新しい政治をめざして 目次次「万事自己流のこと」

緑の町づくり

 選挙の応援で、久しぶりに旭川市に出かけた。驚いたことに、駅前の平和通りに、高さ十メートルにおよぷ「ななかまど」の並木が、延々とつづいていた。赤い実とあざやかな紅葉の「ななかまど」は、私の好きな木の一つであり、この堂々たる並木に、しばらく声がでなかった。

 旭川は戦前第九帥団がおかれ、現在の平和通りも帥団通りと呼ばれた軍郡だった。戦後も殺風景で、パルプ工場からは、石狩川に泡だった廃液が押し流された。現在二期日の文化人市長と呼ばれる五十嵐市長が、北方動物園建設などに熱心に取組んでいることは聞いていたが、この並木をみせられて、さすがだと頭が下がった。

 市役所に張りだされた「ななかまどの町をつくろう」の横看板をながめるなかで、軍都から市民の旭川市に生まれかわる息吹きが聞こえる思いがした。

 先頃の統一地方選挙でも、「緑と空間の都市」というようなことが、どこでもスローガンにされ、都市緑化は流行の政策になっているが、実現は容易でない。国体が開かれると、必ず「花いっぱい運動」が行われ、その地域の主要道路が花につつまれる。

 それが、二年もたつと、跡形もなくなる。岡山空港への道の山側には、国体のときのコスモスが、いまも秋になると咲き乱れ波をうつ。近くの婦人達が、愛情をこめて世話をつづけ、これを自分達の誇りにしているのであるが、こんな例はすくない。緑の町づくりは、市民がその気になって起ち上がらなければ、成功しないのである。

 私がいつも感心させられるのは宮崎県の海岸の観光道路の並木だ。そてつ、柳、フェニックス、カンナ、バラなどが、それぞれ楽しませてくれる。宮崎交通という会社がつくったと聞かされたが、沿道住民の協力が必須の条件であり、いったい、どういう仕組で管理しているのか、知りたいと思った。

 近頃、籾の乾燥が火力に変わったため、ほし場に使っていた農家の庭がいらなくなり、庭園につくり変えられている。そうなると、きまってブロックの塀がつくられる。農家だけではなく、わが国の庭は、塀に閉じこめられ、開放されないのが通例である。

 スイスの町で、どこの家でも二階のテラスに鉢植の花をならべた町中花いっぱいの美しさにうたれたことがあるが、わが国では、みんなで楽しみ、一緒になって美しい環境をつくろうということになっていない。

 この極限は盆栽だろう。これは封建制のなかでつちかわれた慣行だと想う。西欧のように、封建領主に対する市民のカをあわせての反抗から都市が生まれたのでなく、地域民主主義がきわめて初歩の段階のわが国では、この古い慣行がいまなお打ち破られていないのである。

 わが国の都市の公園面積が、他国とくらべものにならない狭いものであることが、よく取上げられるが、公園という社会施設を、みんなで楽しむことが、市民の共通意思として充分に育っていなかったという側面がありはしないだろうか。芝公園などが、市民の抵抗をうけることなく、消え去ったことに、このことが現われているように思う。

 ところが、高度成長政策によって、急激で無計画な郡市化が進められ、いわゆる外部不経済がはなはだしく、緑も空気も水もそこなわれるなかで、緑の町づくりが、選挙スローガンに登場せざるをえなくなってきたのである。

 そこまではきたが、なお市民の意識は、市当局が公園をつくってくれたり、緑化をしてくれることを待望していることにとどまっており、市民みずからも起ち上がり隣人と手をつないで、美しい環境をつくり上げようという自主的な積極性をもってはいないようだ。

 東京三多摩地区を訪れるたびに思うことは、この立派な欅の大木がやがて全部消え去るのではなかろうかということである。外国のある都市で、市民田に親しまれている樹木は、個人の庭のものであろうと、市の許可なくして切り倒すことはできないという記事を、なにかで読んだことがある。法律や規則でしばりあげることには限界があるが、樹木が市民の共有財産だというところまで進んでこそ、緑の町づくりが成功するわけである。市民全体の緑への連帯感だ。

 このような市民運動を組織する口火は誰がつけるか。大阪の中馬市長は、まるでとりつかれたように緑を口にしてきた。この熱意のなかで、いま大阪では、法人や個人から、どんどん緑の寄金が集まっているようだ。当面、民主的な市長が各方面を刺激し、そこから市民運動の芽をつくり、これを発展させる役割をすることが大切だと思う。

 緑を愛することは、公害とたたかうことに発展し、新しい市民の連帯を生みだすことにつながってゆく。地域民主主義はこういう道すじのなかで生まれ育ってゆくのだと思う。


(文芸春秋、昭和42年8月号) 目次次「万事自己流のこと」