1985/04/10

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102 衆議院・文教委員会


○江田委員 大臣の所信に対する質疑が随分切れ切れになってしまって、これまでの質疑も忘れちゃったかもしれないのですが、まだ所信に対する一巡の質疑が続いておりますので、よろしくお願いいたします。

 春になって入学、進学の時期になりますと、どうも毎年痛ましい事件が起こるようで、ことしも、これは入学、進学にちょっと先立ってですが、やはり痛ましい事件が幾つか起きました。

 去る二月十六日の午後、これは横浜市立並木第三小学校で、五年生の杉本治君(十一歳)が自殺をした。直前には随分迷いもあって、そして落書き風の遺書があって、教師に対する恨みつらみといいますか、言葉が書かれていたというような事件がありました。

 この原因というのは、これは探ればいろいろ心理学風の原因もあろうし、教育学風の探り方もあろうし、いろいろあると思いますが、この事件をひとつ素材といいますか、取り上げて、文部大臣と、一体教育というのは何なんだろうかということを考えてみたいと思うのです。

 この事件、いろいろな見解がありまして、どうもしかり方がよくなかったんだとか、もっと命のとうとさとか強く生きることを教えなければいけないんだとか、さまざまな議論があったようですが、文部大臣、まず、どういう御感想をお持ちであったか伺います。

○松永国務大臣 大変痛ましい事件だという私の受けとめ方でございます。小学校五年生の男の子、本人にとってもまた御両親にとっても、大変な痛ましい、打撃的なことではなかったかなというふうに思います。

 私は、なぜこうなったんだろう、なぜこういう事件が起こったんだろう、いろいろ私なりに考えるわけでありますが、この子供さんはどういう家庭環境であったのかな、それからその周辺の社会環境はどうだったのかな、もしこの子が帰ってきたときに、何か不満というか、うっせきしたものがあるわけですね、もしお母さんがおって、そしてお母さんに何か対話ができておったならばあるいは防げたのじゃなかろうかな、こういうことを思ってみたり、あるいは学校において、この子とそれから担任の先生との間に心の通うものがあって、そしてまた、まあしかったそうでありますが、しかった後の措置を、もう少し心と心が通い合うような形で処理がなされて、そしてその子がうちに帰ったのであるならばあるいは未然に防げたのじゃなかろうかな、そういうふうにも思ったりするわけでありまして、要するに、その子の現在の家庭環境、育ってきたその家庭における育てられ方、あるいは学校における生徒と教師との関係、あるいはまた、この間実は別の委員会で専門的な人が、最近の子供は、子供が生まれること、人が死ぬこと、そういったことに直面していない、そういったことから、生命のとうとさあるいは命というものをどう考えるべきかということが基本的に身についていないのではないかという指摘をしていただいた参議院の文教委員の先生もいらっしゃいましたが、いろいろなものが複雑に絡み合って、そして今度の痛ましい事件になったのだというふうに私は受けとめておるわけでありまして、それぞれの分野で考えて、こういった痛ましい事態が二度と起こらないようにしていかなければならぬというふうに思っておる次第でございます。

○江田委員 大臣が心を痛められておることには大いに敬服をいたしますが、しかし、よくよく反省をして二度とこういうことが起こらないようにと言っても、私はそうはいかないと思うのですね。これはやはり、何といいますか、今の日本あるいは今の世界の、世の中のあり方なり大きな動きなりというものを一種反映をしている象徴的な出来事ではないか、そういう感じがするのです。どうも子供のことになりますと、大人の方はでき上がった人間であって、大人社会は完成した社会であって、子供はまだ未完成の、これからだんだん成長する、いわばいろいろつくり上げられていく客体である、そういう感じがあって、そして、この子がうまく育たなかったのはあそこが悪い、ここが悪い、こうなるわけですが、それだけではないものがこの事件に含まれておるのではないかという気がして仕方がない。

 この事件についてはいろいろな議論がありまして、臨教審の中でも議論が行われたと新聞でも報道されておりますね。一つの議論としては、これは新聞の報道ですが、俵孝太郎専門委員というのが、「ああいう感受性の鋭い子の自殺を、制度の問題とか、教師や親の指導が悪いからだというのは間違っている。感受性の鋭すぎる子を持った親の不幸であり、そんな子を担任させられた先生の不幸と考えるしかない。逆に子どもにとっても、子どもの心を理解できぬ親や教師を持っためぐりあわせの悪さであり、世の中の葉の問題だ」、こう言っている。こういう見方も、それは一つの見方。

 しかし、もっとさらに進んで、業で片づけられてはやはりかなわぬ、私は必ずしも学習院大学の香山先生のすべての意見に賛成するわけではありませんが、この香山先生が文芸春秋にお書きの見方、これは「「個性を殺す」画一主義的学校教育の悲しい犠牲者の一人だ」。おもしろいと言うと悪いのですが、この治承という子供、大変に感受性が鋭い子であった。いろいろな詩とか作文とかがありまして、あるいは推理小説が非常に好きで、推理小説に読みふけって、自分でも推理小説を、まあどの程度のできか知りませんが、書いていたりした。しかられた後の作文では、「「学校へ行ってしあわせになれるかだ。一段ずつ上の学校に行かなければならない。一番の会社に行って社長になってどうなるのだ」、「金を多くもっていたってひまなだけだ。昔は学校がなかった。その時、人は自由にくらせたんだ」、(世の中の進歩のために学校が必要というが)「これくらいで進歩をとめた方がいいと思う」」そんなようなことを書いている。香山先生の見方ですと、こういう非常に感性の豊かな、ある意味で「子供たちは教師や親の世代よりも遙かに肉体的、精神的に早熟化傾向を強めているし、遥かに個性化し、多様化している」、これを自覚しなければならぬ。そして、この自覚が実は今ないんだ。「幼い治君の文章には、二十一世紀への文明の転換の鋭い予感がある。だが、十九世紀流の画一的、硬直的な教育を受けて育った教師たちの多くには、こうした幼い二十一世紀人の感覚も発想も理解できなかったのであろう。子供たちの方が教師や親たちよりも遙かに進んでしまっているときに、遅れている古い世代が、自分たちよりも遥かに進んでいる若い世代を、そのことに無自覚なまま、古い鋳型に無理矢理に押し込もうとして必死になっているという悲喜劇的アナクロニズム。」と、いかにも学者風な言い方ですが、そんな指摘がありました。

 恐らくいろいろな意味で香山先生と見解を異にされるであろうと予想される東大教養学部の見田宗介教授が、この点については、これは朝日新聞ですが、この判断は、まあ全体ではありませんが、「引用部分に関するかぎり正しいと思う。」問題は、香山教授は競争社会への鋭い抗議というこの治君の行動のもう一つの側面を見ていないと言って批判をしているわけです。

