1985/12/11

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103 衆議院・文教委員会


○江田委員 文部大臣、一年一カ月と十日ですか、本当に御苦労さんでございます。もちろんまだこの国会は終わってはおりませんし、延長ということも云々されております。しかし、常識的に考えますとどうやらきょうが最後のこういう質疑になっておるようで、もちろん大臣がくるくるかわることは余り好ましくもないと思いますし、特に松永大臣にはさらにさらに文部大臣を続けていただきたいと思いますが、どうも常識的に考えていきますと、もうこれでいよいよ最後の文部大臣に対する質問、松永文部大臣としての答弁ということになるかと思いますので、先ほども伺っておりましたけれども、まずこの一年一カ月十日の感想を伺いたいと思います。

 いろいろありましたが、臨教審が発足をしておって諸問題がすべてといいますか、すべてではないにしても臨教審の結果待ちというようなことがあってやりにくかったところもあるのではないかと思います。しかし、今の教育のさまざまな問題について大臣として直接に肌にお感じになったことも随分おありだと思うし、一年の間に教育というものに対する理解も随分深めていただいたのではないかというような気もいたしますし、私どもも大臣とこうして議論をしながら教育についての理解を深めてまいったわけで、率直なところ今一体どういう感想をお持ちかをお伺いします。

○松永国務大臣 午前中もお答えしたわけでありますけれども、去年の十一月一日に幸運にも文部大臣に就任することができて、以来一年一カ月十日たったわけであります。私は、その与えられた部署部署で全力を挙げてその任務を遂行するというのが政治家のとるべき態度であろう、こういうように思っておりまして、この一年一カ月十日の間そういう姿勢で文教行政と取り組んできたつもりでございます。

 臨教審からも第一次答申が六月になされまして、第一次答申で出されました具体的教育改革の提言につきましてはそれの実施に向けてスタートができたわけであります。そしてまた、一方においては学校荒廃という現象が続いておるわけでありますけれども、これにつきましても、文部省のそれぞれの責任の部署にある者と協力しながら学校荒廃の解消のために全力で取り組んできたつもりであります。

 今月の二十幾日になりましょうか、六十一年度の予算編成という仕事が残っているわけでありますが、それは私がやることになるかどうかわかりませんけれども、私がやることになるとするならば最後の務めがそれではないか。先ほどからいろいろな激励もいただいたりしたわけでありますけれども、六十一年度の文教予算は、厳しい財政状況ではありますけれども、その中でできる限りめり張りのきいた予算になるように頑張らにゃいかぬと思っておるところでございます。

○江田委員 大臣に今この段階で余り厳しいことを言いたくもないのですけれども、文部大臣、まあそれぞれの個性個性があっていいわけですが、特に今のような状況、学校現場でいじめというのが大変に問題になってきている。じめじめとしつこく精神的苦痛を伴うようないじめで学校へ行けない子供がたくさん出てきたり、自殺をする子さえ次々と生まれる。

 つい先日も、これは九日ですか、青森県の方で中学二年生が自殺をした。絶対死んでやる、のろってやる、青春したかったのにおまえたちのせいで、このやろうというような遺書を書いて子供が自殺をする、そんな現実がありますね。そういう子供たちに文部大臣として、直接とはいかないでしょうが、しかし子供たちと政治家と一番近いところにいるのは文部大臣で、文部大臣から温かい気持ちといいますか、子供たち一人一人に対する愛情といいますか、そういうものがほうふっとわき出てくる、そういう文部大臣を今本当に子供たちは欲しているのだと思うのですね。

 そういうような点に関して、ひとつ最後に、文部大臣として子供たちに対する愛情の言葉というものがやっぱり必要だ。今のお話は、制度面のことでさらに頑張るというお話で、それはもちろん必要なことですが、その根本にある、親が、国が、行政が、国会が、そしてその一番のかなめにいる文部大臣が、子供たちに対して、どんな子供も、いじめる子もいじめられる子も、非行を犯す子も暴力を振るう子も、みんなかわいいかわいい子供たちなんだという、そういう愛情がほとばしってこなければやっぱりいけないと思うので、そういう意味での、大臣、一年をやった、今大臣が心の中にお持ちの子供たちに対する気持ちをお聞かせ願いたいのです。

