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わが鮎の記

 十月上旬、徳島で那賀川のおち鮎の干物をよばれ、下旬広島県三次で江川のうるかを手に入れ、これで今年の鮎とのつきあいも終ったようだ。

 およそ、鮎と鰻に関しては、誰もがおらが郷里の産をもって、天下一と誇るようだが、戦前、『美味求真』の名著をあらわした満鉄副総裁木下謙次郎氏によると、急流の苔で育ったものこそ逸品であり、例えは天下に名だたる長良川産のごときは、品質について疑問ありとしている。私は木下氏がすぐれた産地としてあげた日田川、旭川、仁淀川、吉野川、太田川、それぞれの上流というなかの、岡山県旭川上流に育った。しかも、父が鮎漁については半プロだったので、幼い頃から、父のおともをして鮎とつきあってきた。鮎をとると首のところをにぎって骨を折ってころすのだが、そのときの触感、てのひらについた香りがいまも忘れられない。

 鮎の漁法は多い。アマの場合は友釣りが一般的だが、半プロの助手であった私は、いろいろ手がけた。漁法の名称は、土地によってちがっているが、私はそのほとんどを知っていると、うぬぼれている。

 針によるものに、「友釣り」のほか、七メートルぐらいの糸に針を四、五カ所つけ、糸の先端に重い鉛をつけ、瀬にどぶんとほうりこんでひきずる「どんぶり」というのがある。箱めがねを顔にはめ、急流を泳いで下りながらひっかける「ひっかけ」がある。投網だと、夜の瀬に網をうち、うしろにかくした松明をふりまわし、鮎をおどして網の袋に追いこむ「ふりかけ」があり、舟から淵に投げる「舟打ち」がある。そのほか、川幅いっぱいに、細縄に薄くそいだ板をくっっけたのを張り、上流に進みながら縄をたぐって輪とし、かこったところを、三人連続して網を投げる「がわ」というのがある。

 長い網を使うやり方は、さし網を川幅いっばいに張り、その下流三メートルぐらいのところに、一メートル間隔でわらなわに麦わらのたばをつけたのを沈め、夜あそびに出た鮎が、この光りにおどろいて、網にささる「うかわ」。瀬がおわるところに、川幅いっばいたて網を沈め、ところどころ一メートルぐらいの細いかごを上流に向けて網の下にうめておき、朝、昼、夕の三回、網をたて、瀬の方から石をどんどんなげて、鮎を追いおとし、かごに入りこませる「せばり」。下り鮎にそなえて、川幅いっばいに、ななめに横ぎってくいをうち、なわを張り、一番下手にさし網を張ってまつ「なわば」。平時、淵に近い流れのゆるいところに、さし網をたて、小舟の先頭で火をふりながら追いあげてゆく「やねた」などがある。

 下り鮎を待つのに「やな」のほか、濁り水の川の中に枠組みをし、五メートルぐらいの丸太二本に網をはったのをつきだし、三、四人が組になって、三、四分おきに丸太の根っ子に腰をおろして網をあげる「わくまち」。一人で川にたって二本の竹に網をはったのでやる「たけまち」がある。

 私のやったことのないのは「鵜かい」だが、これはショウとして純プロがやることであり、半プロでは手がでない。芭蕉の句の「おもしろうてやがてかなしき鵜舟哉」のように、みていてもいかにも酷である。

 近年各所にダムができ、工場の汚水が流され、鮎の生育条件がおびやかされる。どこでも稚魚の放流をやっているが、この開拓者は進化論の市川千代松博士だったと思う。びわ湖の小鮎を、そのまま湖水で育てれば、いつまでも小鮎に終るが、川に放流すれば普通の鮎として成長することを、石川博士が進化論の立場から主張され、実践にうつされた自慢話を、学年時代に読んだ記憶がある。

 私は鮎は苔をたべないと成長しないものだと信じていた。木下氏の著書をみても、「水清くして流れ急なる処にあらざれば生育せず。彼等が唯一の好飼たる石苔も人工にて作る事困難なれば、之を他の養魚の如く池水に養殖する事は、絶対に不可能なりとす」とある。ところが、二、三年前、長野県で行われている養殖をみて、おどろいてしまった。

 人工の流れをつくり、石苔をつくって食べさせているものと思いこんで行ったところ、あにはからんや、鱒や鯉と同じように、板かこいの中に、大きなのが泳いでいる。フィッシュミールと野菜がえさだということである。シーズンには、毎日トラックのいけすで東京の料理屋に送られ、活魚料理として喜ばれているという話に、唖然とした。

 鮎は苔の香りが尊ばれ、香魚とさえ呼ばれる。この養殖鮎は姿形は同じでも、最早異質のものといわなければならないであろう。腹をぬいた塩焼の鮎を賞味している都会人の姿を思いうかべ、かなしい思いがしてならなかった。腹をぬいた鮎は食べる価値なしというのが、鮎の名産地で育った私の持論である。

 鮎の料理はいろいろあるが、その持ち味を生かした自然に近い料理法でなければならない。フライのごときは邪道である。私は、そのまま、ぶつ切りにし、二杯酢に四、五分つけたのを、最高の味と思っている。塩焼もいいが、たで酢に紅しょうがとなると、あまりにも人工的で面白くない。

 私にとって忘れられない鮎料理が一つある。それは鮎ぞうすいである。先に記した「せばり」の漁法に、「夜起こし」というのがある。夜明前に網をたて、瀬に上っている鮎が、夜が明けて淵に下ってくるのを通せんぼして、かごに入らせるやり方なのだ。夏とはいえ、ふるえがつくほど寒い。腹をあたためるため、河原でぞうすいをつくるのだ。漁場へゆく途中、どこかの野菜畑で、なす、青ねぎを若干失敬し、早くかごに入った鮎を二、三匹入れたぞうすいを、大きな鉄なべに、流木を集めた火でつくる。ひえこんだ腹に、できたての、鮎の香りの高いのをふきながら口に入れこむと、背中を通るときの熱さでとび上る。おわんを持って、川に首までつかりながら、腹一杯食べる。仲間数人がこうやっている間にすっかり夜が明け、あとはゆっくりかごの鮎をあげ、さらに数匹を塩焼にするという次第である。

 鮎がでてくる文学で、一番印象にのこっているのは、亡くなった葉山嘉樹氏の『濁流』という小説集のなかの一筋だ。葉山氏はプロレタリア文学者だが、戦争中、長野県の山奥の工事の飯場に入った。そこでの「友釣り」を扱った小説だったが、ひっかかった鮎をあげるとき、「なんまんだぷ、なんまんだぶ」と念仏を唱える。何匹とれても、一匹も金にかえない。鮎への愛情あふるる作品である。

 私が父のもとで漁をしていると、知人が分けてくれといってくる。父は売った。しかし、その相場は市中相場より高かった。私は合点がいかないので父にたずねたところ、生きがいいのだから高いのだという答えだった。父も売ることがすきでなかったのかも知れない。もっとも、たくさん取れたときには売らなかったわけではない。魚屋をしていた叔父が待ちかまえて持ち帰った。

 今年の鮎は終った。塩うるかをつつきながら、来年またお目にかかれる日を待とう。 


(エコノミスト、昭和40年11月23日号) 目次次「墓と葬式と」