1984/12 五月会だより No.23 (中国特集) ホーム主張目次たより目次前へ次へ


北京の空は青かった
江田五月友好訪中団  日中新時代の友好を深める

 悠久の大地、中国。魅力あふれる隣国。中国政府の招きで、このほど江田五月氏を団長に一行十一人が北京、上海、桂林、広州、深川などを訪問。また、中日青年友好交流のメンバーとして、岡山社民連からも青年が参加。新ためて日中友好を深める旅となりました。第23号は中国最新情報のレポートです。


中国は大きく変わった  江田五月 (衆議院議員・弁護士)

 私たち「江田五月友好訪中団」は、中日友好協会のおまねきを受け、私が団長、大亀幸雄副団長、石井紘基秘書長及び団員八人という構成で、九月八日から十一日間中国を訪問した。私自身は六年ぶりの訪中。中日友協のみなさんには、本当にお世話になった。冒頭心からお礼を申しあげる。

 秋は、中国でも最も良い季節。青い空が限りなく広がる。九月十日が中秋の名月で、王府鎮を散歩していると、いたる所で市民が月餅を買い喰いしていた。近くに迫った国慶節の準備で、何となく浮き立つ街並みだ。

 この六年で中国は大きく変った。「現代化路線」の歩みは確実で、街に自由な雰囲気が溢れてきた。色彩豊かな服装とパーマなど化粧で、女性が美しくなった。男女の仲がオープンになってきた。指導者の話がまことに卒直になり、中国の弱点、欠点をどんどん話題にするようになった。人々の毎日の生活もずい分変わったのではないか。

 日常の変化は、基本的政策の大変貌に起因する。一つは国内経済政策で、農業も工業も、従来の生産割当利から「生産請負制」に変った。当局と契約し、請負量以上を生産できれば私的処分が可能。むしろこれを奨励し、「万元戸」(百万長者)になることを勧める。

 もう一つは対外経済政策で、開放政策に変った。外国の資本に、どんどん中国に入ってきて、中国の資金と「合弁」で中国国内の経済活動を始動させて欲しい。特に中小企業。というわけで、各地で「合弁をやりませんか。」と誘われた。ぜひ実績をあげたいものだ。

 対外経済開放政策の目玉は経済特区。香港と隣接する深川は、何十階建てのビルが林立し、外資がどんどん入ってきている。ここに資本主義の接点を作ろうという大実験だ。

 中国滞在中に香港返還交渉が大きく進んだ。一つの国に二つの体制。しかし私は、中国はもっと大胆なことを考えていると思う。

 川の水は、海へ注いで突然海水になるのではない。同様に、資本主義と社会主義の汽水域を作ろうとしている。二つの関係を、水と油でなく、淡水と海水の関係にしようとしている。深川は、秘密の花園へのかくれた扉。「招商局」は扉を開ける魔法のカギ。こう考えると、中国の経済政策の大変貌が実によく理解できる。

 資本主義で近代のスタートを切った国も、社会主義でスタートした国も、ともに相互に影響し合いながら、人々が平和で安定した生きがいのある生活ができる社会体制をめざして自己変革の努力を続けている。資本主義の私たちも教科書のない時代に入っている。社会主義にだけ教科書がある筈がない。世界中が新しい模索の時代に入っている。

 「九十九年」の租借というのは「永久」ということだと、学生時代に習った。これが今、主権を中国に返還、しかしその後五十年間は自由貿易港の香港を継続ということで、返還協定仮調印。「永久」などという無責任に突き放した考え方でなく、五十年、百年単位で世界を実際にどうするかを考えている。こういうのを「デッカイドー」という。

 中国の新たな実験が成功すれば、香港はもち論、台湾問題も解決。世界中の中国民族の心るふるさとが、香港や台湾から中国全土に広がってしまえば、古い枠組で台湾をイデオロギー的に擁護することは、グロテスクな時代錯誤にすぎなくなる。南北朝鮮の平和な統一にも方法論的に光明が見えて来よう。

 中日友協名誉会長の王震さんと会見した。日中友好が特にアジアの平和に非常に重要という点で、私たちは完全に意見が一致した。

 朝鮮半島で、北と南が張り合っている。日本は韓国と、中国は北朝鮮と仲良し。日中が協力して、それぞれ仲良しの国を説得すれば、朝鮮半島に平和は来る。米ソ対立についても同様に日中がクッション役を果しうる。

 両側で重要な位置を占める日本の外交の基本は、こういうものでなければならない。中国は現に、北朝鮮に影響力を与える努力をしている。この日も王震さんは私たちに、「北は南進の意志も力もありません。」と言明された。確かに中国の協力が得られない以上、北朝鮮が単独でそんなことはできないだろう。

