2001年3月30日

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21世紀日本型資本主義は何処へ行く


佐和隆光(京都大学経済研究所

I.市場主義改革と「第三の道」改革の同時遂行

1-1 保守とリベラルの対立軸

  1. 98年10月のドイツ総選挙でなぜ社会民主党が勝利し、また97年4月のイギリス総選挙でプレア政権が、97年6月のフランス総選挙でジョスパン政権がなぜ生まれたのか?今現在、欧州連合(EU)15カ国中12カ国が中道左派政権。2000年11月のアメリカ大統領選挙でなぜ共和党ブッシュ候補は「思いやりのある保守主義」を唱えなければならなかったのか。

  2. 91年12月のソ連解体を画して、社会主義は崩壊したのではなかったろうか。市場主義(サッチャリズム)の落とし穴、究極のサッチャリズム人頭税への反発。より一般的には、「市場の暴力」への抵抗。

  3. 混迷を続けるわが国の政界:保守とリベラルの対立軸に沿った再編成を待たねばなるまい。ただし、保守とリベラルの政策レベルでの差異は、決して一義的ではなく、時や場所に応じて変遷する。

  4. 20世紀の保守とリベラル:市場を万能視し、自己責任・自助努力をモットーとし、低福祉低負担を志向し、社会的異端に対して厳しいのが新保守主義。市場は万能ではないから、経済安定化のためには政府の市場介入が必要不可欠だとし、相対的には高福祉高負担を志向し、経済的弱者をも含めて社会的異端に対して寛容なのがリベラリズム。

  5. 新しいリベラリズム:80年代にアメリカン・リベラリズムは死に絶えたと言われたが、Jeffrey Berry:The New Liberalism: The Rising Power of Citizen Groups(1999)によると、新しいリベラリズムは経済的諸問題(所得再分配等々)ではなく、ライフスタイルの「脱物質主義」(post-materialism) 化を目指す。すなわち、環境保全、人権、消費者保護、清潔な政府等がその政策綱領の主題に据えられる。以下、保守主義を市場主義と言い換える。


1-2 「20年遅れのサッチャリズム」の呪縛を解く

  1. 経済戦略会議の「最終報告」(1999年2月)は市場主義の立場からの政策提言である。この報告が時代潮流に適合したものであるか否かについては評価が二分されるであろう。欧米とくに欧州諸国で見られるサッチャリズムからの退行貌後述する「市場の暴走」という新しい事態との整合性が問われなければならない。「20年遅れのサッチャリズム」との感が否めない。とはいえ、日本の市場が不透明・不自由・不公正であることに鑑みれば、改革のファースト・ステップの提言としては有意義。

  2. 保守の改革とリベラルの改革:自由・透明・公正な市場を作れば(市場主義改革を断行すれば)それで万事片づく、というのが保守の改革、それを成し遂げた上で、改めて政府の役割を見直そうというのがリベラルの改革なのだが、いま必要なのは、市場主義改革と「第三の道」改革の同時遂行である。

  3. 「第三の道」改革のねらいは、「平等」な「福祉社会」をつくることである。ただし、「平等」と「福祉」という言葉の意味を再定義することが先立たねばならない。


1-3 なぜ同時改革なのか

  1. まず市場主義改革を完遂した上で「第三の道」をとする「二段階改革論」への批判:改革の苦手な国日本が一通りの市場主義改革を成し遂げるまでには、少なくとも10年の歳月を要するだろうから、それを経たうえで「第三の道」改革をというのでは、日本は世界の趨勢に取り残されてしまう。

  2. のみならず、改革の「副作用」や「犠牲」を傍観してすます政府は、無責任とのそしりを免れえまい。とくにポスト工業化が進むなか、市場主義改革の「副作用」はことのほか大きい。市場主義改革に後れをとった日本だからこそ、「同時改革」が必要なのである。

  3. 「同時改革」を必要とするもう一つの理由は、日本型システムが過度に競争回避型(反市場主義的)に設計されているという点にある。たとえば、規制緩和が思うように進展しないのは、規制緩和を跳ね返す力学が、日本型システムに内蔵されているからに他ならない。規制緩和のみならず、市場主義改革一般につき同じことが言える。