 いずれにしても、そういう十九世紀人が二十一世紀人に対して集団的にリンチを加えているのだ、二十一世紀からの留学生というのを私たちは理解できないくせに、二十一世紀あるいは十九世紀の観念に押し込もうとして一生懸命やっている、そういうことが実は大変に激動していく今の時代に悲劇を生んでいるのじゃないかという、これは特に治君を神格化したり英雄化したりするのではなくて、そういう側面がある。つまり、教育というのはそういうものを持っているので、子供たちというのは、できのいい悪いにかかわらず本質的に二十一世紀からの留学生なのだ、我々のこの二十世紀に送られた留学生で、これをどうやって大事に育てて二十一世紀を担う次の国民をつくっていくかということが教育なのだ。しかし、二十一世紀からの留学生というのは我々のわからないものも持っている。この大変な変化の時代に、例えば私もそうですし、恐らく文部大臣もそうだと思いますが、コンピューターのプログラムなんかなかなか自分で組んだりはできないですね。コンピューターゲームなんて子供があんなに熱中している。それは僕らはなかなかついていけない。そういうものを持った子供たちだという、そういう点が教育にはあるんじゃないか。いかがですか。

○松永国務大臣 この問題につきましては、すなわち杉本君の自殺という問題につきましては、いろいろな方が、いろいろな考え方で、いろいろな意見を述べていらっしゃいます。それだけにいろいろな方面にショックを与えた事件だと思います。

 私は、次のように考えるわけです。
 その一つは、人間というのは、現在生まれてくる子供も、五十年前に生まれた人も、百年前に生まれた人も、生まれたときにはそう変わらない人間として生まれてきたものだと私は思いますが、その後の環境、それから育てられ方、教育の仕方、それによって五十年前の人や百年前の人とは違った能力を持ちあるいは特性を持ったそういう人間に育っていくんじゃなかろうか、こういうふうに思い記す。

 そこで、この子の場合のことでございますが、まず、これは江田先生の場合もあると思ったのですけれども、私どもの場合には小さいときから兄弟がおり、そしておじいちゃん、おばあちゃんがいるという環境で幼年期、少年期は過ごしました。そしてまた、弟や妹があれば、その子供の生命を通じて自分自身の生命の神秘さというものも、理屈の上では別といたしまして。ある程度わかりながら育っていくのじゃないか。それからまた、親や近い身内の死にも子供のときから直面したこともありますが、そういったことを通じて生命の神秘さというものを、言葉の上では生命の神秘さというわからないような言葉になりますけれども、子供にとってはやはり何らかのそういう事態に遭うことによって人間として大きくなっていくのじゃないか。

 今の子供は、まず兄弟がいない子が多い、おじいちゃん、おばあちゃんもいない子が多い。それから、かぎっ子というような状態の子供も多い。そこらが、今までの子供とは違った環境のもとで子供が育っていくという問題が一つあろうかと思います。
 それからもう一つは、社会の環境も随分変わってきておりまして、学校から自分のうちに帰ってくれば、その付近で全く屈託なく遊べる友達がおって、幼児期から少年期から遊んでおったわけでありまして、現在ではそういう環境がなくなっておるという地域が出てきております。

 この子供の場合も、学校から帰ってきて遊ぶべき友達はいなかったように受け取られるわけでありまして、そこも今まで私どもが子供を考える場合と違った条件下で生活していたんだな。そういった問題もあるわけでありまして、学校にもいろいろな問題もあろうかと思いますが、家庭及びその環境、その子を育てる地域とその環境、こういったものの影響で、いろいろなことがその子供の今回の行動に影響しているのじゃなかろうかというふうに思うわけであります。そしてまた、今のコンピューターゲームの問題も、生まれてから後のいろいろな条件があるものですから、私どもではできないことがあの子供たちにはできる。やはり環境が及ぼす影響は大きいものだなというふうに私は思っておるわけでございます。

○江田委員 環境が大きく変わっていって、その中で人間も時代時代でだんだん変わっていく。そうなんですが、ただそれだけではなくて、やはり我々は環境の変化に後からついていく。何とか自分がついていけるようにと努力をしたり、時には努力を放棄したり。しかし、子供たちというのは既にその環境変化の先に進んでいるというようなところがあるのじゃないかということなんですね。どうも教育がこれまでは、こういうものを理想とする、これに向けてとにかくできるだけ能率よく子供を鋳型にはめ込んでいってという傾向が強かったけれども、今そういう画一主義といいますか、これがどうもうまくいかなくなってきておる。

 例えば、この治君の場合に、推理小説を読みふける。そんなに推理小説ばかり読んで空想に閉じこもらずにとかいって先生に怒られる。先生の側の持っている個性とまるで違う個性がここにあるわけですね。それが一体教育なんだろうか。この子供は推理小説ばかり読んで、だんだん空想の世界に閉じこもっていって、ひねくれていっているからというように見ることが本当に教育のあり方なんだろうか。学校を破産させてやるとか言った、子供らしくない。あるいは「典子は、今」というのを見て、大人から見ると余り芳しくない作文を書いた。おぼれるのを僕なら助けてやらないとか書いたとかいうのでしたかね。子供らしくないとかあるとか、大人が、子供というのはこういうものでこう考えてこう行動すべきものだというのを決めて、それに押し込んでいくところが、子供たちはどうも大人が決めた子供らしさと違うものが今たくさんできてきて、そしてまたおもしろい本があって、学校が子供たちを捨て始めているというようなテーマで登校拒否をとらえているような本にも私出会いましたけれども、子供たちが学校というところでもとてもいたたまれなくなって飛び出していく。しかし、それでは社会的にいろいろなあつれきがある。親ともいろいろ摩擦が起こる。何とかしなければというんで自分を押し殺して、そしておもしろくもない学校へ行って適当に、先生はこう考えたら多分喜ぶだろう、親はこういうふうに行動したら多分うれしがるだろうというのでやっておれば、それでいい子だね、本当に元気を出せば学校へも行けるじゃないのとみんなが喜んでくれる。子供の方は完全に白け切っている。子供に対してはもうちょっと厳しく、あるいは余り理解理解じゃなくてきつく当たらなければならぬという、それも教育の一つの面ですが、私は、今それだけでは済まないところへ来ている、子供というものの見方を今までと大きく軌道修正をしなければいかぬところに世の中全体が来ているんだということを、自分で高校、中学、小学校の子育てをし、子育ての失敗をいろいろ味わいながら感じているのですが、文部大臣どうですか。

○松永国務大臣 子育ての段階で、時代が変わろうともあるいは二十世紀が二十一世紀になっても変わらないものも幾つかあると思います、それは人間の社会で人間が生きていく以上。しかし、今先生の御指摘のように、教師あるいは親が自分の一定の思想、一定の観念を持っておいてそれに当てはめるというふうな行き方、やり方、育て方あるいは教育の仕方というものはいかがなものであろうかな、それは私もそう思います。

 例えば、この子が大変推理小説が好きであった。それはそれで私はとがめ立てすべきことではないと思うのです。その他の面で特別、推理小説が好きだということによって他に迷惑を及ぼすとかあるいはほかの科目の勉強などは全くほったらかしているとか、そういった特段のことがない限り、これは推理小説好きならば好きで読むことも一向差し支えないわけでありまして、また作文も、小学校五年生の作文として、その先生は自分の物の考え方からすれば特異な作文に見たかもしれませんが、しかし、教師というものは、その子の表現力その他をやはり見てやる、そういうことも大切なことではないかなというふうに思うわけであります。いずれにせよ、戦前のような枠にはめ込んでそして教育をするということの反省から本来ならば戦後の教育はスタートしたのじゃないかな、こう思うのでありますけれども、いつの間にかまた別な形の画一的な教育という弊害も出てきているのじゃなかろうかというふうに思うわけでありまして、改むべき点はやはり早急に改めることが望ましいというふうに思います。

