2002年9月1日

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東チモール独立記念対談
五月二〇日東ティモールが独立した。長く独立に関わってこられた貴島正道さんと、江田五月さんに独立と今後を語ってもらった。


世界初住民投票で独立 自立した文化で国造りへ

貴島正道+江田五月

江田五月 貴島さん、お久しぶりです。東ティモールが独立しました。五月二〇日に独立式典があり、日本から政府を代表して杉浦外務副大臣、東ティモール議員連盟と民主党を代表して私が参加してきました。どうですか、この日を迎えて。

貴島正道 いやあ、感無量。六〇年前の記憶がありますからね。四二年に東ティモールに進駐した。侵略です。僕は主計将校、陸軍少尉だった。二万ぐらいの軍隊で侵略した。東ティモールに一万、西ティモールに一万ぐらい。

江田 今回僕は独立式典に行って、戦争の中で性的な被害を受けた女性の皆さん方に会ってきましたが、そういうことはやはり起こり得たのでしょうか。

貴島 起こり得たでしょうね。

江田 敗戦後、ティモールにはその後いつごろから関わられたんですが。

貴島 七〇年に既に関わっていた。まだポルトガル領でした。そのときにいかにして開発するか。江田三郎さんと、自民党からは九州出身の幹事長が参加していたな。二回派遣した。三井物産とか開発に役立つ技師とか連れて。

江田 コーヒーとか。あそこはコーヒーは相当いいんですか。
東ティモールの未来を熱く語る貴島正道さん(左)と江田五月議員(右)。

貴島 コーヒーは世界一ですよ。

江田 ティモール協会で開発のお手伝いをしようというので貴島さんもその創立に関わり、そうこうしているうちに……。

貴島 ポルトガルでサラザール政権が倒れて、社会民主主義の政権になる。それから世界中の植民地は全部解放すると宣言する。それでアフリカのモザンビークとかが独立していく。東ティモールも独立運動が始まり、グループがいくつかできる。フレティリン (東ティモール独立革命戦線)とUDT(ティモール民主同盟)とアポデティ(ティモール人民民主協会)とか。UDTのクーデターを制圧したフレティリンが、11月28日に東ティモール民主共和国の旗を立てる。しかし、12月7日にインドネシアから侵攻が始まる。

長引いた民族自決

江田 帝国主義の終焉と民主主義政権の樹立。そして世界中に展開した植民地の独立。もちろん民族自決ですから、それぞれの国での自決権運動が始まる。東ティモールは、こうした二〇世紀の後半の世界史的な課題である民族自決の最後の流れです。ところが、その最後がずいぶん長引いてしまった。インドネシアは、もとは民族独立の優等生ですよね。

貴島 ええ。日本軍が負けたときに僕はスカルノに会っているんです。スカルノが応援してくれと言うんです。

江田 スカルノが、自分たちはオランダから独立するから応援してくれと。スカルノにしてもネルーにしてもエジプトのナセルにしても、カンボジアにもいたし、そういう民族独立の第三世界の指導者だったんですね。

貴島 もちろん今でも独立していないところは世界にいくつかある。でも東ティモールみたいにあんな殺戦、虐殺、レイプはない。六〇万の人口のうち二〇万人が殺された。数ではカンボジアのポル・ポト政権が一五〇万人を殺しているが、東ティモールは率では三割近い。アメリカの有名な戦略研究所が発表している。

江田 その意味では民族独立、民族自決の世界史の動きの一番最後で、しかし一番痛みが激しいところだった。だけど貴島さん、「東ティモールみたいなちっちゃなところが独立しても大変で、インドネシアと一緒のほうがよっぽどみんないい生活ができるじゃないか」と言う人がいますが、どうなんですか。

貴島 いや、インドネシアとはもう全然文化も文明も違う。東ティモールは敬虔なカトリック教徒です。インドネシアはイスラムです。それから言葉が違う。インドネシア語とテトゥン語。ニューギニアに近い気がする。人間の文化が全然違うから、無理ですよ。

