2011年法政大学大学院政治学講義 ホーム講義録目次前へ次へ

2011年11月25日 第11回「国際社会と日本」

 今日は11回目の講義です。

 先日は、みなさんと参議院を見学しましたが、私自身、参議院が貴族院の面影を残していることに驚いたことがあります。前にお話ししたように、法案が可否 同数の場合は議長が裁定を行いますが、首相や議長選挙で同数となった場合は、くじを用いて決めます。そのくじを見てみたいと事務局にお願いした ところ、貴族院の頃から使っているものを見せてもらいました。

 前回は政治家の日常活動、政党とはどのようなものか、そして日本の政党はどうなっているのか、政治資金の集め方と、最後にNPO税制の新しい内容につい てお話ししました。

 NPO税制については、民主党が前から主張してきたことですので、法案も民主党が仕上げたものと思っていましたが、これは超党派で議員立法によって提出 されたのだそうです。NPO法のときにNPO議連という議員連盟ができて、私と自民党の加藤紘一さんが共同代表をしていました。しかしNPO法の立法を境 にして休眠していましたし、私自身政権交代によって大臣に就任しましたので、加藤さんの単独代表になっていました。今回はその休眠状態であった議連を復活 して、各会派と交渉を行い、衆参共に全会派の一致で成立したのです。次回、辻元清美さんがゲストスピーカーに来てくれるので、そのときにNPOについてお 話があると思います。

【不十分な戦後改革 (1)行政府改革】
 国会議員の政策決定のあり方について質問がありましたが、ここでは具体例として司法制度改革についてお話ししようと思います。

 司法制度というのは、司法試験も含まれますが、私自身は根本的な制度改革に長年取り組んできました。司法制度改革というのは最近、ぽんとでてきた議論で はありません。40年くらい前でしょうか、臨時司法制度調査会という組織がありましたが、今考えてみると、特別に改革を行うということは考えていな かったように思います。

 それが1998年、司法制度を変えなければいけないという意識が高まって、政治課題にのぼってきました。日本の様々な制度を考える際に、制度は歴史的に どのように変化してきたのかを踏まえることが大切であると思います。

 日本という国は明治維新以来、中央集権制と官僚優位のシステムで続いてきました。歴史を進めると、一部の指導者が戦争に突き進み、そして国民も付き従っ た。そして敗戦を迎えます。戦後GHQの指導があって、民主主義が本格的に導入され、憲法が制定、女性参政権と普通選挙の導入にあきらかなように選挙制度 も大きく変わりました。

 しかし、二つの制度は戦前からそのままだったのです。まず一つ目は官僚制です。田中二郎先生という行政法学の大家がいました。東京大学の行政法学をまさ に引っ張ってこられた方です。田中先生の教科書を読むと、行政優位という思想が一貫している。行政が一番偉い、行政がこうだと言ったら、だれも争うことは できず、権限のある人だけが行政決定を取り消すことができ、行政の決定は正しいものとして続くと言う理論、すなわち公定力理論がひとつの特徴です。今の行 政法学者のなかには、この理論に挑戦する方がいて立派だなと思いますが、これが戦後の行政法学を引っ張ってきたのです。

 私は大学を卒業するときに司法試験に受かりましたので、研修所へ行くことになりました。それも良いけれども、大学に残って学者の道を選ぼうとも考えまし た。私の先生は政治学の丸山真男先生でしたが、助手を取らない人でした。何故ならば、丸山先生が担当なさっていた日本政治思想史という分野は丸山先生し か教えている先生がいない。だから弟子をつくってもどこの大学にも行けないということで助手を取っていなかったのです。

 そのような背景があって、だったら行政法をやってみようと考えました。戦前から続いている公定力理論を壊すことができれば、と考えていました。縁あって オックスフォード大学に留学した時、イギリス法を勉強したのですが、イギリス行政法の大家であるウエイト先生に、日本の行政法を説明してみろと言われまし た。私はしどろもどろになって、公定力理論、行政機関が決定を下したら、それは正しいものと見なされると説明しました。しかし先生からは、行政府が正しい という前提がおかしい。法の下の平等からみれば、行政も国民も平等ではないかと厳しい指摘を受けたのです。

 もちろん、行政も戦後改革によって変化した部分はあります。特に、選挙で選ばれた国会議員の中から首班指名によって内閣総理大臣を選出する。そして首相 は大臣を指名し、これがそれぞれの省庁のトップになるというシステムになったのです。だからまったく変わっていないということでもないのですが、本格的な 変化でもありません。
 
