2011年法政大学大学院政治学講義 ホーム講義録目次前へ次へ

2011年11月4日 第8回「政治家の日常と民主党の課題」

【両院協議会−ねじれを生かす】
 今日は八回目の講義です。前回の講義について少し触れておきたいと思います。

 消費税の話をしました。消費税の増税、これは普通、政府与党が言い出すものです。それに対して野党が反対する。しかし、今はねじれの状態ですから、野党 が反対しては物事が進まないのです。それではどうするのか。この合意ははっきりした決定にはなりませんが、与党と野党が知恵を働かせて、そして妥協、合意 に達することができれば、より多くの政党の賛成を得ることができたわけですから、世論の基盤が拡大するわけです。ねじれ状態の国会で与野党が合意をつくれ ば、大変と思われる困難を乗り越えることができるのです。

 衆議院議長だった河野洋平さんが「ねじれは大変だけれども、国民の意思でつくられた状態なのだから、妥協と合意形成をはかるべきで、それができるのであ れば、ねじれは悪い事はない。」と言っていました。具体的な話として、両院協議会のことをお話ししました。協議をして妥協する制度であり、それを運用する 際の問題点、そして制度面や運用面での改革についても少しお話ししたかと思います。

 また、憲法調査会の会長選挙で私が落選した事もお話ししましたが、憲法改正のような問題こそ、幅広い国民合意がなければできないものなのです。これはきちんと指 摘しておかなければなりません。

 フィリバスター(議事妨害)についてのお話も少ししました。これについては、私が議長をしていた時の事務秘書をしてくれていた参議院職員の大蔵さんが詳 しいので、今日はこのことに触れず、来週大蔵さんに補足で説明をしてもらおうと思います。実際にそういう状況を見てきた方なので、面白い話をしてくれると 思います。
 
【両院協議会の運用と改革】
 両院協議会についてもう少し補足しておきたいと思います。両院協議会を開く条件は4つあります。まず首班指名で両院が 異なった指名をした場合。首相を決めるわけですから、両院での妥協は簡単ではありませんし、衆議院に優越がある案件です。予算案と条約批准についても両院 協議会を開く案件になります。このうち、条約締結権については、外交案件のため内閣の仕事になります。内閣が締結した条約を国会が修正しても良いのかとい う議論があることを紹介しておきます。つまり、内閣が締結した条約を国会が修正できるのかという議論です。多数の条約で構成する、一連の条約であれば、国 会は留保する事もできます。また、解釈をめぐっても、国会はこのように解釈します、という形も可能です。ただ、条約については両院協議会で議論して合意に 達するということは難しいと思います。

 予算は国会が修正できるものですから、国会の意思として修正するんだ、といえば修正できますし、これに対して文句を言う人もいないわけです。例えば、一 部の予算を執行停止するという事例はこれまでもありました。

 残る1つ、法案についての両院協議会についてはどうでしょうか。私は、それこそが話し合う意味があると思っています。前回もお話ししたように、道路特定財 源について、法案には10年の延長と書かれてありました。しかし、その法案を採決する日の閣議では、1年の延長とすることに決定していたのです。ここにずれが 生じていることはお分かりだと思いますので、これをもとにして両院協議会を開き、1年延長とか3年の延長などを決めるなど、合意の知恵を出す事はできたはずな のです。世論をみても、道路特定財源は時代に合わなくなってきたという国民合意はできていたわけですから、両院協議会で話し合う事はできたと思います。

