新しい政治をめざして 目次次「日中間の平和共存を」

自民党ではもう駄目だ

1 権力の座にすわりつづけたもの

 田中首相が「日本列島改造」をひっさげ、マスコミの耳を聾する伴奏のなかに登場したとき、多くの国民は、まるで世直し大明神でも現れたかのごとく、大拍手で迎えた。世論調査は、歴代首相中、ずばぬけて高い支持率だと告げた。ところが、あれから一年半、いまは国民怨嗟の的、支持率も最低に急落してしまった。それまで、高度成長下に静かに進行したインフレは、田中政権になって様相を一変し、いまや先進国中最悪というひどいことになった。そこに石油危機が襲ってきた。そして、「日本列島改造」こそが、諸悪の根源なりと集中攻撃をうけている。石油の問題は、西欧諸国では、事前に予測されていたと伝えられている。わが国でも、年率二〇パーセントもの増加率で石油を消費しつづけることのできないことぐらい、かなり前から分っていたはずだが、いかなる難関も、金を積んで突破しえざるはなしの哲学に立つ田中首相にひきいられる政府には、まさに青天のへきれきであった。あわてふためいて、アラブ外交の手直し通告はしたものの、相手がどこまで信用するか疑問であり、外交も内政も、首相のお得意であるはずの決断を欠き、後手を重ねて混乱はいたずらに加重してゆく。経済が平常であれは、腰をぬかすほどのことでもない石油ショックも、悪性インフレと複合しているため、事態は深刻である。

 この責任が自民党と、さらに、世界に例のない高度成長を当然のこととして、自民党政権の猪突猛進をリモコンしてきた財界にあることは言うまでもない。とはいえ、野党にも責任なしとは言えない。議会制民主主義下にあっては、野党も重要な政治のパーティシパントであり、野党なりの責任が伴う。ことに高度成長については、一端の責任を免れない。もちろん野党は、国民の福祉と環境保全を忘れた高度成長を批判してはきたが、支持基盤である労働組合が高成長、高利潤、大幅賃上のパターンを一直線に進み、これは労働組合としては当然のことだが、野党もこれに引きずられて、成長率スローダウンのための思い切った方針をとりえなかったことも事実である。あるいは、円切上げが不況に直結するとして、早期断行反対にうごき、それが商社大企業の厖大な買占め資金蓄積となったことも、勉強不足を責められなければならない。

 現在、革新とは反自民であることを第一条件とすることに、革新四党の見解は統一されており、誰も疑わない。現状は、自民党があまりにも悪すぎ、超保守であり、反動でさえある。これを打倒して、政治の流れを変えなければ日本の明るい未来はない。従って、革新政党は反自民に徹せよという三段論法が成り立つ。だがそのことは、自民党のすることに反対し、批判さえしておればよいということではない。つねに、われわれの基本方針なり、自民党案にかわる代替案が国民に提示され、たとえ一歩前進であろうと、実効を積み上げることなしには、自民党に背を向ける国民の顔を、われわれの側に向け変えさせることにはならない。最近の各種世論調査の結果はいずれも、自民党支持率の低下が、革新政党支持に直結するのではなく、支持政党なしの激増となっていることに、深く思いをいたさなければならない。もちろん、革新政党も単に反対批判に終始しているのではなく、対案を提示して修正を迫り、若干の成果をあげている。かつて私が構造改革路線を提唱したとき、一顧の価値なしと反対した勢力も、表面はともかく、現実には私の提唱を実践しつつあるように見受けられる。だが、概して言えば、古い尻尾を断ち切ることができず、改良と改革の大道を堂々と進む気魄と確信に欠け、したがって、革新という未知なものへの、国民の不安感を解消しえないでいる。

 われわれの目指すのは国民の幸福である。だから、いま直面している危機は速かに乗り切り、国民の不安を解消しなければならない。危機が深まり、田中が倒れ、革新がとって代るという危機待望論は許されない。これは国民の不幸であるばかりか、結果において田中から福田への政権たらい回しに手をかすだけに終るであろう。いまわれわれのとるべき道は何か。たんに政府の対策に修正案を提出するだけでなく、いま政権の座にあったならこうするという、積極的な包括的な解決案を、天下に明らかにすることである。その上にたって、時と場合によっては、危機突破のため政府に協力する道もあってよいのではないかと私は思う。このことによって、われわれの政策能力が国民から評価されるなら、より高い質の支持がえられ、未来に明るい展望が開かれると思う。

