1976/10 目次次「中道革新政府の樹立をめざして」

明日の日本のために ― 市民社会主義への道 ―

新しい日本を考える会

    歴史の転換点に立って

 いまわが国は二重の意味で歴史的な転換期に直面している。

 その一つは、戦後の高度経済成長によって、わが国は工業カにおいて欧米先進国に追いつき、追い越すという維新以来の宿願を達成し、そのために先進国へのキャッチ・アップの意欲に支えられた工業化の推進が至上の国家目標として定立される根拠は失われ、それにかわるどのような国家目標が提起されるべきか、が問われていることである。国家目標と言っても、もとよりそれはかつてのように、支配層が、自己の掲げた目標にむかって強引に国民大衆を結集し、動員していくといった性格のものではありえず、むしろ、国民的合意の上に立った明日の日本の進路をどこに求めるか、その進路を規定するものとしてどのような諸価値を優先的に選択するか、という問題にほかならない。

 その二つは、わが国が明治百年の夢を達成した一九六〇年代から七〇年代にかけての時期は、近代産業文明がその爛熱によって転機をむかえ、久しくわが国が到達すべきモデルとしてきた欧米諸国の内部において、近代産業文明とそれを支えてきた原理、価値観の根底的な反省、批判、超克の必要が改めて指摘され、警告されるにいたった時点だということである。周知のように、近代産業文明に対するラディカルな批判と告発はすでに百年も以前にマルクスによっておこなわれている。だが、このような反省がマルクスの時代にくらべてはるかに高度な産業発展の段階において、その推進に指導的な役割をはたしてきた階層の人々のなかにさえ生まれており、マルクスをもなおとらえていた生産力の限りない発展という展望自体に疑惑が抱かれはじめている点に、われわれは問題のかつてない深刻さを見出さざるをえない。しかもこのような反省と警告を生みだした近代産業社会の病理は超高度成長によって慌ただしく工業化の坂を駆け上ったわが国の場合、とりわけ鋭く露呈されており、この病理の克服を離れて明日の日本の進路を語り得ないことは何人の眼にも明らかである。

 こうして二重の転機といっても実は一つであり、この歴史的転換期に際して、われわれに求められているのは、産業社会の病理を克服しつつ、文明の新たなモデル、生活の新たな質と様式、それを支える体制の新たな編成をめぐって国民的合意をうち立て、その上に明日の日本の進路を敷設することでなければならない。


    一 豊かさの代償

(1) 昭和三十年代以降二十年間にわたって継続した日本経済の高度成長が国民の所得水準を高め、雇用を拡大し、その過程で国民福祉の基盤となりうる巨大な国民的生産力をつくり上げたことは率直に評価されてよい。しかしながら、これは国民の勤勉に支えられた日本経済の活力が有利な国際環境にたすけられて生み出したものであり、自民党やその政府の功績に帰せられるべきものではない。自民党や政府は、むしろ経済成長が潜在的に可能にするはずの国民生活の改善に有効な措置を講じることよりも、もっぱらこの成長がGNPの増大、産業構造の高度化、国際競争力の強化を自己目的とするようなパターンにそって展開されることにカをかしてきたのである。その結果、成長の成果は、著しく国民に不利に配分されただけでなく、国民はその相対的に乏しい成果をも帳消しにし、かえって国民生活を危機と崩壊に追いやる「成長の代価」を支払うことをよぎなくされてきた。とめどもない環境破壊の進行と公害の深刻化、国土の荒廃と自然災害の頻発、資源・エネルギー問題の深刻化、都市の過密化と非人間化、持続的なインフレーションとそのもとでの社会的不公正の拡大、資源配分の歪みにもとづく私的な豊かさと公的な貧しさとのアンバランスの激化、社会保障、生活関連社会資本の整備の立ちおくれに起因する生活不安の継続、寡占的大企業の市場支配による消費者主権の形骸化、有毒食品や欠陥商品の氾濫、生産の巨大化・自動化に伴う労働における人間疎外の深まり、重化学工業中心の高度成長の踏み台とされできた農村の過疎と農業生産力の弱体化などはその一端にすぎない。われわれはこれらに加えて企業社会の内部におけるより高い所得と地位をめぐる競争の苛烈化と公的関心の稀薄化、高度成長に伴う構造変動のひきおこしたコミュニティの崩壊と巨大郡市の砂漠のなかでの人間的連帯の喪失、大量販売のための広告宣伝による欲望の人為的刺激が生み出す慢性的な欲求不満、管理社会化の進展に伴う市民的自由の腐蝕と民主主義の空洞化、企業社会のための人間選抜の機構と化した教育の荒廃、商業主義の滲透による情報と文化の画一化、低俗化をも挙げることができるであろう。

 このように、国民生活を重苦しく圧迫している高度成長の負の遺産は、利潤動機によって牽引される産業発展が、人間の意識的制御を欠いて放置されるとき、どのような病理症状を呈するかを生々しく示している。

 そこでは産業の発展や経済の成長が人間の必要を離れて独走し、逆に人間をその論理のなかにまき込み、産業発展の成果である豊かさそのものを歪め、非人間化する。そこではミクロの合理性、効率性の追求がかえって社会全体としての合理性をそこない、非合理的な無駄や浪費を生み出す。またそこでは本来市民社会の物質的存続を支えるための産業活動が自立化し、その巨大な管理機構の位階制的秩序のもとに人々をくみ込み、人々から市民的自立性を奪うとともに、市民を受動的な消費者として操作の対象に変え、そのことによって市民社会の諸価値を空洞化し、それを産業社会の諸価値に従属させる。そこでは人々の価値観自体が産業社会の論理に適合させられ、人々は政策選択、体制選択の問題への公的関心を稀薄化され、もっぱら産業社会の秩序の内部での地位の上昇と個人的所得と私的消費の増大に生き甲斐を見出すように馴致されるのである。

(2) このような産業社会の病理をいかにして克服し、“社会の人間化”を実現するか、産業社会の爛熟の上にいかにして自由と公正と連帯の旗をかかげた古典的な市民革命の理想をよみがえらせるか、それがわれわれにあたえられた歴史的な課題である。この課題が単純に産業発展を否認し、経済成長を敵視して田園と手労働との古きよき昔への回帰を説く復古的ロマンチシズムによって解決され得ないことは言うまでもない。われわれが、中世や産業革命初期に支配した生活の基本的物資にもこと欠くような原始的貧困への復帰を望まない限り、発達した産業の維持を放棄することはできない。のみならず、いかに歪められたものにせよ、産業化の発展のもたらす一定の豊かさなしには近代的民主主義が根づき得ないことも明らかである。さらに、工業の発展を基底とするある程度の経済成長は、少なくとも当面は国民の福祉を高めるための源資を調達するためにも、またそれ自体国民福祉の条件である完全雇用の維持のためにも欠くことができない。