○松永国務大臣 みそもくそも一緒にするわけにいかぬと思うのでありまして、いじめの問題でございますが、今先生御指摘になりましたいじめの中には、精神的な苦痛程度のいじめもあれば、肉体的にひどい損害を与えるような、あるいは財産的にひどい損害を与えるような、いじめというよりは犯罪行為みたいなものも実はあるわけでありまして、それぞれに適切な対応をしていかなければこの問題の解決はできないというふうに私は思っているわけです。

 何よりも学校荒廃、いじめ、非行、暴力ということにつきましては、その被害を受けている者を速やか発見をして、そしてその人権を守ってあげる。そして、それぞれの学校で適切な教育が受けられるような状態にしていくことがまず大事なのではないかというふうに思っております。

 二番目は、いじめをした生徒に対する対応でありまして、青森県の場合には、これはまだ詳細に私は承知しておりませんけれども、新聞やテレビの報道するところによれば、いじめをした子供はその前に青竹で教室の中で人を殴って相当大きな傷害を与えておるという、そういう前歴があるようであります。そしてまた恐喝行為を繰り返しておったようであります。これらに対する対応が必ずしも私は適切ではなかったというふうに感じられるわけであります。教室の中で青竹で殴ってそして大けがをさせたというのは、それが十四歳を超しておるならば大変な傷害罪を犯したことになるわけでありまして、それに対する適切な対応が学校でなされたのだろうかと私は思うわけであります。その子供を厳しくしかることも必要であったでしょうし、親を学校に呼び出して、そして親に対して十分監督するようにすることも必要であったでしょう。そうしたことをしておらなかったということがあるとするならば、それは実は学校の対応としては適切を欠いておったではないかな、そういうふうに思います。

 やはりまず第一は被害者の救済、二番目は加害者の加害行為の阻止、そのための措置が必要だと思うのです。そういったことを適切にやることが学校荒廃を、いじめという現象を速やかに解決をし、そういう事態が起こらないようにするために基本的に大事なことだというふうに思っております。

 ただ、長期的に言えば、概していじめをする子すなわち加害者の側は、他人の生命、身体に対して害を加えてはいかぬという基本的な規範あるいは他をいたわり思いやっていなければならぬというそういう心がけ、そういった基本的な規範とか道徳心とかというものがやや欠落している場合が多いように見受けられます。これは実は例えば中学生になって突然そうなったのではないと思われるのでありまして、幼少のときからの家庭における教育やしつけの面で欠点はなかっただろうか、そういった点も十分考える必要がある。もしそういう教育を受けることなく大きくなってきておったとするならば、そういう面では気の毒な子供でもあるわけであります。今からでもそういう面についての指導や教育を徹底をして、そしてまともな人間として成長するような、そういう教育や指導も必要であるというふうに思っておるわけであります。

○江田委員 私も実は弁護士でございまして、大臣も弁護士で、私自身も弁護士として、権利義務とか加害者、被害者とか原告、被告とか検察官、弁護人とか、そういうような物のとらえ方をする方がすっきりするし、論理は組み立てやすいし論争もおもしろいし、まことにそっちの方が好きなんですけれども、しかしやっぱり教育の問題というのは、そこではちょっと解決のつかぬ、そういう手法では本当に深く入っていけない、入り切れないものがあると思うのですね。

 先日、日弁連がいじめについて、いや、いじめというよりも校則、体罰、警察への依存ということをめぐって、「学校生活と子どもの人権」ですか、こういう調査、基調報告書というものをお出しになって、文部大臣、日弁連調査を批判をされている。

 私はこれはこれで、日弁連の報告は報告で非常に大切なところをついておりますが、同時に、日弁連的なアプローチと違うアプローチが実は教育の場では、教育という面では必要だと思って、文部大臣の批判というのをなるほどなと、ある意味では理解をしながら読んだわけですが、しかし今の大臣のお話を聞いておると、やはり大臣も随分骨の髄、もう腹の底から法律家だなというような感じがしまして、確かにいじめる子供、いじめられる子供それぞれに、もちろん正すべきはきちんと正すということがある。

 しかしやっぱり、例えば中曽根総理はつい先日いじめのことについて、子供が根性を持つことが大切だ、やられて天井裏で泣いていたんじゃだめだというようなことをおっしゃって叱咤激励をくださったわけですが、私は今、いやそれは違う、根性もいいけれども、しかし本当にやわらかでしなやかな、ちょっと何かがあればすぐに傷がつく、そういう本当に弱い弱い感性というものもまた、そこにきれいな本当に美しい花が咲くことがあるわけで、そういうものをそういうものとして大切にしていくということが教育の場になければいけない。