 現実に、法案について両院協議会が開かれる事はまれです。これまで、両院協議会が開かれた事は17回あります。そして17回中16回は昭和20年代のこ となのです。私はすでに生まれていましたが、ここにいる皆さんの大多数が生まれるよりも前になります。さて、昭和20年代に開かれた16回のうち、13回 は衆議院が参議院に法案を送付し、参議院が修正議決を行い衆議院に回付した法案を衆議院が不同意にした案件です。修正したものを衆議院が同意しないと可決 になりません。この場合、原案を修正してまで回付しているわけですから、否決はしないけれども、具体的にこのように変えるべきである、という参議院の意思 があらわれているわけで、ここに両院が話し合って合意できる要素があるわけです。この事例の場合、成案を得て採決されました。残る3回のうち2回は参議院 が先議となった法案で、衆議院に送付して否決をしました。参議院から協議会を求めることになりますが、参議院が先行して衆議院に送った場合、衆議院が否決 したらなかなか合意に至りません。

 残る1回は、衆議院が可決した法案を、参議院が60日採決を行わなかった事例です。これでみなし否決ルールが適用されました。ここで話し合われたのは2本 の法案でしたが、うち1本が成案を得る事ができました。

 両院協議会が頻繁に開催されていた最後の年、1953年(昭和28年)という時代背景を考えてみたいと思います。昭和28年というと、55年体制ができる 少し前のことです。みなさんご存じだと思いますが、55年体制は、それまで左右に分裂していた社会党(左派社会党、右派社会党)が統一し、それに対して警 戒感を強めた保守の側が単一の保守政党をつくろうということで自由民主党を結党したことから始まります。これから先、基本的には民主党が政権を交代する まで、自民党の政権が続く事になります。自民党と社会党という二つの政党が対立するという構図ですが、これはアメリカのような二大政党制とは異なること に注意が必要です。社会党の議席が自民党に肉薄するところまでいけばそのように言えたでしょうが、1と2分の1政党制などと言われたように、社会党は自民 党の半分しか議席を持たなかった。過半数はほとんどの場合自民党が握っていました。その後自民党対社会党という構図は、1960年代には変化します。公明党 や民社党の結党です。

 話を戻しましょう。何故この昭和20年代の時期に両院協議会が頻繁に行われていたのでしょうか。55年体制が成立する以前の話をふまえるとよく見え てくるのです。確認すると、両院協議会では衆議院で賛成したA党から代表者を、参議院で反対したB党から代表者が話し合いをおこないます。しかし、当時の 参議院では反対した会派の構成が多岐にわたっていました。つまり、ある1つの政党もしくは少数の政党が反対派という構図ではなかったのです。だから、参議 院側の協議委員には多くの会派から代表者が出されました。そのことから硬直した話し合いにならず成案を得ることがより優しかったのではないかと思います。 実際に、55年体制が成立した後では一度も開かれなかったのですから、このことを証明しているといえます。その上で、私も55年体制の頃から活動しています から、これではいけなかったと痛感しています。

 94年にも両院協議会が開かれましたが、このテーマが分かる方はいますか。前後関係を説明すると、93年には細川内閣が誕生しています。自民党政権では、リ クルート事件があきらかになる、その前からずっと汚職に次ぐ汚職が続いてきました。リクルート事件では与党だけではなくて野党にまで波及しました。何故、 野党にまでリクルートの未公開株がわたったのか、あまり想像できません。また、文部省の当時の次官など、官僚の世界までわたっていたことが分かりました。

 このような腐敗はもうしない、宮澤喜一さんが首相のときに政治改革を断行する、と言っていたのに、それは腰砕けになってしまいました。宮澤さんは既に亡 き人になってしまいましたから、なぜ腰砕けになってしまったのかは分かりません。ともかく、宮澤さんがやると言ってやらなかったので、内閣不信任案が出さ れました。否決される予想もありましたが、自民党内の造反が非常に多かった。さきがけというグループは不信任案に反対しました。ともかく内閣不信任案は可 決し、衆議院解散となりました。結果、自民党は過半数を割りましたが、他の党も過半数を取れませんでした。自民党が第一党、そして野党第一党は社会党でし たが、議席を半分に減らしていました。