  4. そうした力学の存在を所与のものとすれば、市場主義改革を推進するためには、日本型システムに潜む「反作用」を緩和することがどうしても必要となる。たとえば、完全雇用を維持しようとする力、給与面での格差をできるだけ小さくようとする力などが、市場主義改革の反作用として働く。そうした「反作用」を力尽くで抑え込むのではなく、作用反作用の調和を図ることこそが適切な対応なのである。


1-4 市場主義は復古思想である

  1. ケインズは1926年に『自由放任の終焉』を書いた。レッセフェールという名の古典的自由主義が花咲実を結んだのは、1840年代から70年代にかけてのイギリスにおいてのことである。「市場主義」と名を変えたレッセフェールの思想が復権を遂げたのは、1970年代末の英米においてのことである。よく誤解されるように、市場主義は決して革新的な思想ではなく、ある種「復古的」な思想に他ならない。


II.日本型システムのアメリカ化は必要なのか

2-1 ポスト工業化が誘う日本型システムの改変

  1. 平成不況は戦後日本経済「第三の転換点」:工業化社会からポスト工業化社会への移行期すなわち階段の「踊り場」に差し掛かった日本の経済社会。「第一の転換点」はなべ底不況(1957年7月〜58年6月)。「第二の転換点」はオイルショック不況(73年12月〜75年3月)。

  2. ポスト工業化社会とはどんな社会なのか:今のアメリカを見ればわかる。(1)製造業が高度情報化技術を採り入れて生産プロセスと経営プロセスを抜本的に改編し、見事によみがえる;(2)ソフトウェア産業(金融、通信、映画、情報等々)が経済の中枢部に躍り出る。90年代に入り、ポスト工業化社会に一番乗りしたアメリカ。80年代のアメリカ経済の不振と、90年代に入ってからのアメリカ経済の持続的繁栄のゆえんはここにあり。

  3. 日本型システムは工業化社会向きに「最適」である。だからこそ日本は成功した。しかし、ポスト工業化社会向きには、日本型システムは「最不適」ではなかろうか。以上を要するに、今、日本がポスト工業化社会への移行期にあることが、「今なぜ改革なのか」を説明する第一の理由である。


2-2 日本型システムの改編を不可避とするもう二つの理由

  1. 第二の理由:「持続的拡大」なくして日本型システムなしなのだが、平成不況が持続的拡大にブレーキをかけたため、日本型システムの見直しが余儀なくされている。

  2. 第三の理由:日本型システムの「不公正」さは許されない。インサイダーにはカムファタブル極まりないが、アウトサイダーにばアンフェア極まりない日本型システム。世界経済における日本経済のプレゼンスが高まるにつれ、アンフェアネスが許容されなくなった。

  3. 日本型システムの改めるべきは、そのアンフェアな側面であり、その他の側面は是々非々でよいはず。しかし近年、日本経済が持続的低迷から脱するための処方せんとして、日本型システムの「非効率」が指摘され、効率化のためには改革が不可欠であると喧伝されるようになった。91年以降のアメリカ経済の持続的好調がアメリカ型システムの優位性の証とされ、グローバリゼーション=アメリカナイゼーションが効率化のために必要不可欠と目されるようになった。


2-3 エコノミストの舌の根は人一倍乾きやすいのか

  1. 問われるべきは、80年代末に日本のエコノミストの多くは、日本経済の繁栄ゆえに日本型システムの優位(アメリカ型システムの劣位)を語り、今は、まったく逆のことを言うのは何故なのかである。「終わりよければすべてよし」との判断基準なのか。

  2. 経済システムの良し悪しは時代文脈に依存する:工業化社会の最終段階(電子部品を作り、それを組み込んだ電子機器を作る;80年代)の時代文脈には日本型システムが、ポスト工業化社会の黎明期(90年代)の時代文脈にはアメリカ型システムが最適だった。