 産業社会の病理の克服は、産業発展の否定ではなく、それを人間の英知による意識的な制御のもとにおくこと、経済成長の拒否ではなく、成長の型を人間の必要の充足、福祉の充実という観点にそってつくりかえること、価値の序列を産業の発展や経済の成長から人間生活の質的充実に決定的に転換させること、産業社会を自然との調和の上に再組織し、市民社会的諸価値に従属させること、そのことをつうじて高度成長によって生み出された巨大な国民的生産力の真に人間的な活用に道をひらく方向にそって達成されるのでなければならない。

 だが、このような近代産業発展の意識的計画的な制御とそれによる社会的公正の実現、そうした過程への勤労大衆の参加による市民的自治の原理の産業領域への拡大こそ、市民革命の理念の継承、発展として生まれた社会主義の本来の理想であったはずである。われわれもまたそのようなものとして把握された社会主義の理念の実現、そうした理念にそっての産業社会の改造を明日の日本の進路の設計の根底に据えたいと考える。


    ニ 既成社会主義への絶望

(1) しかしながら、今日わが国において社会主義のイメージが著しく色あせたものとなり、国民大衆の共感を呼ぶ新鮮な魅力を失っていることも否定しがたい事実である。これには資本主義の搾取と抑圧からの勤労者の解放をめざしておこなわれたはずの革命によって生まれた、社会主義を名のる体制が、自由と民主主義の不在によって特徴づけられる全作主義的操作社会としての無気味な面貌をあらわにしたこと、既成社会主義が単にもう一つの産業優先社会にすぎないことが決定的にばくろされたことが大きくあづかっている。

 このような状況のもとで国民大衆のなかに社会主義への拒否反応が生まれることはきわめて当然であり、むしろそれは国民の判断の健全さを立証していると言うことができる。事実、私的利潤の追求を動力とする産業優先社会を官僚専制の産業優先社会社会につくりかえることに、はたしてどれほどの意義を見出しうるであろうか。

 既成社会主義の体制的特質は、産業の全面的国有化と市場の廃絶の上に立つ完全計画化と集権的管理であるが、われわれの展望し、構想する市民社会主義は多くの点にわたって、既成社会主義体制の対極に立つ。

 (イ)本来、社会主義の理念から見て決定的に重要なのは、法制的な意味での所有権の帰属よりも、産業の管理が資本家、経営者の専制のもとにおかれているか、勤労大衆がこの管理にどの程度の発言権をもっているか、である。企業の管理権がもっぱら党官僚、国家官僚の手に独占され、勤労者がこの管理から疎外されているならば、生産手段の公有自体、単なる法的擬制に堕さざるをえない。

 われわれは勤労者が産業と企業の管理に参加し、そこでの発言力の強化をつうじて企業の私的性格を機能面で実質的によわめ、企業に漸次的に公的、社会的性格をあたえていくことが可能であり、無用の政治的摩擦を回避するためにもより望ましいと考える。現代企業における所有と経営の分離はこの点できわめて有利な条件を用意している。全産業を一律に国有化するのではなく、国有企業、地方自治体の公有企業、協同組合企業、公益企業型の私的企業、その他の法人企業、個人企業など多様な形態を組み合わせていくことが可能であり、必要である。とりわけ情報、教育、文化の領域における一元的国有化は、官僚による情報の管理、文化の統制、教育の支配を可能にし、自由と民主主義の圧殺を容易にするという意味で絶対に避けなければならない。

 (ロ)既成社会主義は、その全面的国有化の方針のメダルの裏として市場を廃絶しているが、市場の廃絶は、一方では意志決定の分散を不可能にすることによって官僚的集権性を不可避とし、他方では市場機構の不在によって資源配分の効率性をそこない、消費者主権を否認する。

 高度の分業社会において、資源を効率的に配分し、需給を自動的に一致させ、技術革新へのインセンティヴをあたえ、経済的意志決定の分散によって自由や民主主義と両立しうる経済システムを可能にする装置として、人類はまだ市場機構以上のものを見出していない。この市場機構の廃絶は、直接民主主義の射程をこえる規模をもつ社会において民主主義を実現するために不可欠な複数政党制にもとづく議会制民主主義の否認とならんで既成社会主義の二つの原罪を成している。もちろん、このことは市場機構に重大な欠陥、限界があることを否定するものではなく、その克服こそ社会主義のもっとも重要な目標の一つにほかならない。しかしながら、それは市場機構を制御、規制し、補完する必要を示しているだけであって、われわれの社会主義においては市場の廃絶が問題になりえないことはいうまでもない。既成社会主義の唯一のメリットともいうべき市場機構によっては達成されない生活の社会的保障もこの補完の機能に属する。

 (ハ)既成社会主義は中央の計画機関が末端の一企業で生産される生産物の生産量をはじめ、その材質や規格まで決定しようとする完全計画化の理念に立っているが、このような計画の機能の途方もない拡大は計画自体を摩痺させ、かえってそこに恣意をもち込むことにしかならない。このような完全な計画化という構想は、市場の自動調整作用を万能視する古典的な「市場の神話」の裏返しである「計画の神話」以外の何ものでもない。われわれは、計画の機能はあくまで、国民経済のマクロ的な調整、誘導、制御に限定されるべきだと考える。

 (ニ)既成社会主義は、全社会を一企業、一工場の如く組織するというヴィジョンに立ち、計画と管理の権限を中央の政府と計画機関のもとに一元的に集中する。しかし、このような決定権の集中は、管理のコストを高め、効率をそこない、企業の自主性と創意を弱めるだけでなく、官僚権力を肥大化させ、自由と民主主義への重大な脅威をもたらさずにはおかない。われわれのめざすのは、決定権の分散、多元化を内包する分権的な社会主義である。

 (ホ)既成社会主義の官僚独裁は、その物的基盤であるこのような全面国有化と市場の廃絶の上に立つ集権的指令経済と不可分であり、そうした経済システムの上に自由と民主主義を開花させることは原理的に不可能であることが確認されなければならない。

 以上を要するに、既成社会主義がマルクス・レーニン主義という一元的価値観にもとづく産業の全面的国有化と完全計画化の上に立つ官僚独裁の国権的社会主義であるとすれば、われわれがめざしているのは、価値の多元性の容認の上に立った自由で分権的な、勤労者の管理への参加によって特徴づけられる市民的社会主義である。その理念を総括的に表示すれば、自由と民主主義、分権と自治、制御と誘導、参加と公開、保障と連帯の五つに要約することができよう。


    三 市民社会主義のめざすもの

   1 自由と民主主義

(1) もともと自由とは、価値の多元性を容認し、個人の自主的・自立的決定を尊重し、個人の内面に対する権力の干渉を排除し、その活動における多様な選択の機会を保障するところに成立する。また民主主義とは社会の各層、各個人の利害、対立の調整を官僚やテクノクラートの一方的決定にゆだねるのではなく、民衆がみずから理性的な討議をつうじて調整し、合意に達するためのしくみであり、手続きである。近代市民社会の公理とされている基本的人権の尊重、政治的自由の保障や議会制民主主義はこうした理念につらぬかれている。これを継承しつつ、管理社会の重圧の下で生じているその歪曲や形骸化を克服するために、行政と企業管理への勤労者の参加、地方分権の徹底、地域レベルでの直接民主主義による代議制民主主義の補完などによって、自由の拡大、民主主義の革新をめざすのが市民社会主義の立場である。その意味では分権や参加、保障など市民社会主義のすべての装置はこの自由と民主主義と連動し、そこに収斂するとも見ることができる。