 中国はその社会主義に誇りを持って欲しい。私たちは自由主義を誇りにする。「されど仲良し」は必ず実現できる。世界は必ず、私たちの力で考えることができる。


中国若者考  中村力夫 (和気五月会会長)

 若者の国である。貧困からの脱却をテーマとした対外開放経済政策と個人の能力開発方策に応えて、いま中国は大きく動いている。革命を知らない若者たちは、この社会主義国をどう変えて行くだろうか。
 
 上海にある青年宮は、毎週末数千人の青年たちで溢れる。市内の大学が共催する独学青年のためのスクーリングの講義を聴くために集まるのである。

 また、南京路の人民公園の一角に公園大学と呼ぷ日本語と英語のコーナーの二つのたまり場に有職青年がつめかける。個人経営者は彼らの共通の目標のようだ。

 「中国の大地にある真珠」とその風光を称えられる桂林。その夜雑踏の街路で、「日本の方ですか」と声、それは桂林大学で日本語を専攻する学生であった。卒業したら旅行社で働きたい。日本にぜひ行きたいと語る青年は、一時間ばかり街をガイドしてくれた。 これからの日中青年の交流においては、日本語をマスターした彼らにイニシアチブを取られそうだ。

 広漢万里、たしかに中国は広いと感じた。しかし、ある農民は「10億の農民にとって中国の耕地はあまりにも狭小だ。」と語った。真実は見なければ、聞かなければ分からない。なおそれでも分からないのが真実かも知れない。

 この旅を中国を知る確かな出発点にしたい。


美しい国、魅力ある国 我想再去中国  大亀幸雄 (岡山社民連書記長)

 私の中国訪問は、これで四回目。かれこれ八十日間中国各地を見てまわった。
 最初は一九六〇年七月、毛沢東主席の時代。
 二回目は一九七六年十二月、華国鋒主席の時代。
 三回目は一九七九年六月、ケ小平副主席(当時)の時代。

 この二十五年間に、中国の内外政策にはいろいろな変化があった。動揺も試行錯誤もあった。文化大革命のように世界中をアッと云わせた大事件もあった。昔のメモ帖から中国要人の発言の一部を抜粋してみる。

 「子供は国の宝であり富の源泉である。産児制限などしない」
 「マルクス、レーニン、毛沢東思想は普遍的真理であり、世界革命の太陽である」
 「人民公社は共産主義の初歩的形態であり、人類の理想郷である。」
 「アメリカ帝国主義は戦争の根源である。かならず戦争をしかけてくる。打倒する以外に道はない」
 「ソ連社会帝国主義は世界で一番悪い。アメリカより侵略的である」

 ざっとこんな調子がつづく。今はどうだろう?
 もちろん政策転換はどこの国にもあるもの、別に不思議でもなんでもない。問題はどんな方向に転換したか、である。

 実力者の劉小平さんは「中国の社会主義は、中国の実情にそった、中国式の社会主義でなければいけない。」(「世界」九月号)と云っている。一般論としてはそのとおりだろう。しかし経済特区「深川」(経済特区は四箇所、経済開発区は十箇所)を観察した私達の感想は一寸ちがう。「よくもこれほど大胆に、資本主義的経済運営の手法(競争・合理化・利潤など)をとりいれたものだ。」これがみんなの卒直な気持である。少しオーバーかもしれないが、一つの国家に二つの制度がある。資本主義経済と社会主義経済が相互に浸透しあい、共存している。こんな理解をしたらいけないだろうか。

 いずれにしても歴史的な大実験、何としても成功してもらいたい。帰国して数日後に「中国・香港」合意文書が調印された。さすが白髪三千丈の国、発想のスケールが違うとまた感心。

 中国はいま、急速に変わりつつある。街は明るくなり、人々は開放的になり、建設の槌音は鳴り響いている。生産力は農業も、工業も、商業も急成長の様子だ。十一億の人民は喜んで新中国の建設に参加し「生産力の向上、豊かな生活」を目標に大奮闘している。まさに意気軒昂そのもの。

 中国は美しい国、悠久の歴史を感じさせる国、何度訪ねても魅力のつきない国、また訪ねたいと思う。


成功させたい合弁事業  小土井洋二 (創美堂社長)

 私にとって、隣国、中国の訪問は今回が二度目である。初回は、八月中旬に五日程上海におもむき、久しい願いが果たされたというものの慌ただしい旅であった。私はどこへ行っても、誰にあっても、誠意だけは尽くしたつもりである。