【不十分な戦後改革 (2)司法制度改革】
 司法の分野は戦後改革で何が変わったのでしょうか。まず、法務省に属していた大審院が最高裁判所として独立しました。このように司法権は行政権 から独立した存在になりましたが、それに国民主権がどのように関わっているのか、もう少し詳しく見てみます。

 最高裁の裁判官に対しては国民審査があります。最高裁裁判官となって、最初に総選挙が行われる際に国民の信任を得ることになっています。また、最高裁判 所の長官は内閣が指名をおこないます。国会は裁判官を弾劾する権能を有しています。このように、司法権は国民、行政府、立法府からチェックを受けることに なっていますが、国民審査で罷免された裁判官はこれまでに存在していません。国民審査では不信任の裁判官に×をつけ、過半数の×により罷免となりますが、おそらく1 割くらいしか×がつかない。その上、名簿の早い人ほど×が多いという現実もあります。私は、司法というのは戦後改革のなかで抜け落ちているのでは無いかと 考えるのです。

 そこで、国民主権の面から司法権にメスを入れようという点から司法科制度改革を考えてみたい。この点で民主党はリーダーシップをとっていたといえます。 だからこそ政権交代で民主党が与党になる前から司法制度改革について様々な提案をしていました。

 民主党のとなえる司法制度改革について、陪審制の導入と法曹一元化について取り上げます。

 陪審制は陪審に国民の代表を入れ、国民の声を裁判に注入することが目的です。法曹一元化については少し説明が必要です、日本にはキャリア裁判官という人 たちがいて、司法研修所が終わったらすぐに裁判官に採用され、99.9%くらいは10年たった時点で判事になります。私は判事補を9年3ヶ月ほどで辞めて しまったため、もう少し頑張ったら判事になれたかな、と思っています。法曹一元というのは、法律家を共通のプールに入れて、そこで弁護士として育て、ある程 度育った後に、弁護士の中から裁判官としてピックアップしていきます。弁護士というのは社会の中にいます。社会で起きる様々な紛争の実態を見ることができ ます。紛争を抱えている人から相談を受けて、法律を用いて解決していく。そのような中から法律家、裁判官を育てていくということを見通しています。

 陪審制と法曹一元化、この二つを主張しました。法曹一元化については、裁判官の給源の多様化ということで、弁護士任官の制度をつくりました。さらに弁護 士の数を増やそうとしました。私が司法試験に受かったころは、2万人が受験して500人受かる、合格率2.5%の、まさに狭き門でした。毎年500人とい うことは、弁護士は1万人程度で推移してしまう。本来、法律的素養を用いて解決するような紛争というものはたくさんあるのです。例えば、結納−これは現代 の皆さんにはなじみの薄いものかもしれませんが−籍を入れたら、その時点から、何か起きたら法律的紛争になります。今だと婚約指輪を交わした後、何かが起きたら法律的紛争です。法律家が関わって解決している紛争は、おそらく2割くらいだと思います。あとはどのように解決しているのかというと、泣き寝入りが一番多いのではな いでしょうか。また、地域のボスとか、会社の上司、地方議員の方に仲介、斡旋してもらう。あとは暴力団が介入してくる。このように、法律的素養がない人が 関わることによって法律的紛争を解決してきたのが日本社会の実態なのです。

 このような状態を、法が紛争を解決するようにしなければいけない、そのためには弁護士の数は絶対的に足りないのです。だから弁護士を10万人にしようと しました。しかし、1万人から10万人に一気に増やすのは急激すぎるということで、まずは5万人まで増やし、状況を見ながら増やすかどうか、考えようとい うことにしました。

 では、どのようにして弁護士を増やすのでしょうか。まずは司法試験を易しくして合格率を増やす方法。しかしこれは弁護士の質という問題がある。では養成 課程を見てみようということになります。昔から、司法試験に受かるための予備校があります。ずっと試験勉強を教えています。しかし、予備校で一発型の勉強 ばかり教えるというのは良くないのではないかという問題意識がありました。