○江田委員 どうもいま一という感じがするのですね。推理小説ばかり読み過ぎてほかの科目をやらない、それはもう特段な事情だから、そうなると推理小説の方はちょっと遠慮させなければならぬ、それでいいのかな。そこらが大きく反省をしなければならぬところじゃないのか。サッカーばかりやる、ほかのことをやらない。サッカーはやめてほかの勉強をしなさい、こう言われて自殺をした子がそのすぐ後いましたね。これも、それは大人から見たら確かに心配なことですよ。これからの受験競争をどうやって勝ち残っていってくれるだろうか。だけれども、大人がこれからの受験競争を子供が勝ち残っていくことにその子の幸せを見ても、その子が本当にそれで幸せかどうかわからない時代が今来ているわけで、そこをもう一つ踏み越えなければいけないんじゃないか。また、それどころじゃなくて、実は今の学校、例えば知識の伝達というようなことを見ても、本来知らないことに出会ってそのことがわかる、これは大変な喜びであり、興奮を覚えることのはずです。ところが、今みたいに山ほど宿題はあり、山ほど覚えることはあって、知らないことに出会うことは苦しみであり、知らないことを覚えることは耐えがたい苦痛以外の何物でもないという状態に、これでもかこれでもかとしながら、その苦しみと苦痛とを乗り越えて初めて、ちゃんと受験競争に勝っていけるというようなあり方が本当にいいのか。大変に知識の伝達という教育の一番の基本でさえ、今本来の教育と違ったものになってしまっているという感じがして仕方がない。

 また、子供の進歩といいますか発達といいますか、ペースというのもさまざまですね。ゆっくり行く子もおれば、割に速い子供もおるので、ゆっくり行く子が一体いけないのか。ペースの個性化というようなこともあるだろうと思うのですね。飛び級というようなことも今盛んに議論がありますけれども、飛び級の方じゃなくて、もうちょっとゆっくりしたっていいじゃないか。試験の五十分なら五十分の間に、試験の問題を全部解答できるという、それはそれにこしたことはないかもしらぬけれども、しかし、子供によっては、ゆっくり考えて、じっくり考えて、いろいろな周りのことも全部気になって、五十分ではとてもあるテストの問題をもてあますという子供もいる。その子供はそれじゃ社会的に能力が劣るんだろうか。それはペースがゆっくりしているという一つの個性だというふうになぜ考えられないんだろうかということなんですね。

 さっきも給食の話が出ておりましたが、給食で、例えば給食の時間にずっと音楽が鳴っている。音楽が終わるまでに食べなければならぬ。その音楽が終わったら、食べ終わっていようが終わっていまいが、もう片づけられて、はい給食はこれで終わり、そういうような教育をやっておる学校もあるようですが、そんなことをどうお感じですか。

○松永国務大臣 今の教育のあり方あるいは人間を育てる育て方について、いろいろな意見もありますし、また、子供の個性を伸ばしていくためにどういうやり方が妥当なんだろうか、いろいろな意見があろうかと思います。そういうふうなことでありますが、しかし、どうも義務教育というのは、人間社会を支える構成員を立派に育てるという使命がありますし、また、社会生活をしていく上で必要な生活習慣その他を身につけさせるという面もあるがために、今先生のおっしゃったようなことも起こってきていると思うのです。現在の人間社会におきましては、まさか昼食の時間を二時間かけてやらなければ食べられないというのでは、どうも社会生活にうまく対応していけない。そこで、三十分なりあるいは四十分なりという時間帯で昼食は済ませるというのが、今の社会生活の常識なものですから、それに合って生きていけるような生活習慣を身につけさせるという点から、ある時間内に終わりなさいというふうになっているんだろうと思うのですけれども、義務教育段階では、ある程度そういう点も教え込んで、あるいはなれさせるという点もあるんじゃなかろうかなと思うのでありまして、いろいろな考え方、いろいろな意見はあろうと思いますけれども、現在の社会生活の実態を考えると、やはり社会の中で対応していけるような生活習慣を身につけさせるという実は大切な面もあるわけでありまして、そういうことから来ているんじゃなかろうかなというふうに思うわけでございます。

○江田委員 実は、学校で三十分も四十分も給食に時間をかけていないんですね。もっと短いんですよ。それは本当にもう大変なんですよ。それは文部大臣のおっしゃることもわかりますけれども、しかし、これからは食事を楽しむというようなことも、これは人間の大切な素養になってくる。それは、日本人が一番困るのは、外国へ行ってゆっくりと二時間もかける食事にもう退屈して退屈して――これからの国際社会に生きていこうと思うとこれじゃ困るわけですね。困るからゆっくり食べる方法を覚えろというんじゃなくて、もっと何かゆとりがなければいかぬ。ところが、今ゆとりなんというと、さあゆとりですから、みんな一生懸命頑張ってゆとりを持ちましょうという、ゆとりの持ち方の競争なんという、そんなむちゃなことにどうしてもなってしまうような現実がある。世の中全体にやはり遊びがない。どうもまじめの持つ害悪といいますか、そういうことを僕らはもう少し理解をしなければいけないんじゃないか。

 治君の先生の場合に、何かマージャンをやられていた。生徒の前では、何ですか、学校を破産させると言ったら、それでもうとても許せないという大変に生まじめな聖人君子で、一方自分の私生活に戻ったら、マージャンが別に聖人君子に反するわけでも何でもないと思いますけれども、何かそういうゆとりは全部自分の私生活の方に持っていってしまって、子供と対するときにはまじめ一方という、そういう何というか教育、これは教育なんだろうか。あの先生方を、そういうふうに先生方に対してもまた一つの鋳型をつくってそれにはめ込んで、教師はかくあるべしと大変に管理をしていくという傾向がちょっと行き過ぎているんじゃないかという面もあると思うのです。

 千葉県で中学の教師が、子供から高校受験の志願の用紙を預かって、これを出し忘れた。ところが、この子供に対しては特別に受験の機会を与えることなく、結局子供は受験できなくて、二十日間もあるのに救済は何もされなかった。後にこの忘れた教師には処分が下された、こういう例がありますが、この事件なども、どうですか、子供に対して教師と教育委員会が共謀して加害者になっているというふうに言えないでしょうかね。教師を幾ら処分してみても、この子供は救えないんですね。ところが教育委員会の方は、いや、それはそういうことがあると、これを一つ例外を認めると、全体の秩序が乱れるから、こう言うんでしょうが、しかし、教育というのは一人一人の人間との営みですね。全体をということよりも、もっと一人一人の人間をどういうふうにしていくのかということを考えないと、それを忘れた教育というのはないと思うのですが、この千葉県の事例はいかがお考えですか。

○松永国務大臣 中学校で先生が生徒の入学願書をまとめて提出する、これもまたそれなりのメリットがあってなさっていることだと思いますし、一部またある学校では、入学願書を自分で持っていくことによって、これまた自分で持っていくということにいい点もあるんだ、いろいろ意見もあるわけでありまして、それはそれぞれのやり方があってよろしい、こう思うのであります。