 今までの自民党政治を変えなければならない、という機運が高まり細川内閣が誕生したということは既にお話しした通りです。私は菅さんと社会党に手を突っ 込んで、政策集団シリウスを作りました。このシリウスというのはワインの銘柄にあるそうです。私たちと同じように、改革フォーラム21をつくった羽田孜さ んに、シリウスのワインを届けにいった後の話ですが、余程このワインのことを覚えていたのでしょう。羽田さんたちが改革フォーラム21立ち上げのパー ティーで挨拶をしたときに「我々シリウスが…」と間違えて挨拶してしまい、そこにいた記者の方に笑われてしまったというエピソードが残っています。

 細川内閣では政治の何を変えるのかという話になり、選挙制度だということになりました。中央集権の体制と、族議員の跳梁跋扈、その根本にある中選挙区制 度を変えなければならないとその意義を確認しました。

 前置きが長くなりましたが、94年の両院協議会では選挙制度改革が議題でした。小選挙区制度を導入しようということについてはコンセンサスが取れていた と思います。小選挙区というのはそれまではずいぶん評判の悪い選挙制度でした。ゲリマンダーという言葉があります。自分に有利な選挙区をつくった結果、非 常にいびつな形になり、その形がサラマンダーに似ていたことから、その選挙区をつくった人とサラマンダーを足してゲリマンダーと呼ばれたのです。だから、 小選挙区制は多数派が多数を維持するための制度であると言われたものです。また、選挙で2人が立候補した場合、51%の票を獲得すれば当選するわけですか ら、49%は死票になってしまいます。日本では、鳩山一郎さんが小選挙区制度を導入しようとしましたが、ハトマンダーだと言われて流れました。このことか ら、小選挙区は日本政治でタブーになってしまったのです。

 93年の時点ではタブー意識は薄れていました。とにかく政権交代が可能な制度にしなければ行けないということが共通認識になっていた。小選挙区制度にお ける一区あたりの有権者数を仮に40万人して、当選ラインがだいたい10万人とします。10万人の支持を得るということはどういうことでしょうか。中選挙 区時代であれば農林族、建設族など、業界につながりのある人だと、団体の支持さえもらえれば当選できましたが、小選挙区ではそうはいきません。特定の業界 の支持では当選ラインに届かないのです。もっと幅の広い支持が必要です。また、一人しか通らないのであれば多数の政党が出ても当選するのは一人ですから、 二大政党の方向に向かっていきます。死票が多いなどの欠点があることは事実で、獲得議席が得票数の3乗に比例するといわれる三乗効果などの指摘もありま す。

 細川内閣では、小選挙区導入の長所と短所について議論しました。もちろん内閣の外でも議論しました。単純小選挙区制度では少数意見が切り捨てられるか ら、比例代表制度も導入しようということになり、並立制や併用制の議論までいきました。横道にそれますが、並立制は小選挙区と比例代表という別の制度から 議員が選ばれます。一方併用制では、比例代表によって、まず各党の議席数を決定して、小選挙区での戦い方が良い人から当選していくという制度です。日本で は、厳密に見ると併用制でもなく並立制でもありません。小選挙区と比例代表は、復活当選という制度によってつながっています。このような方策とすることを 考えました。
 
 細川内閣を構成していた8つの党派が賛成して、この選挙制度で行こう、という結論になりました。内閣が法案を提出しましたが、やはり難航しました。私自身、 この法案を成立させるために四苦八苦した事を今でも覚えています。一番抵抗感が強かったのは社会党でした。ハトマンダーの騒ぎのときから存在していましたか ら、小選挙区に対する拒否感がとりわけ強かったのです。そこで私たちは、社会党の人をとりこんでしまおうと考えたのです。まず本人は嫌がっていましたが、土 井たか子さんを衆議院の議長にしました。また、内閣に政治改革担当大臣をつくって山花貞夫さんをつけました。社会党含めて合意をつくらなければ成立しなかっ たのですから、比例代表も付けました。政府案は小選挙区250議席、比例代表は全国ブロックで250議席という案で、これを93年秋の臨時国会に衆議院に提出しま した。