 一方で、一発試験が良いという人もいます。このようなことを主張する人は、往々にして苦節、司法試験何回、という人が多い。曰く、これだけ苦労して、バ イトをしながらやってきた、こういう私のようなスタイルこそ増やしていかなければならないというのです。こういう人は、一発試験の醍醐味を主張してやまな いものです。そう言う人も分かるけれども、一発試験を繰り返し、繰り返し受けて、受からなかった人は、どこかで細々生きている、司法試験浪人のままで人生 の一番華やかな頃を終わってしまう場合があります。それよりも、次第に法律家を養成していって、その最後の所に試験があり、司法研修所で仕上げて送り出 す。こういう思想から法科大学院・ロースクールを導入しようと云う事になりました。法科大学院はアメリカでもヨーロッパでもやっています。これによって弁 護士5万人体制を作っていこう、法曹養成制度はこのようにして具体化したわけです。

 ロースクールでは、学部の時に法律学を学んだ人は2年間、そして法学部出身者だけではなくて様々な人に入ってきてほしいということで、法律学を学んでい ないひとは3年間というコースを設けて、2年か3年の履修で7〜8割の人が司法試験に受かるということで制度設計をしました。

 法律家を大量に生み出すシステムができて、では法律家を養成するためのコストを誰が負担するのかが問題になってきます。これまでは司法試験に受かるまで 全て個人責任例えば奥さんに養ってもらう。司法研修所に入ったら、給費制ということで社会負担によって給料を払ってきましたが、昨今の財政状況を考える と、社会の納得を得なければいけません。弁護士さん達は、給費制について、社会が成り立つためのインフラが弁護士なのだから必要であると主張しています が、法律家がそうであれば医者も同様だし、じゃあ実業界の人は、社会が成り立つためのインフラでは無いのかなど、反論も出てきます。弁護士さんだけが、自 分たちこそ偉いということはないだろうという認識もあります。

 ロースクールの人は大変だと思いますが、やはり司法試験に受かり、司法研修所の期間は自分で調達するということを基本にして、それでも自分で調達するこ とはなかなか大変ということで、貸与制の奨学金をつくりました。月額20万、無利子、返済10年、月2万円返済というかなり条件のいい奨学金なのです。数 年前に司法制度改革を仕上げて、裁判員制度をスタートし、同時期に法科大学院もはじまりました。

 司法修習生の奨学金について給費制をやめて貸与とする、突然変更するということはできないから、激変緩和措置として、昨年11月採用の修習生から始める ことにしました。ところが、始めるという時期になって、民主党や自民党、公明党の幹部が集まって1年延ばす、その間に法曹制度をブラッシュアップすること になりました。そして今年の9月頃、再び貸与制への移行が早すぎるという意見が民主党内から出てきました。昨年の11月以降、衆議院の法務委員会で、政府 は法曹制度を十分研究検討しろという決議を出し、それを受け手政府は法曹養成フォーラムをつくります。官房長官に法務大臣、財務大臣、経済産業大臣、文部 科学大臣、総務大臣の6人の合意でフォーラムを立ち上げ、座長に佐々木豪さんを迎え、給費制もしくは貸与制どちらが良いのか結論を出し、全体を考えて答申 を出すことになりました。8月にフォーラムが開かれ、貸与制奨学金は11月開始が決められましたが、奨学金の返済については、経済的理由で返済困難な人に 対して返済猶予の条件を緩める、あるいは免除する、という立法的手当をすることにしました。ところが9月になって巻き返しがおきます、日弁連の執行部の方 々が、給費制の継続を目指してロビー活動を活発化させたのです。

 私は、貸与制への変更をきちんとすること、そして条件などは引き続き検討する、ということを主張しています。何故かというと、法科大学院を作り、7割か ら8割の受験生が試験を通るというイメージで制度を作ったのですが、雨後の竹の子のごとく法科大学院が乱立しました。基準に合うかどうか分からない法科大 学院が多くなり、今のような問題になっていると考えているからです。私は当時、そのような状況をみていて、きちんとした養成ができるのか心配していました が、現実には私の心配があたってしまいました。7割どころか、学校によってはまったく合格者がいないとか、もしくは数人というところもあります。全体とし て3割くらいの合格率になってしまいました。このような状態は改めなければ行けません。