 本件の場合でありますが、千葉県教育委員会がなさったことについて今私があれこれ言うのは適当でないと思いますけれども、子供には何の落ち度もないし、また何のうそもない。専ら学校の先生の一〇〇%ミスであった。また、これを仮に救ったからといって弊害も起こらない。競争率か何かのパーセンテージの出し方がどうとかという程度の話だったようでございますが、それは決して大して問題じゃないわけでございますから、ならば、この子を救うという措置はとれたのじゃなかろうかなというふうな感じは私は持っておるわけであります。

 しかし、私がこの立場で、千葉県の教育委員会の処置は妥当であった、不適当であったというように言うわけにはまいりませんが、個人的な気持ちからすれば、救えただろうにな。先生御指摘のように、手落ちを犯した教師も非難をしたりあるいは処分をしたからといって、将来はそういうミスを起こさぬようにより一層慎むでしょうから、それはそれなりに意味があるでしょうけれども、この子供の問題としては意味のないことなんでありまして、この子のその取り扱いについてはほかの、救ってあげるということも可能であったのになというのが、私の個人的な感じでございます。

○江田委員 今のようなお答えですと、千葉県の教育委員会がとった措置は妥当でないと言ったも等しいと思いますけれども、本当に困ると思うのです。全体のことももちろん大切ですが、競争率が明らかになった後に志願を認めるとそれがみんなに広がってえらいことになるとか、何か大げさに考え過ぎて、具体的妥当性というのをもうちょっと大切にしなければ教育なんて成り立たない。芋の子を洗ってというのじゃないので、教育というのは本質的に一人一人個性を持った子供をどうするかということなんですから。

 さて、こういう教育論議ばかりやっていてもどうも切りがないのですが、これからの学校教育、いろいろなことを考えていかなければならぬと思います。今までのような知育偏重、そして競争競争とやっていってどんどん人を選別していくという形の教育がもうそろそろ壁に突き当たっているぞというそういう反省がいろいろなところから出ておりまして、そういう反省の所産の一つとして、私はやはり家庭科の問題があると思うのです。

 これまでこの委員会で私が何度も質問もし提案もしてまいりました家庭科というものをひとつ大いに見直して、単に調理、被服というだけでなくて、人間の生活の根本をしっかりと身につけさせていく。調理、被服ももちろんありますが、住居の問題、家庭経済の問題、親と子の問題、夫と妻の問題、セックスの問題あるいは自然とのつき合いの問題、さまざまなそういう生活に関する学問と家庭科を位置づけ直して、そして男の子、女の子両方ともそうしたことが大切なんだということでしっかり教えていく。男は外で仕事、女は家庭を守るということだけがいいという時代ではもうないわけで、男も家庭生活について応分の責任も持ち負担もしていく、女性もまたどんどん社会に進出していく、そういう時代が来ているわけで、家庭科を見直して男女共学にしてはどうかということを申し上げてまいりました。これは検討会議で検討される、そして新しい方向を出していくというお話でしたが、その後どうなっているかを実はまだ本委員会で報告いただいていないと思うので、その報告をいただきたいと思うのです。

○高石政府委員 その後の経過を御報告申し上げます。
 昭和五十九年六月に家庭科教育に関する検討会議を開設いたしまして、同年十二月に報告をいただいたわけでございます。

 その報告の内容は、一つは、中学校における教育につきましては、男女とも共通に履修させる領域と生徒の興味、関心等に応じて履修させる領域を設けて、男女とも選択できるようにしていく。それから、高等学校については、家庭一般を男女とも選択必修することができるような従来の家庭科の領域を広げた科目に設定を検討した上で選択必修ができるようにする、こういう骨子でございます。

 いずれにいたしましても、この内容は中学校、高等学校の教育課程全体に影響がありますので、この具体的な改定は教育課程審議会においてその方向で最終的な結論を出し実施に移してほしい、こういう趣旨の内容が検討会議の結果でございます。

○江田委員 そういう検討会議の結果が出されて、それでもう女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約の批准の国内の条件整備は整ったと考えられるのでしょうか。これは外務省お答えください。

○高木説明員 お答えいたします。
 昨年暮れの家庭科教育に関する検討会議の報告は、高等学校家庭一般における女子のみ必修などの家庭科教育における男女異なる取り扱いを改めていくことを明らかにしております。

 他方、文部省はかねてより家庭科に関し条約の批准の妨げとならないようにしていく方針と承知しております。したがって、次期教育課程審議会における学習指導要領の見直しを通じ、合理的一定期間内には教育課程についての機会は男女同一となると判断されますので、教育分野について本条約批准の上での問題は基本的には解消したものと考えております。

○江田委員 家庭科についての教育課程というのは男女同一の条件になる、こう判断できるから、こういうことなんですが、その判断が狂うとこれは大変なことですね。文部省の方は、文部大臣いかがですか、そういう外務省の判断を狂わせないようにしていくということをお約束いただけるでしょうか。

○松永国務大臣 そのようにいたしてまいります。
 なお、国内的な法律の定める手続に基づいてこれが実現に向けてこれから手続を済ましていくわけでありますから、そのことも含めて条約批准の妨げにはならないというように承知いたしておりますし、その措置をこれから手続を踏んで実行していく所存でございます。

○江田委員 ところで、家庭科をいろいろつくりかえていくという議論の中で、男子向き家庭科と女子向き家庭科というふうに分けて教育課程をつくってみようというような意見もあるやに伺うのですが、おかしいですね。男子向き家庭科、女子向き家庭科なんというのはないので、家庭科は家庭科。女子差別撤廃条約の中でも「すべての段階及びあらゆる形態の教育における男女の役割についての定型化された概念の撤廃。」家庭科というのが男子はこう、女子はこう、そういう定型化された性の違いによって役割を分担させるという概念を撤廃しなければならぬというのがこの条約ですが、この男子向き家庭科なんという議論はどうなるのですか。

○高石政府委員 そういうことではございませんで、この検討会議の中で述べておりますのは、「現行の「家庭一般」のほかに、例えば、衣・食・住及び保育などの内容のいずれかに重点を置いたり、家庭生活に必要な知識・技術に重点を置いたりした新しいタイプの家庭に関する科目をいくつか設け、その組合せの中からいずれかの科目を選択必修させる方法。」ということでございます。したがいまして、従来家庭一般で取り扱った領域では狭い、もう少しこれを広げていってその中から男女とも選択できるようにしていこうというのが一の考え方でございます。

 もう一つは、「「家庭一般」と他教科の科目を組合せ、その中からいずれかの科目を選択必修させる」というわけですから、これは男女とも一定の幅の中で平等に選択して必修にさせるということでございますから、男子向き、女子向きということを想定しているわけではないわけでございます。

○江田委員 その前者の方ですね。これがカリキュラムの組み方などが、男子はこれこれこういう科目しかとれない、女子はこれこれこういう科目しかとれない、そんなカリキュラムというのもどうも大変難しくて、そういうことにならないようにお願いをしたい。

 それから、二つ目の方ですが、他教科というのは例えば英語とか数学とかというのも含めてということになるのでしょうか。もし、例えば英語と家庭一般とどっちでも男女ともに好きなようにとれというようなことをやると、学校によっては、うちは家庭一般はもうとらさなくてみんな英語をとりなさいというようなことになっていくのが目に見えているような気がするのですが、いかがですか。

○高石政府委員 この他教科の内容については教育課程審議会で議論を詰めて具体的なことを論議しているわけでございますが、今例示されましたような英語とか数学とかそういうようなものじゃなくして、もう少し家庭科に類似するような教科ということになろうか。と思います。

