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六、 イタリアの社会構造と『構造改革』


イタリアの社会構造を特徴づけるものは、かつてグラムシも厳しく指摘したとおり、北部の工業と南部の農業に示されるいわば南北という二重構造の問題である。しかし、これは単に工業と農業という産業構造の二重性の問題だけに求められるべきではなく、イタリアという南北に細長く伸びた地理的風土性、或いは又、歴史的、文化的なさまざまの伝統、特殊な条件に求められるべきである。

ローマ帝国が崩壊してから、イタリアは北部はゲルマン民族の侵入するところとなり、南部はアラブ諸族の支配下に置かれた。やがて、北部にはロンゴバルド人が住みつき、彼ら固有の文化とローマ文化とを結合させて、独自の新しい文化を開花させた。一方、南部では、アラビア人が、数学や天文学をもち込んで、彼らなりの独自の文化を形成した。こうして、南北は互いに知る事がなく、理解する事も出来ぬように分離し、それぞれ異なる経済、政治組織のもとに発展していったのである。

「リソルジメント」(国家再復)と呼ばれる統一・独立運動によって、イタリアの独立が達成されたのは1861年のことであった。当時の人口はおよそ2600万人で、そのうち1550万人が生産年齢人口と考えられたが、このうちの三分の二、1030万人が農業に従事し、やっと5分の一強の320万人が開始されたばかりの産業に従事していた。しかし、この産業も、実際にはその大部分が手工業的形態をとるものであり、経済的諸施設は皆無に近く、工業製品の需要もほとんどゼロに近いほどであった。そのため、農村的、家内工業的な産業がしばらくの間経済の中で大きな比重を占め、将来の工業発展の基礎となり、やがて鉱業、金属、化学、機械といった分野を少しずつ開拓してゆくこととなった。

この変化ないし発展は同時に、王家を中心とする封建的諸要素の「ブルジョアジー」への転化をも意味した。しかし、その転身は、遅れた経済の中で遅々とした形で行われた。こうして、北部イタリアのピエモンテ、ロムバルディーア、リグリアの三州を中心に産業の開発が進められた。そこには、統一前にすでに国外の絶対君主側からの反封建的諸改良として、多少の家内工業が発達していた事もあったし、当時の交通事情から見ても、アルプスを超えて、他の諸国との交易の便があった。また、リグリアにはジェノヴァという屈強な港があった。さらにポー河は後に電力開発に貴重な存在となった。すべての条件が北イタリアに産業を集中させるのに適していた。北イタリアの工業化はこのようにして南部の農業を無視ないしは犠牲にする形で進められた。トリーノ、ミラノ、ジェノヴァは次第に工業都市となり、その多くの工場は、農村出身者だけではなく、都市の勤労者をも吸収し、近代的な労働者の階層がそこに形成されていった。ところが、これに反して、南部は放置されたままになり、南部諸都市の住民は、大学卒業者さえも就職に苦心する状態に追い込まれ、北イタリアと南イタリアとの格差はますます拡大してゆくこととなった。イタリアにおける経済発展はこのように最初から跛行状態の中におかれていたのである。

イタリアにおいて、近代工業と呼ばれるものは、実際には、1898年から1913年にかけての15年間に確立されたものであり、それも正確に言えば、基礎が出来たという事であった。それは、イタリアが植民地獲得の戦争に乗り出したことによる軍事的必要の所産であった。ここから鉄鋼及び金属鉱業の発展が促進され、1910年頃には、最初のトラストが形成された。外国資本の侵入、特にドイツ工業の組織的な侵入は、イタリア工業にあらゆる形の対抗措置を考究させ、それは工業生産を資本主義的に操作するための近代的銀行制度の創設をもたらせる。銀行の介入によって産業は飛躍的発展を約束され、アンサルド(重工業)、フィアット(自動車、機械)、ズニーア・ヴィスコーサ(繊維)、モンテカティーニ(化学工業、鉱山)、ピレツリ(ゴム)、エディソン(電力)、インノチェンティ(工業機械)等といった民間企業体がそれぞれの分野で独占を確立していった。しかし、これらの経済活動はすべて北部に集中されており、その基調には帝国主義的戦争政策(リビア戦争(伊トルコ戦争)におけるトルコへの侵略などに見られる。)があったのである。


