2011年法政大学大学院政治学講義 ホーム講義録目次前へ次へ

2011年9月16日  第1回「政治とは何か」

 江田五月でございます。今日から客員教授として法政大大学院で講義をすることになりました。「政治と科学技術」というタイトルになっているのですが、これは、前に菅直人さんが講義をしましたが、彼は東工大の出身でありますので、それを素材に政治を語っていたことからこうなったわけです。私の場合は理系出ではありませんので、「政治の科学」ですとか、「政治の技術」ということで15回の授業にお付き合いいただければと思います。

 大学の時、政治学の講義を受講していました。東大の岡義達(おか よしさと、1922−1999)先生が担当なさっておりました。岡先生は「政治」という言葉はあまり良い印象がない、とおっしゃっていたのが心に残っております。なぜならば、政治家というと舌先三寸といったイメージがありますし、英語でもポリティシャンとステートマンという違いもあります。しかし、政治がないと良い社会にならない。議員会館の部屋に辞典があり、「政治」という言葉を引きますと、「国を治めること、まつりごと、権力を行使して社会集団を治めること」とあります。これではいまいちよく分からない。日本では権力を持つ者といえば内閣総理大臣とありますが、憲法ではそのように書いていないのですね。主権の存するところは有権者、つまり国民であると、そのように書いてあるわけです。しかし、国民が権力を使って社会集団を治める、ということもうまくイメージできません。もう一度辞典を見ますと、「政治とは権力を行使したりする現象」という風に書いてありますが、私自身としては政治というものはもう少し広いのではないかと思うのです。

 人は個人として権力を持っているのですが、ひとりではどうしようもできない。国民は社会を通して権力を持っているわけです。「社会を作って、それをうまく動かしながらやっていく、その技術が政治」ということになるかと思います。

 さて、集団をつくると必ず対立が出てくるものですが、それを放っておくと、リヴァイアサン(英国政治学者ホッブズの主著)でいうところの「万人の万人に対する闘争」ということになります。このようなことにならないために、リーダーがいて、そして根回しがあり、コンセンサスをとっていくことになるのです。結果として、力の弱い者を騙すことがあります。また一人の人間が独裁でまとめるということもありますが、それが政治ということになります。制度の面で独裁制とか、民主制とか、さらに個人がリーダーシップを持つとか、集団指導ということもあります。私はこのようなことを体系的にまとめてお話しする技術がありません。

 法政大学の下斗米伸夫先生からお誘いを受けたのが、今回の講義の発端であります。どのような話をしようかと考えていたときに、私自身の経験をお話しすることにしました。国会という所では、議長を退任して、その後の選挙で再び議員でいるのは、実は参議院では私だけなのです。以前は倉田(寛之)さんという方がいました。扇(千景)さんも議長を退任なさって、議員もお辞めになりました。衆議院では横路(孝弘)さんが議長です。河野(洋平)さんや綿貫(民輔)さんもいました。国会では議長が天辺にいるものですから、議長を辞めてから、みんなどのように扱っていいのか分からないのではないかと思うのです。

 今年、三月危機などと言われましたが、1月の半ばに菅直人さんがこのままではどうにもならなくなって、首相交代になるのではないか、ということがありました。そこで私に法務大臣をやれという話になりました。その後、3月に大震災がありました。人命救助から始まって、その様な中で4月を迎えたわけです。本当はこの講義は4月から行う予定でしたが、法務大臣をしておりましたから、そのような状況では講義をやっている場合ではありませんでした。

 震災対応がずっと続いて、菅直人さんが内閣総辞職することになりました。私は法務大臣で忙しかったのですが、6月からは環境大臣をやることになった。法務大臣と環境大臣にかかわることについて、思い出してほしいのですが、尖閣諸島の問題がありました。さらにその際撮影したビデオが流出した、そして逮捕していた船長の釈放問題もあり、釈放したらまた大問題になりました。また、大阪では厚生労働省の課長が障害者郵便の制度を悪用したとされる事件があり、村木さんという方が逮捕されました。これは後で無罪判決が出されましたが、判決が出る前に、検察が自分たちのシナリオを書いて、その通りの供述調書を作りました。しかもそのシナリオに合わないフロッピーディスクのデータの改ざんまでやってしまいました。そのような時の参議院選挙で前任の法務大臣であった千葉(景子)さんが落選し、柳田(稔)さんが舌禍事件を起こし、仙谷(由人)官房長官が法務大臣を一時的に兼務しましたが、そのような中で私が法務大臣になったわけです。なかなか大変でしたが、検察による取調の録音録画をする問題では一歩前進しました。そのような中で、さらに環境大臣をやれという事になった。環境大臣というと、きれいな水、空気、そして国立公園というイメージがありますが、大違いでした。大震災のこともあり、こちらも非常に多忙でした。