○江田委員 ところで、外務省にもう一つ伺いますが、婦人差別撤廃条約、正式には女子差別撤廃条約というのですか、これは法律用語でああだこうだという議論がいろいろあるのでしょうが、言葉に対するセンスの問題として、一体女子差別というのはどういうセンスなのか、そこらの経緯をちょっと伺います。

○高木説明員 我が国の法令用語としての使い方におきましては、「婦人」という言葉は通常一定年齢以上の女子を指す場合に用いられておりますが、この一定年齢以上の女子のみならず広くすべての女子を対象としているというようなことで、「婦人」を「女子」に改めるのが適当ではないかという判断に至ったものでございます。

○江田委員 そうすると「女子」となるのですかね。私も法律家ですが、どうも「女子」よりも「女性」の方がいいのじゃないかと思うのですけれども。まあこれは押し問答になりますが、そこらにもどうも行政というもののセンスの悪さが出ているような気がして仕方ありませんが、大臣どうですか。

○松永国務大臣 女子、女性、婦人、いろいろございまして、どれが一番妥当なのか私にもよくわかりかねるわけでありまして、専門家の御意見と御判断を待ちたい、こういうふうに思っております。

○江田委員 どうもおもしろくないですね。中学もこうなったらもう技術と家庭とを一つにひっくくっておく必然性はないのじゃないかと思うのです。家庭というものをひとつ技術から独立をさせてはいかがかと思いますが、どうですか。

○高石政府委員 これも次期の教育課程審議会で論議していかなければならないと思いますが、一方においていろいろな教科を独立させて授業時間数をふやしていくということについての問題もございますので、そういうことを総合的に判断した上で次期教育課程審議会で論議をしていただきたいと思います。

○江田委員 ところで、いろいろな問題がまだまだあるのですが、これからの教育、今家庭科も一つですが、大きくこれから教育が取り組んでいかなければならぬ科目といいますか教育の中身として、年金の問題とかあるいは特許とか著作権とかいう知的財産権の問題とか、こういう問題があると思うのです。これから高齢化社会、世の中のあり方が大きく変わってくる、こういう時代に年金というのがいろいろ議論をされているわけですが、今までのように生活に困ったお年寄りに援助の手を差し伸べるという年金とは性格を異にしてくるのじゃないかと思うのです。人間の生活のサイクルが、幼いころは親によって扶養されて、働く時期に大いに働いて、そして熟年期になると年金ということで財政的、経済的基礎が支えられる、そういう一つのライフサイクルが次第にできてくる。したがって、そうしたライフサイクルについての、そして年金についての社会的コンセンサスをどういうふうにつくっていくかというのがこれからの教育で大変に大切なことになっていくと思いますが、厚生省はそういう年金についての国民的な理解をつくっていくことについてどんなお考えをお持ちですか。

○渡辺説明員 先生御指摘のとおり、これから急速に高齢化社会がやってくる、こういう中でたくさんのお年寄りの生活保障をどうしていくかというのは大きな問題でございます。基本的に、お年寄りがふえるということは、寿命が長くなる、余命が長くなるということは大変結構なことでございますけれども、その老後の生活保障をきちんとするということはこれまた大変大事なことだろうと思います。その老後の生活保障の中心になりますのは公的な年金制度だろう。公的な年金制度は、私的なものと違いまして、隠退をされましたお年寄りの世代を現役の働く若い世代が順々に支えていくという世代間の扶養システム、先生おっしゃったとおりのものでございまして、それであるからこそ、社会経済情勢の変動に対応して年金の実質価値も維持できる。したがって、老後の生活の大きな柱になり得るわけでございます。

 そういうことを考えますと、将来制度を支えることになる若い方々に年金制度についての正しい理解を深めていただく必要がある、私どもは基本的にそう考えております。

○江田委員 例えば、二十になりますとたばこが吸える、酒が飲める、ちょっと気のきいた者は選挙権ができる。しかし、二十になったら年金に入ることができる、入らなければならぬというのはまだ、一部にはあるかもしれませんが、まあ見えてこないですね、そういうような意識が国民にあるということは。学校教育、教科書の中なんかでもそういう意味での年金というものの理解をもっと深めるような記述がなければいけないと私は思うのですが、どうですか。

○松永国務大臣 年金というのは社会保障制度の中核的な仕組みであると思うのでありまして、そうした仕組みについて学校教育で子供に教えていくということは適当なことである、そうすべき事柄であるというふうに思います。

 問題は、子供の発達段階からいってどの段階で教えるべきかという問題であろうかと思うのでございまして、小学校ではちょっとわかりにくいのじゃなかろうかな、中学の後の段階あるいは高等学校等ですべき事柄じゃなかろうかな。いずれにせよ、子供の発達段階を考えながら適当な時期に教えるべき事柄であるというふうに思います。

 なお、実際には教科書でもそうしたことについての記述はあるようでございます。

○江田委員 教科書の記述が、たしか去年の暮れごろでしたか伺いましたら、困ったお年寄りの生活を支えるという意味で年金というものがある、そういう記述はあるようですが、しかし、まだまだそれじゃ足りませんね。ヨーロッパなどではペンションというのは全く普通の言葉ですからね。自分のすぐ近所にいるお年寄りが年金で生活をしているということの知識ぐらいは小さな子供が持っていてもおかしくない時代がこれから来なければいけない。

 それから、特許とか著作権とか、とりわけ特許ですが、これはこれからの日本、技術立国の日本が知的な創意工夫というものに依拠しなければならぬ度合いというものはますます強まっていくと思うのです。今発明とか工夫とか、これは発明工夫展があるとか、あるいは技術革新については教科書の中でいろいろと触れられておる。ロボットの問題にしてもいろいろ触れられておる。しかし、そういう知的創造性の産物が物になったときにどうなるかということはいろいろ書いてあるけれども、そういう知的生産性自体の権利性、これはちょっと、どういうふうに説明をすれば子供たちにうまくわかるように説明できるのか難しいですが、そうしたことをこれからやはり大切にしていかなければいかぬ時期が来ていると思うのです。世の中、腕力ででき上がっている部分もあるけれども、それはだんだん割合が少なくなってきましたね。腕力の延長である武器というのも、これはだんだん役割が少なくなってきたし、これからますます少なくしなければならぬ。あるいは人間の生産活動によってでき上がった物とか金とか、この役割というのも、これも非常に大きくて無視はできないけれども、しかし、そういう物とか金よりさらに進んで、そういうハード面から次第にソフト面に世の中移っていかなければならぬという時代だと思うのですね。

 そこで、特許権とかあるいは工業所有権、無体財産権、そしてさらに著作権、実用新案、意匠、商号、こういうものはどう扱うか。これはいろいろ検討しなければならぬけれども、学校教育の中なんかでももうそろそろ扱わなければならぬ時代が来ていると思うのですね。特許については、私も何冊か教科書を当たってみましたけれども、記述がないですね。また、今の学習指導要領の中でも、特許などを一体どこで教えるかというのが、まことにうまくすぽっと入る場所がないのですよ。これはもう既にこの委員会でも、昭和五十七年でしょうか、河野洋平さんが委員として質疑をされて、取り組むという答弁をいただいているようで、それからも大分時間も経過をしておりますが、どういう取り組みで、これから特許権などについてどう考えていかれるのか、お答えください。

