民主党 参議院議員 江田五月著 国会議員― わかる政治への提言 ホーム目次
第5章 国会の機能低下と政治不信

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「牛歩」対「中間報告」

 通常国会には毎回百件前後の法案等が提出されるが、その中で内閣が特に力を入れて早く成立させようとするものに、予算案や条約等、時間的制限のあるものがある。

 予算の成立が遅れると国の支払いができない。そこで、この支払いをあてにしているところは、真っ先に影響を受ける。公務員は給与がとまるし、年金、健保等々も支払いが止まり、国民生活に直接影響が出る。

 だから野党もそうそう長く審議中断とはいかないのだ。もっともいざとなれば、「暫定予算」といってとりあえずの支出だけを予算化すれば、急場はしのげるのだが。

 かつては、国会審議も大詰めになると、しばしば議場での乱闘があった。現行憲法施行後初の国会、つまり昭和二十二年の第一回特別国会で、早くも乱闘が行われたという。

 『読本・日本の議会政治』(岸本弘二者・行政問題研究所刊)によれば、「社会党内閣の一枚看板であった臨時石炭鉱業管理法案をめぐって、衆議院本会議で社会党が中間報告、自由党が牛歩戦術をとり、怒鳴り合いやつかみ合いが数日間続いたりした。その後も酔っ払ったトラ議員や、議場で小便をする議員(のち辞職)が現われたりした」。

 トラ議員や小便議員は論外としても、この時は、後年社会党の専売特許のようになった「牛歩」を自由党がとり、自民党の伝家の宝刀「中間報告」を社会党がとっていたのが面白い。

 国会での乱闘は昭和三十五年、日米安保条約をめぐっての大荒れを項点に下火となった。岸信介首相の後任者が「対話路線」を強調し「所得倍増政策」を看板とする「寛容と忍酎の池田勇人首相だったせいもあるだろう。テレビの発達で、議場内の動きが国民の目に曝される機会が多くなったせいもあるだろう。野党は肉体的抵抗をやめ、動議連発や牛歩戦術等、合法的抵抗手投をとるようになった。

 「牛歩」というのは、重要案件の採決が記名投票で行われる点に着目した審議引き延ばし戦術である。名前を呼ばれて席を立ち、議長席の真下にある投票箱までゆるゆると牛のごとく歩いて時間をかせぐから、「牛歩」の名がついた。

 一方与党側も、「中間報告」等の合法的方法で、審議のスピードアップを促すようになった。これは国会法第五十六条の三に定められているもので、まだ審議の途中なのに、委員長に特定の法案の審議経過を本会議場で「中間報告」させようというもの。中間報告がなされた瞬間、法案の委員会付託は終了し、本会議の議題となる。だから、いくら委員会で時間かせぎをしても、「無駄な抵抗」となってしまうのだ。 そこで今度は野党が、「中間報告を求める動議」自体に抵抗する。合法的は合法的なりに、さまざまな戦術で駆引きが行われるのだ。


国会の取引き

 国会の取引きというと大部分の人は「裏取引き」と思い込むようだ。しかし、商売にしても外交にしても、利害の異なる者向上、立場の違う者同士が異なる主張をぶつけて結論を出す過程には、バーゲニングつまり取引きが不可欠だ。

 お互いが折合うために交渉し、妥協する。その時にお互いの主張だけをあちらを引っ込めこちらを抑えして折合いをつけようとしても、うまくいかない。主張以外のこともからめて、一つ一つの決着をつけながら、全体をまとめていく。こういう集積の上に成り立っているのが、国会なのである。

 もし取引きを一切やめて、多数決万能でいくとしたら、数の多い者の主張が常に自動的に通ることになってしまう。議席数がすべてだというのなら、国会議員は「選挙が終わったら用はない。登院せず自宅で次の選挙まで寝て待っていろ」ということになってしまう。そうではなく、生身の人間が国民の代表として、喜怒哀楽おりまぜてさまざまな交渉を繰り広げ、人間的要素も含みながら妥協を重ねて合意点に到達するから、世の中まとまっていけるのである。このような過程を抜きにして、主張を裸でぶつけ合っても、合意には達しない。

 こういうと、だから政治は不潔でいやらしいという反論が必ず出てくる。しかし、人間の世の中は、政治の主張だけで成り立っている訳でも、動いている訳でもない。愛憎おりまぜた複雑な錦絵だからこそ、人間とその世の中はすばらしいのであって、骨と皮の栄養失調型社会観では政治は語れない。


説明のできる取引きを

 ある代議士やある政党の「顔を立てて」というようなことも、予想外に重要なのだ。そこに代表される意見がたとえ少数派だとしても、その存在に意を用いることによって、社会のまとまりができていく。たとえそれが間違った意見であったとしても、まず第一、将来は正しい意見になるかもしれないし、それに、正しい意見だけで世の中を動かしていけばよいというなら、世の中に異端や少数意見は不必要ということになる。そのような考え方が、学校教育で「落ちこぼれ」を作り、障害者の社会参加を妨げているのだ。「政治は総合芸術だ」というのは、このことである。

 取引きを毛嫌いしてはならない。ただ、自分だけの、または自分に特殊にかかわる部分利益をゴリ押しして、全体の動きがゆがまぬよう、取引きの際にも、国民全体に胸をはって説明できるかどうかを考えていなければならない。