江田 人間というのは、人からいい衣食住が与えられれば、それで幸せだというばかりではありません。生きざまというのがあるということでしょうね。民族には民族の生きざまがある。二一世紀後半になると、国家のあり方もかなり変わって、また国境の線引きは変わるんではないかという気がするが、少なくとも今は東ティモールの住民が自分たちの運命を自分たちで決めたいと言うならば、それを力で押さえるというのはやはり不正義ですよね。その不正義がかなり続いて、それに対して僕らも貴島さんたちと一緒にずっと支援運動をやってきましたが、一九九〇年代のぎりぎりまで希望がないと思わなかったですか。

貴島 思ったよ。

江田 国際社会は忘れ去るし。

日本は自決権に反対

貴島 特に日本がよくないでしょう。七五年にインドネシアが侵略したときに、まだ12月で国連は総会をやっていた。国連はすぐに、総会が、インドネシアは撤退しろ、東ティモールの自決権を認めろという決議をする。日本は反対です。それから七年間、八二年まで決議するが、全部日本は反対。反対だけではなくて、ODAを出しているアジアとかにみんなオルグしていた。

江田 日本は国としては足を引っ張る側だったが、しかし、国民の中に根強く民族自決を支援する運動がありましたね。

貴島 あまり数はなかった。日本で東ティモールを知っている人がほとんどいなかった。当時僕の計算では何千分の一だった。東ティモールを知っている人は全部で一万人ぐらいしかいないだろう。

江田 東京東ティモール協会を貴島さんはつくられた。これはいつですかね。

貴島 八六年か八七年ぐらいにつくったんです。広島の呉が一番早い。

江田 ジーン・イングリスさんがやっておられる呉のYWCAですね。あそこは非常に早く立ち上がりましたね。

貴島 すぐ僕は東京で朝日新聞に行って「これをやれ」と言ったんです。筑紫哲也さんがいてやってくれたよ。それから「世界」に行って、安江良介さんに言ったら、「おれのところもやる」と。

江田 学者だど文化人類学の山口昌男さんとか何人かの人が確信を持ってやっていたけれども、しかし学者もジャーナリストも「いや、あんなところはインドネシアと一緒になるのが幸せの道だ」と言う人が多かった。

貴島 日本はインドネシアと経済的な利害関係がすごいでしょう。石油とか天然ガスを全部輸入していたから。

江田 今でも日本政府は東ティモールをなぜ支援するかというと、そのことがインドネシアを軸とするあの地域のためになるからと。インドネシアのためになるからやる、どうもそんな感じです。

貴島 インドネシアに対する世界の援助で、日本は突出している。インドネシアを支援している額は。

江田 日本にとってもODAの最大の行き先ですよね。

貴島 東ティモールに軍隊を出して支配できたのも、日本の援助があったからこそじゃないか。

江田 八六年に僕は貴島さんに言われて国連に行った。帰ってきてすぐ「東ティモール問題を考える議員懇談会」をつくって事務局長。やがてスハルト政権が倒れて、ハビビになって、そのころから大きく事態が変わり、国連がぐっと前に出てくる。本気になってやり出す。そこまでくるのに、日本の国内で貴島さんや僕らがやってきた市民の動き、国会の中の動きは、意味があったんですかね。

火を燃やし続ける

貴島 そう言われるともう頭が上がらないが……。APECって毎年やるでしょ、そのたびごとに総理大臣に会って申し入れをしてきた。日本の総理大臣でAPECでしゃべったのは宮沢さんが一回だけ、「日本は東ティモールのことを非常に注目しています」と言った。それは河野洋平さんが官房長官で、江田さんと一緒に働きかけをやったんだよね。

江田 我々も一生懸命やったつもりだけれど、せいぜいできたのはその程度。世界ではラモス・ホルタやベロ司教がノーベル平和賞をもらった。ところが日本は、ラモス・ホルタが来日したのに外務大臣も会わないと言う。ラモス・ホルタは「もう二度と日本なんかに来ない」と怒って帰ったという、そんな状態。彼は、「そんなこと言っていない」と言うけれどね。でも日本の中でも細々とだれか火を燃やし続ける者がいたというのは、まあ大きかったと考えましょう(笑)。