 同時に、弁護士を3000人程度増やしていくイメージでしたが、現実には2000人しか増えていません。その2000人でさえ弁護士の就職先が無いと 言っています。少し厳しいようですが、私に言わせれば何を言っているのかと思うのです。弁護士は資格を取った時点で就職しているのです。だから弁護士登録 して弁護士バッジをつけているのです。弁護士の仕事は、例えば警察に行って捕まっている人の弁護をする、裁判所に行けば、事件があります。それなのに就職 先が無いと言っているのです。何のことだと思ったら、どこかの事務所に入って給料をもらいたいということでした。それは弁護士では無いとも思いますが、現 実を見れば若い弁護士の皆さんが困っていることも事実です。

 大きな事務所に入って渉外弁護士になるとか、企業の弁護士になるとか、とういう道もあるでしょうが、そのような人ばかり増えても困ります。例えば、 3.11の被災地では今も困っている人がたくさんいます。現地に行って相談に乗っている弁護士さんもいるのです。また、弁護士過疎といって、裁判所支部がある管轄区域で弁護士さんがゼロか1人しかいないような場所があります。今やっと本州ではなくなりましたが、北海道や九州にはまだまだ残っていま す。事件があったらお互いに弁護士が必要になるので、地域に最低2人の弁護士が必要なのです。このような状況なのに就職先がないと言っています。

 法科大学院に入る人は、弁護士の仕事ができると夢を持って入る人が大勢います。しかし、就職先がないとか、そういう現実を見て法科大学院に入る人が少な くなってしまいました。その意味で、法曹養成は失敗といえば失敗でしょうが、私は失敗だから全部やり直すということではなく、手直しできるところはする、 ということが大切だと考えます。繰り返しますが、弁護士3000人に就職先がないといいますが、事務所に入ることが就職ではないのです。

 法曹養成フォーラムでは、地方自治体が弁護士資格を持った人を雇う、企業にも積極的に雇用してもらう、いろいろなところに法律の資格を持った人の働き場 所を作って欲しいということも話し合いました。地方に影響力をもつ総務大臣、経済産業大臣などがフォーラムに入っていたのはこのためです。

 しかし、弁護士さんたち、正確に言えば、日弁連の執行部の方々が納得してくれません。断固として給費制の継続を主張しているのです。各地の弁護士会があ わせて50ほどありますが、そこに所属している弁護士さんが地域選出の議員に要請します。弁護士さんから言われれば、それは正しいのかなと議員も考えます から、与党の法曹養成プロジェクトチームでは、給費制存続に偏った結論を出しました。

 次は政務調査会でそのような結論になるかというと、法曹の言うことだけを聞いて結論を出すことはできないとなります。財務省や文科省など、様々な意見が ありますから、それもあって給費制の継続は厳しいということになりました。私は当時法務大臣だったので、貸与制に移行し、救済措置をきちんとすべきというこ とを意見書として出しました。最終的に政調会の結論として、予定通り今年から貸与制に移行する、貸与制を前提として、返済の猶予法案を作って、内閣が裁判 所法を閣議決定して国会に出すというところまでやりました。

 民主党は一定のテーマに党議決定する際、たくさんの方に入ってもらいます。しかしその人達の意見通りに党の意見が決まるかというと、一定の方向に動くこ とがあるために、もっと広いところで議論します。

 議員はそれぞれの部門や、プロジェクトチームで意見を言うことで討議に参加することができます。自分の言うことだけが通ることが正しいと考えるのは間違 いです。給費制の問題は未だにくすぶっています。最終的な結論には至っていないのが現状です。11月には次の司法修習生を採用しているが、12月10日が 最初の給費になります。

 陪審制については、裁判員制度の導入によって、裁判官の言葉遣いが変わりました。これまでは、国民が分からなくてもいい、分からないことがあれば弁護士 が説明すればいい、という態度でした。裁判官は判決を書いたら弁明せず、裁判官が国民に説明するというのはとんでもないという意識でした。しかし、裁判 員裁判では裁判官と裁判員が一緒に裁判を行うのですから、きちんと説明できなければ失格なのです。傍聴席にも分かるように証人尋問を行います。

 司法制度改革は今まさに進んでいます。戦後改革を今頃やっているのだと思います。

【党の決定過程】
 党の政策や方針はどのように決まるのかということについて、もう少しお話しします。

 前にもお話しした通り、今の国会はねじれ国会ですが、これは必ずしも悪いことではありません。ねじれ国会のため、政府と与党が野党に納得してもらうよう に政府が提出する法案にのりしろをつけて、野党の意見があった場合に多少修正できるようにしています。

