新しい政治をめざして 目次次「母を語る」

花のいろいろ

 私は草花がすきであり、兄も二人の姉も同じである。兄はよろず物知りだが、草花はことにくわしい。いっしょに山を歩くときなど、目にとまるどれをたずねても、ちゃんと知っており、一つ一つにまつわる民話など聞かしてくれる。

 兄は植物の学問をしたのではなく、俳人であり、自分の足と目と耳で調べあげた吉備歳時記をつくりあげた。田舎俳人なのだから、出版の機会もないが、つくること自体が結構楽しいのだと思う。いまは生活の糧に木のぼんを彫っているが、いつか四角なぼんにバラの花を三十ぐらい刻んでいた。自分の庭の散り去るバラを、ぼんにきざんで供養するのだといっていた。

 私は兄とちがって散文的だから、草花にはたいして興味がなかった。心境がかわったのは、監獄生活からである。私はあわせて二回、未決を加えると四年あまり、狭い独房ですごした。一回目に未決から既決に移ったのは一月だった。囚人たちは首をちぢめ、やたらに手の甲をこすっていた。私は首をのばし、意気揚々と両手をふってあるいた。とたんに凍傷にかかってしまった。いまも私の指にはそのあとがあるが、火の気のない監獄で凍傷にやられると、五月が来ないとよくならない。

 二回目に入ったときは、冬のこないうちから、ひまさえあれば手の甲をこすった。監獄の冬は、まったくつらい。板の間に上下一枚ずつの布団だが、肩をおおえば足がでるし、足を温めようとすれば肩が冷える。大寒二週間ほどは、足をちぢめたり、からだをくの字にしたり、どうやらからだがぬくもってきたときは、もう起床の合図がなる。私は、この難行苦行をともにする相手をさがした。

 一日一回の運動は、扇形の板かこいの中でやらされるのだが、その僅かの空地に草花が植えてある。古参の囚人がつくる権利をもっている。私は幸いにも、そこにあった雛菊一本を、いつとはなく権利下におくことができた。この雛菊といっしょに冬をこそうと思った。

 獄中での私の作業は、藺草のスリッパつくりだったが、材料をしばってきた藁縄を鋏できざんで推肥の原料をつくった。一日二枚配給のちり紙につつんで、看守にかくして運動場の囲の中に持ちこんだ。看守も気がついているのだが、大目に見てくれる。きざんだ藁に土をかぶせ、翌日さらにその上に藁をおき土をかぶせ、数日くりかえした。看守が横を向いているとき、それに小便をかけた。

 こんなことで、立派な堆肥ができるはずはないが、それでも若干の効果はあるだろう。秋の終り、私は葉の枯れた雛菊の根元に、即製堆肥を敷いた。霜が来る。また藁をきざんで、おおってやった。こうしてもの言わぬ仲間と一緒に冬と対峙した。青いつぼみがかたくつき、やがて先端が白くなり、ほんのり桃色になってくる。あと数日で花が開くというとき、誰かの下駄で、意地悪くふみにじられ、つぼみの首を千切られた口惜しさを、いまも忘れることができない。私はこの監獄の冬から、草花を愛するようになった。私の出獄は秋の予定だったが、獄中から妻への便りに、間借の二階の窓辺に空箱をおき、紅と白のコスモスを植えておいてくれるようにたのんだ。

 獄中生活では、雑草も美しい。雨上りの雑草の美しさに見ほれたことがある。誰でも孤独にされると詩人になるのかも知れない。芭蕉の「よく見ればなずな花咲く垣根かな」の句が、素直に理解される。私は学生時代に山に登ったが、この体験の後、山を新しい眼で見るようになった。カラー・フィルムが普及してからは、高山植物を撮るのが楽しみで山へ登った。いまは忙しくて登れなくなったが、カラー・スライドは相当にたまっている。

 私の岡山の自宅は借地なのだ。中古の家だけ買って移ったときには、裏は空地だった。れんぎょうの大きな株が三つもあった。私は春の花では、早く春を教えてくれるれんぎょうが好きである。

 ところが、この空地に家がたつことになり、私が眺めてきた庭がなくなることになった。五坪だけ分譲してもらい、そこにれんぎょうの一株を移した。屋根の下は借地だが、庭だけは自分のものである。

 いま私達夫婦の願いは、二百坪の庭をもつことである。できるだけ自然のままにおきたい。やや荒れ気味なのがよい。思いがけぬところにきのこが生えたりすれはいよいよ面白い。どうせ私達の財力だから、坪千円ぐらいの山がよいだろう。選挙区の同志に話したら、そんなところにひきこまれては、自分達が困ると叱られてしまった。


(中央公論、昭和39年2月号)  目次次「母を語る」