新しい政治をめざして 目次次「社会主義神話の崩壊と社会民主主義の再生」

2 社会党と私の歩み

 私は昭和五年、大学を中途退学して、郷里岡山県で農民運動に身を投じた。同時に全国大衆党に入党し、県会議員にも当選した。全国大衆党は、その後合同を重ねて全国労農大衆党となり、社会大衆党となった。私が昭和十三年、いわゆる「人民戦線事件」に連坐し、治安維持法違反として入獄中、戦時下の弾圧によって社会大衆党は解散させられた。出獄しても、運動の足場はなく、特高警察がうるさく訪問してくるので、死んだ人間を相手とすると言って葬式屋になったが、政府はわれわれ思想要視察人を、ミンダナオで農業開拓をさせる計画をたて、私にも要請してきた。これを避けるため中国に渡り、二年半の大陸生活を経て敗戦で引揚げると直ちに、郷里岡山県で農民運動に復帰し、戦前の社会大衆党の延長線にある日本社会党に入党した。そして今日に至ったのであり、私の生涯は社会党とともにあり、喜びも悲しみもという次第である。

 社会党では、県会議員に当選した。国会に出たかったが、岡山県の農民運動が私を必要とし、中央で活動することを許さなかった。私が中国から引揚げるまでの間、県下の農民運動は共産党が指導部をにぎっており、私が復帰してから社会党が指導権を奪還しつつあったので、離れるわけにはいかない情勢であった。しかし、党の中央委員になり、大会へも代議員として参加した。鈴木茂三郎氏を中心とする左派の地方活動家として行動し、昭和電工事件の西尾末広氏を除名する大会決議の先頭にもたった。

 ところが片山内閣の予算案の採決から労農党分裂がおきた。私は戦前、黒田寿男氏がはじめて岡山県で立候補するとき以来、選挙責任者をつとめており、その黒田氏が先頭にたった労働党なのだから、ショックは大きかったが、社会党にふみとどまり、衆議院選挙で黒田氏に立ち向ったが敗れた。これで岡山県の社会党は国会議員ゼロとなり、この空白をうめるため、昭和二十五年の参議院選挙に出馬当選し、活動の舞台は中央に移ることになった。参議院では農林水産委員長もつとめたが、活動の重点は、議会ではなく、党務においた。その面では、プラスもあり、マイナスもあるが、多くの課題ととりくんだ。

 昭和二十六年の講和条約で党が分裂したあと、左派に属した私は、党の宣伝活動を強化するため、日刊の機関紙をもつことを強調した。誰もが趣旨には賛成だが、成功は不可能だという。ついに「言いだし屁」で、亡くなった青野季吉氏を社長、私が専務取締役として、資本金一千万円の株式会社日刊社会タイムスを創立し、二年八ヵ月間、悪戦苦闘を重ね廃刊をよぎなくされるまで頭張った。計算上は経営が成り立つのだが、分裂後の苦しい地方の党組織が、集金した紙代を、党経費に流用してしまうのである。社会党はいまなお日刊機関紙が持てないでいるが、社会タイムス時代に、全党が本気で取組んでくれていたならと、死んだ児のとしを数えることが、今でもときにある。

 昭和三十三年に組織局長に選任されて取組んだのが、党の機構改革である。当時の党は、中央執行委員が四十人であり、これでは決議機関にとどまり、党務執行の機関としての機能は果しえない。私が特別委員長として、大いにねばり、妥協もしながら決定したのが、ほぼ現在の党の機構である。そのとき私が提案したものの一つは、党費を納め、機関紙を購読し、選挙に党の候補を支持する最低の義務を負う一般党員と、一般党員から信託され、広く党活動を担当し、党大会代議員として選ばれる資格をもつ活動家党員の二つに分けて組織するという新しい方法である。これはオーストリア社会党の組織方針を参考にしたものだが、この方法によって、私は党組織の裾野を大きく拡げたいと考えたのだ。この提案は、向坂逸郎氏を先頭に反対が強く実現することができなかった。しかし、現在の党の実態をみると、党員となると負担が重すぎるため、各級議員が個人後援会という形で、党員以外の者を組織しているのである。私の提案した二重党員制度にしたほうが、よほどすっきりしたものになったと思っている。

 もう一つ、実現して、あとでなやまされたのが国会議員の代議員権問題である。当時社会党は上昇過程にあった。全国大会が最高決議機関としての機能を果すためには、代議員は五百五十人程度が限度であり、国会議員がふえてゆくと代議員の過半数をこえることになり、地方議員や一般活動家の発言がおさえられてしまう。この弊をさけるために、国会議員は自動的に代議員になる制度を改め、国会議員も一般党員も同等の資格条件にたって、代議員として選出されなければならぬ、ということにしたのである。反対があったが、委員長として押し切った。これにあとでなやまされることになったのである。

 当時私は、議員の大部分は、当然代議員にえらばれてくると思った。また、こうしてこそ、議員が下部組織に責任をもつ活動を展開せざるをえなくなり、党の健全な発展があると思った。ところが、実施してみると、議員は出てこない。選挙のとき支えてくれる若い党員が、代議員になりたいというのをことわって、かれらのきげんを悪くしたくはないのである。若い党員が多少軌道外れをやっても、大勢には影響ない、大目にみてやれ、と言っている間に、今日の事態に立ち至ってしまった。もとのように国会議員は自動的に代議員になるように変えろ、という主張が議員の間にたかまってきたが、規約の改正は三分の二の賛成が必要条件であり、いまさら、そのことは不可能だということになった。私の見とおしの甘さである。同時に言いたいことは、議員がなぜ積極的に代議員に出てこないのかということだ。その肚をきめれは、選ばれないことはあるまい。議員というものが、議員でありさえすればよい、歳費を受取る身分を失いたくないという、安易なサラリーマン根性におちこんではいないだろうかと、問いたいものがある。

 昭和三十五年三月、私は浅沼委員長のもとで書記長に選任され、安保反対闘争に取組むことになった。岸内閣を総辞職には追いつめたが、自氏党内閣に終止符をうつための新しい政権構想を提示することができず、池田内閣へのたらい回しを許すことに終ってしまった。安保闘争の末期の段階で、「護憲・民主・中立」の構想を発表したのだが、具体的な中身が詰められていなかったし、時期もおそきに失していた。浅招委員長が右翼の暴力に倒され、私が委員長代行として総選挙に臨むことになった段階で「護憲・民主・中立」をさらに発展させて構造改革路線を打ち出した。

 総選挙は十八議席増の成績だった。選挙後、私は構造改革路線にたって、いわゆる「社会主義の江田ビジョン」を訴えた。われわれのめざす目標を、根のない空想としてでなく、すでに世界のどこかで実現されており、したがって日本においても実現可能なはずのものとして、国民にわかりやすいかたちで示すために、アメリカの高い生活水準、ソ連の行きとどいた社会保障、イギリスの議会制民主主義、そして日本の平和憲法の四つをあげた。これが党大会で問題とされ、ついに葬り去られた。

 構造改革路線は、私が提唱した当初の段階では、現在の成田委員長はもとより、いま協会派のチャンピオンとして党副委員長に選任されている高沢寅男氏も賛成であった。ところが高沢氏は方向をかえ、成田氏も構革を口にしなくなった。江田は構革右派であり、正しい路線は構革左派なのだともいわれ、それ以来、私は党内右派のリーダーという呼称をうけることになった。


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