○高石政府委員 先ほど大臣が御答弁申し上げましたように、発達段階に応じてどの段階で教えたらいいか、どういう教科で教えたらいいかという問題があるわけでございます。今御指摘になりました事項につきましては、例えば高等学校段階の商業法規それから工業経営、こういう教科書ではかなり具体的に記述されておりまして、無体財産権について総論的に、またそれぞれの工業所有権、商標権、著作権、こういうことについても記述をしているわけでございます。そういうことで、現在のところはそうした高等学校段階における商業、工業、そういう教育の場でこの内容を教えるという段階まで来ているわけでございます。

○江田委員 特許庁お見えだと思いますが、この特許権について社会の理解を大いに深めていく、とりわけ未来を背負う若い人たち、学校教育の中などでも特許についての理解を深めていくようにしていくということについて、特許庁、どうお考えで、どういうことをされていますか。

○高瀬説明員 ただいま先生御指摘の、特許等の工業所有権制度の普及啓発の問題でございますが、この工業所有権制度が明治十八年にできまして、ちょうどことしで百年目に当たります。この一世紀の間の産業技術の発達は非常に目覚ましいものがあるわけでございます。それを支えてきたのが工業所有権制度でございます。いわば今日の高度産業技術社会というのが、工業所有権制度の土台あるいは基礎の上に成り立っておるということも言えようかと思います。ただ、こういう非常に重要な役割を果たしてきた制度であるにもかかわりませず、その制度自体が大変技術的かつ専門的な性格を持っておりまして、なかなか広く国民各層一般に理解されがたいという面がございます。

 そこで、特許庁といたしましては、特許庁自身の仕事として、あるいは社団法人で発明協会という団体がございますが、そこの各種事業を通じ、また政府の広報予算等の活用をしていただきながら、広く一般の理解を求めておるところでございます。また、今申し上げましたように、ことしが工業所有権制度ができまして百年目に当たるということで、いろいろな記念行事、事業等を企画しておるところでございますが、こういった記念事業でも、広く一般にこの制度の重要性をPRしていこうということで今やっておるところでございます。

 例えば、その一端を紹介いたしますと、小中学生を対象にいたしました作文コンクールを行いまして、これはもう既に表彰式も終わっておりますが、できるだけ小学生、中学生の皆さんにもこの制度自体についての認識を深めてもらうという意味で、テーマとしてはやや難しいという懸念もあったわけでございますが、特許を考えるというようなテーマで募集をいたしましたところ、千数百件の応募がございました。しかも、非常に中身の充実した立派な作品が数多く寄せられまして、我々としてはこの企てが成功をおさめたものというふうに評価をしておるわけでございます。そのほか、中学生あるいは高校生を対象にいたしましたパンフレットをつくる、記念映画をつくるとか、その他いろいろな形でPRに努めております。

 特許庁といたしましては、これからもいろいろな機会をとらえて、広く国民各層の理解を得るべく努力をいたしたいと思っておりますが、やはり今後の新しい技術社会を迎えまして、この制度の重要性というのはますます高まる一方であると思いますので、できるだけ関係者、関係各方面の協力も得ながら一層のPRに努めたいというふうに考えております。

○江田委員 特許庁の方もそういう御希望、熱意をお持ちでいろいろやられているようだし、それから、特許に関する民間の特許の事務に携わる弁理士会の皆さん方も、文部省に、教科書でひとつ特許のことをぜひ取り上げてくれというような陳情もされているようなので、文部省の方でひとつ大いに理解を深めて、この皆さんの御希望にこたえるようにしていただきたい。これは私も陳情を申し上げておきます。

 それから、年金のことをちょっと申しましたが、これから高齢化社会、例えば寝たきり老人とか痴呆性老人とかだんだんふえてくる時代です。この寝たきりとか痴呆性老人を抱えた家庭の個々の家庭にかかってくる負担というのが実に大変なことになってくるわけですが、こういう老人を介護するということが高齢化社会の一つの大きな課題になると言われておるわけです。そこで、老人の介護の技術といいますか、ノーハウといいますか、これがやはり社会的に広くすそ野を広げた一つの厚い層になってこないと、高齢化社会というものに我々耐えられなくなっていくのじゃないか、そういう心配があります。

 そこで、これは一つ提案ですが、こういうお年寄りの介護というものを一つの資格にしてみてはどうだろう。老人弁護士といいますか、そういう資格制度をつくって、そして例えば自分のところで寝たきり老人をみとった、その大変な苦労というものが、個人的な経験に終わるのではなくて、社会的にひとつ意味あるような形にする必要があるのじゃないか。そういう老人の介護についての技術、経験というものが社会的にきちんと存在をしていくようなチャネルをつくる必要があるのではないかと思うのです。これは厚生省いかがですか。

○阿部説明員 お答え申し上げます。
 先生御指摘のように、これからの高齢社会を考えますときに、特に寝たきり老人、痴呆性老人といったふうな方々、国民みんなでお世話しなければならぬ方々が大変多くなるということでございますし、そういう意味で介護というものをもう少し、一部の方々の何か特定の技術ということじゃなくて、幅広くそのノーハウ等を国民全体の共有財産という形で残していくといいましょうか、もっと普及させていくということはぜひ必要なことだろうというふうに認識しております。

 ただ、具体的に一つの資格制度といいましょうか、そういうことになじむものなのかどうか、その辺、もう少し検討が必要なんじゃないかなと思っております。といいますのは、やはり介護といいましても、身の回りのお世話、お食事のお世話、衣服の着脱、お下のお世話等もございますし、あるいは広い意味でいいますと相談相手になるというようなこともその要素の一つでございますので、特に一つの施設等においては寮母ということでやっておりますし、片や私どもの制度的なものとしてはホームヘルパーという制度もございますけれども、基本的にはやはり御家庭での介護機能というものとかなり類似性を持ったものでございますので、確かに専門的な横断的な資格制度というものになじむのかどうか、その辺はちょっとこれから研究させていただきたいと思います。ただ、どっちにしろ、これからの高齢社会を考えますときに、介護という問題が、ある意味での国民全体の一つの素養といいましょうか、そういうことになるように、普及ということも十分考えていかなければいかぬ問題だというふうに考えております。

○江田委員 確かに、何でも全部資格にしてしまえばいいんだということでもない、それよりもむしろ実態の方が大切だということもあると思うんですね。ただ、今のお答えにもありましたように、個人的体験で終わらせてしまうのではなくて、それが社会的に一つの存在になっていくということでないと、いろいろな施設で老人介護のための人を雇って、雇った後にその人を養成をして老人介護の専門家をつくっていくということもあるけれども、やめてしまえばそれっきりということになるのではまた困るので、資格制度がいいのか、あるいはもっと何かいいやり方があるのか考えていただきたいと思うのですが、文部省も、そういう老人介護の専門家を養成をいていくといった機能を持った専修学校といいますか、そういうものをもっともっとつくっていくというような問題意識をお持ちになる必要があるんじゃないか。ひとつ厚生省と文部省とで、これからの高齢化社会に向けての介護のための人材のあり方、あるいは介護する人の養成のあり方といったものを大いに検討していただきたいと思うのですが、いかがですか。