 私の議員仲間がこんなことを言っていた。その人の選挙区に、次回立候補を伝えられる二世候補がいる。その人物が先日、街頭で「この道路沿いには国会議員の家があるのに、いまだに舗装されていない。政治力のない証拠だ。国会議員はやはり、中央へ太いパイプを持つ与党でなくては」と演説していたという。私の友人は、「沿線に議員が住んでいれば、大して需要のない道でも優先的に舗装されると思う方がおかしい。政治家志望の若者なのに、公私の分別もない」と慨嘆していたが、まことにそのとおりで、こんな人物が議席を得たら、国会でもさぞ部分利益のために横車を押すだろう。こういうけじめをわきまえない事例ばかり見ていると、コンピュータ政治の方が良いとつい思ってしまう。心しなければならない。


党の泣き所をつく

 国会の取引きは、なにも議員個人の損得がらみだけではない。各党それぞれに「泣き所」がある。

 社会党の場合は、官公労の巨大労組がスポンサーであり、労組幹部経験者が多数、国会に議員として入ってきている。どんなに勇ましいことを言っていても、話が一度官公労の賃金引上げに及ぶと腰砕けになるというのが定説だ。

 自民党は、この社会党の体質を知り抜いており、いつも人事院勧告等の審議をあと回しにして、他の重要法案の審議促進と引き替えに給与引上げを決めようとする。これを「バーター」という。

 社会党が時に、「たとえ給与案件が流れても、この法案は反対」と強くでることがある。これは社会党としては大変な決断であり、その時は社会党は本気だと思ってよい。さらにそこに裏がある場合もあろうが……。

 こんなことを書くと、私が給与案件をとるにたらないものと考えていると思われるかも知れないが、それは誤解である。公務員給与は、公務員のみなさんの生活の支えであるだけでなくて、民間賃金や年金はじめ各種の公的給付に影響を与え、国民の懐具合、つまり購買力に関係する。ひいては景気にもひびいてくるし、法律の建前からいっても、人事院勧告完全実施は当然なのだ。念のため……。

 泣き所があるのは何も社会党だけではない。他の野党にも、そして当然自民党にも、たとえば「田中問題」のように、泣き所があって、そこをつつきながら、時にはつつかないことをもって取引き材料としながら、さまざまな妥協が行われる。これも、けじめを忘れると、公私混同になる。


法案の運命

 国会の取引きはどういう場面で行われるのか。最前線は、委員会の理事会である。

 理事会で駆引きをしている時、「本国に帰って相談しなければ答えられない」とか「本国から指令がくるまで待って」と軍隊用語を使う理事がいる。本国というのはその人の属する党のこと。もっと正確にいえば、国会対策委員会である。これを「国対」という。

 国対は、各党の議院運営委員、理事の実質的上部機関である。形式的には、国対は単なる院内会派の機関であり、両院の正式機関ではない。委員や理事というのは、公人としての議員の公の地位であるから、委員や理事が国対を無視して行動しても、もちろんそれは有効。

 「あなたは大物理事さんなのだから、国対なんか放っておいて決断して下さいよ」と、理事会の席でおだてもあり、なかなか駆引きは面白い。しかし、実際はそういう独走はほとんどなく、国対が、国会全体の動きを見渡しながら、出先機関である各委員会の理事を指揮する。理事会で甲論乙駁、渡り合って到底決着がつかないという時に、「チリン」と電話が鳴り「ハイハイ」と答えていたと思ったら、次の瞬間にあっさり決着がついてしまったということもよくある。(ああ、本国から指令がきたな)とすぐわかるのである。

 こういうことは、あってはならぬことでもやましいことでもない。しかし経過が非常に不明瞭であり、各党、とりわけ与党の党利党略で、はなはだしい場合には国対役員の個人的な動機によって、取引きが行われるのが問題なのだ。

 自民党国対委員長の膨大な機密費が使われたとか、野党側がスキャンダルを握られ、揺さぶりをかけられたとか、黒い噂が院内を駆け抜けることもある。どことなく秘密めくのが「議運」であり「国対」であって、この雰囲気が国会全体の取引きを不明朗に見せている。

 取引きの際、与党側に野党の人質としてとられるのは、「人勧」等野党にとって「おいしい」法案だ。一方、野党が人質にとるのは、何の問題もない全会一致の法案である場合もあるからややこしい。

 法案は、委員会に付託された順序に従って審査される。そのため、すぐ後に「対決法案」が付託された場合、前にある無難な法案まで引き延ばしの対象にされてしまう。枕詞のようなものだというので「枕法案」と呼ばれたりする。

 内閣提出法案の順序を決めるのは、自民党の国対だから、官僚は、自分の省庁の法案を何とか無難な順序で提出してもらおうと、熱心に働きかける。それにもかかわらず「枕」確実の順番にはめ込まれると、今度は野党議員のところにも根まわしにくる。この法案がいかに無色透明かを説明していくのだから、思わず同情してしまう。

 このように、与野党があの手この手を使って会期末にもつれ込むと、残った法案には四つの運命が待っている。一つは、審議が終わらないという国会用語で「審議未了」のまま「廃案」。二つめは次国会への「継続審査」。三つめは強行採決による成立。四つめは会期延長で試合はさらに続行。

 結局、重要法案であればあるほど、駆引きにばかり時間をとられてほとんど実質的審議がないまま成立したり、消えたりする。議会制民主主義にとってこの過程の不透明さは、危機的状況というべきかも知れない。


第5章 国会の機能低下と政治不信

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