 法案は衆議院で可決された後、参議院に送付されましたが、そこから進まず、臨時国会は越年国会となりました。法案は、委員会では可決されましたが、1 月26日、参議院本会議で否決されてしまいます。社会党から造反が出たのです。

 この時の両院協議会(公職選挙法の一部を改正する法律案外3件両院協議会)は衆議院から請求があって開かれたものです。1月26日に両院で第一回目の会 議である議長と副議長の互選会が開催され、平井卓志さんが参議院側の協議委員議長となりました。第一回目は参議院側の平井さんが両院協議会議長になり、議長 の挨拶のあとオフレコになりましたが、白熱した議論になりました。しかし懇談会では議論がまとまりませんでした。最近の両院協議会は1日で終わりになりますが、 このときはこれで終わりではなく議論を続けようということになりました。翌日の2回目の協議会は荒れました。衆議院側の市川雄一さんが議長となりましたが、村 上正邦さんと喧嘩になりました。万事休すと云う事で協議を打ち切るという話になりました。しかしここから大逆転が始まります。土井たか子衆院議長と原参院議 長が斡旋案を出します。さらに協議を続けて成案を得て欲しいというのが内容でした。具体的には、細川首相と参議院第一党である自民党のトップである河野洋平 さんが会談を行うべきというものです。

 土井さんは議論がまとまることはないと考えていたのではないでしょうか。これはご本人に聞いてみなければ分かりませんが、その ように私は思っています。自民党は別案を出していましたし、政府案は参議院で否決されたのですから、自民党が飲むはずはないと考えていても不思議ではあり ません。細川さんと河野さんはトップ会談を行いました。何回かやったのでしょうが、合意に達したのです。合意案は選挙区300と比例11ブロックの200 人という案になりました。

 さて、合意案はできたけれども、両院協議会は協議会議長であった市川さんの判断で打ち切りにしています。どうしたら良いのかということになりました。

 開かないわけには行かないので、衆参議長の要請という形で両院協議会を開きました。輪番ですから、平井さんが議長となりました。冒頭から、前回で打ち切りにした市川さんを批判する意見が出て、市川さんが陳謝します。3回にわたる両院協議会のやりとりは面白いと思います。興味のある方は、平成6年に開かれた臨時国会の公職選挙法の一部を改正する法律案外3件両院協議会の会議録を見てください。

 協議会では細川・河野合意の通り成立させようということで決着していますが、時期的にはもう臨時国会を閉じて、通常国会を召集しなければならない時期にきていました。通常国会を2月に召集してもいいじゃないかという意見もありましたが、予算審議に影響が出てきます。考えた結果、選挙区画定委員会設置法案だけ施行期日を「公布の日」から「別に法律に定める日」と改めることで、小選挙区を導入するという法案は塩漬けにし、その間に選挙制度の改革をするという方法でした。これで細川内閣での政治改革が半分仕上がったのです。

 臨時国会が終わり、通常国会が召集されました。その冒頭で政治改革改正法を成立させたのですが、このときの教訓として、必死になれば両院協議会で成案を得ることはできるのです。両院協議会には決定権者が入るべきということは先週述べましたが、このときは与党トップの市川雄一さんが入っていました。また、衆参議長は、協議会に入ったわけではありませんでしたが、成案を得るようにという斡旋案を出し、積極的に動いていました。このような強力な制度を慣行とすればいいのです。このことを皆さんにはぜひ分かって欲しい。余談ですが、本心では小選挙区制度に反対していた土井さんは、合意に至るとは思っていなかったのですから、大変機嫌が悪かったと聞いています。