○松永国務大臣 高齢化社会の到来を考えますと、老人介護についての知識を若者が持っておくということは非常に大事なことだと思います。そうした知識は、従来は、家庭の中で母が、親が祖父母の介護をしておる、それを手伝ったりそれを見ながらしておのずから身につける、そういう事態が多かったろうと思うのです。お年寄りを介護する技術とか知識というものは大体そういうものであったろうと思うのです。しかし今日では、そういう経験がなかなか得にくい、そういう事態に遭遇する例も少ないということから、残念ながらお年寄りを介護する知識なり技術なりを持っている人が日本の社会で少なくなってきているような感じがいたします。しかし、実際にはいろいろな経験をして知識や技術を持っていらっしゃる方がいるわけでありますから、そうした知識や技術が的確に伝承されていくことが望ましいことだというふうに私は思います。

 ただ、先ほどから問題になっておる職業的な資格の問題でございますが、これは厚生省の方で御判断なさることでございまして、もしその資格があることが望ましいことだということで厚生省が御判断なさいましたならば、文部省としては、厚生省と協議をしながらその資格を持った人の養成につきましては適切に対処していくようにしたい、こういうように考える次第でございます。

○江田委員 話はちょっと変わるのですが、文部省、文化とか芸術とかといったものも文部省の役割の一つだろうと思いますが、余り文部省が、やれ日本文化はこうでなければならぬ、日本の芸術はこうあるべしとやられるのもまたどうも困ったもので――そうやっているという意味じゃなくて、やられると困ったもので、そうあってもいけませんが、しかし、やはり文化や芸術のあり方について一つの見識を持ち、一つの方向性を示していくというようなことも大切なことではあろうかと思います。

 そういうバランスの上に今度の文化庁の三浦長官の人事というものも生まれたのかと思いますが、どうもこれまで文化だ芸術だというと、すぐにやれ建物をつくって、劇場だ、コンサートだ、展覧会だというハード面に偏る気味があって、余りソフトについて文部省が口出しをするのもよくはないと思いますが、しかしハードのあり方も今大きく変わろうとしているときが来ているのではないか。特に、大都市の中で都市政策として一体どういう文化や芸術が必要なのか。大体今もう建築の設計などをなさる皆さんでも、建物をつくるというのが設計思想だという時代がそろそろ終わって、建物の中にどれだけ建物でない部分、空間部分ができるのかとか、あるいは一つ一つの建物じゃなくて町全体を、一体どういうふうに建物を配置し、どういう空間を配置し、どう緑を配置しという、そこまでいかないと建物をつくることもできない、すばらしいものをつくることができない、そういう時代が来ておると思いますが、緑とか広場とか空間とか太陽とか、こういうものが、特に都市の中では災害の際の安全ということとも関連をしてくるわけですが、こうしたことは文部省とは縁のないことだろうか、それとも大いに縁のあることでしょうか。どうでしょう。

○加戸政府委員 文化施設等の建設が各地で行われているわけでございますけれども、もとより文化ホールあるいはそういう劇場のような形で施設が設けられました場合に、中の活用の面から考えることも当然でございますが、と同時に、芸術、文化を享受するという観点からいきますれば、当然にその環境等がそれぞれ文化活動に適した場であることが必要でございますし、そういった緑その他の空間等が当然備わっておるということは望ましいものと考えております。

○江田委員 ヨーロッパの古い町並みなどで大変に緑があふれておる、いろいろなところに公園があるし広場がたくさんある、こういうものが単にそういう町の構造になっているというだけじゃなくて、一つのその人間のコミュニティーの文化水準をあらわすということもあると思うのですね。そういうことまでこれから考えていっていただきたいと思うのです。

 建設省に伺いますが、建設省はこういう点で、建設省と言えばとにかく物をつくるということにどうも傾きがちのように見られておるかもしれませんが、恐らくそうでもないんだろう、建設省の問題意識というのは最近もっと違ったものがあるんじゃないかと思いますが、いかがですか。

○鈴木説明員 建設省におきましては、ただいま先生の御指摘のございましたように、終戦直後の単に物をつくる時代というものから、国民意識の変化あるいは社会情勢の変化等を踏まえまして、新しい時代に対応できるよういろいろ勉強しているところでございます。

 まず、昨年秋に結論を出しておりますが、建設大臣の諮問機関と申しますか、懇談会をつくりまして、美しい国土を建設するための懇談会というものをつくりまして、そこで各界の代表にお集まりいただきまして一応結論を出しております。さらに、現在、これは都市局でございますけれども、都市をどうやったら美しくできるかという観点から、都市景観懇談会というものをつくりまして、これも各界の代表の方にお集まりいただきまして、いろいろ意見を出していただいているところでございます。もちろん基本的には、私ども町づくりにタッチしております者としまして、道路をいかに余裕のある、ゆとりのある美しいものにするか、あるいは緑や公園をどのように確保するか、さらに水というものを美しくするために下水道をどのように整備していくかということが基本になるかと思いますけれども、町は単にそうした公共施設だけからできているものではございません。民間の建物も含めてできておりますので、トータルとして美しい町をどのようにつくっていくかということを現在勉強しているところでございます。

○江田委員 時間を縮めたいと思うのでちょっとスピードを上げますが、豊島区に学芸大学の跡地がありまして、そこを都に払い下げて、そして都で芸術文化会館をつくるという計画があります。かなり広い場所で、今はまだ何もできていない、運動場とか緑とかということになっているわけですが、この場所をこういう芸術文化会館という建物にしてしまうのではなくて、ああいう人口調密地域、密集地域ですので、防災の観点からも、あるいは今のよりよい都市空間をつくっていくという観点からも、ここを公園にしろ、こういう要望もあります。今はこの会館をつくるという方向で事が進んでいるようですが、さて、本当に会館をつくることがいいのかどうか、あるいは一部の皆さんのおっしゃっているように、ここを緑と広場、防災という観点からも役に立つという、そういう場所にしておくことがいいのか、これはこれからの議論だと思いますが、そういう議論の中で、どうもアングラ風に、建設反対運動に打撃を与えようというのかどうか、これを建てるという条件で大蔵省、国から都が払い下げを受けているのだから、建てなかったらまた国に召し上げられて、今度は国がまたどうせそこに何か建ててしまうぞ、そんなことでは困るから早く建てよう、そういう声があるようですが、これは今も文部省やら建設省やらに伺ったように、物を建てるばかりが芸術や文化じゃないぞ、そういう時代が来ているわけで、大いにそういう妙なアングラ放送で建設促進といくんじゃなくて、これは国有財産法二十九条の関係のことかと思いますが、計画の変更も、そうした緑や太陽や広場というようなことも、普通財産の運用として大いに結構なことだというそんな観点から、大いにひとつ、やれ国が取り上げるとかいうことじゃなくて、議論を盛んに自由にできるようにしてほしいと思うのですが、大蔵省、お願いします。

○山口説明員 本件につきましては、東京都におきまして、現在、芸術文化会館の建物を設計中でございます。大体六十一年度には工事着工の予定と聞いておりまして、大蔵省としても、売り払い等を行ったそのときの目的どおりの利用ができるだけ早期に実現することを期待しております。したがいまして、芸術文化会館が建設されないのではないか、そういうふうな危惧される事態とは認識しておりませんけれども、そういうことで、現時点におきましては、用途指定の変更についてコメントをさらに加えることは差し控えさせていただきたいと存じます。