 あるいはいじめの方だって、いじめる側の子供がまたいろいろな心の苦しみを持ち、いろいろなものがうっせきをしていじめという行動に走っている。その子もいじめることによって自分自身を傷つけている。自分自身の尊厳を害している。決していじめることによって自分が解放されていない。ますますうっせきをしていくというそういう子供たちの悩みというものを深いところで理解をしてやるというところから教育は始まらなければならぬと思うのですが、どうですか。

○松永国務大臣 私は、実は江田先生ほど法律に精通している男じゃないのでありますけれども、まあ法律をかじった一人なんでありますが、ただ私が申し上げておるのは、いじめといえば普通は意地悪がいたずらかあるいはそれに少ししんにゅうをかけた程度の精神的な苦痛を与える程度のことならば、これは温かく包むということも必要でしょう。しかし、今福島で被害者が自殺をした事件にしても、あるいは青森県の場合でも、いじめという表現になっておりますけれども、大変な暴力行為ですよ、あるいは反復継続して加害者が行った恐喝行為です。しかも、その加害者は小学生じゃないのでございます。十四歳、もう刑事成年に達している子供なんでありまして、これは温かさということだけでは、そういうふうに甘やかしてはいかぬような感じがするわけであります。

 私は日弁連の調査や意見についてそれほど批判したつもりはないのです。ただ、先生も、先生の方こそまさしく経験があると思うのでありますが、非行とか犯罪とか犯した人の場合には、弁護しようとすれば必ずそこに走った要因ですね、誘発要因を取り上げて、そしてこれこれしかじか、こういう背景があるからこういうふうに走ったんだというわけで、誘発要因だけをよく取り上げるわけでありますけれども、しかし、本当に本人を改心させる、本人をして改過遷善せしめるためには、みずから道徳に反した行為をした、みずから悪いことをしたという認識を持たせなければ実は改過遷善もなされない、言うなれば真人間に立ち返らせることはできないわけでありまして、そこのところだけはきちっとさせてもらいたいというふうに私は感じておったわけであります。そういう点で、この宣言の中には主として、非行をした、いじめをした者の場合に弁護だけしてありまして、要するに誘発要因だけ挙げてあって、その人の道徳的な判断力や行動力や規範、意識などというものが欠落している者が、ほとんどの場合そういう子供が実は加害者になっておるわけであります。その意味で、みずからの反道徳行為、犯罪行為についての自覚を持たせなければならぬ、そういう点がやや足りないかなという感じを持ったからそういう点を指摘しただけのことなんでありまして、日弁連さんという大変大きな団体のしたことについて批判をした気持ちは実はないわけなんであります。

○江田委員 日弁連に対する温かい御理解をいただきまして、本当にどうもありがとうございます。
 確かに、大臣のおっしゃるようなところはあります。既に刑事犯罪、それも生易しいものでない刑事犯罪を犯しているというような実態があることも確かですが、同時に、さはさりながら教育だ。大体少年法適用年齢であることは当然ですから、これは教育ということが一番先にいかなければならぬ。教育ということはやはり子供に対する信頼、こちらは教える側、おまえたちは教わる側というそのけじめも大切ですが、同時に、子供たちと教える側とが人格的に触れ合っていくということが必要だと思うのですが、どうも今学校現場などが余りにも管理管理といって、すべて、子供は管理されるもの、教師は管理するもの、もっと言えば教師の中でも管理するものされるものが分かれていくというようなことが余りにも強くなり過ぎているのじゃないか。

 その一方で、子供は子供で、まさに異文化といいますか新人類といいますか、およそ大人の理解できない別のエイリアンが登場してきておって、ETみたいなものがばっとあらわれてきているというような感じがあって、学校の方はしきりに管理と言いますが、一方で子供たちは、例えば大臣、「夕やけニャンニャン」とか「とんねるず」とか、私もメモして初めてわかるわけですが、「少年ジャンプ」四百万部とか、ファミリーコンピューターが五百万台ですか、そういうような子供文化というものが学校以外のところでだあっと押し寄せているわけですね。

