1986/05/16

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104 衆議院・文教委員会


○江田委員 社団法人社会経済国民会議というのがございます。各界の有識者の皆さんがお集まりになって、社会経済のあり方についていろいろな提言をされておりますが、その中の政治問題特別委員会というのが一力月前、四月十六日に報告書をお出しになられております。

 この特別委員会の委員には、経営者の代表の皆さん、学界の代表の皆さんもいらっしゃいますが、同時に、労働界の代表の皆さんもかなりお入りになっておられるわけです。専門部会長の岡野加穂留明大教授から私も直接にこの「提言」をいただいたわけですが、その中に国会改革――行政改革なんということを今言われているわけですが、行政改革の前に政治改革が行われなければいけない、その政治改革の前に国会改革が行われなければいかぬ。

 そこで、「衆参両院の改革で「新議会」の創造を」という総論で提言が幾つかございますが、その中に「衆議院は「討論の自由化、活性化」を基軸として、形式的かつ権威主義的な審議運営全般を抜本的に改革する」というのがあるのです。なかなか鋭いところを突いていますのでちょっと読んでみますと、

 わが国の国会の旧態依然とした審議運営は、かねてより批判にさらされてきたところであるが、とりわけ過度に形式主義かつ権威主義に傾斜した委員会審議は、本来、自由闊達な討論を通じて議案の精査につとめるべき委員会の場を形骸化させ、政府の提出する法案のたんなる承認機関におとしめている。しかもわが国の国会議員は、耳の痛いところですが、与党、野党を問わず、合意と妥協の精神を如何なく発揮して、緊迫感あふれる討論を闘わす気概もなく、与党議員は審議が紛糾することなく効率よく法案の可決に至ることを願って終始沈黙を守り、その実体は定足数確保のための出席であることも少なくない。きょうはその定足数確保さえ一体どうなっておるかということです。(「そうだ」と呼ぶ者あり)いや、しかし野党もあるのですよ。また野党は法案の審議以前から賛否の態度を決し、委員会の審議を通じて合意できるところと合意しかねるところの、ぎりぎりの妥協と攻めぎ合いのなかで、よりよい選択を積み重ねてゆく姿勢も皆無である。わが国の国会に政党間の自在な討論、国民を代表する一人の国会議員としての気概に満ちた討論が途絶えたのはもはや周知の事実であり、「討論の府」たる言葉で形容することが憚れるほど国会の凋落は極まっているといって過言ではない。そして、国会における良識と理性は、政党政治を営み議院内閣制の原則にもとづいて内閣を組織する、第一院たる衆議院にこそ求められるべき緊要の課題である。そのためにも衆議院に討論の意義を復活させ、議案審議の過程に合意と妥協の精神を生かす方向で、今日の形式的かつ権威主義的な審議運営を抜本的にあらためることが先決である。こういう提言があります。

 こういう提言が出てくるゆえんのものは、国民の本当の気持ち、いらいらする気持ちというのが国会に伝わっていかないというところにあるのではないだろうか。例えば、今この瞬間に議題になっている法案じゃありませんが、一昨日ときょうとの審議の中で出ております養護学校の定数の問題なんか見ても、とにかく養護学校に通っている肢体不自由な子供たちは自分の意思どおりに手足が動くわけじゃない、自分の意思と違う方向に手足が動いてしまう。これを先生たちが追いかけていってスプーンですくって御飯を食べさせるという、まさに神わざのような仕事をしなければならぬ先生たちがいらっしゃる。この子たちというのはのどから物を入れるとすぐに出てしまうという、そういう反応が非常に過敏であって、したがって御飯を食べさせるとすぐに座らせておかなければならぬ。しかも座らせておいたらすぐに出てくるわけではないので、二十分、三十分ずっと座らせ続けておかなければならぬ。こんな子供たちを一体一人の先生が何人抱えることができるだろうかというと、今の事情は大変だ。そしてその中で体を壊す先生方が随分たくさん出ている。そういう声が国会に届いていかない。過大規模校にしたって、あるいは児童生徒の急増地域にしたって、そういうところにいらっしゃる皆さんの生の声というのが国会に届かない。どうも国会から見たり文部省から見たりしておるとそういうことが見えないのじゃないかといういらいらした気持ちがある。

 そういう中で、私はやはりこういう議員立法というものが国会審議、あるいは日本の政治を生き生きさせる大変に大切な機能を持っているんだと思うのですが、まずそういう点について、提出者の御感想、それから文部大臣いらっしゃればありがたいのですが、政務次官の長い政治経験をお持ちの政治の先輩としての御意見を伺いたいと思います。

○木島議員 新しい議会にどう生まれ変わるかという団体の御提言ですが、それはしょせんは政権政党、第一党の態度にかかわってくるであろう。いろんな角度から物が考えられますけれども、その点では第一党のあり方、例えば今あなたがおっしゃいましたように、自由な討論だけれども、自民党は討論をしないこと、しゃべらないことが任務だと思っていらっしゃるんじゃないでしょうか。それで国民の声を反映するとおっしゃる。議員じゃないんじゃないか。そこから出発しなければならぬのじゃなかろうかと思います。