 田中首相は、この危機を未曽有のものと認識したのか、幸便と考えたのか、ともかく、冷戦関係の福田赳夫氏に蔵相就任を求め、福田氏は政策転換の約束をとりつけたと称してこれに応じた。この経過にたって、私は首相の国会演説と応答に注目した。そして、前に述べた「協力」ということが、考慮の余地ない甘い考えだと、さじを投げざるをえなくなった。

 この危機が政府だけで乗り切れぬことは自明の理である。首相も挙国一致を口にした。しかし、そのための絶対条件である過去の反省はかけらもなかった。官僚作文の棒読みだけであり、首相のとりあげた節約の美徳とか価値観の転換とかは、われわれも同調できる大切なことなのだが、自分に反省のない田中首相が口にしたのでは、まことに空々しく聞こえるだけである。権力の座に坐りつづけてきた者の限界を痛感せざるをえず、「協力」したくとも、簡単に先方に便乗され悪用されるだけのことである。保守から革新へ政権をかえることなしに、明るい展望はひらかれない。


2 いかなる社会主義なのか

 来年の参議院選挙は、保革逆転のチャンスだといわれる。その条件はある。ただし、革新各党の相互協力が必須の条件であり、それには、政権構想での意思統一が必要である。いま、各党の構想が発表されたことは、一歩前進といえる。

 しかし、私が残念に思うことは、社会・共産・民社の三党が、この政権は社会主義政権ではなく、そこにいたる過渡的なものと位置づけていることである。では、社会主義政権とはなにか。これが漠然としている。発表されたなかから、強いてうかがえば、どうやら国有国管を柱とする社会主義のように見うけられる。それならそれで明確に示すべきであり、それをいまはっきりさせると、国民の同調がえられそうもないので、水を割って、口当りのよいものを並べたてるというのでは、誠実を欠き、かえって国民の不信を買うことになるであろう。

 混乱と衣食にもこと欠いた終戦直後には、社会主義は、その言葉だけで、一応の魅力をもつことができた。だが時代は変った。高度成長による豊富とともに、豊かさの質が問われている時代である。既成の社会主義国も、すべてがよいとは言えなくなった。いかなる社会主義かが問われているのだ。国有国管さえ断行すれば、国民の幸せがすべて保障されることに必ずしもならないことが、社会主義国の実体で広く明らかになってきた。人間社会の階級を根絶させるという社会主義が、官僚という新しい特権階級をつくりだし、国民の真の自由が保障されないことになっては、国民の賛成はえられない。経済成長にもブレーキがかかる。

 私は、社会主義とは平等、豊饒、自由を目指し、人間の真の連帯をつくりだす、終着駅のない、絶えざる改革のプロセスだと思っている。そのために、既存の体制が障害となれば、これを乗りこえてゆく。現実の矛盾、不合理を、目標を目指してたゆむことなく改革してゆくのが社会主義であり、そのことに取り組む政権が社会主義政権そのものである。その政権が過渡的なものに過ぎず、ほんものはどこか御神殿に納めてあるというものではないと思う。われわれが今日のこの事態をどう処理するかに、明確な包括的な方針を打ちだすことがなければ、反自民ではありえても、革新とはいえないのである。

 直面している危機が、どんなに深いものなのか、国民は明日の展望のない、くらやみにおかれている。いまなお、経済大国の酔いからさめないものも、日とともに思い知らされるであろう。これからわが国が当面するのは、石油だけでなく、全資源が有限であり、日本が資源小国だという問題である。金さえあれば資源は無限に運びこむことができ、昭和六十年にGNPは一兆ドルになるという、日本列島改造構想が、うたかたの夢にすぎないことはいうまでもないが、さてそれではどうしたらよいのか、産業構造だけでなく、生活の様式まで、価値観の大転換を迫られているのである。われわれは、当面の危機を全力をあげて、できるだけ短期に処理するとともに、明確な転進の方向と将来展望をたてなければならない。革新の政権構想は、この課題にこたえうるものでなければならない。