  3. 21世紀のファースト・ディケードは、ポスト工業化社会の「矛盾」が顕在化する時代になるものと予想される。そうした時代には、いかなるシステムが最適なのか。既存のシステムはいずれも最適とは言えず、時代文脈の変化に「適応」する新しいシステムの構築が求められる。「変化」を先取りし、それへの迅速な適応を遂げたものが勝つ。


III.「変化」への適応が切り開く「第三の道」

3-1 「第3の道」とは何か

  1. トニー・ブレアの「第三の道」とは:市場万能主義(ニュー・ライト=サッチャリズム)と計画万能主義(オールド・レフト=)をアウフヘーベン(止揚:良いところどり)した新しい道。ポスト冷戦期に起きた様々な「変化」への「適応」の結果たどり着く「道」に他ならない。「第三の道」が唱えられ始めて以来、2年を経たばかりであるため、その哲学的裏付け、経済学的合理化、政策メニューの提示は未だしの感あり。

  2. 80年代から90年代にかけて起きた内外の経済社会の激変(価値観の多様化、グローバル化、高度情報化、先進国のポスト工業化、途上国の工業化、地球環境問題の浮上、高齢化等)の様々な「変化」に適応」しようとすれば、市場万能主義ではやってゆけないし、だからといって計画万能主義または日本型官僚主導が有効なわけではない。20世紀末の「自由放任の終焉」(=「第三の道」探索の必要性)は、これらの「化」に由来する。

  3. 市場の効率性を認めた上で、市場主義改革を推し進めるのだが、その一方で、「平等」な「福祉社会」を目指す、言い換えれば、公正という価値に重きを置く「第三の道」改革を同時並行的に推し進める。市場主義改革と「第三の道」改革を同時遂行するには、「平等」や「福祉」の意味とあり方を根源的に見直す必要がある。

3-2 社会主義の崩壊がグローバリゼーションの始まりだった

  1. 1989年から91年にかけての「社会主義の崩壊」は「資本主義の勝利」と同義であると確信され、その後、地球的規模での(旧ソ連・東欧、東アジア諸国、南アジア諸国における)市場経済化が進展した。自由な市場経済はユートピア(理想郷)であるかのように言われた。

  2. グローバリゼーション(グローバルな市場経済化)の進展がはらむ「矛盾」の顕在化:1997年7月のタイ・バーツ危機に始まる東アジア通貨危機がその契機。アメリカのエコノミストの中には、東アジアの資本主義はクローニー(縁故主義)資本主義だから行き詰まったのであって、欧米の正統派資本主義にはいささかの揺らぎもないと言うむきが少なくなかった。

  3. 東アジア通貨危機の真因は、地球的規模での工業製品の「供給能力過剰」と、その結果としての東アジアの「ゼロサム化」である。工業製品生産のオーバー・キャパシテイ(生産設備の過剰)の増大に歯止めを掛けるために、先進国は当たり前のモノ作りから早めに撤退し、ハイテク製造業とソフトウェア産業に重心を移行させる必要あり。求められるグローバル・ケインズ主義の構想。

  4. 98年の国際金融危機に象徴されるように、今日、資本主義は、決して表層レベルにはとどまらない、ひとかどの「危機」に瀕していると言っても過言ではあるまい。1920年代に欧米先進諸国が古典的自由主義を謳歌していたころ、ジョン・メイナード・ケインズは『自由放任の終焉』(1926年)を書いたが、今まさしく類以の状況下にあるのではないか。
3-3  市場が完全なものに近づけば近づくほど「市場の力」が暴力と化する危険性が高まる
  1. 市揚の「不完全」性(例えば、名目賃金の下方硬直性、市場の摩擦、各主体の予見の不完全性のゆえに、失業等の「不均衡」が、そして景気循環という「不安定」が不可避であり、「不均衡」と「不安定」を回避するためには、財政金融政策による政府の市場介入が必要にして不可欠であると説いた。

  2. 80年代にサッチャー、レーガン、中曽根氏が積極果敢に推し進めた市場(新保守)主義改革は、市場を「完全」なものに近づけることをねらいとしていた。しかし、市場が完全なものに近づけば近づくほど、「市場の力」が暴力と化する危険性が高まることを、私たちは90年代後半の経験から学んだ。