(2) この点にかんれんして今日、最大の問題は情報による集中管理という管理社会化の進行により、企業体から国家にいたる諸レベルにおいて、意思決定過程が少数の技術・管理層、テクノクラートにゆだねられ、市民大衆はもちろんのこと、各級議会などによるチェックさえも次第に不可能となり、市民的自由と民主主義制度が大きくおぴやかされていることである。

 管理社会は(イ)政治権力の集中 (ロ)経済権力の集中 (ハ)情報の集中とブラック・ボックス化を必然的に招来する。

 こうした管理社会のいわば“三悪”を阻止し、解体することが自由の回復と民主主義の再生の絶対的な要件である。そのためには後に見る政治権力の集中を排除するための地方分権の徹底、経済権力の集中を排除するための反独占規制や企業・経営への住民参加、従業員参加とならんで、情報の集中とブラック・ボックス化を克服するための措置が必要である。今日、マス・メディアなどに見られる情報の氾濫は、政治報道をも含めて“消費情報”の氾濫にすぎず、社会を動かす意志決定の基礎となる“生産・管理情報”は、電算機の導入による情報システムの確立によって逆にブラック・ボックス化し、国民大衆の情報からの疎外をつよめている。これを克服するためには“生産・管理情報”の公開やチェックを可能にする制度、行政情報や医療情報などの誤用乱用に対する市民の側からする監視の制度が創出されるべきである。

(3) 民主主義の活性化のためには地方分権や参加民主主義の推進とならんで議会制民主主義そのものの機能の強化が必要である。それには従来弱体であった立法府の国勢調査機能や政策立案機能を強化すること、選挙の公営化、企業の政治献金の既成、選挙区定員のの是正、比例代表制の導入などによって選挙制度を抜本的に改革することが望ましい。

   2 地 方 分 権

 分権とは中央の官僚機関への権限の集中を極力避け、中央政府と地方自治体との間に権限を分割すること、そのため両者の機能を明確にし、中央の機能を簡素化すると同時に重点的に強化し、その他は大幅に地方自治体にゆだねることである。わが国の場合、維新以来の伝統的な中央集権的官僚主義が高度成長期に著しく強化されただけに、地方自治体の機能をつよめ、分権と自治の原理を徹底させる必要はとりわけ大きい。

 また、権限、情報、人材の地方分散をはかることは巨大都市の過密化を緩和し、是正するためにも不可欠である。さらに高福祉社会の実現のためにも地方、地域の実状と住民の要求に即した社会資本、社会福祉サービスなどが充実される必要があり、これは地方自治体の機能、権限をつよめることなしには達成できない。また、行政への住民の参加による直接民主主義の実現も、中央依存から脱した地方自治体を単位としてはじめて可能となるのである。

 地方分権の徹底には財政面での中央依存を断ちきり、地方財政の自立性をつよめる必要があり、それには中央政府の補助にかわって財源そのものを地方に移譲し、地方自治体の財政上の自立性を確保することが決定的な条件となることはいうまでもない。それはほとんど財政革命というにもひとしい改革であり、当面する地方財政危機の克服もこうした改革への展望の下ですすめられなければならない。それと併行して行政の効率化や住民負担の適正化をはかるべきである。地方自治体の行政上の基本課題は教育をふくめた社会福祉サービスの強化、住宅もふくむ社会資本の整備、環境保護等による住民福祉の充実にあるが、単にそれらを個別的に供給するのではなく、それらをシビル・ミニマムを基準として空間的にシステム化した地域計画の策定、実行が基本におかれるべきである。ここでも決定的な条件の一つは、この計画への住民参加でなければならない。

   3 経済の制御

(1) (a)制御とは、経済の発展を公的な制御のもとにおくための経済政策の体系であり、経済安定をめざす国民経済のマクロ的調整や経済発展の計画的誘導をはじめ、企業活動を市民的倫理基準にしたがわせるためのルールの設定などもこれに属する。ただし、これらのルールの遵守は正常な企業活動を抑圧したり、萎縮させたりするために課されるものではなく、企業にこうしたルールを前提にした上で自由な創意を発揮させ、市場機構のメリットを活用しようとするものであり、したがって、個々の産業や企業に対する恣意的な保護や干渉は排除されるべきである。

 (b)今後のわが国がかつてのような超高度成長をつづけることは単に望ましくないだけでなく、資源、環境の制約からも不可能である。しかし完全雇用の維持のためにも一定の水準、実質六〜七パーセントの成長は必要であり、日本経済の潜在成長率から見てそれは可能であると思われる。これをなだらかに減速させてゆくことが今後の成長政策の基本となるべきであろう。

 (c)経済の短期調整においては、金利の自由化など政策手段の強化とならんで経済的合理性を欠いた政治的圧力や考慮によって政策決定が歪められることを避けることが必要である。

 (d)企業活動のルールについては当面、生命と健康の尊重を最優先においた環境基準、排出量基準の設定、監視体制の強化、汚染者負担原則の徹底による環境保護および最低限さきの公取委案を下廻らぬ独禁法の改正が中心におかれるべきである。

 (e)資源、とくにエネルギーの自給率を高めることはわが国経済の安全のために望ましいが、当面エネルギー自給度を大幅にひき上げる可能性は乏しいと見なければならない。エネルギー供給確保の道は、中東諸国との経済協力をつよめて石油の安定的な供給を確保すること、同時に過度の中東依存から脱却するため輸入先の分散をはかること、代替資源の開発に加えて、技術進歩によるエネルギー利用効率の向上、エネルギー節約型への産業構造の転換にある。この産業構造の転換は、プライス・メカニズムによってもある程度進むであろうが、環境基準の強化、社会保障、社会福祉の充実による需要構造の変化、国民の価値観や生活様式の変化にもとづく消費の型の変容も産業構造転換の要因となり得る。しかし、これらの要因によるエネルギーの輸入依存度の低下には、おのずから限度があることも明らかである。ここには決定的な決め手はなく、あらゆる政策を総合的にくみ合わせてゆく以外に道はない。だが、代替資源の開発をいそぐあまり、安全性についての保障がないままに原子力発電を強行し、とりかえしのつかない事態を招くようなことは厳に避けなければならない。

(2) (a)高度成長の過程での急速な兼業化によって、わが国農家は所得では非農家従事者との均衡に達したが、農業の生産力的基礎は著しく弱体化した。反面、富農ないし小企業農を担い手として畜産、果樹、商業、園芸部門を中心に、土地の制約のあまりうけない農業の産業化が進み、農業外からの企業進出もおこなわれた。さらに稲作部門でも農業機会の開発による技術一貫体系の確立を基礎に企業型農業があらわれている。このように企業型農業による農業の産業化は生産性の発展をもたらしたが、同時に産業化の欠陥も明らかとなった。稲作部門では化学肥料と農薬の多投による地力の枯渇、土地の不毛化、畜産部門では合成飼料の輸入依存による食糧自給率の低下、家畜排泄物の廃棄による畜産公害の発生、畜産物の品質低下などがそれであり、今日、わが国農業はその本来の機能である自然の生態系維持の機能をはたしえなくなっている。これを解決するためには、農村の小型プラントによる家畜排泄物の有機肥料化、都市の屎尿や生ゴミの大型プラントによる有機肥料化とその農村への還元をすすめ、農家相互の間にも稲作部門から畜産部門への牧草やワラの供給、後着から前者への有機肥料化した家畜排泄物の供給などの相互依存関係をつくり出す必要がある。