 当面の危機打開に、政府は「国民生活安定」と「石油需給適正化」の二法案を国会に提出した。だが、根本策は誰が考えても、財政金融政策などによる総需要の抑制である。それが経済の論理であり、政治が社会的摩擦と不平等とを是正しながら、どれだけ思い切った手を打てるかにかかっている。しかし、政府のやっていることは、一言でいうなら、二法はカルテルを認め、官僚統制に近づくドロ縄の不用意であり、総需要抑制はまことに不徹底であって、到底国民を安心させるものではない。

 本来、経済の統制は危険な道である。われわれは戦中戦後、その痛苦を骨身にしみて味わわされた。人間の心まで荒廃させてしまう。しかも、統制は一度スタートを切れば、安易に拡大され、引き返すことのできない泥沼にのめりこんでしまう本質をもっている。政府に信頼がなく、業者のエゴイズムが横行する今日、若干の統制は止むをえないとしても、これを数ヵ月に限定する厳重な歯止めと、官僚統制におちこませない監視機構が用意されなければ、大きな悔をのこすことになる。

 革新四党が危機突破に院内共同行動をとることは結構だが、私のみるところでは、統制のおそろしさに、認識が足りないのではないかと思われる。そこに、社会主義とは国有国管だという認識と結びつくものがありはしないだろうか。統制と計画とは別の論理ではあろうが、社会主義社会にあっても、権力は絶えず縮小を目指さなければならないことである。

 いうまでもなく、現在の危機はかなりの重症であり、しかも対策が手後れだけに、強力な需要抑制という荒療治が必要である。同時にそれによって起る苦痛を救済するため、雇用、社会保障、シビルミニマムの保障、中小企業対策などに万全の措置が伴わなければならず、高度の政策能力と国民から信頼される政治とが要求される。また、かりにも、多少汚染しても、といったモノ不足を口実にした公害対策の後退は絶対にさけなければならない。そしてそのことは、石油文明、クルマ社会からの脱却という将来日本の産業構造や生活様式のあり方とも切り離せない。石油の供給が復活すれば、たどってきた道を再びくり返すということであってはならない。福祉優先、無公害、省資源産業への転換と、簡単に口にすることはできるが、具体策は極めて困難である。そこでは、計画と競争をどう組み合せるかという、将来日本の社会主義のスタイルにかかわる問題にも逢着する。果して、現在の革新政党の政策立案能力がこれらにこたえうるであろうか。さらにこのことは、外交の転換を必至に迫っているが、その重点は発展途上国との関係であり、具体的にこれをどうするのか、確たる方針が野党にあるのか。抽象的な言葉ではすまないのである。

 野党は官僚というテクノクラートを持たず、手にしうるデータも乏しい。だが、見失ってならぬことは、在野の優れた学者専門家は、数え切れないほど多数だということである。この結集が行われ、協力がえられるなら、道は大きくひらけるにちがいない。革新の政権獲得が、党エゴイズムに立った一片の宣伝ではなく、国民のための誠実な誓いであるなら、院内外の共同闘争も大切であるが、共同の頭脳集団をもつべきである。各党が既往にとらわれず、すぐれた頭脳の自主性、創造性を尊重する姿勢になって、その結集に取り組むことが急務である。


3 野党連合政権への道

 すでに、参議院選挙戦は始っている。選挙戦がそれぞれの党の、党エゴイズムの対決になることは、ある程度さけられないことではあるが、革新四党の政権構想も、共通項を求めて近よるというよりも、差異点を拾いあげて相互攻撃に走ることに終る可能性もある。それでは保革逆転は実を結ばない。