 9月1日、無事に菅内閣の総辞職が「発効」しました。なぜ「発効」と言ったかと申しますと、実は辞任したのは8月31日なのです。総理を辞めるのは8月29日にすると菅さんは言った。そして両議院議員総会で選挙を行い、野田(佳彦)さんが代表に決まり、8月30日に次の内閣総理大臣に指名されました。私自身、この過程を見てきたのですが、劇的でした。衆議院では民主党が多数をもっているのですんなりと決まりましたが、参議院では民主党は過半数に達しておりません。そのため決選投票となったのです。自民党の谷垣(禎一)さんに、ほかの野党が投票すれば、参議院では谷垣さんが首相として指名される。その場合は両院協議会で話し合われるのです。

 この両院協議会では衆参両院から各10名出てきます。両院で多数派が異なるわけですから、ここで合意できるということはまずなく、どちらにしても決裂します。ここで「衆議院の優越」ということが出てきます。両院の意思が異なる場合に、衆議院の議決が「国会の議決」となるのです。内閣総理大臣は、憲法上、天皇の任命です。新しい内閣総理大臣が決まると、衆参の議長と新総理大臣が宮中に向かいます。両院議長は天皇に対して、各議院の結果を奏上します。菅直人さんが8月30日の内閣総辞職を行う際の閣議では、天皇が次の首相を任命するための任命書が作成されます。憲法の話からいうと、天皇が内閣総理大臣を任命することは国事行為にあたります。国事行為は内閣の助言と承認に基づいて行われるわけですから、次の総理大臣の任命は、前内閣の助言と承認に基づいて行うことになるのです。このような手続きを経て、新総理大臣が任命されたわけです。

 このときのことで思い出すのは、実は8月31日に法務省である会議が行われることになっていました。この会議には各省の副大臣が集まっておこなわれるはずだったのですが、仮に8月31日に新総理大臣が任命された場合、そこで前内閣のすべての閣僚が罷免されることになります。そのようことになると8月31日に法務省で会議を開くことができない。幸い無事会議を開くことができましたが、心配をしていたのです。


 この講義を受けるに至る経緯、大臣としての思い出など、ここまで細かいことをお話ししてきましたが、何故こんなにも細かいことを皆さんに話すことができるのかを考えると、やはり政権交代のおかげなのです。今まではこのような詳細に拘わる話は、自民党の中に蓄積されていたわけです。民主党などの野党にはそこまでの詳細は分からなかった。昨年9月の政権交代によって、今までとは全く異なる勢力が政権を担うことになりました。私は日本が新しい政治のステージに立ったと思うのです。つまり現在、日本政治の歴史的な転換期になっているのです。それでは転換期とは何でしょうか。明治維新以来の日本の近代史を見ていくと、今は大きな転換期なのです。そのことを政治権力の正統性という面から見ていきたいと思います。

 政治権力の正統性というと、昔は血統性などもありましたが、民主主義社会では、主権者である国民が決定したことに正統性が付与されるのです。そのような中でも、時代によって様々な変化があるわけです。明治維新によって誕生した新政府は、統治の正統性を、国民に求めませんでした。明治政府は民主主義とはいえませんが、それでもすぐに、国民の中に統治の正統性を求めるようになりました。それが選挙権の導入と議会開設です。これは明治の半ばからあらわれた流れでしたが、その選挙権を持つ国民の範囲は非常に狭められた者でした。当時は一定程度の納税をする男性にしか選挙権が与えられていませんでした。その後「普通選挙権」が導入されましたが、これは全ての男性に選挙権が付与されるというもので、女性は除外されていました。一部の例外はありますが、基本的に女性には民法上の能力がない、だから何かの契約もできない、そのような状態がずっと続いていたのです。その意味では、非常に限定された民主主義であったといえます。

 戦後改革を皆さんがどのようにとらえているのか、様々な意見があると思います。私は、皆さんのような若い世代に対して、たくさん伝えていかなければなりません。戦後、本当の意味での普通選挙権、一定の年齢に達したすべての男女に選挙権が与えられ。それだけでなく被選挙権の要件も緩和されました。戦後初の選挙では、女性議員も大量に当選しました。しかし、本当に民主主義の制度が完成したのかというと、民主主義における権力の正統性を基礎づける国民の範囲はぐっと広がってきました。有権者の皆さんが選挙で代表を選び、その代表が国会で内閣総理大臣を決める、そうして権力を行使していくわけで、有権者は自分たちの意思を示すために投票するわけですが、それでは物事は動いていかないのです。なぜならば、投票によって決まった代表者がばらばらだからです。そこで政党が生まれてくるわけです。国会議員は個人が大切であるという人もいますが、政党がないと有権者が政治を機能的に動かしていくことは難しいのが現実です。政党の規定は憲法上にはありませんが、実際には政党が政治を動かしているのです。

