本で、外国の大統領候補者が拉致されるというこの大事件の真相糾明は、当然日本政府の手で、具体的には日本の警察の手で進められるべきものだ。現に日本の警察は、さまざまな情報を手に入れているに違いないのである。ところが政府の対応はどうか。

 一九七九年、共同通信が米国務省の秘密文書を入手し、報道した。それは「金大中氏拉致事件にKCIAが関与していた」ことを裏付ける文書であった。

 その内容もさることながら、共同通信の資料の入手方法が面白い。何とこのマル秘資料は、アメリカの「情報自由法」 に基づく資料請求によって得られたのである。

 アメリカの情報公開と日本の情報独占の差を、つくづく考えさせられた。

 日本の外務省もその後、「金大中氏事件とKCIA」に関するマル秘文書を公開したが、共同通信のスクープがなかったら公開したかどうか。なにしろ「沖縄密約スクープ事件」の国会審議で「マル秘の分類基準を示せ」と質問された外務省が、「その基準も秘密です」と答えたというのだから。


政治責任と刑事責任

 昨年末、田中弁護団の再編成があり、十八人の新メンバーの中に、私の知人も名を連ねた。

 友人のひとりと議論をした。私は、「彼らの受任を法律家として批判するのは正しくない。法律家として議論してみたいテーマは山ほどあるし、僕だって純粋に法律家として行動できるなら、依頼があれば引き受けてみたい」と言った。

 「政治責任をとれといってる野党が、そんなことを言っていいのか?」と、彼は目を丸くした。「あちらで裁くのは刑事責任、国会で追及するのは政治責任」と言ったが、「裁判で無罪になれば、政治責任も問えないだろう? 同じことじゃないか」と反論された。

 「違法でなければ政治責任を問われない」と、一般には受け取られているようだが、この錯覚は恐ろしい。「法律に違反しなければ何をしても良い。法律に違反することは、何であってもすべて悪」というわけ。しかし、法律の世界にどっぷりつかっていた私にとって、この考え方ほど世の中を、血の通わない、えげつないものにしている考え方はないと思う。法律も人間の営みの価値を定める基準の一つだが、あくまで一つであって、すべてではない。政治の責任、道義の責任、いろんな価値基準がからみ合っているのが人間だ。

 ロッキード事件の真相糾明のために、野党が国政調査を要求した時、自民党は、「すでに捜査権が発動されているから、同一事件を国会が並行して調査することは司法権の独立を侵す。また、有罪判決があるまでは被告人は無罪なのだから、人権尊重の上からも関係資料は公開できない」と、拒否した。

 だが、この言い分はおかしい。野党が追及しているのは、刑事責任ではなく政治責任であり、そのために国政調査を求めたのだ。

 刑事責任とは、言うまでもなく違法行為をしたために刑罰を受けなければならない法律上の責任のことであり、国民すべてが対象となる。

 政治責任は、政治家として公の仕事を委ねられている者だけが対象となる。

 つまり田中元首相は、憲法前文に記された「その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」に反し、国民の代表でありながらその福利を私した責任を問われたのだ。

 政治責任とは、「国民の厳粛な信託」を受けるに不適当、ということである。不適当な者は、政治権力から排除しなければならない。

 「いや、田中先生は正しい。現に新潟三区では二十二万余の選挙民が投票した。ミソギはすんだ」という声もある。だが、この論にも反論したい。

 仮に今、「全国民にきこう。この人は全国民の代表としてふさわしいか?」という投票をすれば、おそらく彼は他の誰よりも不信任の票を多く集めるだろう。これが全国民の代表といえるか。

 一地域であってもそこで圧倒的支持を集めたことの政治的意味は、大いに反芻してみなければならない。また、政治責任追及といいながら、ついつい法律上の責任の追及にのめりこみやすい国会と国民の体質も、反省が必要である。そのうえでなお、田中元総理が国民の政治や道義の判断基準を大きく狂わした責任は、まことに重大だと思う。


政治不信の源

 政治責任と刑事責任は、質が違う。法律上の責任はなくても政治上の責任は大きい場合もあれば、逆に政治上の責任はなくても法律上の責任はあるという場合もある。

 たとえば、私の属する社民連の顧問をお願いしている大柴滋夫さんの場合。六〇年安保で騒然としていた時、社会党の国民運動委員会事務局次長だった大柴さんは、アイゼンハワー大統領の報道担当秘書官ハガチー氏の来日を阻止しようとした、いわゆる「ハガチー事件」の責任者として、有罪判決を受けた。

 裁判所で有罪判決を受けたのだから刑事責任はあるとしよう。しかし、政治責任はどうか。大衆運動を指導する者が、自分が刑事責任を問われるのを恐れてその場の指揮を放棄したら、大衆の行動に秩序がなくなってしまう。混乱だ。そこで大柴さんは、政治的には大変重要な役割を担い、あえて自分が刑事責任をかぶりながら、政治家としての責任をまっとうしたわけだ。

