2001/07/05 インタビュー

戻るホーム2001目次前へ次へ


親しみ信頼される司法の改革
  真の国民主権を実現するために


日本政治の欠陥は政権交代がないこと

 私は既に二十二年、国会議員をやっていますが、まだ仕事を始めたばかりという感じがします。というのは、日本の議会制民主主義で何が問題かというと、政権交代が定着していないということですね。新しい民主党ができて、ようやくその政権交代のための現実的なスタートを切ることが出来たところだからです。

 私は、民主党になる前に、ずっと長く社民連という小さな政党で活動してきました。小さいのが好きだったわけではありません。自民党に代わるべき政党をつくるには、小さな一歩から始めなければと思ったのですが、なかなか大きくなれませんでした。また、労働組合は大切な基盤ですが、労働組合に頼りきるのではなく、市民に広がりをもった政党でなければというので、頑張ってきたのです。

 民主党ができて三年少々です。民主党は、政権交代を担う政党になる体制でスタートしています。いろんな条件が揃っていますし、若い議員が多いですから。民主党で政権交代が実現するまで、これを育てなければならないと思います。

 一九九三年の政治改革選挙以前の政治は、いわば民主主義の前史です。自民党がどんなに悪いことをしても、どんなに国民を悩ませても、自民党政治は揺るがない状況でした。それに対して、今は、向こう岸に向かって一生懸命船を漕いでいる、過渡期にあると思います。やがて民主党が国民の中に定着して政権を握り、政権交代が普通のことになります。そうなった状態が、民主主義の後史です。

危険性をはらんでいる異常な小泉人気

 いまの連立政権は無茶苦茶です。論評するに値しません。小泉さんの人気は最後の徒花(あだばな)だと思います。いずれ、自民党が潰れるか小泉さんが潰れるか、どちらかになります。今回の参議院選挙では、小泉人気で自民党が伸びましたが、これで自民党が勝って、小泉さんが潰れるだろうと思います。逆に、それでも小泉さんが断固として改革をやり抜くなら、自民党が潰れます。

 今回は参議院選挙ですから、政権交代そのものではありませんが、日本の政治のプロセスを政権交代ができる構造に変えていくための選挙でした。

 ただ、それ以前の自民党政治があまりにも酷すぎたし、それに小泉さんのパフォーマンスが結構うまいものですから、いままでの政治にうんざりしていた国民が、これに拍手をするのはよく分かります。その点は、私どもがむしろ反省をしなければならい点だと思います。しかし、ある指導者に八割以上の国民が拍手をして、「何でもいいからやらせてみよう」というのは、民主主義にとっては非常に危惧すべきことだと思います。

 小泉さん自身が全体主義者かというと、そういう片鱗が見えなくはないけれども、まあ総合的に見ればそんなことはないでしょう。しかし、こういう状況で全体主義の指導者が出てくることは、あり得るわけですから、こうした日本の政治風土は危険だと思います。

 私はマスコミの報道の仕方も悪いと思います。参議院選挙後になって、行き過ぎたことに気づいたのか、ちょっと辛口の論評も出てきましたが、これはジャーナリズムと若干趣が違います。エンターテイメントというべきかもしれません。持ち上げるときは思い切り上げ、下げるときは思い切り下げますから、これに振り回されることは危険です。

時間がかかり明確でない裁判の改革

 私は、自分が弁護士であることもあって、長い間、司法に関心を持ってきました。

 今、司法改革論議が盛んですが、その出発点は、裁判に時間がかかりすぎるということにあるようです。これはしかし、多少同床異夢のところがあると思います。

 自民党や経済界の人たちからすると、日本の司法というのはいかにもまどろっこしい。経済のグローバル化の中で、世界を相手に経済競争をして、生じてきた問題を、日本の裁判所で裁いてもらおうと思うと、何年もかかって、しかも要領をえないわけです。アメリカだとさっさと解決してくれます。何とかこの日本の裁判を変えなくてはという思いから議論が始まりました。

 市民にとっては、時間以外にも、もっと利用しやすい裁判制度にして欲しいという要請があります。紛争が身近に起きているのに、市民にとって弁護士の敷居はたいへんに高い。裁判になると非常に長くかかる。しかも、知的財産権関係などは、分かってくれているのかどうかはっきりしないということもあります。

 市民から言うと、規制緩和や行政改革が進むと、「お上にお縋りしていればよろしい」という時代ではなくなってきます。そのうえ、自己責任ということが言われます。これまでは、あらかじめ行政が何でも調整をしてくれて、お役所主導の「護送船団方式」に頼っていればよかったのですが、今はそういう時代ではなくなっています。

 市民社会に起こる紛争も、多様になってきます。消費者のことや、労働運動の新しい課題や、公害問題とか環境問題とか、新しい知る権利であるとか、いろんなものが出てきます。その紛争を公正に解決しながら、世の中を動かしていくことが大切になってきます。 