 例えば、震災の復興債について、政府と与党は償還を10年としましたが、自民党は60年債にすべきと主張しました。60年といえば通常の建設国債と一緒 です。ここから交渉が始まります。15年だと10年とほぼ一緒、では間をとって30年ではどうかということで、最終的には25年になりました。なぜ25年 になったのかといえば、だれも25年という数字を出さなかったから、という説が流れました。

 野党の皆さんは、政府の政策決定についてほとんど関与できないのですが、ねじれ国会では、このようにして法案修正の局面でおおいに活躍する余地がありま す。

 玉虫色ということがあります。震災の復興債については数字の問題なので玉虫色ということはありませんが、何かの方針を示したりする場合、玉虫色の決着と いうことがあります。これが悪いことかといえば、玉虫色の決着をすることで障害を乗り越えることがあるのです。これはこの前も言いましたが、子ども手当が 廃止になるということでニュースになりました。野党である自民党と公明党は、子ども手当をやめたと言っています。一方で民主党は、子ども手当という言葉を 使わなくなった、所得制限はついたものの、子育てする家庭に現金給付できる、子育てを社会で負担していくという理念は、児童手当という制度にきちんと接ぎ 木して残っていると主張しています。

 何も決まらない、膠着状態で前に進まないということは、なによりも与党にとってマイナスなのです。野党が悪いといっても、現実には与党が政権を担当して いるのだから通らない話です。与党として膠着状態の打開を目指すことは義務なのです。

 立法府の話はここまでにして、これから私の考える世界観、形而上学をお話しします。

【江田五月の世界観】
  近頃、「国家」について声高に言う人が多くなって来たように思います。これは私としてはあまり嬉しくありません。国家というのを論じると悲し いのは何故か。このようなことを言う人は、国家をひとつの実態と考えて、その中を一色に塗り固めて、まるでがちっと固まったような、1億2000万人の日 本人は全部同質のパチンコ玉のようなイメージを持っていると思うのです。

 古い話ですが、中曽根康弘さんは首相を辞めても矍鑠(かくしゃく)として、ご意見番のような役割を果たされています。このことについては敬意を表します が、中曽根さんは最近の若い政治家、この場合は加藤紘一さんを例に出して、国家観の確立していない政治家であると批判したことがあります。中曽根さんから は時々そのような言い方を聞くことがあります。

 主権国家とは何でしょうか。そのようなもの、議論の大前提であると反論されることがありますが、主権国家とは太古の昔からあったわけでは無いのです。人 類の暦が発展していく段階における一段階であり、歴史の所産なのです。日本のような国は島国として継続してきた珍しい国です。日本のような国が世界中のど こにもあるということはありません。今の若い方は聞き覚えのないことと思いますが、紀元2600年とか、万世一系、天壌無窮とか、そういうことを言います が、私は日本という国が日本列島で、大昔から続いてきたということは、日本の特殊性であって優越性、普遍性ではないと考えます。このような事情はそれぞれ の国、地域に特殊性があって、長所と短所もそれぞれなのです。太古の昔から日本が続いているということが、自然な意識としてみんなの中にあり、その精神 があって、合理性が無くても普通に出てきます。

 また、元寇があっても神風があるとか、そういう意識も自然に出てきます。だからこのような見方に反対する人は、戦前であれば、けしからん、非国民だ、と いう決めつけが横行していました。このような環境は、国民の中に批判や抵抗の精神が育つことを阻害してしまいました。だから国家という意識に対して、 ちょっと待てよ、という意識を持つ必要があるのではないでしょうか。一方で、例えばアメリカはどうかというと、アメリカは構成する人がさまざまな人種でな りたっていますから、そのような人々を一つにまとめるには、星条旗よ永遠なれ、と言わなければまとまりません。アメリカの事情は日本とは異なるということ をきちんと認識しなければいけないのです。

 私は歴史学者ではありませんが、主権国家という概念は1648年に三十年戦争の講和条約であるウェストファリア条約による体制でできたものです。ウェス トファリア条約を構成する国が主権国家として成立し、国際体制を作るということで生まれたのです。主権国家とは、主権の絶対性が中心になります。そして近 代になると主権国家は国際法平等であるという建前で作られました。それ以前は部族国家や宗教団体、さまざまな形態がありました。また、国を画するという意 識が無いので民族移動もありました。このようにして、主権国家というものは17世紀に登場してきました。そして主権国家の中身は身分制から民主制へと移っ ていきます。