 そんなデモを企画した責任はどうなるのか。ここまでくると、安保条約改定の是非とか、当時の岸首相の応援のために来日するアイゼンハワー大統領をどうするかという、すぐれて政治の話になる。公安条例の合憲性の問題もある。今でも与野党を通じて、大柴さんを政治家として信頼している国会議員は多い。

 自民党でもそんなことは当然わかっているはずなのに、最近はどうか。

 まったく罪の意識がなく、逆に被害者意識を抱き、ただひたすら多数派形成に励む元首相のエネルギーに圧倒され、党全体の平衡感覚が鈍ったのだろうか。このごろは、秦野元法務大臣が裁判批判の口火を切った後に続いて、「田中裁判は暗黒裁判」「民主主義に反する」「憲法違反」等々、一部ジャーナリズムの論法に同調する声もある。

 「法の支配」という言葉の意味を、とり違えてはいけない。国民を法が支配するんだという支配者宣言の印象を持つ人も多いようだが、本当は、法の前には元首相といえども平等、国民が作った法にお上も縛られるということなのだ。民主主義国だからこそ元首相を裁くことができたのだが、今や「田中無罪判決こそ民主主義」説まで出る始末だ。

 私は、今流行の「裁判批判」には、あえて反論はすまい。しかし、これだけは言っておこう。あの判決は、裁判官が、検察官と弁護士の七年越しのやりとりを聞き、証拠も検討した上で、一人ではなく三人の裁判官が合議で判断を下した結論なのだ。最終的な判断はまだ先のことだとしても、五億円収賄という大変な疑惑を受けているのは事実だ。田中元首相は国会で、堂々とこの疑惑を晴らすべきである。首相を辞任した時に元首相自身が国民に約束したように……。

 その元首相が倒れた。天の裁きというべきか。お気の毒だと思うが、元首相の力が音をたてて崩壊しているのだ。病気だけは、早く快癒して、お元気で事件の最終決着をつけて欲しい。


情法公開法こそ先決

 政治倫理とは何か……。一般論で言うと、政治家として衿を正し、国民のために民族のために……となるのだが、今問われているのは、政治と金の関係のことだ。特に、「政治家が政治家の地位を利用して金を儲けていいのか?」あるいは「金によって政治が左右されていいのか?」また「金の関係で疑惑を持たれた政治家はどう行動すべきか?」ということなのだ。

 国民の中に「世の中はそんなものだ」とか「それぐらいのことができなければ政治家として一流ではないし甲斐性もない」という意見が出てきていて、一審判決直後のテレビの街頭インタビューでは、二十代の男性が「やっぱ、政治は力だ。力とは金だ」と、したり顔で言っていた。こんな風潮をこのままにしておいていいのか……。

 野党各党は、第百一回国会で「田中元首相議員辞職勧告決議案」の本会議提出を自民党に迫り、そのため国会はずいぶん緊迫したが、結局、田中元首相の進退も含めて政治倫理に関することは、各党代表で構成される政治倫理協議会で協議をし、国会の中に正式の機関として「政治倫理審査会」を新設し、そこで議論をすることで先送りとなった。しかし、話はそこでストップで、まだ結論が出ていない。

 だが私は、もっと緊急に打つべき手があると思う。

 田中元首相は特別としても、大、小の田中角栄型政治家が「政治力」をふるい、「甲斐性」を発揮できるのはなぜか。それは、与党の国会議員が、情報を一般の人たちより先に知り得る地位にあるからだ。

 これを防ぐには、「行政情報の独占」という与党国会議員の特権を奪うこと、逆に言えば、一般国民に「行政情報を公開」することが大切だ。

 行政機関は、たとえば、洗剤、薬品、食品の品質に関する資料、自動車の安全に関するテストの結果、公営企業の経営の資料などあらゆる分野にわたる情報を持っている。しかし彼らは、この情報が国民に知られることを恐れるのか、彼らに都合のよい情報だけしか公開しようとしない。水俣病やサリドマイドで、そのことを私たちは痛いほど知った。

 政策決定過程が密室で行われていることもまた重要な問題だ。国民は、なぜ新幹線の路線が曲がらなければならなかったのか、その沿線の土地がその決定にたずさわる政治家の関連企業によって、いつの間にか買い占められたのはなぜか、に重大な関心を持っている。ロッキード事件は、航空機の機種決定という政策決定過程にまつわる黒い霧がはからずも表面化したものだ。

 このように、国民が(知らされてなかった)ことによってこうむった代償はきわめて大きい。とりわけ、公共の利益という美名をかかげて展開される与党と行政機関の癒着の構造は、一日も早く変革しなければならない。 


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