 政党とは、民主主義で一人一人の国民が政治を動かしていくためにあります。しかしながら残念なことに、日本では実際に政権を担当できる数と能力を持っている政党というのは自民党しかありませんでした。その結果、一党政治が長く続いたわけです。それではだめで、やはり自分で政権を選べるようにすることが大切であって、自民党しか政権を担当することができないのはおかしいと、私は政治の現場でずっと考えてきたのです。

 私の父、江田三郎は、昔の社会党が政権担当をできる政党になれるようにと頑張ってきたわけです。当時の社会党にあった教条主義的な傾向に陥らず、政権担当ができるようにならなければならない、そのように思っていたのです。1977年に、江田三郎はたった一人で社会党を飛び出しました。しかし、社会党を飛び出して二歩三歩いったところで倒れてしまいました。私はずっと父の活動を見ていたので、政治は嫌だと思っていました。ずっと裁判官でやっていくのだと考えていたのです。父が挫折しても息子(私)に後を継げと言われることはないと思っていました。しかし私は政治家になった。それは父が亡くなったのが私の誕生日だったからです。父が「おまえはそれでも裁判官ができるのか」と言っているような気がした、私にも思うところがあったのです。そこで裁判官を辞めて選挙に立候補したのですが、そこで初めて菅直人さんと会ったわけです。私と菅さんは政権交代を目指す政治を始めようということになりました。

 細川内閣では、私は科学技術庁長官をやりました。科学技術政策は大震災が起こり本当に問題になっています。長官をやっていた時の話ですが、当時事故が起きたときの避難訓練マニュアルがありました。私は、マニュアルだけでは人間は動かない、だから東海村でもどこでも実際に人を動かして避難訓練をしたらどうですかと言ってみたことがあります。そうしたら、役人から絶対にそんなことはやめてほしい、不安をあおるようなことはしないでほしいと反対されました。甲状腺に放射性ヨウ素がつかないようにするためのヨウ素剤というものがあります。私は原発がある市町村に配られていると聞いていたのですが、今回の事故では配られていないとのことです。これは私が不思議に思っていることです。

 細川内閣は、政権交代の結果誕生した連立内閣です。8党あって、実際にかかわっていた私でも思い出すのが難しいのですが、新生党、日本新党、新党さきがけ、社会党、公明党、民社党、社会民主連合、民主改革連合(連合参議院)が連立政権をつくりました。国民は前内閣である宮沢内閣にノーをつきつけましたが、実はこの8党が政権を担当することにOKを出したわけではないのです。さらに、このうちひとつの政党が自民党とくっついたら、自民党政治が復活するわけです。非常に大変でしたが、8党すべてがまとまって連立政権が成立したわけです。しかし、8党もあるとやっかみも生まれてきます。小沢(一郎)さんの豪腕もありました。その結果、細川内閣はつぶれてしまったのです。

 私は政権交代可能な政党を作ることを目標にしていたのですが、細川内閣の誕生によって、現実が先に進んでしまったのです。やはり8党もあるから難しいということもあり、政権担当できる単一の政党を作ろうとしたのです。そこで誕生したのが新進党ですが、これもあまり出来がよくなかった。また小沢さんの豪腕ということもありました。細川内閣を担当した8党から公明党と社民党(旧社会党)が抜けた勢力と、旧民主党が合流して、1998年に新民主党ができました。民主党はメール事件などで打撃を受けましたが、何とか政権交代が実現できたわけです。

 なぜ政権交代が必要なのかを少しお話ししたいと思います。自民党は戦前から日本という社会を支配している人たち、例えば田舎の有力者であったり、大会社の有力者であったり、そういった人たちが結集したのが自民党であったのだと思います。民主党は労働組合−労働貴族であるという批判もありますが−、市民運動をしている人が総結集してできた政党ですから、先ほどの民主主義を基礎づける国民の層が、自民党だけでなく、政権交代可能な民主党という政党が加わることで、ぐっと広がったのです。

 民主党は崖っぷちであると言われています。しかし、政権交代が可能な民主主義を定着させていかなくてはならないと考えて居ます。今回は私が考える政治、その入り口をお話しして終わりたいと思います。


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