 民主制の国家では、ブルジョワジーとプロレタリアートが存在する、と言われた時代がありました。そして現在、民主主義の政治形態は政権交代の可能性を必 須条件にします。その意味では日本ではやっと民主主義が現実のものになりました。民主主義政治の前史が終わって本史がはじまったといえます。

 前史とか本史という言葉は、みなさんは聞き慣れないと思います。これはマルクスを勉強するとすぐに出てくる言葉です。マルクスは生産力と生産関係によっ て歴史が動いていると説明しました。産業革命以前は封建的生産関係、それに規定された封建的関係です。そして生産力の増大によって封建的生産関係が打ち破 られ、資本制生産様式となって資本主義が始まったというのです。かなり簡単に説明していますので、マルクスが生きていたら怒られるかも知れませんが、イ メージとしてはおおむね当たっていると思います。

 そして今の資本主義も自らの生産力を管理できなくなって、社会主義、共産主義の世界になっていくと見通していたのです。社会主義は「能力に応じて働き、 労働に応じて受け取る」世界、共産主義は「能力に応じて働き必要に応じて受け取る」と言います。共産主義の世界では巨大な生産力があるために、欲しいと 思ったら受け取ることができるすばらしい世界、というわけです。

 そして人間が解放される社会主義、共産主義の世界こそが本当の歴史であって、社会主義以前の歴史は本当の歴史では無い、資本主義的生産関係の中に人間が 押し込められて、労働者が搾取される世界であり、社会主義になって初めて人間が人間になると言ったのです。ここから本当の歴史、本史が始まると。マルクス の壮大な理論、歴史観がここにありましたが、実際の現実を見てみると、社会主義と言われた国がどのような状態であったのか、皆さんはご存じだと思います。

 日本の民主主義では、政権交代の可能性が制度的に保障されていました。選挙があるからです。しかし、有権者一人一人が票を投じるときに利権構造にがんじ がらめにされている。組織や族議員が強いということがありました。だから、そこから脱却して、市民政治、つまり一人一人が判断できる、政権を使いこなして 未来を作っていく、市民政治の本史が始まるという意味で、私はこのような言葉を用いたわけです。

 主権国家の中で経済が成長していくと共に、主権国家それ自体も成長します。レーニン風に言うと、資本は自己増殖し、国家と資本が一体化する、という状態 です。資本が大きくなると、主権国家の枠組みからはみ出していきます。外にはみだすと帝国主義となります。資本主義の帝国主義時代です。第二次世界大戦前 は列強の国々が世界分割をして、その列強国が衝突することによって帝国主義戦争が起きる。この自己矛盾の中から社会主義が生まれると説明されていました。 レーニンは、このように帝国主義が激しくなればなるほど、社会主義への機運が高まり、最終的には世界同時革命によって社会主義に進んでいくと主張していま した。しかし、実際にはソ連でしか社会主義は生まれなかった。その上ソ連は、マルクスが想定したような発達した資本主義国とは到底言いがたい。資本主義の 初期の段階でした。そこでスターリンは一国社会主義論を主張し始めます。世界同時では無くて一つ一つの国が社会主義へ進んでいくという内容です。これに反 論したのがトロツキーで、世界同時革命だと言った時代がありました。

 ソ連の現実はどうだったのでしょうか。ソ連は周りの国を軍事力によって権益を広げ、東側社会を作りました。当時はドミノ理論とよく言われたものですが、 それに対抗して、アメリカを中心とする西側社会、そしてどちらにも加わらない第三世界という構図ができあがったのです。

 冷戦期は、大きな視点で見ると、アメリカやソ連がおのおのの影響下にある国を押さえ込んでいました。一国が覇権を外に広げて世界を分割している、と言っ ていた人もいましたが、本当にそうでしょうか。例えば、西側に属していた国でもフランスはアメリカとしょっちゅう喧嘩していました。ソ連陣営を見てもソ連 の支配が強かったけれどもルーマニアなど、それぞれの特徴があったのではないでしょうか。

 だから、東側と西側の国々は一色には塗りつぶされていなかった。だけれども、二つのブロックに分かれて、主権の「絶対性」は相対化していったのではない か、と私は考えています。冷戦期の特質であったと思います。