 なお、障害児のお話がございました。私は先ほども質問で言ったのでありますけれども、障害児教育というのはまさに学校教育の原点であろう、出発であろう。障害児教育をまともにやれれば健常児の教育が当然立派にできる。そういう意味ではあれだけれども、そのことが、おっしゃるように国民の声が届かない。今人口急増地帯の人たちは学校をたくさんつくらなければならない。ところが、その学校をつくるために、実は財政的には行革の中で苦しんでおる。ですからつくれない。だからこうした補助をしよう。だけれども、それに対して今日まで、議論の中では自民党からの御質問がない、意見がない。そういう意味で、私は、最初に申しましたように、第一党からの発言がない限りにおいては新しい議会というものは生まれ変われないだろうと思います。
 以上です。

○工藤(巖)政府委員 国会の改革、あり方についての御意見でありますが、私も余り長い経験ではありませんが、国会に参りまして、自由な討論の場が欲しい、活性化した委員会でありたいという気持ちは否定できないわけでございます。ただ、今までの審議の経過等を見ておりますと、与党であります自由民主党で法案を出してくる場合は、党の中でさまざまな部会あるいは調査会、プロジェクトチーム、そういうところでいろいろな議論をして積み重ねて出てくるので、委員会に出てくれば物を言わない、こういう形になっているわけであります。また、野党の方々の御質問も、いわゆる自由討論の場ではございませんから、同じような御質問が同じように重ねられ、答弁もまた同じような答弁が重ねられる。率直に言いまして、こういうことがどうもこの委員会の出席も悪くしているのではないのかという感じが、私見ではございますけれども、そう思うわけであります。

 ただ、これを改革していくという場合は、いろいろと各方画から検討も必要なことでございましょうし、こうした議員の持っている率直な考え方を突き合わせながら国民の期待にこたえるような審議が十分に行われるように、そうした国会を目指す検討がされてもいいのではないかというような感じを持っております。

○江田委員 どうも率直に言いまして、議員立法が本当にもっと真剣に議論されていいんではないか。議員立法というと、とかくいろいろ細かな目、配慮が行き届いていないから問題なんだとか、あるいは時によっては、どうもその点は細かな配慮が行き届いていない、いろいろ問題がある、したがって内閣が提出するわけにいかないから議員立法で何とかやっておけというようなことになったりとか、そういうように言われるところも顧みて内心じくじたるところがないわけではないのです。しかし、私は、政治過程というものは、余り何もかも全部きちっとまるで金属の結晶のようにすべてのことがきれいにできている、それがいいというわけでもないんで、時々横の方に飛び出てみたり、整合性がうまくついていなかったりというようなこともありながら、しかしみんなの声が反映していくという、そういう政治過程というのが活性化した政治過程に結局つながっていくのではないかという気がするのですが、そういう意味では、もっと議員立法というのは大切にしなければいけない。しかし、そうは言っても、恐らく提出者も、単に現場の生の声をそのまま反映したということではなくて、そこは政治家として大所高所の見地から、抑えるべきところは抑え、実現可能性も考え、お出しになっていると思うのですが、その辺の現場の生の声はもっとこうなんだけれども、この辺はやはり抑えてこう出しておるのだということがあれば、お聞かせいただきたいと思います。

○木島議員 その点は、おっしゃるとおり大変難しいところでございまして、現場からいえば、これは例えば二分の一を四分の三にしても、それは全額だ。何も人口急増というのは、今までの住民からすればふえた分だけはこれは国の政策じゃないのか、それをなぜ我々が負担しなければならないのだということがありますから、全額負担説も出てきますね。ですけれどもそうではない。とすれば、例えば今おっしゃる問題でいえば、二分の一ならばその全額だと言うならば、その半分だから四分の三というあたりは、これは一つのおのずから出てくる結論かもしれませんけれども、そういう式のものはそれはなさねばならぬと思っております。殊に、例えば高校の問題についてはいろいろと議論があろうかと思います。

 これは江田さん、ちょうど裁判官でいらっしゃいましたから、憲法の番人だと言われる裁判官でありますから、例えば憲法二十六条の第二項「国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。」この「保護する子女」とは未成年ですね。しかし、今日の日本の法律の中では、例えば児童福祉法は十八歳までという規定はありますけれども、保護すべきことの中では十八歳以下はありません。しかし保護しなければならない。普通教育させる。普通教育に対置する言葉は何か、それは高等専門教育すなわち大学であります。その義務を負うのです。だから、言葉をかえれば、国民は十八歳までの子供を高等学校に入れなければならない。となれば、普通教育を受けさせなければならない。高校は普通教育ですね。義務教育はこれはむしろ義務なんですね。そう解釈できないだろうか。とすれば、高校というものを一体どう考えるか。しかしそう言っても、憲法でそうだからといって、そう理解できたからといって、それをストレートに私は言おうとしているのじゃありません。けれども、そういうことも含めて、しかし文部省やあるいは自民党からすれば、土地まで補助するのはどうかという論が出てきます。しかし、そこに少なくとも今日九四%まで高校進学ですから、高校を出なければまともな就職ができず、まともな就職ができなければまともな生存ができないのですから、もはや中学校までが生存的基本権ではなくて、高等学校を卒業するまでが生存的基本権だと考えるならば、そのくらいのことは当然あっていいじゃないか、そういうことが今御質問を法的に理解をしながら考えたところだと御理解いただければありがたいと思います。

○江田委員 どうも質問の始まりのところでもう時間になってしまいましたが、とにかく提案者としてはこれはもう十分に考えておるし、この程度のものができないはずがない、もしできないと言うなら政権かわってみろというくらいの気概でお出しになっているんだろうと思いますが、これが採決もどうもできないということではまことに、しかもその理由というのは何だか理由にならぬような理由で腹が立って仕方がないという状態ですが、時間ですのでこれで終わります。


1986/05/16

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