 さて、この協議会の正式名称は「公職選挙法の一部を改正する法律案外3件両院協議会」となっています。現行の制度では、どちらかの院の請求に基づいて、その都度両院協議会を作ろうということになっていることからこのような名称になるのですが、これをやめて常設の両院協議会を作ろうという案もあります。

 次回の話になりますが、次回は私が議長をしていた時に事務秘書をしてもらっていた大蔵さんにお話ししてもらおうと思います。職員の側から見た事情をお話 ししてもらいます。秘書についてもう少し触れておきたい。議長には職務に関わる秘書が2名つきます。一人は参議院の職員からです。大蔵さんはこれにあた り、事務秘書といわれます。もう一人は政治任用で秘書がつくことになっており、江田洋一さん、この方と私は血がつながっているわけではありませんが同じ苗 字です、が政務秘書としてつきます。ちなみに大臣にも二人の秘書がつきますが、議長と同様、職員から事務秘書、政治任用の政務秘書です。

【政治家の日常】
 これまで国会のさまざまな制度についてお話ししてきましたから、そろそろ政治家の日常生活についてお話をしていきたいと思います。民主党の課 題、議員とはこういうもの、悩みも話していきたいと思っています。今回はその導入部にあたります。

 私はもう古希ということもあって、最近は仕事を減らしています。それでもかなり働いている、と言ってくれる人もいます。長い議員生活の中でも、やはり大 臣をやっていた時は非常にきつかったのを覚えています。特に法務大臣と環境大臣を兼務していた頃は、悪夢とも言うべき忙しさでした。

 職務は非常にきつかったけれども、やはり議員である限り、選挙が大事なのです。国会で通常の政治活動を行っていても、それで選挙が強くなるということは ありません。もちろん、その逆も言えます。私の父(江田三郎)は、1976年の選挙で落選しました。時代背景としては、自民党が長期逓減傾向、社会党は頭 打ち、そして外の野党は伸びていた、そんな時代です。分裂していた労働運動をなんとかして協力体制につなげたいという考えの旗振り役の一人が江田三郎でし た。

 父がもともと所属していた社会党の方針は社共合同(社会党と共産党の協力体制)から全野党の連立に変化していました。しかし野党の一方であった共産党は 公明党や民社党が嫌と言っていたし、公明党と民社党も共産党は嫌と言っていた。社共か民公のどちらをとるかという結果、民公をとりました。父は野党の協力 関係をつくろうという旗振り役でしたから、選挙でも地元に帰れなかったわけで、全国を飛び回っていました。

 選挙の結果、5人区で6位となり落選します。岡山県選挙区ではほかに橋本龍太郎さんが受かりました。当時私は、裁判官をやっていましたから政治の世界に は我関せずのスタンスをとっていました。しかしやはり気になってテレビを見ていましたら、江田三郎落選の一報が出てびっくりしたことを覚えています。

 落選した父は、社会党の議員として活動せよという重しがなくなったわけですから、77年に社会党を飛び出て、社会市民連合を旗揚げします。政権交代をめ ざすグループのはずでしたが、国会議員ゼロからのスタートでした。その後父が急逝して私が引き継ぐというお話は既に述べた通りですが、とにかく私は参議院 全国区で140万票をいただいて当選しました。社会市民連合は翌年に社会民主連合に改称しました。私は衆議院への鞍替えを決意して、父の地盤であった2区では なく、1区から出馬しました。

 選挙活動は大変でしたが、1983年秋に行われた総選挙で当選しました。何が大変であったというと、やはり「地盤・看板・鞄」でした。私には何もありま せんでしたから。いや、看板という意味では隣の区ということで江田三郎の知名度が少しは関係したかもしれません。