 また畜産の工業化にのみ頼るのではなく、わが国に多い山村や傾斜地を利用した本来の牧畜を大規模に再興し、それに合わせてコミュニティ単位の各種処理工場、加工工場を設けること、日本の自然条件に適合した伝統農法の現代化、省力化をすすめ、そのため米作のモノカルチャーをやめ、生態的な輪作による多角耕作を行い、農村コミュニティ単位の協業化や機械化をすすめること、農業基地としての農村コミュニティを再建し、各施設を充実し、農村の文化や知識のレベルを高め、都市から農村への労働力の還流をはかること、なども考慮されるべきである。

 農地利用の効率化のためには、兼業農家の保有する農地を何らかの形態――(1)専業農家への売渡、貸付、(2)農協、農家グループ(生産組織)による集団的利用など――によって高度利用の方向へもってゆくことを粘りづよく追求する必要がある。その場合の最大の障害は、高度成長の負の遺産の一つである高地価である。耕地は極度の高密度社会日本においてもっとも重要な稀少資源の一つであり、これは極力保全されなければならない。そのためには、土地利用および土地の投機的売買に対する公的規制の強化が不可欠である。

 (b)食糧供給の安全は、国民生活における安全保障のもっとも重要な要素の一つであり、したがって食料自給率は高いほど望ましいことは言うまでもない。日本の食料自給率は、現在先進諸国のなかで最低の部類に属するが、自給率低下は、主として麦、飼料用粗粒穀物などの畑作物と熱帯産農産物の輸入増に起因している。後者はその消費をおさえないかぎり、避けられないが、前者は消費増と国内生産の減退の両方にもとづいている。したがって、自給問題から言えば、水田裏作、畑作の回復が急務であり、そのためには米価偏重の現在の農作物価格体系を転換することが必要である。しかし、それには限度がある。国際価格を無視した価格設定は、消費者の利益をそこなう。その意味では畑作の生産性向上が必要であるが、現在のように第二種兼業農家が全農家の三分の二を占める農業構造では、生産性向上、集約的土地利用への復帰には大きな困難がある。

 いずれにせよ、現在のわが国の食糧消費水準および人口一人当り耕地面積の乏しさを前提とすれば、食糧自給率の引上げは容易ではなく、食糧供給の相当部分は輸入に依存せざるをえない。輸入先を分散し、アメリカヘの依存度をへらすこと、長期協定、備蓄、開発途上諸国とくに東南アジア諸国の農業開発への援助などが進められるべきである。なお食糧問題については漁業資源の問題があるが、今日わが国の漁業は戦後の収奪漁法による沿岸漁業資源の枯渇、国際的条件による国際漁場の縮小と漁業資源自体の世界的不足という深刻な問題をかかえている。これを克服して漁業資源を確保するためには、沿岸養殖漁業ももちろん推進すべきであるが、国際的な漁業生態系の大規模な調査、研究や稚魚養殖など、太平洋沿岸諸国との協力のもとで漁業資源自体の大規模な生態学的復興をめざすしかないであろう。

   4 参加民主主義

(1) 参加とは市民的自治の原理を社会生活のあらゆる領域で徹底させ、民主主義を活性化することを目標としている。中央・地方における行政や政策形成への参加は、行政における秘密主義や官僚的独善、不公正を打破し、テクノクラート主導の管理社会化をおしとどめ、直接民主主義によって議会制民主主義を補完することをめざすものである。また企業経営への消費者や地域住民、なかんずく従業員の参加は、従来、市民的自治や民主主義の及び得ない聖域とされてきた産業の管理と企業経営に民主主義を導入することであるが、その意義は、経営者による企業の専断的管理を打破すること、労働における人間疎外の克服を容易にし、生活の質を高めるために不可欠な労働の人間化のための制度的前提をつくり上げること、所有と経営の分離に新しい性格、方向をあたえ、経営者革命の新しい段階を準備することにある。企業の反社会的な行動に対する消費者や住民の側からする抑制や告発のルートをつくることもこれに加えることができよう。

(2) 行政参加、政策参加においては、今日、多分に名目化し、官僚やテクノクラートの決定に民主的粉飾をほどこすことにおわっている各種の委員会や審議会に、参加の実質をあたえるために、その構成や権限を改めること、自治省、環境庁など国民生活に影響のふかい部門では、決定権をもつボード(行政委員会)方式をとることも考慮されるべきである。

(3) 従業員の経営参加は職場、事業所、企業の各レベル、決定、執行、監査の各領域で可能であり、参加の主体としても従業員のほかに外部の組合代表、学識経験者などを含めることができるが、各段階、各領域に応じて適切な方式が労使の協議をつうじて模索され、実験されていくことが望ましい。参加の性格としては経営者主導型でなく、労使対等型をめざすべきであり、西ドイツの共同決定方式の経験なども慎重な検討に値いしよう。いずれにしろ、この参加をつうじて企業を専制と服従、反抗と操作の場から対等な市民的な協力の場にかえてゆくという長期の展望が明確にされねばならない。

   5 生活の保障

(1) 保障とは狭義の社会保障をも含めて市場機構にゆだね得ない、あるいはその及びえない領域で国民の生活要求をみたし、市場機構のもたらす生活の不安定や不公正から国民の生活を守るための政策であり、所得の再分配から社会資本の充実、社会保障、都市計画、環境保護にまで及ぶものである。その基本的機能は生活のバランスの回復、維持と生活の不安定の除去にあるということができる。

 まず前者について言えば、現代社会における人々の生活はその消費生活としての側面から見るとき、私的財の消費である個人的消費、公共財の消費である社会的消費、自由財の消費である自然環境の享受の三つから成り立っている。しかし、現状は高度成長がもたらした所得水準の上昇によって個人的消費だけが相対的に不釣合に肥大化し、同じく高度成長過程での社会資本、社会的サービスの立ちおくれによって社会的消費は著しい低水準に放置されており、さらに高度成長の産物である自然環境の破壊、公害の蔓延は自然環境の享受を絶望的に悪化させている。これは単なるアンバランスにとどまらず、一種の悪循環でもあり、個人的消費の対象である私的財の生産拡大が、資源配分を私的部門ににかたよらせる結果、公共財の供給が阻害されるだけでなく、私的財の生産の拡大と消費の増大が相まって産業公害、都市公害を深刻化させ、水や空気や日光のような自由財をますます稀少化し、その享受水準を低下させてきた。その典型がマイカーの氾濫であることは改めて指摘するまでもあるまい。しかも、相対的にもっとも増大した私的消費自体も、生命をおびやかすような有毒食品、欠陥商品、画一化商品の氾濫によって質的にはむしろ劣悪化している。このようなアンバランスを克服し、私的消費の一面的肥大化を改めることなしには消費生活の改善はありえず、社会資本、社会サービスの拡充によるナショナル・ミニマム、シビル・ミニマムの充足はそのための不可欠の条件の一つである。