 そういうものが、今の裁判所できちんと解決してもらえるのかどうか。行政に対する不服もいっぱいあるけれども、行政事件で市民が勝った例がほとんどないとか。市民にとっても、司法改革は大きな課題になっています。

民主党の主張する「国民主権の司法」

 そこで二年前に、司法制度改革審議会設置法ができて、京都大学の憲法の先生である佐藤幸治教授を会長に、ゼンセンの高木剛会長などが委員になって、審議をスタートし、その最終意見書がこの六月に出されました。

 民主党としては、さきほど述べたとおりの、市民から見た司法改革の具体的要請の他に、もう少し理念的なものがあるという主張をしております。

 戦後改革で国民主権になりましたが、大慌てで制度をつくりましたから、不十分な点がいっぱいあります。司法の面では、戦前は天皇の名による裁判でしたが、戦後は国民の名による裁判になりました。しかし、本当に国民主権となっているかどうか。裁判をする権限は国民に由来するということを、裁判官が本当に分かっているかというと、どうも怪しい。裁判官の方が偉くて、国民はお白州の裁きに従うという感じです。

 そこへもってきて、最近は裁判官の不祥事件がいろいろと起っています。これは恐ろしいことです。公正であるべき裁判官が法に反することをしていては、裁判自体が国民から信用されなくなってしまいます。

 ですから司法を、本当の意味での国民主権のもとでの司法、つまり市民の司法にしなければいけない。その理念の洗い直しが必要ではないか。司法改革全体が、「国民主権の司法」という理念に貫かれたものでなければならないというのが、民主党の考え方です。

「法曹一元」と陪審制度の導入

 私どもは、司法制度改革審議会に対して、何度となく提言をしてまいりました。高木さんには、われわれの提言の気持ちを分かっていただいて、審議会に反映していただきました。その中に二つ大きな提言があります。

 一つは、「法曹一元」という考え方です。今は、多くの裁判官が、大学在学中に司法試験を通り、卒業したらすぐ司法研修所に入り、二年の研修が終わったらすぐ裁判官です。今は一年半ですね。その後は六十五歳まで裁判官で通すわけです。これでは、普通の市民の気持ちが分かる裁判はできないだろうと思います。

 人間というのは、閉ざされた社会の中ではなかなか育ちにくいものです。だから、研修が終わったら、まず弁護士になり、例えば十年弁護士をやって、生の事件の生の声を聞いて、その中で鍛えられてから、人望を得た人が裁判官になる。そういう制度が「法曹一元」の制度です。諸外国の中でそういう制度とっている国はたくさんあります。

 もう一つは、陪審制度の導入です。これは普通の市民が裁判官になるものです。アトランダムに選んだ普通の市民の代表者が集まって、ある程度ふるいをかけますが、この人たちが証拠を見て判決を下す制度です。職業裁判官が、自分たちしか通用しない言葉でやりとりすると、市民にはさっぱり分かりません。しかし、陪審制度ですと、裁判が国民に分かりやすく身近なものになります。

 今回の意見書では、裁判官の給源多様化や裁判員制度の導入で、私たちの提案を部分的に取り入れています。

不足している弁護士の養成と補充

 法曹一元を実現するには、どうしても弁護士がいまの数では足りません。とりあえず五万人まで増やさないとだめです。その後は徐々に増やして、最終的には十万人にする必要があります。五万人に増やすには、毎年三千人ぐらいの新しい弁護士が必要です。それを実現するには、いまの法曹養成では間に合いませんから、司法試験に至るまでの間の養成過程としてロースクール(法科大学院)を作る。そこである程度養成をして、司法試験はその中の八割ぐらいが合格するように制度設計するという提案をしました。今回の意見書は、だいたいそういう考え方です。

 弁護士の数は増えてきています。しかし、弁護士も食っていかねばならないし、いい仕事をやりたいという意欲もあり、都会に集中して、弁護士過疎という地域的な偏りが起きています。それを是正するための取り組みも必要です。

 それともう一つは、司法書士にはそんなに地域の偏りはないんです。さらに司法書士は、ある意味で庶民のホームロイヤー(家庭の法律家)の役割を果たしています。そこで簡易裁判所などでは、司法書士にもう少し裁判所での役割を担っていただこうということで、今回の意見書の中には、司法書士の役割を広げる提案も入っています。

 そのほか、いろいろ注目すべき提案があります。戦後の司法改革の中では特筆すべきもので、何十年ぶりかの大改革に乗り出しているところです。これはぜひ実現する必要があります。