 国連が最後に踏ん張りを示して、僕たちは国連による住民投票の監視に行ったんです。投票率が九八・六%。そのうちの七八・五%がインドネシアの自治領になることはノー、完全に独立をするという結果を出した。ところが、その結果を出した翌日から、民兵が大荒れに荒れて。僕たちが帰りに乗る飛行機にも、なかなか乗せてもらえない。民兵が飛行機の中に入って、一人ひとりチェックして何人かを連れ出したりした。その後で我々が乗り込んだから、飛行機が離陸したとさは本当にホッとしましたよ。やっとそうやって独立の歩みになったんですが、どういう国になってほしいですか。

貴島 僕は東ティモールの文化を自分でつくり出し、それを維持してもらいたいと思うね。食うことはたいしたことはない。僕が今やっているのは片岡君のところでコーヒー園をやると言うので、とにかく向こうで現地人のスタッフをつくることを心がけてやれと言った。だんだんそんなのでつないでいけば、あそこは僕らがいたときも貧乏だったけれども、山に行くとバナナ、パイナップル、なんでもある。焼き畑農業で主食のトウモロコシがある。乾季が長いから水が来ないんだね。昔は水田もなかった。水がなく、水牛を回してばらまきの耕作。僕らが行ったときはばらまきはやめて、一尺ごとに田植えをするというのはやったんだ。ただダムだけはどうしてもまだできなかったね。ため池みたいなのをつくってやればいいんだけれど。

江田 水とか農業技術とか、長い植民地支配とインドネシア支配との闘いの後だから、まず人を育てることですかね。

貴島 世界で住民投票で独立したというのは、初めてではないかな。

江田 文字どおり民族が自決したわけでそれだけに、前から引き継いで運営していく権力機構がないから、ゼロからつくらなければいけない。警察も裁判所も刑務所も学枚も病院も国会も外務省も全部つくらなければいけないというのは、これは大変ですね。

ゼロからのスタート

貴島 本当にゼロからの出発だね。PKOはやめたらいいね。六〇〇人かな。道路工事は現地の人がたくさんいるんだから、日本の民間の道路工事をする技術者を連れていって、あとは向こうでみんなやらせたらいい。八〇%も失業しているんだから。あとは何といったって援助ですよ。ずっと先に行くと、ティモール海に石油が出るし、それを掘り起こすことが出てくるからね。それまでは自分たちの食う道。今は失業しているけれども食っているんだよ。

江田 民主党はPKOは是認をするということだけれど、いまのPKO部隊は自己完結型で、行って仕事をして、そのまま帰ってくる。ユンボも全部持って行って、持って帰る。そんなものは現地に置いてくればいいじゃないかと思います。技術移転をもっとして、現地の人たちと一緒にやる。人を育てる。裁判官も警察官も育てていかなければならない。確かに八割の失業率でも皆食べているのは事実ですよね。きっちりしたインフラから始めて、ちゃんとやれば、展望はある。それから石油の話は、ティモール・ギャップという大陸棚で石油と天然ガスが出る。オーストラリアが軸になり、日本も入り、東ティモールと一緒に開発の計画も立てて、五年ぐらいたつと国家財政をかなりの割合で潤す財源になると言っています。農業技術も道路工事も、日本のNGOでそういうことを現地の人を使いながら指導してやっていけるようになることが大切ですよね。

貴島 観光立国も考えているんだよね。半分ぐらい観光立国でもいいと思っているんです。

江田 二一世紀にはあそこにすばらしい南洋の楽園ができるといいですね。貴島さん、行きたいでしょ。

貴島 アハハ、行きたいねえ。


きじま・まさみち 1918年生まれ、九州帝大卒。陸軍主計将校として42年から、46年まで戦地に。43年から46年までは東ティモールに。46年から70年まで社会党本部。85年東京東ティモール協会設立、会長に。現在、東京東ティモール協会代表。

えだ・さつき 参議院議員、東ティモール議員連盟代表。1941年生まれ、東大卒。77年参議院初当選。衆議院四期。岡山選挙区。

東京東ティモール協会 1985年設立。86年には国会議員団を設立。86年から99年まで東ティモール人を招き、全国スピーキンクなどを実施。ベロ司教、ラモス両氏をノーベル平和賞に推薦。

(2002autumn●Discussion Journal「民主」no.2掲載)


2002年9月1日

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