 だが、消費生活の質を真に高めるためにはそれだけでは足りず、さらに進んで生活の中に自然をとり戻すこと、いわは生活の“有機化”ともいうべきものを実現することが必要である。これがいかに国民、とりわけ都市住民の切実な要求となっているかは行楽ラッシュや釣ブームなどのレジャーを見ても明らかである。しかし、この要求を一種の代償、安全弁としてのレジャーのなかにとじこめてしまうのではなく、生活全体のなかにいかにして自然を回復するかが問題である。だが、ここでも古くなつかしい田園の生活への復帰が不可能だとすれば、生活における自然の回復、生活の有機化は意識的、計画的に創出される必要がある。都市計画や都市再開発のになっている最大の役割の一つはこの点にあるということができる。今日、いわゆる資本主義の無政府性は、都市の混乱、都市生活の危機にもっとも集中的にあらわれている。社会主義の本来の課題の一つが資本主義の無政府性の克服にあるとすれば、それは全産業の国有化といった見当違いの方向にではなく、何よりも都市計画、都市再開発において、緑の空間の設計、造形においてはたさなければならないであろう。

 第二の生活の不安定という問題では、今日、国民は老齢、病気、労働災害、失業といった在来型の生活不安のほかに、環境破壊や過密化にともなう公害による生命と健康の破壊、有害食品や薬品による中毒、交通禍などの新たな脅威にさらされている。都市の過密化は台風や地震などの自然災害の規模をも未曽有に拡大している。このことは生活の安全保障のためには環境保護、防災、国土保全、都市・交通政策などが保障のシステムとして総合的に組み合わされなければならないことを示している。

(2) 福祉優先政策を定着させ、高福祉社会をつくり上げるためには第一に個々の福祉政策を上積みしていくやり方を改め、全政策体系を高度成長優先型から福祉優先型につくり変えることが必要である。福祉は財源の問題であるよりもすぐれて改革の問題であることが明らかにされなければならない。それには当然現行の不公正な税制の改革がふくまれるべきである。第二に、国民の側も高福祉のためには一定の負担増を受け入れる用意をもたねばならない。第三に福祉政策における中央と地方の権限を明確にし、主として貨幣給付からなるナショナル・ミニマムは中央政府が責任をとり、社会資本、社会福祉サービスなどは地方自治体がひきうけるといった両者の責任分担を明らかにすることが必要である。第四に、ミニマムの保障と自由な選択、福祉と自助・自立は矛盾するものではなく、相互に前提となるべきものであることが強調されねばならない。言うまでもなく社会保障の役割は、生活のミニマムの保障を確実にすることによって人々を市場の変動や不慮の災厄にともなう生活不安から解放し、個人の自主性をつよめ、自由を拡大する点にあり、国民を国家の被扶養者に転化することにあるのではない。


    四 文化と平和

   1 価値観の転換

(1) 社会主義をめざす社会の改造は単なる制度の改革、組みかえにとどまらず、価値の新しい序列、新たな生活様式、新たな文明モデルの創造を意味し、必然的に文化革命、新しい文化の創造としての意味をもつ。この価値観転換の中核をなすのは、消費は美徳、使いすてといった価値観、生産や消費の量的拡大を至上とするGNP信仰的な価値観から、近年、世界的な標語となっている“小さいことは美しい”といった標語や、量から質へといった言葉に象徴されるような価値観への転換である。前者は地球は無限であるとの想定に立って進められてきた産業発展の担い手である大企業の大量生産、大量販売の必要によってつくり出された価値観であるのに対し、後者は、無制限の産業発展は自然の生態系の撹乱をつうじて人類の破壊すらもたらしかねないという予想と反省、畏怖の上に立った価値観である。もちろん、このような価値観の転換は上からの説教やおしつけによってはたされるべきものではなく、国民の自発性の上に立った生活革新の運動、文化運動として進められるべきものである。

 この点に関連して固有の文化の問題としては次の三点をあげたいと思う。第一は地域文化、伝統文化の復権である。高度成長は、高級な文化的技術だけでなく、酒や味噌など伝統的な“日本の味”から身の廻りの道具類払いたるまで、地域的、伝統的な特質をブルドーザーのようになぎ倒してきた。地方分権、地域分権の強化のなかで、こうした地域的、伝統的文化の復権をはかることは、国民の生活の質を高めるための根本的な条件の一つといえよう。

 第二に上記と関連して都市や農村のコミュニティ・ライフを再建することである。娯楽、スポーツ、芸術などにかかわる多目的センターを設け、幼児から老人にいたる地域住民が余暇を享受できるようにすることなど、この部面でなすべきことは少なくないはずである。

 第三に商品の質の向上を求める消費運動をつよめ、地域の中小生産者や商店を“質”の生産者、販売者として再組織する運動が進められるべきである。それは中小企業に新しい発展の機会をあたえる契機ともなりうるであろう。

(2) 高度成長の負の遺産の一つは、産業社会のためのエリート選抜機構――人間を資本、企業にとって好都合な能力によってふるいにかけ、能力があると判定された者にしか社会的上昇の機会をあたえず、この選抜にふるい落された者には陽の当らない社会の末席しかあたえない能力中心、競争万能の差別と選別のメカニズムと化した教育の荒廃である。高度成長は欠陥商品だけでなく、教育の荒廃を通じて欠陥人間をも大量に生み出した。それはエリート選抜教育とそのための苛酷な受験競争の生み出した基礎体力のない身体、他者への思いやりのない利己的な感性、総合的な判断力を欠いた奇型な知性に上って特徴づけられる人間タイプである。このような教育の荒廃をいかにして克服するか、問題は総合的に長期的な視野に立って考察されなければならない。大学については、受験制度の廃止、学生の大学間での単位取得の保障、大学を生涯教育の機関とし、地域の文化センターとして位置づけることなど、思いきった改革が必要であろう。義務教育、高校教育では体育・知育・徳育のバランスの回復、その予備教育の是正、職業、技能教育の充実などの方向で必要な改革をおこなうべきである。

(3) 今日、科学、技術文明のもたらした否定的な諸結果――核兵器の生産、公害の激化、資源の浪費などから科学、技術のあり方に対する深刻な反省が生まれている。もとより科学、技術そのものの全面的否定が不可能であり、望ましくないことは言うまでもない。しかし、従来のように、科学、技術の進歩はそれがどのような方向でなされ、どんな結果をもたらそうが、それ自体で善であり、社会進歩の方向に沿うものだという考え方は根本的にあらためられる必要がある。同時に科学、技術の進歩自体は中立的なものであり、それが人間にとってどんな役割をはたすかはもっぱら体制のいかんによってきまるといった単純な体制還元的な思考も克服されねばならない。科学、技術の進歩自体に人間的な制御を加えること、すなわち、テクノロジー・アセスメントの考え方をさらに徹底し、科学、技術の進歩がいかなる結果をもたらすかをあらかじめ予測し、その結果を人間の必要から統御しうるようにすること、そうした統御の見通しの立ちがたい研究は停止すること、科学、技術の発展にのみエネルギーを注入するのではなく、むしろその結果を人間生活の立場から統御するための手段、方法の開発に努力することが必要であろう。