 1989年、ベルリンの壁が崩壊したことを引き金にして、冷戦は終わりました。冷戦期、計算上は人類を何回も絶滅させることができるほどの核兵器によっ て、実際には使えない兵器によって、力が均衡していることが世界平和だったのです。しかし冷戦期が終わったところで、恐怖の均衡がなぜ平和なのかと、ネズ ミが配線をかじっていたおかげで、核兵器発射の信号が送られなかった、そんな姿が本当に平和なのかという疑問が噴出します。

 冷戦期は、軍事的均衡こそ平和の現実的な姿なのだ、夢物語を言ってもダメだとしたり顔で論じる方もいました。冷戦後は、資本主義の勝利、社会主義の敗北 であると論じる人もいました。しかし、これらの言葉は歴史的な価値を既に失っています。

 資本主義は果たして昔の資本主義のままなのでしょうか。資本主義は資本が社会を動かすことを指しますが、現実には、資本だけで動いている社会などないの です。公的セクターが大きな役割を果たしています。これからはNPOとか、他のセクターの力がどんどん強くなっていくでしょう。「資本」を見てみても、企 業は利潤追求のみをしているのかといえば、そんなことはありません。企業の社会的責任、CSRが大切であるとの認識が広がってきました。企業も社会への 貢献をしない所には、人が集まらないということになります。

 その点で一つ、派遣労働について少し考えてみたい。働き方の問題、労働コストの問題で派遣労働が良いという声があります。私は、派遣が一概に悪いとは思 いませんが、日本における派遣労働は自由な労働の姿とは言えないと考えます。いまこそ、派遣労働に対する規制をもっときちんとしなければならないのです。

 社会主義の挑戦があったからこそ、資本主義も変わってきました。マルクスではありませんが、弁証法的な発展がなされてきたのではないかと思うのです。

 さて、以下の私の認識は、マルクスの考えとは異なります。マルクスにたてついたら罰があたるかもしれませんが、お話ししたい。

 これまでお話ししたように、マルクス生産力と生産関係で歴史を説明しました。そして資本主義もその関係によって社会主義になると言いました。しかし、私 は民主主義、市民主権、市民の登場と前進、こういう概念を用いた方が事実に即していると思います。また、難解な経済学を用いることなく、わかりやすい、勇 気が出てくると思うのです。

 マルクスは「共産党宣言」の最後に、「労働者は鉄鎖の他に失うものはなにもない。得るものは世界である。万国のプロレタリア、団結せよ。」と壮大に締め くくっています。しかし、今の時代に「万国のプロレタリアート団結しよう!頑張ろう!」と言っても、勇気をもらう人はいるのでしょうか。やはりそこは歴史 が違うのです。マルクスの時代ではありません。しかし同時に、マルクスの考え方にも面白いところがあります。

 現在、ヒト・モノ・情報が国境を越えて活動しています。同じように、ある国で生まれた市民運動が国境を越えて伝播していく。地球市民という考え方が広 まってきたように思います。笹川良一さんは「地球は一つ人類みな兄弟」と言いました。地球市民という概念を強固にしていくことが、これからの世界では大切 になってくるのではないかと思います。

 国境を越えた活動が増えていくと、主権国家は、国家の内部で市民に権限を譲り渡すようになります。主権国家が溶け出すのです。国際社会で見ても、主権国 家が絶対的な力をもち、その対立によって動かすことは少なくなっています。国連であったり、G20やIMFであったり、国際組織や国際的な連携で物事を動 かすことが多くなりました。

 主権国家は内部と外部に向かって、これも昔の言い方ですが、両極分解が進んでいると言っていいでしょう。それでは何を物差しによって決めればいいので しょうか。私がここで、ルールであると主張したい。国際社会に法の支配を及ぼしていくことが大切であると思うのです。国連憲章や世界人権宣言など、未だ理 念と現実が一致していないこともあります。昔のように、自分が気に入らなければ戦争を起こし、手を突っ込んで体制をひっくり返し、世界の憲兵といわれたア メリカは、9.11の後アフガン攻撃の時も国連のお墨付きがなければ行動できませんでした。また、資金もアメリカだけでは賄えなくなり、請求書が日本に届 きました。

 イギリスが世界を支配した時代のことをパクス・ブリタニカといいます。その後にアメリカによる支配、パクス・アメリカーナがありました。これからはどのよう になるのでしょうか。パクス・チャイナでも、パクス・ジャポニカでもなく、Pax Justice and Equity、つまり正義と平等によって世界を動かしていくことこそ、必要になってくるのではないでしょうか。

 それでは、本日の講義を終わります。


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