 きちんと地盤を固めようということで、まず始めたのは、街頭演説です。それも頻繁な街頭演説、たくさんの数をこなし、きちんとしゃべるということを心が けました。当時は自民党の方でしたか、「演説乞食」などと言って、街頭演説を重視しない風潮があった時代です。それでも私は毎週月曜日から金曜日まで、朝 の7時半から1時間、岡山駅前で街頭演説をしました。「おはよう730」というネーミングをつけましたが、毎日この街頭演説が終わると事務局会議を行い、 新幹線で東京に出てくる。国会議員は「金帰火来(きんきからい)」だと言われますが、私は毎日帰って毎日東京に来ていました。いま思い出すとぞっとしま す。特に冬の街頭演説は辛かったのを覚えています。日の出が遅いために私が立っていた場所は日陰でした。寒い中でしゃべっていると口が動かなります。早く 日が昇るのを待ちながら演説していたものです。私がしゃべっている間、スタッフがビラをまいていました。

 街頭演説は1981年にスタートして、2007年に議長に選出されるまでやり続けました。およそ26年間、我ながら頑張ったなと思います。議長になって もやろうと思いましたが、事務局や警察からやめてくれと言われました。街頭演説はオープンカーのような車の上に立ってやるわけですから、自分を狙ってくれ と言っているようなものだ、警備上たいへん心配なのでと言われ、自分でも区切りを付ける意味で辞めたわけです。

 街頭演説は、不特定多数の人に呼びかけるわけですから、色んな人に自分の考えを聞いてもらう良い訓練となります。しかし皆が皆、私に賛成するわけではあ りませんし、なによりも立ち止まって話を聞いてくれる人はほとんどいません。人によっては名前の連呼をしたり、スローガンを延々言っている人もいます。そ れも方法かと思いますが、私は毎回、2,3分程度のテーマで話を区切る方法をとっていました。例えば8月15日の演説であれば、戦争の事、広島や長崎のこ と、憲法の話、平和の問題、国会ではこんな議論をしている、そして私の意見、これを3分ずつ話します。聞いている人はいないように思うけれども、これを ずっと積み重ねていくと、毎日演説しているこの人は、こういう傾向の人だとイメージをもってもらうことができます。それが私への信頼や信用につながってく るのだと思います。

 数は少ないですが、しっかり聞いてくれる人もいます。私がびっくりしたのは、遠くのマンションの人からも演説の感想を言ってくれる人がいたことです。マ イクを使っていたので、遠くまで聞こえるとは思いますが、これには驚きました。

 また、有権者との対話も必要です。政治の会話が行われる時に、どのようなテーマを話しているのかをつかむことも大切です。意識的に、有権者との対話を心 がけなければならないのです。私の場合は、小さな会合をしましょうということで、ホームミーティングを行いました。ある家庭のお部屋を借り、少人数で政治 について語り合うのです。一番少ないときは私を入れて3人、多いときは20人くらいでした。政治の課題、そして日頃政治について語ってもらうための話題を 提供することが目的です。

 次に支援者について。企業や労働組合、業界の支援を受けている人は、そのつながりの中で運動の中核になってくれる人もいますが、そういう人は地域社会で も活動の根を張っているのかというと疑問です。例えば、労働組合の幹部が地域社会で子どものソフトボール大会を手伝っているのかといえば、いるにはいるで しょうが、非常に少数だと思います。日本の場合はやはり、職場と地域が分裂しています。まだ男は職場で頑張り、家では「飯・風呂・寝る」という状態だから 地域のつながりができない。そうなると女性が大切になるわけです。学校の問題で頑張っているし、実際に地域活動でも女性を多く見かけます。地域の問題はそ のまま政治の課題になってくるのです。

 私はそういう人に支援してもらいたくて、小学校区単位で後援会を作りたいのですが、やはりそれはなかなか難しいのです。中学校単位でみると、これはどう にか作りました。その時々の風に頼らない選挙をたたかう、これが私の目標です。マスコミにばんばん出ている人がいますが、その人の議論が地域での議論とか み合わないときがあります。今の民主党の若手議員に多い。これは課題であると言えます。

 来週は大蔵さんの登場を期待してください。今回はこれで終わります。


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