   2 平和と安全のために

(1) わが国がすべての国々との友好と平和共存の維持、アジアと世界の平和の強化を対外政策の基本に据えなければならないことは、あらためて強調するまでもない。それは平和自体の至上の価値という見地からも、国の安全を確保するという観点からも可能な唯一の選択である。それはまた資源小国である日本が世界に生きていくためにも不可欠の条件である。したがって理念として、また今後の展望として、日本をふくめ、すべての国々が、外国との間に軍事同盟をむすばず、外国の軍事基地をもたない状況が望ましいことも当然である。この点でまず問題になるのは、アメリカとの間にむすばれている日米安保条約に対してどのような態度をとるか、ということであろう。

 安保条約はわが国の戦後史において単なる二国間の軍事条約という以上の意味をもってきた。保守勢力にとって安保条約の堅持は、単なる安全保障上の考慮から発するというよりも、体制そのものの防衛、維持のシンボルともいうべき意味をもち、戦前のわが国の“国体”にも似た絶対性を帯びていた。もちろん、保守勢力の内部にも、安保条約を相対化し、防衛費を最少限にとどめることによって経済の復興と成長を促進するための有利な条件と見なす潮流もあったが、その場合でも安保条約は単に軍事的な見地から評価されるのではなく、内政をも含めた保守の政治路線の根幹にかかわるものとしてとらえられていたのである。その対極として革新勢力の側も安保条約の可否、そのメリットやデメリットをわが国の安全や世界の平和維持という観点から、冷静に検討し、評価するよりも、その打破を反体制戦略の核心に位置づけ、安保条約に対する態度如何を革新と非革新を区別する基準と見なすような態度が支配してきた。こうして冷戦の産物である安保条約が国内に冷戦を再生産し、安保条約は保守と革新との間で話し合いの不可能な絶対的なものとされてきたのである。

 だが、六〇年代以降の米ソの接近や米中和解による冷戦の緩和とヴェトナム戦争の終結は、安保条約をめぐる保革のこのような硬直的な対決を解消しうる条件を生みだした。冷戦の論理とイデオロギーの呪縛をはなれて安保条約に対して冷静な評価を下し、理性的に対処すること、われわれは保革両陣営に対してこのことを訴えたいと思う。

 安保条約に対するわれわれ自身の方針について言えば、この条約は、日米いずれかの政府が一方的に通告すれば、一年後には自動的に解消することになっているが、われわれは安保条約の即時廃棄という方針はとらない。それは安保条約によって日本の安全が守られているからというよりも、そうした性急な一方的な行動によって日米両国間に成立している関係を急変させることは、今日の国際情勢の下で必ずしも平和の強化に役立たず、かえって国際緊張をつよめるおそれがあるからである。さし当って必要なことは、むしろ安保条約を消滅させうるような、軍事同盟を不必要とするような環境をつくり出すための外交的努力をつみ重ねてゆくことであり、その最大の焦点の一つは朝鮮半島の状況にいかに対処するかにある、というのがわれわれの観点である。

 この問題に対するわれわれの基本的立場は、統一への朝鮮民族の悲願を表明した南北共同声明を基礎に、朝鮮半島の平和が強化されることを期待し、それを促進するための外交的努力として、韓国だけでなく、朝鮮人民民主主義共和国との国交をも正常化し、南北両朝鮮に対して等距離外交の姿勢を堅持しつつ、米・中・ソ三大国と共同し、南北朝鮮の話し合いを促進するためのイニシァチヴをとることである。

 中・ソ両国との関係では、日本がこの両大国の対決にまき込まれない、という方針に徹することが根本であり、わが国革新勢力の一部に見られる、外交にイデオロギーを持ち込むような愚は絶対に慎しまなければならない。そのためにも日中平和条約、日ソ平和条約を早急に締結し、わが国と中ソ両国との関係を安定した基礎の上にうち立てること、両国との文化交流・経済関係を一層発展させることが望ましい。

 東南アジアをはじめとする開発途上の国々に対しては、わが国はアジアに平和な国際環境をつくり上げること、開発途上国の経済的自立に積極的に協力すること、南北問題の解決に資する新たな国際経済秩序の創出にカを貸すことを主眼におくべきである。そのため、わが国がアジア太平洋地域においていかなる覇権も要求せず、核兵器を生産、貯蔵せず、海外派兵や武器輸出をおこなわないという態度を明確にし、政府レベルの援助をつよめるとともに民間ベースの海外進出に対しては、それが現地の経済自立に貢献しうるようにおこなわれることを保障するため、企業の行動に公正なルールを課し、その遵守を要求することが必要であろう。

(2) 今日、国の安全保障のためには賢明な外交、文化交流や経済協力の緊密化のはたす役割が大きく、安全保障に占める軍事力の役割は限られたものにすぎない。しかしこのことは、わが国が今、ただちに完全な非武装を実現しうる条件が成立していることを意味しない。周知のごとく、わが国では憲法第九条の解釈と自衛隊の存在をめぐって長い間論争が続けられてきているが、自衛隊の保持をかかげる自民党が国民多数の支持を得てきたことも事実であり、われわれは、この事実の上に立ち、むしろ今後の自衛隊のあり方を考えていくことが必要だと考える。わが国をめぐる内外の状況から見て自衛隊を大幅に増強する必要はみとめられず、それはかえって諸外国の疑惑や不信を増大させ、わが国の安全にとって不利な効果しかもちえないであろう。この際、必要なことは、前述のように、わが国が核武装、海外派兵をおこなわないことを内外に宣言するとともに、自衛隊のこれ以上の増強を停止し、自衛隊の装備、編成についても国土防衛に徹するという観点から再検討し、災害救出活動を強化し、シビリアン・コントロールを徹底することである。自衛隊員の人権を守ることも必要な改革の一部となろう。これらの目的を達成するために、国会による自衛隊の監察を何らかの形で制度化することが考慮されるべきである。


    五 漸進的な社会改造と新しい混合体制

(1) われわれが社会主義をめざすというとき、それは自由、公正、参加といった社会主義の本来の理念にそって現存制度を改革してゆくことである。その改造のテンポや規模は時々の状況や力関係によって変り得るが、あくまでも現存の体制そのものを社会主義の方向にそってつくり変えてゆくのであり、そうした改造の事業を離れたところで、資本主義を打倒し、まったく新たな体制である社会主義によってとって変えるといった発想に立つものではない。後者の発想は多かれ少なかれ急激で一挙的な変革を想定しているが、そのような変革はなんらかの独裁権力の登場なしには考えられず、議会制民主主義のルールと本質的に相いれないだけでなく、独裁権力によってつくられる権力は独裁的・全体主義的社会主義以外ではありえないという意味でも、またそうした急激な変革は社会生活を中断させ、大きな混乱をひきおこし、国民生活に過大な犠牲を負わせるという意味でも絶対に回避されなければならない。このことは社会主義的改造の過程が多かれ少なかれ長期にわたる漸進的改革の過程、さまざまな模索や試行錯誤をふくむ不断の政策選択の過程でしかありえないことを意味している。この改造過程の漸進性は体制批判や改革の理念におけるラディカル性とはなんら矛盾するものではない。過程のこのような漸進性、長期性こそが、それに一貫性をあたえるためにかえって透徹した体制認識とラディカルな体制批判を必要とするのである。