ロースクールのあり方と最高裁の姿勢

 大学教育に携わっている皆さんに考えていただきたいのですが、いままでの法学部教育に反省が必要なのではないかという問題があります。大学の教育が直ぐに実社会で役立つのがいいか悪いかの議論はありますが、それにしてもあまりにも浮世離れしていたのではないか。ロースクールで大学の教員に係わっていただくときには、もっと実務的なセンスをもってほしいと思います。他方で実務家の人にも加わってもらう必要があります。

 今回の意見書については、いくつかの不満があります。「法曹一元」や陪審制度が全面的に取り入れられていないこともそうですが、もう一つは、ロースクールを文部科学省の所管にしたことです。大学にロースクールを設置するのに反対ではありません。しかし、学校法人以外のところがロースクールを設置することを認めるのですから、文部科学省がこれらをすべて所管するのは、適当ではないと思います。現在の司法試験管理委員会を改組し第三者機関にして、ロースクールの設置、認可、監督をするようにした方がいいと思います。

 また、最高裁が本気になってもらわないと、改革は実現できません。裁判所というのは、最高裁が頂点にいて世の中を引っ張っていく機関ではありません。もともと、司法が世の中を引っ張ったら大変です。しかし、司法改革は最高裁がその気になってくれなければ、前へ進みません。

 それから弁護士会です。従来、弁護士会はどっちかというとブレーキを踏むことが多かったのです。しかし、今回はかなり前向きの姿勢を示しています。

日本独自のきめ細やかな国づくり

 司法制度もそうですが、日本は戦後五十年以上経ちましたが、全体的に国民主権がまだしっかり根づいていません。

 民主党がなぜ生まれたかといいますと、本当の意味の国民主権を実現し、市民が主役の世の中をつくろうということです。ですから、国民の皆さんが腹を据え、まなじりを決して民主党をしっかりしたものに仕上げるために、ご理解とご協力をいただきたいと、つくづく思います。もちろん、民主党自身の努力が前提ですが。

 国民主権や市民が主役の社会というだけでは、漠然としていていささか分かりにくいでしょう。さらに進んで、どういう政治理念をもっているのかを聞かせて欲しいというご要望もあります。思い切った議論をして、しっかりした理念を確立すべきだと思います。

 私は、日本のように国土が狭く資源もない国は、きめ細かい政策的配慮が必要だと思います。アメリカのような国は、麻薬問題があろうが銃の暴発があろうが、大きな筋道が示されれば、ある程度前へ進んでいくことができるわけです。麻薬にしても銃にしても大変なことです。しかし、それを「自由社会にはいろいろあるさ」と割り切って乗り越えることの出来る大きさや資源がありますから、いわゆるアメリカ型が可能なわけです。ところが、日本はそうはいきません。ある明確な理念をもって、ていねいに国を運営していかなければいけないと思います。

前進するために必要な「精神の冒険」

 その理念は、やはりヨーロッパの社会民主主義の経験に学ぶべきだと思います。社会民主主義という言葉自体は、そろそろ卒業した方がいいと思いますが、言い方はどうであれ、彼らの経験は大いに研究する価値があります。例えばイギリスのブレアさんの「第三の道」などがそれです。

 私が「第三の道」で面白いと思ったのは、平等についての再定義です。イクォリティ(平等)に代わって、インクルージョン(包含)という言葉を使っています。反対のエクスクルージョン(除外)が、不平等ということになります。

 平等とは、社会全体のシステムの中からはじき出される人がいないということだと言うのです。誰がどんな不幸な境遇に出会っても、社会のシステムの中にちゃんと包まれていなければならないということです。そのうえで、もちろんいろいろな競争が行われるのです。新しい平等概念です。なるほどなと思います。

 長い社会民主主義の歴史の中で、いろんな失敗も繰り返してきました。平等という言葉も、分かりきったようで、なかなか分かりにくいものです。「機会の平等」と「結果の平等」と言われ、それで分かったような気はするんですが、よくよく考えてみたら、また分からなくなってしまう。そういう行きつ戻りつの繰り返しのように感じます。

 しかし、ヨーロッパは着実に二十一世紀に向かって進んできていることを痛感します。日本でも、このあたりで思い切った発想の転換をして、これまで私たちが信じてきた価値について、時代に則した再定義をすることが必要だと思います。過去に学ぶことは大事なことですが、いつまでも過去にこだわっていては、前進はありません。

 私の恩師は故・丸山真男教授です。常に「精神の冒険」をすることを、私たちに求めていました。今こそ、それが必要だと思います。自分が大切だと思っている精神も、後生大事にしていたら、やはり前には進めません。ときどきそれを狼の群れの中に放り出してみるのです。食われてしまっても、それでもまだ生き残っている精神というのが、必ずあります。それを大事にすることです。

 そういうことも、思い切って議論のできる民主党になる必要があると思います。そうでなければ、自民党に代わって、二十一世紀に政権を担当しうる政党にはなれないでしょう

月刊「改革者」掲載


2001/07/05

戻るホーム2001目次前へ次へ