 社会党は全野党共闘を唱えているが、すでに共産、民社の両党間には、埋めることできない溝があり、反発は強まりつつある。公明党も、共産党とは相容れないものがある。私は選挙共闘の現実的可能性は、公明党が打ち出した社会公明の共闘、その上にたっての社会共産のブリッジ方式というのが、可能性の最大限であり、社公民共闘を主張する民社党も、共産党とのブリッジなら容認できるだろうと思う。共産党がこの方式を、反共の現われとして攻撃しているのは、あまりにも独善である。真の革新は自党のみであり、他は多かれ少なかれ中間政党にすぎないという共産党の態度には、共闘に本気なのか、錦の御旗をみせかけにたてているだけなのか、強く反省が求められねばならない。同時に、民社党も頑固であってはならない。いまはなにより、自民党永久政権に痛撃を与えなければならないからである。民社党の将来が明るくないということから、他の革新政党が、これを軽視する傾向があるのは正しくないと思う。同盟をはじめとする、民社党の看板である民主社会主義を支持する潜在力は、決してちいさくはなく、これを軽視し、革新から追いやってはならないことであり、特に革新の要と自負する社会党は、民社党ともっと深く接触しなければならない。

 選挙共闘と政権とはどう結びつくべきか。われわれの求めるのは、人間の自由を基礎とした社会主義である。共産党はプロ独裁から転換したとの印象をふりまくことに努めているが、マルクス・レーニン主義の旗をおろさないこの党が、将来、真に人間の自由を尊重するのかどうか、私には疑問である。共産党独自の解釈による自由や民主主義ではなく、広く一般通念としての自由や民主主義は、現在の共産党の内部には、やはり稀薄なように思われる。この党の大会が、翼賛大会に過ぎなかったことは、傍聴した報道人の多くの感想である。党内に保障されない自由や民主主義が、党外国民には保障されるという保障はどこにもありはしない。

 私は自治体首長選挙や国民がぶつかる個々の問題について、共産党との共闘を拒否するつもりはない。民社党が、院内はともかく、院外での共産党との共闘を拒否し、市長選挙においても、反共のあまり、保守候補支持に回ったりすることは、かえって国民の不信を買い、将来の日本の政治に大きなウェイトをもつ進歩的市民運動に、いつまでたっても足場をもちえないことになっていると思う。しかし私は、政権については、共産党とともに担当すべきでないと、一貫して主張してきた。自治体や日常諸課題での活動は、国政の枠組の中で行われるものであるが、政権担当は枠組そのものを変革するのであり、独善に終始し、自由と民主主義の尊さを認めていると思えない現在の共産党と腕を組むことは、今日なお多くの国民が共産党に拒絶反応をもっていることも考えるなら、あまりにも危険が大きいからである。選挙共闘においてと同様、社公民が腕を組み、共産党とは一歩おいての連携という方式がとられるべきである。

 西独社民党は、保守党との「大連合」にふみきって、万年野党から脱却し、そこで政策と統治の力量を示すことによって国民の信頼をかちとった。これを新しい足場にして「大連合」から社民党主体の「小連合」に飛躍し、国民の支持を一層高める道をえらんだ。多くの学ぷべきものがある。しかし、現在の自民党をみるかぎり、権力を悪用した金権政治であり、保守というより反動にちかく、西独方式はとうてい行える余地がない。もしありとすれは、自民党内の進歩派が分裂した場合であろう。福田蔵相は就任に当って、前向きの政策転換を公言したが、その後の行動は田中路線の中の一つの歯車に終りつつある。将来の田中から福田への政権たらい回しに、有効な布石をしたにすぎないと見られる。この経過のなかにも、権力の味になれきった自民党から、進歩分子の離脱ということは、しょせんありえないことだと思う。福田氏を進歩派と評価はしないが、世間一般から進歩的とみられている諸君も、政権を離れて、冷やめしに甘んずる気慨のものが何人いるだろうか。

 私はこのような条件のなかに議会制民主主義そのものの崩壊をおそれる。だからといって、これという奇手妙手があるわけでなく、革新勢力がパンチのきく力量をつちかってゆく以外に道はないのである。それにはまず社公民が腕を組み、その上にたって、次の可能性をさぐることである。直面している危機の探さに思いおよぶとき、どれだけの時間がわれわれに残されているのか、胸をしめつけられる思いがする。


(中央公論、1974年2月号) 目次次「日中間の平和共存を」