1985/11/19

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103 衆議院・大蔵委員会,地方行政委員会,文教委員会,農林水産委員会,社会労働委員会,運輸委員会連合審査会


○江田委員 総理、長時間でお疲れと思いますが、あと四分ですのでひとつお許しをいただきたいと思います。

 高齢化社会の到来、先ほどから強調されておりますが、確かにそのとおりで大変な事態だと思いますね。しかし、この急速な高齢化、世界に例を見ない高齢化というのは、決して困ったことというわけじゃないので、むしろ日本人がどんどん長生きをするようになってくる、お年寄りがふえてくるということは、ある意味で大変にうれしい、好ましいことだと思いますね。自由民主党の新政策綱領ですか、この間発表になられたものでは、先ほどの総理の答弁の中にもありますが、「長寿社会の到来」という言葉をお使いになっていて、古来日本で長寿という言葉は大変めでたい言葉なんですから、めでたい、めでたいと言わなくてはいかぬと思いますが、それにしても、それは政策上いろんな困難を抱えておることは確かです。

 しかし、この年金制度の改革というのは、決して何か困ったことだということではなくて、やはり未来に希望を与えていくんだ、すばらしい未来をつくっていくんだという改革でなくてはならぬと思う。私たちは、こういう時代にやはり新しい国民のコンセンサスというものをひとつつくっていく努力をしていかなくてはいけない。確かに年金を受ける方からいえば負担は少ない方がいいし、給付は多い方がいいし、支給年齢は早い方がいい。しかし、それはそうばかりは言っていられない。限度がある。そこで、どこかでバランスをとる。しかし、そのバランスのとり方というのは国民のコンセンサスによっていろいろ変わってくるわけですね。

 それから、先ほどは労働者の連帯という大蔵大臣の言葉がありましたが、年金の問題というのは世代間の戦争になるのではないかというような話さえある。しかし、これはそうであってはいけないので、世代間の連帯になっていかなくてはならぬ。その世代間の連帯をつくるためにも、国民のコンセンサスを一体どうつくるか、常識を新たにどうつくっていくかということだと思うのですが、そのためにひとつこれから一体どういう国民のコンセンサスを自分はつくろうと思っているかという総理の基本的な哲学、これを伺っておきたいと思うのです。

 一体、高齢者あるいは老年期の人生というものはどういうものであるというふうにお考えになっているのか、この基本的な考え方を伺いたいと思います。

○中曽根内閣総理大臣 ここで前にも御答弁申し上げましたように、私は十年ぐらい前にも「新しい保守の論理」という本を書きまして、その中で、人生五十年を人生八十年に設計変更する必要がある、これは単に年金のみならず、住宅からあるいは教育からすべてにわたって新しい文明の転換期が来る、そういう意味で至急設計変更をする準備をする必要がある、そういうことを申し上げました。これはおめでたい話なのでありまして、ですから、高齢化という名前を長寿社会というふうに変えさせていただいたわけでございます。

 しかし、結局はどういうことになるかといえば、生きがいをいかに感じていくかということであります。生きがいを感ずるというについては、日本人には日本人なりの生きがい、生きざまというものがありまして、それをよく尊重していかなければできない。また、単に物質的に欲望が充足されたからといって、それでまた生きがいを感ずるものでもない。人間にはそういう非常に高い精神性がございます。あるいは自由というものを非常に欲しているというところもございます。そういう面において、国民の皆様方が御満足いけるような社会をつくっていきたい、物心両面にわたって心がけていきたい、そう思っているわけであります。

○江田委員 その高齢者が、とにかく生産の現場からはもう放逐された人たちであって、今さらいろいろ仕事をするといっても能率が悪くて困るので、適当にお金を上げるからどうぞどこかで邪魔にならないように生きていてくださいというのか。私はそうじゃないと思いますね。そうではなくて、これまでの経済なりあるいは社会なりをつくってきてくれた大変に貴重な先達ですから、これを大切にしていくことは当然。しかしそれだけでもなくて、やはり人間それぞれに自分の能力を精いっぱい発揮し、まじめにそのときそのときを一生懸命に生きていけば、高齢を迎えて生活に困るというようなことなく――もちろん、人間パンのみにて生きるにあらずですから精神的なものも大切ですが、しかし、やはり経済的な基礎がしっかりしていなければならぬ。ちゃんとした人生を送っていけば老年になって年金ということできちんと生活ができていくんだ、そしてその年金生活というものは人間のライフスタイルの一つの時期なんだ、そのことは決して気兼ねをすることでも何でもないんだ、そういう五十年から八十年への常識の転換をしなければならぬと思うのです。

 さて、ところで、もう時間がほとんどありませんが、先日総理が、これは六十年十一月十五日ですが、参議院議員秦豊君提出の質問主意書に答弁書をお書きになっていますが、その中では、「国民の一人一人が、国家という共同社会を構成する一員としての自覚を持ち、また、社会的責任を適切に果たすことが重要」そういうくだりがあるのですね。これはこのまま読めば、それはそのとおりだ。まあ国家というのが共同社会であったかな、ちょっと国家と共同社会は違うんじゃないかという感じもありますが、まあそれはおいて、そのとおりだという感じもする。

 しかし、これを余り言われますと、お年寄りなんかどう思うだろうか。自分たちはもう共同社会を構成する一員といったって、年もとってよたよたで、社会的責任を適切に果たせと言われてもどうにもそういうことできないのでと、だんだん気兼ねをし、小さく小さくなって生きていかなくてはならぬ、そういうふうにも読めるのです。そのあたりのくだりが総理は新国家主義じゃないかと言われているところだと思いますが、これは弁解なさることがありますか。

○中曽根内閣総理大臣 弁解することはありません。私は、老人にとって大事なのは年金ばかりじやなくて、実は仕事と孫と年金だろう、そう思っておるのです。私自体がだんだん年をとってきまして、やっぱり仕事と孫と年金だなあ。江田さんも私ぐらいになるとそういうふうにお思いになりますよ。

 それから、お年寄りになった方々は、結局はふるさとというものを非常に大事に思うようになるだろうと思います。後ろにふるさと論の元祖がおりますが、私はそう思います。ふるさとの中には心のふるさともあれば、住んでいるふるさともあります。自分の国というものはふるさとの中にあります。そういう意味で大事にしていきたいと思っておるわけです。
○江田委員 時間が来ましたので、終わります。


1985/11/19

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