 九月八日、まだ暑さの残る北京空港に降り立つと、中日友好協会のメンバーの方が四名、わざわざ空港まで出迎えに来てくださり、深く恐縮したしだいである。

 金蘇城、呉瑞釣、王雲濤の三氏外。
 金氏は静かながら芯のある温厚な人で、言葉たくみで、笑額を絶やさない方であった。呉女史は、中日友好協会を代表される女性として、見るからにやさしい奥さんという感じである。王女史は、いつも笑顔を絶やさない方であった。この二人の女性には、北京から深川まで九日間、ずっとつきっきりでお世話をしていただき、ただただ頭の下る思いでいっぱいである。誠意の接触は“百聞は一見にしかず”で、私が中国の大地を踏んだ時、見るもの、聞くものが、一つ一つ新鮮な驚きと貴重な経験となって残った。そこには自信と希望とをもち、真剣だが余裕に満ちた民族の姿があった。八月半ばと、九月半ばにかけての中国訪問は、私にとって生涯忘れえぬ充実した楽しい期間となった。

 私の中国訪問には、もう一つの大きな目的があった。それは、食文化を通しての両国人民の友好促進、つまり合弁事業を成功させることである。合弁事業については、視察のあい間を縫って、かなりの時間をさいて話し合った。中国側は、「豊かな中国社会」を建設するには、合弁事業の促進は不可欠の条件と確信している。

 一人の民間人として、今回の見聞が、第三期に入った日中関係の友好の絆を、更に深める役割をはたせばこんな幸せはない。


歴史の偉大さに驚く  庄公寿 (庄屋電装社長)

 九月八日、北京着、いやまったく驚いた。中国は大変大きな国である。天安門広場に立って見て本当にビックリでした。中国は日本のルーツ。今から二千年前の日本は弥生式文化の時代、中国五千年の歴史の中でニ千年前は、大変な建築物、そして人々の物質文化の大変すばらしい造形品、それを目の当たりに見て、中国の歴史の偉大さにただ驚くのみ。

 上海で市民生活の実際を見せて頂き、ここで実に、私達日本の自由な社会のありがたさを痛感。訪問した家庭は、御主人が医師、夫人も医師、母上が小学校の教員を定年で退職、そして子供一人、計四人家族。私達日本人の感覚では、夫婦が共に医師であればかなり文化的な生活をし年収も大変な物と思いますが、驚いた事に一般労働者の二倍程度の収入。部室の中を見せて頂いたが、スペースとしては私達の生活感覚で云う所の四帖半二間。これで家族四人の炊事から就寝に至るまで、すべての生活がなされて居るとの事。日本では考えられない事です。炊事道具は古くて僅かの数。そしてペットはタル木の五センチメートル角材を敷きその上に表わら、そして普通のゴザ三枚。その上に「藤」で出来たゴザを敷いただけの本当に簡単な物。

 これで、この人達は快適な生活をしている。日本の私達の様に競走の毎日の生活と比べると本当にのんびり、そして家族がなごやかに生活している様に思えた。

 中国、再度訪れたい国です。


見たまま、感じたまま  柴田清美 (主婦)

 社会主義の国中国とは、一体どんな国なのか、北京に着くまで不安がいっぱいですごく緊張した。でも、田舎風のノンビリした空港に降りた時はホッとした。空港から北京市内への道ぞいに、きちんと植えられた樹木のトンネルはすばらしかった。いたる所で古いレンガ造りの住宅を壊しての高層建築ラッシュと、多人数がクワを持っての道路工事、まるで東京オリンピック前の日本みたい。天安門、故宮、万里の長城……どこも広くて人が多い。街中、26インチ黒色の大型自転車があふれている。日本の30年代へかえったみたい。いたる所の自由市場では、どこの食料品売場でもすごく長い行列。毎日の買物に、時間がすごくかかるのはこまるだろうに……

 どこの都市でも、朝早くから音楽に合せて、太極拳で体力維持、健康増進に励んでいる。夜、上海の港ではアベックの群、桂林ではソシアルダンスパーティー若い人達はそれなりにやってるな……

 桂林すばらしい自然だ。もう一度ゆっくり訪れたい所だ。

 どこへ行っても、中日友好協会の人達の心暖たまる歓待、大変うれしかった。10日間の中国滞在はアッという間に過ぎ去りきのうの様に思い出される。半年先、一年先の中国はすごく変っているでしょう。再度ゆっくり訪れたい。


市場の片隅で  藤原裕示 (マルユー社長)

 過去の事を、招待戴いた方にどう詫びたらよいのか、訪中にはためらいがあった。しかし、中国での歓迎ぶりは熱烈で、ただただ頭が下がるばかりだった。

 ともかくハードスケジュールで、六時間以上睡眠の取れる日はなく、温度差の激しさと空気の乾燥に団員全員が体調を崩した。その中で江田五月団長のみ太田胃散を一回服用しただけで元気に団員を引張って行く、各界幹部との会見が続き毎日が招宴である。長靴姿で農家の視察、学校授業参観、家庭訪問、各役所への訪問、工業団地の視察と巾広く、中国五千キロを精力的に江田五月が行く。