  3. 市場の「暴力」とは?:所得格差の拡大、公的医療・教育の荒廃、資産価格の暴騰・暴落、ヘッジファンドによる短期資本の頻繁な移動に起因する途上国の通貨危機、自由競争の結果が「一人勝ち」に終わること等々。

3-4 なぜ「一人勝ち」が横行するようになったのか
  1. とくにポスト工業化社会の到来に伴う「一り勝ち」傾向の顕在化:ソフトウェアの業界においては、ウィンドウズに例示されるように、市場占拠率がある閾値を超えたソフトウェアが、ディファクトスタンダードとして市場に「ロックイン」されるという必然性。優勝劣敗の結果なのか、それとも勝者の幸運の結果なのか?

  2. 自動車業界などでは、燃料電池車の開発に例示されるように、技術開発における「規模の経済」(収穫逓増)の働きが合併・提携を余儀なくさせる。金融業界についても同様のことが言える。「一人勝ち」(自然独占)の趨勢にどう対処すればよいのか。アメリカの司法当局がマイクロソフト社を独占禁止法違反と断じ、3社に分割しようとしているが、分割によってロックインを解除することは望めまい。

  3. これからの政府は「市場の力」が暴力と化さないよう制御しつつ、「市場の力」を有効に利用する術を心得なければならない。効率と公正の両立は困難ないし不可能と言われてきたが、それらを両立させうるような新しい社会経済システムの設計というイノベーションが求められている。ただし、そのための前提として、「公正」という価値の再定義が求められる。


3-5 マテリアリズムからポストマテリアリズムへ

  1. 99年12月のシアトルでのWTO閣僚会議に押し寄せた労働組合、市民団体のデモの意味するところ:市場経済(自由貿易)のもたらす経済(物質)的繁栄と非物質的な価値(環境、人権、文化、学術)との相克。両者が両立可能なのか、それとも不可能なのかについては見方が分かれる。マテリアリズムからポストマテリアリズムへの価値優先順位の移行。

  2. ソ連が経済的に繁栄していた1950年代、60年代には、ソ連は物質的豊かさを追求するマテリアリズムの立場に立っていた。他方、西側先進諸国はマテリアリズムが人間性、自由、人権等を脅かすと主張し、89年から91年にかけての社会主義の崩壊は、それゆえのことであるとしてきた。

  3. 90年代に入ってからのグローバリズム(グローバルな市場経済化)の進展の原動力となったのは、ネオ・マテリアリズム(効率至上主義、市場万能主義、マネー至上主義であると見ることができる。マルキシズムのマテリアリズムが「科学的」(唯物弁証法による論証を経たという意味で)であるとするならば、アメリカが主導するネオ・マテリアリズムは、ソフィスティケートされた哲学的バックグラウンドを欠くという意味で「空想的」マテリアリズムに他なるまい。


IV.平等と福祉のパラダイム・シフト

4-1 市場主義者は「平等jを悪と決めつける

  1. 自由な市場経済は資源の効率的配分をかなえると言うが、ここで言う「効率的」とはパレートの意味でのそれであって、世上言われる「効率的」とは意味合いを異にする。それはさておき、市場経済は効率的ではあっても、公正、環境、人権などを守る保証はいささかもない(市場の失敗 market failure)。1970年代初頭には、こうした認識があまねく広まり、反市場主義的な考え方(ラディカル・エコノミックス)が経済学界の主流の一角を占めるようになった。米国の哲学者ジョン・ロールズ(1921― )のマキシ・ミン原理(『正義の理論』1971):最も不幸な境遇の人のウェルフェアを最大限高める。70年代前半には、ロールズの「公正」観がもてはやされた。

  2. 70年代後半に入ると、経済学界にも新保守主義改革の荒波が押し寄せ、「平等」は悪であるかのような言説が幅を利かすようになった。一般に、経済学の文脈で「平等」とは所得分配の平等を意味しており、税制などによる所得再配分による平等志向は社会の活力を低下させる(効率性を損なう)として、批判の的とされてきた。