 ただ、もし先生の御質問の御趣旨が、一般論ではどうかということでございますれば、契約上やむを得ない事由により用途指定の変更をする必要がある場合には、相手方は詳細な事由を付した書面によって国に申請をしなければいけない、こういう約定となっておりますので、用途指定の変更を承認するか、または承認せずにこの契約を解除するかということにつきましては、まず第一に、その指定用途に供することができないやむを得ない事由、それがどういうものであるのか、その内容、二番目に、変更後の用途の妥当性あるいは必要性、これらを総合勘案してケース・バイ・ケースで処理することになります。ただ、従来の芸術文化会館から防災空地というふうなことですと、その用途が本質的に変更されるというふうな感じもございますけれども、一般論で言いますと、そういうふうな本質的に変更されるというケースにつきましては、そのときの検討はより慎重でなければいけないのではないかという感じがいたします。

○江田委員 ある土地を国が地方自治体に払い下げる場合に、そこを芸術とか文化とかの振興のために大いに役立ててほしい、そういう気持ちで払い下げるとしますね。それで、これは芸術とか文化とかを大いに振興させていくということが大きな意味での目的であって、まさか建物を建てて、そのために業者をもうけさせるとか、あるいは新しい施設をつくってそこに人を天下りさせるとかということが目的であるはずがないわけですね。したがって、事情の変化によって、建物を建てることが芸術文化の振興につながるのか、あるいはいろいろな議論が起こって、建物を建てるのでなくて、もっと芸術文化の振興に役立つ土地の利用方法があるんだということになれば、建物を建てないということであっても、目的の根本的な変更ということにはならないというふうに考える余地はないのか。これは抽象論、一般論ですが、お答えくださいませんか、大蔵省。

○山口説明員 大蔵省としましては、この場合は普通財産の処分でございますが、その場合の用途指定の目的、これについての解釈の問題でございますので、あるいは文化概念とかあるいは防災概念とかいうことにつきましては、むしろ所管省の方でお答えいただいた方が適当かと存じますので、御了承いただきたいと思います。

○松永国務大臣 学芸大の跡地、先生御承知のとおり、芸術文化施設の用地という用途指定のもとに払い下げがなされて、都の所有となったものであります。したがいまして、その払い下げを受けられたときの目的に従って、東京都が関係の人たちと円満に話し合いをして、そして目的に従った利用がなされることが望ましいというふうに私は思います。そうでなかった場合にどうなるかということは、先ほど大蔵省の関係者が述べたとおりでありますが、一般論として言えば、防災公園というのが即文化施設の用地に当たるかどうか甚だ疑問だという感じはいたします。いずれにせよ、東京都で関係者と円満に協議をされて、その目的に従って利用されていくことが望ましいと思っておる次第でございます。

○江田委員 借地法なんかは建物所有目的なんというものがありますけれども、どうも行政というものはそんなんじゃないので、もっと大きなことですからね。よく検討していただければと思います。

 話は変わりますが、国立近代美術館のフィルムセンター、火事が起きて、随分貴重なフィルムがたくさんあったようで、「外人部隊」とか「未完成交響曲」とか、かなり貴重な洋画のフィルムが焼けてしまった。復旧について何とかならないのか。どうも文部省の方としては、二、三億のお金だということですが、五、六年かけて民間ボランティアを当てにして何とかもとへ戻そう、やろうとしているという話なんですが、このくらいの予算何とかならぬのですかね。こういう非常に文化的な価値の高いフィルムが焼失してしまって、それがなかなか復旧、もとに返すことができないというほどの弱い経済力の日本ではないと思うのですが。

○加戸政府委員 昨年九月のフィルムセンターの火災によりまして貴重な外国フィルムを焼失したことにつきましては、大変申しわけなく存じております。

 焼失したフィルムが三百五十三本でございまして、所蔵本数約七千本近くのうちの外国映画につきましては相当部分でございます。現在のところ、こういった焼失したフィルムにつきまして、原プリントがどの機関にあるのか、諸外国の機関等いろいろ調査をしておりまして、そういったプリントの復元というのがどの程度どういう方法で可能なのかを検討している段階でございます。

 とりあえず六十年度の対応措置といたしましては、当近代美術館にございます、計上されておりますフィルムの既定購入費並びに一部美術品購入費等を流用いたしまして、緊急性の高いものについての復元を図っていきたい。その後は、先ほど申し上げたそういった調査結果等に基づきます年次計画によって対応したいと考えている次第でございます。
 なお、現在、民間の段階におきましても、そういったボランティア活動によります基金等が集められている状況でございまして、こういったフィルムの復元のための一助になるものと大変感謝している次第でございます。

○江田委員 きょうは後の予定がどうも詰まっているようで、まだ著作権法のこととか臨教審のこととか聞きたいことがあるんですが、これを飛ばしまして、通産省、せっかくお見えくださったのに申しわけありませんが、また次の機会に聞かしていただきたいと思います。

 最後に、文部大臣、教育というのは、やはり虚心坦懐にいろんな人が今の教育の現状について悩みを打ち明け、大いに含むところなく話し合いをしていくということが一番肝心なことじゃないかと思うのです。そこで、いろいろなお話し合いがあると思うのですが、私はやはり、どうも文部省と日教組が対決している姿というのは、これは悲しいことだと思うのです。好む好まざるにかかわらず、日教組というのは、我が国の教育に携わっている教師の大きな集団ですので、そのやり方についてそれはいろいろ批判もあるかもしれません、私どもも別に日教組全部よろしいと言っているわけでもない。しかし、やはり我が国の教育を考えていこうとすると、文部大臣と日教組の委員長とがいつもにらみ合っているという状態はよくないので、これはどちらからということなしに、文部大臣の方からひとつ日教組委員長と腹を割っていろいろ、肝胆相照らすかどうかわからぬけれども、話をしてみよう、そういうことをやられてはどうかと思いますが、いかがですか。

○松永国務大臣 私は、文教行政を推進していく上で、建設的な御意見のおありの方とはいつでもまたどういう場所でもお会いすることにやぶさかではないという態度をとっております。日教組も会ってはどうかというふうな御指摘でございますが、まだ日教組の方から会って話し合いをしたいという申し入れもないようでございますし、もしあったならば、その時点で慎重に検討したいというふうに考えます。

 ただ、一、二申し上げますれば、臨教審の設置に反対をされるなど国の文教施策について反対運動が絶えないという状況が一つございます。それからまた、毎年のようにストライキがなされるなどという状態もありますので、これは困ったことだなという感じを持っていることも事実でございます。

○江田委員 もう時間が参りましたが、教育行政について建設的な意見を述べているというのは、大臣から見て建設的でなければ建設的でないということもないのです。いろいろな立場があるのですね。ですから、そこをひとつざっくばらんに、そしてまた、日教組の方から言ってこないからというんじゃなくて、日本のこの教育をどうするかという大変な責任を負っている大臣なんですから、ひとつ余りメンツとかなんとかを考えずに、大いにだれとでも所信をぶつけ合って話をしていく、今の教育の危機を打開していく、そういう決意と情熱でこの教育の大変な難関に当たっていただきたいと思います。
 以上で私の質問を終わります。


1985/04/10

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