 上海で秋霞園の入口に、市民の台所である、かなり混雑した路上市場があり、私達のマイクロバスはそこで停滞した。その路上に膝を抱えて座っている十才位の利発そうな少年が居た。土の上に自転車の中古サドルを七個置いて、いつ来るとも分からない客を待っている。五メートル程前の少年にカメラを向けると一瞬、私と目が合った。彼は慌てて顔を伏せ赤面した。暫くして上目使いにその切れ長の目を私に向け、はにかみながら微笑んだ。訪中の間、一〇七三回のシャッターを押し続けた私だが、ついシャッターをためらった。やがてバスはゆっくり動き始めたので、窓から手を振ると少年も立ち上り激しく手を振って答えてくれた。小学校訪問の後だけに、その時不覚にも感傷的になった。写真には成らなかったが、今でも少年の顔が脳裏に焼付いている。

 我身の力の無さ、教養の低さ、準備不足で訪中した自分に、数々の反省が残った。


友好訪中団に参加して  桑原一 (津島鉄工所専務・税理士)

 上海では専門のファッション・モデルの会社が誕生した。農業の自由化の結果、副業収入の増加により、「万元戸」が出現。企業家は人を雇ってお金を稼ぎ始めた。深川では外資百%の企業でも大歓迎である。大学、別荘、ゴルフ場まで建設している。ポスターには「時間は金なり、効率は生命なり。」毛沢東が生きていたら何というだろう。

 税金について質問してみました。

法人税――過去においては、利潤上納制を採る。現在は納税制度に改められつつある。利潤の五十五%を国に納めた残りは、設備の改善に向けるか、ボーナスにあてるかを企業経営者に任されている。ボーナスは上限なし。給料の四ヶ月以上のボーナスを支払う時は特別な税金を払うことが必要。企業の利潤が上がらなければ、経営者はくぴ、労働者の基本給も切り下げられる。

所得税――月給八百元(約八万円)を超える場合にのみ対象となる。月収八百元の人はきわめて小数。

(雑感)
北京、建築ラッシュ――重量鋼材に使わないプレハブ式の建物。橋梁にしても全体に貧弱に見える。地震を考えないレンガ積み方式の建物の感じ。

人口十一億―― 夜店、バス、観光地、商店街、自転車、人間が目につく。さらに日本人の多いこと。

茅台酒―― キツイ、でもうまい。中国料理に最適。

人情―― 家族主義というか、まことに細やか。純粋培養された人達ばかりで、これから資本主義の精神汚染がこわい。

天安門―― 江田五月の集会もここでやれば百万人まちがいなし。


主婦四〇歳、中国へ  黒田益代 (主婦)

 念願かなって空路中国へ旅立つ私は、物心つく頃から自分の出生地への憧れとイメージをいつも心に抱き、かならず一度はと思っていた国。

 北京、上海、桂林、訪れる所すべてがあまりにも広大ですばらしく胸の中が一杯でした。表通りのとても整備された幅広い道路、高層ビル建築のラッシュ、自転車と人々の大群。その一本裏の路地では、私のあまり記憶にもない裸電球の部屋、自宅にトイレもない所、何もかもすべてが脳裏に焼きついて離れない。

 すばらしい出合い、とてもおいしい料理、又中日友好協会のお世話になった方々、特に手取り足取り二十四時間体制でお世話くださった二人の女性通訳さん。とても言葉では言い表わす事の出来ない人々。そして中国。深川〜香港、私達日本では経験する事の出来ない、手と手を取り合えるただ一歩の境界、お世話下さった方々との別れの場所。あふれる涙を止める事は出来ませんでした。数年度にはまたぜひ訪れたい。その時はいくらかでも言葉の感じとれる自分にと思いつつ……。


日本が好きになりました  新谷雄二 (スカイポート社長)

 中国へいって思ったこと、まず物価が安いことです。今、日本ではLPレコード一枚が2800円位ですが、中国では日本円で400円位でした。といっても初任給が一ヶ月6000円程度ですから、レコード一枚買うのもたいへんなのでしょう。ステレオもラジカセも売っていますが、まるで中古品みたい。中国にとって音楽文化はまだまだの感じです。

 中国で流行している曲の中には「四季の歌」「北国の春」など日本の演歌がたくさんあります。でもなぜか日本で言うロック、ニューミュージック、ジャズなどの知識はないようです。ましてや「サザンオールスターズ」「マイケルジャクソン」「プリンス」などは知るよしもありません。

 中国は初めての訪問なのに、なつかしいと感じました。それは多分、何十年か前の日本と今の中国がすごく似ているからだと思います。中国には、今の日本人が忘れている何かがあったような気がします。私は中国を見て、なんだか日本が好きになりました。


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