すでに述べた経済・社会構造の二重性は、遅れて資本主義に入った諸国に見られる共通の現象である。(我が国における「二重構造」の問題もその視点からとらえられるべきであろう。)ところが、イタリアでは、それが内面的な関係だけでなく、南―北という画然と地域的に区分されるような外面的関係を作り出したのである。これがイタリアの二重構造の最大の特徴であった。この二重性の故に、経済・政治はもとより、社会、文化一般が特異な姿をとったのであり、それ故、イタリアにおける労働運動もそれに照応する異なった戦略体制を取らざるを得なかった。北部と南部との著しい格差、南部の意識的に放置された未開発性、一口に言って「南部問題」は、イタリア資本主義の最重要点であり、同時に最も弱い部分でもある。そこで、この正当な評価にイタリア・マルクス主義による革命の問題をかかっていた。そして、すでに見たとおり、グラムシはこの問題を正しく認識して提起した最初の人であった。故に今日のイタリア『構造改革路線』の源泉はこの「南部問題」の分析の中にもはっきりととらえられるのである。

イタリアにおける封建的諸勢力の中で最大のものは大土地所有者であるよりも、むしろ教会権力であった。イタリアは旧教の本拠地統一前にもそれは膨大な公式領土(中・南イタリアを中心とした法王領など)を持っていたが、その後も各地に教会財産を保持している事では依然として大地主であり、自らの銀行を創立し、それが北イタリア産業に部分的な投資をしていることでは金融資本家の面をも持っている。それにもまして、旧教が国教であり、法王庁(ヴァチカン市国がその所在地)が精神界の王座にある点に比重の大きさがある。政治・文化を通じて、教会の力は抜く事の出来ぬ強さを持っており、いかなる政府もこれに直接に対抗する事はできない。それは、かつてファシズムさえ、ついにこれと妥協せざるをえなかったことを見ても明らかである。教会の勢力は、イタリアの二重構造とは別の意味で又大きな特徴であり、しかも、イタリア南部の近代化への転換が困難である一つの理由は、ここに旧勢力が根を張っているという事情からもきているのである。

南部イタリアの農村は大雑把にいって、三つの社会的階層によって構成されていた。その第一は大土地所有者・地主の支配者であり、第二は圧倒的多数を占める貧しい農民、第三は知識人である。知識人層は、いわば農業ブルジョアジーといえるものであり、中小土地の所有者である。だが、彼ら知識層の社会的地位は必ずしも安定したものではなかった。ことに北イタリアに工業が興隆し、南イタリアが放置されて不均衡が拡大すると、知識者の特権的立場も経済的に裏付けされないという状況が出てきた。知識だけは十分に身につけながら、社会的地位を獲得できない失業知識者が南イタリアに多数生まれた。そこで、彼らはこの社会の不合理に反発し、何らかの形で現状を打破することを望んだ。そうして、彼らは、社会主義思想を受け入れ、あるいはアナーキズム(イタリアにおいては1872年、バクーニンの影響の下にはじめてアナーキズム組織が作られた。)を実現しようとした。しかし、彼らの中には社会主義というものについて、これを歴史的に階級的に分析しえず、正しい方向を捉えられないことが生じたため、やがて国家主義に夢を托し、或いはファシズムに転身するものも数多く現われた。

イタリア資本主義は20世紀の初頭にはさしたる破局を示さなかったが、リビア戦争(伊―トルコ戦争)から第一次大戦(イタリアは三国同盟を脱退し、最初、中立を宣言したが、後に連合国側に属してこれに参戦した。)へと資本主義諸国との競争、植民地分割戦争への参加に積極的になるにつれ、その弱体性を大きく露呈するようになった。そして、大戦後の経済的破局、社会不安に乗じて、突然登場したのが例のイタリア・ファシズムであった。(注)このファシズムの成立は同時に社会党や労働総同盟のような政党及び労働者組織の指導の無能力を改めて暴露するものであった。当時、社会党はイタリアの特殊な社会関係、特に格差の大きい南北の関係について、的確な分析をなしえず、そのため、客観情勢は有利に働いていたのにもかかわらず、労働運動を常に守勢に追い込むような結果をもたらした。そこで、社会党指導部の煮え切らないやり方に不満を持ったグラムシとトリアッティは1921年、若い活動的な党員を率いて、社会党のもとから離れ、イタリア共産党を創立し、労働者国家を通じて共産主義社会に到達するために戦う革命的プロレタリアートの政党となることをみずから指揮した。

