2016年7月20日

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山岸章さん お別れの言葉


お別れの言葉 山岸章さん

山岸章さん。4月半ばにあなたの訃報が届いたとき、「ああ、しまった、遅かった」と本当に心から後悔しました。

思い返すと今から9年も前のことです。2007年10月12日、私の父・「江田三郎の没後30年・生誕100年を記念する集い」を開いたとき、父との本当に長い友情に甘えて、必ずしも体調万全ではなかった山岸さんに実行委員長をお願いすると、あなたは快く引き受けてくれました。私が参議院議長に就いて直ぐのことで、私のホームページには多くの懐かしい顔ぶれが写っており、あなたが杖を突いて出席して冒頭のご挨拶をいただいた姿が載っています。献杯は当時の衆議院のカウンターパートだった河野洋平議長でした。その後、あなたはご自宅から都心に出て来られることがめっきり少なくなり、私もお会いする機会を得られないままに日が過ぎてしまいました。

あなたのオーラルヒストリーが出版され、私とのことも書かれていると聞き、私の記憶と違うなと思ったこともありましたが、私自身がこの夏の参院選を機に議員生活に区切りをつける決断をしたので、誰よりも真っ先に無聊を託っているに違いないあなたをご自宅にお訪ねして感謝の意をお伝えしなければと、思っていた矢先の訃報だったのです。

あなたは私よりも、ちょうど一回り上のお生まれで、ちょっと歳の離れた兄貴のようなものでした。私の父とは文字通り兄弟分だったでしょう。父が1970年代に日本社会党の中で、現実路線で野党連携を進めて悪戦苦闘しているころ、あなたもまた労働運動の中で官民を越えた大きな結集を作ろうと精魂を傾けておられました。民間労組を中心にした政推会議や民労協、全民懇などの動きの向こうに官公労のあなたの姿が透けて見え、父が77年に新しい旗を掲げて憤死した後には、後を引き継いだ私を影に日向に助けてくれました。全電通中央本部の役員となられてからは、ミニ政党に過ぎない私たち社会民主連合の顧問格として相談に乗っていただき、委員長になられた後に私も社民連代表となり、社民連も一人前の政党扱いをしていただきました。電電公社の民営化の時の「総論反対・各論修正」のたたかいは、全国一本のNTTを発足させてその中に労働組合をしっかりと位置付け、IT化の時代の流れを働く者の側から牽引する労働運動の礎を築かれました。

89年には連合が発足し山岸さんが初代会長、そして参院選で野党大躍進。さらに93年には宮沢内閣不信任案可決から野党連携による総選挙と細川連立内閣発足。これらの経過についても結果についても、あなたの存在に触れることなしに一言も語ることはできません。まさに因果律の好循環だったと思います。

社民連側からの私の入閣要請に、あなたが「大臣病だ」と辛口批評したと言われましたが、あなたのそうした微妙なバランス感覚によるご支援なしには実現しなかったことです。細川さん自身が明かしているあなたとの極秘会談も、手引きをしたのは私です。以前の総理大臣公邸で、当時の通路は今は無くなったようです。もっとも今は、そんな必要もないのかもしれません。

今の政治状況につき、あなたはまさに忸怩たる思いをお持ちだったでしょう。政権と与党のやりたい放題に対し、野党と支援勢力のふがいなさ。私も地元で、与党の当選者に国のために何をしたのかと揶揄されてしまいました。細川内閣での経験に基づき政権担当政党として民主党を結成し、私も議会を主宰する議長として本格的政権交代を宣言したところで好循環が終わり、なかなか出口を見つけられない苦難の日々が続いています。「好事魔多し」とはよく言ったものです。思えば、私たちの仲間内から「江田金山」と厳しい批判を浴びたこともありましたが、今は残っているのは私だけとなりました。批判者を燕雀に例えてはいけませんが、せめて山岸さん、私たちは鴻鵠の自負を保持しましょう。私の議員任期もあと一週間。いずれ彼の地にお伺いします。辛辣なお言葉を聞かせてください。山岸章さん、それまでさようなら。

                                                2016年7月19日
                                                参議院議員 江田五月


2016年7月20日 山岸章さん お別れの言葉

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