(2) われわれはさきに市民社会主義の五つの柱として自由、分権、制御、参加、保障の五つをあげたが、これらの要素はいずれも、基本的人権、議会制民主主義、地方自治、経済の安定や成長の誘導をめざす政策装置、社会保障などとして不充分ながらわが国の混合体制のなかにすでにビルト・インされているものである。もっとも無縁と思われる参加の制度でさえ、各種の委員会や審議会、労使の経営協議会などの形をとって萌芽的にせよ存在している。このことは第一に今日の混合体制がその内部に本来の資本主義の論理とは異質な要素をとり込むことによって古典的な資本主義とは著しく異なったものとなっており、改良された資本主義、修正された資本主義という性格を帯びるにいたっていること、第二に、しかしながら、これらの要素はさし当り産業化の障害をよわめ、その発展の機会を拡大し、それを加速する方向に機能させられており、こうした要素がビルト・インされていることが、かえって体制の活力をつよめる結果となっていることを示している。その結果、政治、経済、社会、文化のあらゆる領域において私的な利潤動機や産業発展の衝動がなお圧倒的に優越したカをふるっているのである。

 われわれの目標は、このように今日の混合体制のなかにビルト・インされている公的、社会的な要素をつよめ、その機能に新しい方向と内容をあたえることによって、体制の質を漸次的に変えてゆくことであり、それはあくまで現体制の改造であって、決して“社会主義革命”とか“資本主義の打倒”といったイメージで語りうるようなものではない。しかもこうした過程をつうじて形成されてくる体制も、計画の要素と市場の要素、公的、社会的な要素と私的な要素とを組み合わせたものであるかぎり、それ自体一種の混合体制でしかありえない。しかしながら、それは現在の混合体制とは基本的に異った型のそれである。

 第一に、既存の混合体制では私的な原理、産業社会の論理が優先し、資本の蓄積を自己目的とするような経済発展の型が支配し、国民の生活や意識もまたそれにくみ込まれていたのに対し、われわれのめざす混合体制は公的な原理、市民社会の論理を優先させ、企業活動を生活の必要に従属させ、国民生活においても生活の質を重視し、社会的消費や公的保障、自然環境の保全など非市場的要素に大きく比重をうつすことを志向している。

 第二に、既存の混合体制では公的機能そのものが、企業活動に対する規制や生活の社会的保障の側面では有効に作動せず、企業活動を野放しにし、福祉をおきざりにしたまま、もっぱら産業の保護や育成、成長の加速の側面で働いてきたのに対し、われわれのめざす混合体制はまさに公的機関の役割を大きく転換させることを目標としている。

 第三に、既存の混合体制においては、産業の寡占支配、企業における経営者専制、公的機関における官治主義的集権制といった非民主的な支配構造が形づくられていたのに対して、われわれのめざす混合体制が市民的自治と分権化の徹底、参加民主主義の強化と拡大を重要な改革の柱としていることはさきにも見たとおりである。

 第四に、既存の混合体制では競争の原理が優越し、それは個人的なレベルではより大きな所得、より高い社会的地位の獲得をめざして競う進学競争や出世競争として、集団的レベルでは巨大な対抗力型諸組織の形成としてあらわれている。この集団的組織化はいわば民主主義の市場化された形態であり、大企業の支配に対する対抗カとして一定の役割をはたすとしても、集団的エゴイズムを生み出し、全社会的連帯を見失わせ、公的責任感を稀薄化させることによって民主主義を内部からむしばむおそれがある。のみならずGNPの配分を争う諸組織の対抗が現代インフレの社会的温床となっていることも見のがしえない。これに対してわれわれのめざす混合体制は、競争的、市場的民主主義を参加と連帯の民主主義に止揚しようとする展望に立っている。一言でいえばわれわれの目標は、資本の顔、官僚の顔をした混合体制を人間の顔、市民の顔をした混合体制につくり変えることである。

 したがってわれわれは、自由、人権、民主主義などの市民社会的諸価値が産業社会の肥大化によって窒息させられている既存の混合体制を手放しで自由社会として美化する主張には同調しない。なぜなら逆に市民社会的諸価値にもとづいて産業社会の発展を制御し、産業社会を、市民社会をむしばむ癌から、その再生産に奉仕する有機的構成要素につくり変え、文字通りの自由社会を実現しようとするのがわれわれの立場だからである。同時にわれわれは今日のわが国の混合体制のなかで歪められ、形骸化されながらも、なお社会の公理として生きつづけている市民社会的諸価値とその制度化である代議制民主主義や地方自治などを一括して資本主義の上部構造としてのブルジョア民主主義と規定し、プロレタリア民主主義によるその代置を唱える主張にも反対する。なぜなら、市民社会的諸価値を貴重な人類史の遺産、近代社会の構成原理として継承し、それをさらに拡大、発展させ、そうした諸価値の産業社会への貫徹という見地から産業社会をつくりかえること、それがわれわれにとっての社会主義だからである。


    六 市民社会主義の人間像・その政治的結革

(1) 一般にどのような体制や運動もそれにふさわしいタイプの人間を生み出し、かつそうした人々によって担われ、支えられる。市民社会主義を創造し、それを担う人々、市民社会主義のエートスを表現する人間類型は自立的市民である。自立的市民とは労働者や農民と区別され、対置される特定の階級、階層を意味するカテゴリーではなく、あらゆる階層をつらぬいて、共同体への埋没や組織への従属から解放され、自主的な判断、公的、社会的な関心、市民的な自発性をもち、かつそれを可能とする一定の余暇と教養をそなえた、人間類型を意味する。

 このような自立的市民を大量に生み出したのは皮肉にも二重の意味で高度成長そのものであった。高度成長は国民の所得水準の上昇、労働時間の短縮、進学率の増大を可能にすることによって、余暇と教養をもつ自立的市民の登場する物質的条件を準備すると同時に、その負の遺産である国民生活の破壊は多くの人々を市民的抵抗に立ち上らせ、多様な形をとった市民運動、住民運動を続発させ、この運動のなかで市民をきたえ、かつて日本の歴史が知らなかった大量の自立的市民、戦闘的市民を生み出したのである。