 子供の方は、学校でまことに管理が強くて、したがって学校にいる間というのは子供文化からすればまさに異文化の中におって、その間はとにかく死んでおるというような学校になっておるとすると、多少言い過ぎかもしれないけれども、私は当たっている面があると思うのですよ。そういう中で、この今のような管理優先というものでいいのだろうか。校長室とか職員室とか、ああいう学校の棟を管理棟と呼んでいるのですね。全部が全部じゃありませんが、呼んでいるところがかなりある。管理棟というふうに学校の中でそんな言葉が堂々と使われているというので本当にいいのでしょうか。

○高石政府委員 今おっしゃいましたように、教育が一人一人の子供の心情に合致して、そして一人一人の子供がみずから学習していろいろな行動の規律規範、そういうものを行うような形になっていくのが一番いい姿だと思うのです。ただ、そこに至るまでに、一定のしつけであるとか指導をしていかなければならない。その指導のあり方が強いとか弱いとか、場合によったら管理的過ぎるとか、そういう批判として出てくる場合があろうかと思うのです。ですから、あくまでその子供たちに対する発達段階に応ずる適切な指導ということは非常に重要でございますし、指導に当たっては、そういう繊細な微妙な気持ちを酌み取りながら、子供にマッチしていくような指導をしていかなければならないという点はそのとおりだと思います。(江田委員「管理棟、管理棟」と呼ぶ)管理棟というのはいつごろからどういうふうに呼ばれているか知りませんけれども、子供が冷やかしてそういうふうに言っている学校もあるかもしれませんが、通常の場合には職員室であるとか校長室であるとか、そういう言い方をしていると思います。

○江田委員 局長、これはやはり認識を改めてほしいのですが、学校に入りますと木札で「管理棟」と書いて、あちらというふうな矢印をつけておったり、学校の中の建物の配置の中に管理棟という言葉を使っておったり、使われているのですよ。よく認識を改めてほしいと思いますね。

 ところで、時間が余りありませんが、大臣、冒頭、いよいよ予算のときが最後の仕事になる、頑張るという力強いお言葉をいただいているわけで、まさに頑張っていただきたいと思いますが、その点に関係して、養護教諭の全校配置ですね、全校とはいかないかもしれませんが、第五次配置計画の二分の一、六カ年を経過する段階でもまだまだ必要数の五分の一程度というようなことで、ことしの五月二十九日の本委員会では、佐藤徳雄委員の質問に答えて、「六十六年度までかけて残りの計画について着実に実施していくように最大限の努力をしたい、」こういう答弁があるわけです。それにしてはどうも来年度の概算要求は、本来なら四百五十でなければならぬ――いや本当はそれでも足りないので、この間随分おくれてしまいましたので、六十六年度に完成をしようとするならば四百五十が五百、六百、いやもっとにならなければならぬかと思うのですが、これがわずかに三百という概算要求だと伺っております。これは本当なんでしょうか。そして、この三百という概算要求で本当に六十六年度までに着実に実施、完成するところまで持っていけるのでしょうか。そして同時に、三百は絶対にただの一名たりとも削ることはまかりならぬという大臣のかたい決意での、仮に削られた場合ですが、復活折衝をぜひぜひお願いをしたいと思いますが、その点の大臣の決意はいかがですか。

○阿部政府委員 先生既に御案内のように、第五次の改善計画で五千名ほど全体でふやしまして、配置率九六%というところまで持っていこうということで努力をしておるわけでございます。御承知のような財政事情から、現在この定数改善計画の進行がスローダウンせざるを得なかったという状況にあるわけでございまして、二〇%程度の進捗率にとどまっておるわけでございますが、あと六年間で予定のものはぜひ完成させたいと思っておるわけでございます。ただ、毎年度の予算の事情等もございますので、ならして要求するというわけにもまいりません。その年度その年度の自然減がかなりございますので、その自然減の数との対比等を見ながらほぼ適当な数をということで、先ほどお話しになっていた三百名の要求をしておるわけでございます。もちろん大変厳しい中でございますけれども、全力を挙げてこの実現に努め、さらにまた六十六年度まで円滑に完成するように努力を重ねてまいりたい、かように考えております。

○松永国務大臣 概算要求したものが確保できるように最大限の努力をする所存でございます。

○江田委員 どうもありがとうございました。
 大臣、どうぞひとつ文部大臣としての経験をさらに生かして大いに頑張っていただきたいし、弁護士の先輩、政治家の先輩として今後とも御指導いただきますようにお願いをして、質問を終わります。


1985/12/11

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