  3. 市場主義者の言う「勤労意欲の源泉は所得格差である」との命題――「検証されたことのないマントラに類する命題――の真偽を問い直す必要あり。豊かな者はよりいっそう豊かになろうとして働き、貧しい者は生活苦に鞭打たれて働くのか。


4-2 平等な社会とは「排除」される者のいない社会である

  1. 機会平等で十分だとする保守派に対し、教育による「可能性の平等」(与えられた機会の利用可能性の平等)を実現する必要ありとするのが「第三の道」である。機会が与 えられても、十分な教育を受けていなければ、「猫に小判」でしかない。

  2. 何が「平等」で何が不平等なのか?平等な社会とは異端を「包含」する社会、「排除」される者のいない社会である。社会の平等・不平等は、公共サービス(教育、医療等々)から「排除」される者がいるかいないか、どれだけいるかによって評価される。例えばアメリカでは、健康保験に未加入の市民が全体の16%を占めている。このことは16%の米国市民が医療サービスから「排除」されていることを意味し、アメリカは不平等な国であるということになる。


4-3 これからの福祉は「リスクの共同管理」を目指す

  1. これからの福祉:「リスクの共同管理」としての福祉、ポジティブ・ウェルフェア社会の構想。ウィリアム・ベバリッジが掲げたネガティブな福祉の対象をポジティブなものに置き換える:不足を自主性に、病気を健康に、無知を教育に、惨めを幸せに、怠惰をイニシアティプに。

  2. 福祉は「依存の文化」というモラルハザードをもたらすと言われる。もともとモラルハザードとは「保険があるのをいいことに、自らの行動様式を変え、保険のリスクを変えてしまうこと」である。したがって、福祉の給付が「依存の文化」を生み出すわけでは必ずしもなく、「提供された機会を合理的に利用する」のがモラルハザードである。モラルハザードを肯定的な意味合いに機能させるためには、福祉のあり方を根本的に見直す必要あり。在来型の福祉は技術進歩、社会的排除、単身家庭の増加などに起因するリスクには無力。

  3. 「リスクの管理」とは、リスクを最小限にすること、リスクへの自己防衛だけを意味するのではなく、「リスクの引き受け手に対して報奨金を供与する等により、リスクのポジティプでダイナミックな面を活用することをも含む。ポジティプ・ウェルフェア社会においては、生活費の直接給付ではなく人的資本への投資を主眼とする。

  4. ポジティブ・ウェルフェア社会へ向けてギデンズの5つの提案:1)企業家のイニシアティブの支援による雇用創出;2)生涯教育の充実と給付を自らへの投資の原資とするよう誘導;3)公共事業への私企業の参加を促す(PFI);4)年金のポータブル化によるヒトのポータビリティの向上;仕事と家庭生活を両立させる(チャイルドケア、在宅勤務、長期休暇等々);5)社会奉仕活動の積極的推進。


V.ガバメントからガバナンスへ

  1. ガバナンス(統治)をガバメント(政府)のみに委ねておいていいのか。ガバメントの限界をわきまえる必要がある。ガバメントによるガバナンスの「上方統合」と「下方拡散」を図らねばならない。

  2. 「小さな政府」をモットーとするサッチャー時代の英国にもガバナンスを司る政府はあった。グローバルな市場経済のガバナンスを司る主件がなくていいのか。

  3. グローバルな市場経済が「政府」なしに安定化しうるのか否かが問われなければならない。目下のところ、グローバル・ガバナンスを司るのは軍事・経済の両面でのスーパーパワーであるアメリカ。1997年の東アジア通貨危機収拾のシナリオを書き、それを実践したのはアメリカ政府。

  4. 今後、アメリカ経済が失速するようなこと――その可能性は少なしとしない――があれば、もともとモンロー主義的傾きの強いアメリカは、グローバル・ガバナンスの担い手であることを放棄するかも知れない。そのとき、グローバル市場経済は安定的な拡大を続けうるのか否か。

  5. 経済面でのグローバル・ガパナンスを担う国際的組織が必要となってくる。例えば国連に経済安全保障理事会を設ける等々。国内政治においても、民主主義と市場経済の両立を図るためには、国家権力の下方拡散(自治体、NGOへ)の推進が求められる。

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