 この市民運動、住民運動については、しばしば地域エゴ、住民エゴが指摘されてきたが、もともと近代的労働運動もいわば労働者の職業エゴ、職場エゴの要求から出発したのであり、労働者はこうしたエゴをぷつけ合うなかで、対話と討論をつうじて、エゴを止揚した階級的連帯にまで自らを高めたのである。こうした経過を経ることなしには近代的労働運動は発生しえなかったであろう。市民運動、住民運動の場合もまったく同じである。このエゴと呼はれる切実な要求、抵抗こそが持続的な運動のエネルギーとなり得るのであり、このエゴから出発してそれをより高く、ひろい市民的連帯にまで止揚してゆく過程で市民運動、住民運動は参加と自治の要求として、公的な性格を帯び、体制の根源に迫る高い質を獲得することが可能となるのである。

 このように、高度成長はそれにともなった企業社会化、管理社会化の進行のなかで、単にモーレツ社員やマイホーム主義者だけでなく、戦闘的、自立的な市民を生み出したのであり、それはちょうど産業革命期における勤労者の窮乏と無権利が、都市窮民や浮浪者を生み出す反面、戦闘的な労働者を登場させた関係と共通している。そして基本的に農業社会型の後進諸国でおこなわれた過去の社会主義革命が、その理念を表現する人間類型を革命的プロレタリアートに見出したように、成熟した先進市民社会、都市型社会における社会主義的改造の事業は、自立的な市民によってになわれ、推進されなければならない。われわれがこの高度工業国型、都市型社会における社会主義とその運動を市民社会主義と名づける根拠の一つはこの点にある。

(2) 自立的市民というカテゴリーは労働者を除外しているわけではなくまた市民社会主義をめざす運動が自立的市民に上って担われるということは労働運動、労働組合運動の意義や役割の軽視を意味するものではない。労働力はあらゆる市民層のなかでもっとも強力に組織されている点でも、産業社会の中枢に配置され、直接、生産をになっている点でも、市民社会主義のための運動において決定的な役割を担うべき位置にある。だが、労働組合がこの役割をはたし得るためには、労働組合の機能は、労働力の有利な販売条件の獲得以外にはないとしてその運動をみずから企業内の賃金交渉にのみ限定してしまうような傾向を克服しなければならない。

 同時に、労働組合のあらゆる要求、運動はそれがほかならぬ労働者の要求であり、労働組合によって担われているが故に、すべて体制変革に通じる革新的な意義をもつ、とするような“左翼的”な錯覚からも解放される必要がある。今日、労働組合に求められているのは、労働組合運動の伝統的な枠をつきやぶるような方向に大胆に運動をおしすすめることであり、そうして初めて労働者の生活の防衛と向上という労働組合の基本的な任務をはたし得ると同時に、その運動は体制の改造の一翼を担うことができるのである。その一つは企業の枠をこえて社会保障の充実や社会資本の整備、自然環境の保護や公害防止、税制の改革、インフレーションの克服、雇用の確保などの諸問題をとり上げ、地方自治体の革新や国の経済政策の転換をめざす運動に積極的にとりくむことである。もう一つは職場や企業の問題にさらに深く沈潜し、単なる賃金や労働時間の問題をこえて、労働の疎外の克服、生産の意味の確認、経営者の専制支配の打破、企業の意志決定や執行、監査への労働者の参加をめざして運動をすすめることである。これは伝統的に労働組合運動の守備範囲をなしてきた賃金その他の労働条件の改善をめざす運動が不必要だということを意味するものではない。しかしながら、労働組合が伝統的な発想に立つ賃金闘争にのみ専念している限り、市民運動との提携も社会的弱者との連帯も困難であり、地域住民と手をむすぶことも望みえないであろう。

 また賃金闘争自体においても、単に名目賃金の上昇だけを目標とするのではなく、名目賃金の上昇がインフレーションに及ばす効果をも冷静に評価しつつ、政策闘争とむすぴつけて実質賃金の確保を主眼とし、社会契約型の運動のとりくみにもイニシァチヴをとる姿勢が必要である。労働組合は狭い実利主義と空虚な革命主義の双方を克服してはじめてその潜在力量を発揮しうるのである。

(3) 自由で分権的な市民社会主義にむかう社会改造の事業は、それを担うに足りる政治勢力の結集、政党の創出を必要とする。この政党は少なくとも次の四つの条件をみたすものでなければならない。

 第一。この党は前述した自立的市民の自由な連合として、市民社会主義の基本理念についての一致を前提に、内部に多様な見解の存在をゆるし、自由な討論をつうじて路線と政策を豊かにしていく党、外部に対しては国民のあらゆる階層の知識や経験を吸収し得る開かれた党、一枚岩的な統制や官僚的な幹部支配とは無縁な党として市民社会主義の理念を先どりしたものであるべきである.

 第二。この党はいわゆる前衛党でないだけでなく、特定の階級に依拠した階級政党でもなく、文字通りの意味での市民の党、国民の党である。もともと前衛という概念は帝政ロシアや旧植民地中国に見られたように、国民の圧倒的多数が文盲の農民であり、高等教育をうけた一握りのエリートだけが社会主義について学び得るといった状況のもとで形成されたものであり、そこでは前衛による大衆の啓蒙、指導ということも一応の根拠をもち得たが、今日、成熟した市民社会において高等教育が普及し、国民の知的、文化水準が向上し、余暇が増大し、広汎な国民のなかに市民的自発性が高まり、それが多様な市民運動の発生としてあらわれているような状況のもとで、特定の政党への帰属を基準に前衛だとか、大衆だとか区別することには何の根拠もありえない。また自由な市民社会主義の実現は国民のあらゆる階層にわたる自立的市民の共同の事業として推進されるべきであり、特定の階級に依拠しなければならぬ必然性はない。現実には、今日、階級政党と名のっている政党は、労働者階級ではなく、労働組合に、しかも勤労者のなかでは比較的恵まれた層に属する官公労働者や民間大企業の労働者に依拠しており、労働者階級の党というより労働組合の党にすぎない。

 第三。この党は政治資金や選挙活動において労働組合をはじめいかなる大衆団体にも依存しない自立性をもつべきである。もともと政党の任務は、諸階級、諸階層の利益を即自的に代弁する点にあるのではなく、国民各個のしばしば相互に矛盾する諸要求を、より高い全国民的な次元で調整、統一する点にある。もし政党が財政や選挙活動の面で特定の大衆団体に依存しているならば、その政党は事実上、大衆団体の政治的存在に堕し、政党としてのもっとも基本的な調整、統合の機能をはたすことができず、総じて政策上の自立性をもち難いであろう。この点は、労働組合と革新政党との関係であろうと、自民党と財界との関係であろうと基本的にはかわりがない。政党と大衆団体との関係は相互の完全な自立を前提した協力のそれでなければならない。

 第四。この党が財政や選挙活動の面で大衆団体への依存から脱却し、それを自らのカでみたしうるためには、数十万を以て数える党員を擁する組織政党であることを必要とする。このような巨大な組織政党の結集はわが国の政治的風土のもとでは、それ自体が革命的な事業だと言ってよい。だが、こうした奇蹟をなしとげ得る政党であって、はじめてわれわれはその党に明日の日本の進路を領導する力量を期待することができるのである。

(一九七六年十月)


1976/10 目次次「中道革新政府の樹立をめざして」