構造改革論の思想的意義と現実的課題 目次ホーム

九、 日本における『構造改革論』の今後の課題

― 結語にかえて ―


『構造改革論』の導入は、我が国においては、革新勢力の内部にさまざまな動揺や分裂を引き起こす結果となった。それは、我が国の革新勢力、とりわけ社会党、共産党などの革新政党の内部矛盾、組織的、体質的弱さを示すものであった。

『構造改革論』が、日本において根を下ろすことができなかったのは、それが特殊イタリア的で日本の土壌の上に合わないから、“改良主義”的傾向に陥っているから、「主要な敵」は「アメリカ帝国主義」であるから、といった批判論が、これを押し切ったからばかりではない。それは、理論をめぐる問題ではなく、日本の革新勢力の体質的、組織的欠陥が、はじめからこれを実践的に生かすだけの能力をもってはいなかったということにある。広範な大衆組織をもっていない日本の革新政党が、『構造改革論』を唱えたところで、それを実践化し、具体化することは、到底不可能に近いのである。組織のないところに『構造改革論』を導入すること自体、すでに「本末転倒」であると言っても良い。

この路線がイタリアで形成され、現在定着しつつあるのは、何よりもイタリアでは、共産党を中心とする左翼勢力が強い力を持っており、この闘争を実際に推し進めてゆけるだけの主体的な力をもっているからである。しかも、広範な大衆を結集した連合戦線の下に、反ファシズム闘争を戦い抜き、これを倒し、新憲法を自らの手によって獲得したという強い自覚と自信、そして、この二つの歴史的遺産を守りぬこうとする主体的意志と行動が、イタリア労働者階級の中に生きているからである。ところが、日本のように、大衆が実際に自らの手で獲得した歴史的遺産をもたず、しかも、基盤が弱いため革新勢力が事あるごとに分裂し、その結果、統一的組織がほとんど形成されないようなところでは、広範な大衆の統一組織による「下から」の革命的エネルギーを必要とする『反独占―構造改革』の闘争など出来る訳がないのである。

『構造改革論』が日本で育たなかった理由は、そればかりではない。その路線をとる政党の指導者が、それを大衆のものとして、直接大衆の中に持ち込んでゆかなかったからである。「ヴィジョン」という言葉は、確かに大衆の心をとらえる言葉であったかもしれない。だが、単なる「ムード」による『構造改革論』の一般化は、いたずらにその本質をゆがめるだけなのである。さらに社会党についていえば、それを理論や政策を発展させる上での重要課題とはせず、専ら派閥や人事のかけひきにそれを利用し、不毛な論争の種としたことも大きな問題である。

しかし、いずれにしても、この『構造改革論』の導入が、これまでの日本における社会主義の思想や運動の在り方に対して、大きな「問題提起」を行い、その新たな展開を促す契機となったことは確かである。それは、日本の革新勢力に対して、これまでの日本の社会主義思想のあり方への根本的反省をも促している。大衆から遠く離れた次元で、資本主義の本質や矛盾を指摘し、「自立か従属か」、「日本帝国主義は復活したか、しないか」、「主要な敵は、独占資本か、アメリカ帝国主義か」といった論争を繰り返しているだけでは日本の社会主義思想の創造的発展はありえないであろう。そのためにも、『構造改革論』をめぐる論争は、それを「是」ととるか、「非」ととるかといった単純な一元的論理ではなく、大衆と直結した新しい次元での建設的な論争として、直ちに発展させられなければならないのである。

(完)



 以上の論文は昭和41(1966)年、私が在学した早稲田大学 政治経済学部 政治学科内田満先生ゼミにおいて提出した卒業論文を原文のままワープロ化したものです。私個人としてはノンポリを貫き、学生運動や社会主義者と特別な因縁を持っていたわけではありませんが、この論文作成にあたり、社会党大会を見学するため九段会館に足を運び、父が懇意にしていた故江田三郎氏には親近感を持っていました。44年間で日本も世界もイタリアもそして社会党も大きく様変わりしました。

 よくぞ沢山書いたなと今更、感心しています。恥かしながら御笑覧頂ければ幸甚至極に存じます。

2000年8月7日  菱山郁朗


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