(注)ファシズムの語源は、古代ローマの儀式に用いられた"棒束"の名称から発し、それが転じて一般に「結束」を意味するファッショ(Fascio)の語となったが、直接にはムッソリーニが1919年3月に組織した「戦いの結び」(又は「戦闘者ファッショ」)…(Fasci di Confattimento)に由来している。

ファシズムと対決するには、単に労働者、農民の結合だけでなく、広範な中間層を引き付けることが必要であった。それは、トリアッティによれば、「ファシズムの特徴的な事実は小ブルジョア大衆の一組織を作り挙げるのに成功したことにある。これが実証されたのは歴史において初めてのことである。ファシズムの独自性は、それまで常に団結又統一的イデオロギーを持ち得なかった一社会階級のために適当な組織形態を発見したことにある。」(第九回党大会報告)が故に、これを破るためにはこの階級が労働者階級とともに国民的役割を果たしうることについての希望と指針を与え、ブルジョアジーのもとに組織されるよりも、より以上に意義と利益があることを明示しなければならなかったからである。

やがて、ファシズムが第二次世界大戦への突破口を開いたことによって、国を挙げてこれに抵抗する必要に迫られた時、労働者階級と中小勤労市民との同盟の問題はより切実となり、より現実的な内容を持ってきた。独裁者ムッソリーニによって組織されたイタリア・ファシズムは、独占資本、大金融資本、さらには王家、協会、大土地所有などの封建的諸勢力と結んで、それを基礎にして、一方では、独占資本主義のもとで極度に苦しめられていた未組織の中産階級(中小市民)の反資本主義的感情を巧みに利用し、一見<社会主義的>綱領を掲げながら、実際には専らそうした中小市民の中に自らの軍隊を編成し、「南部問題」に示された構造の二重性を初めとして、内在的矛盾や混乱をデマゴギーによって戦争政策にすりかえ、あるいは解決するよりもむしろ抑圧によって、組織的暴力によって沈黙させようとした巨大な支配機構であった。これに対する抵抗は、それ故労働者、農民のまわりに、同じように中小市民を幅広く結集させ、組織的な力をもって対決する以外にありえなかった。

中小市民獲得の方向は、まず共産党と社会党との統一行動の協定(1937年)から始まり、ナチスドイツと組んでファシズムが遂行する戦争に反対する人々への呼びかけ、戦争反対と自由獲得との平和アピール(“パンと平和と自由を!”1938年)によって展開された。提携の対象とされる人民大衆層は、さらに拡大され、有名な反ファシズム人民戦線へと発展する。こうして、歴史上まれにみる反ファシズムの抗争のページがくり広げられていったのである。そして、反ファシズム抗戦はイタリア労働運動にとって一つの頂点をなすものであって、イタリアの特殊な情勢に照応するさまざまの形態がここに集約的に現わされており、今日の『構造改革』に至る共産党の主体的条件を明確に示している点でも歴史的な事件であった。

反ファシズム抗戦はそれまでの運動の総集積であり、そこには広範な勤労者の一切の組織と勢力が投入され、最終的には国民的基盤での総蜂起が可能となった。その結果、ついにファシズムは軍事的、政治的に完全に制圧されたのである。ファシズムの最大の支柱の一つでもあった王制は廃止され、共和制がこれに変わった。共和国の成立は、圧倒的多数の人民投票の結果ではなかったが、過半数の人民大衆の要望によって達成されたものであった。それはファシズムの根源の一つを国民の多数が拒否したことを意味した。従って新しく生まれた共和国憲法は、ファシズムの再生を防止するように、あらゆる面で独占の支配を制約するように、逆に言えば、一般大衆の権利と自由をより伸長するように、また勤労者の利益を充分擁護するように配慮されざるを得なかった。新憲法の策定は全国民の参加のもとに行われたが、抵抗運動においてとりわけ大きな役割を果した労働者階級は、当然これに大きな発言力をもち、自らの要望をかなりの程度まで盛り込むことに成功した。それは以前の憲法よりもあらゆる点で進歩的であり、更に現存する資本主義諸国のどの憲法よりも進歩的といえるものであった。(注)そこで、旧憲法のもとでは実行しえなかった労働運動の方向が、新憲法のもとでは可能なものとして現れてきた。抵抗運動の勝利が画期的な局面をもたらしたということは、こうした事態をさしているのである。

(注)イタリア憲法が、他の憲法より進歩的と思われる点を取り出してみれば、次のようなものであろう。(邦訳、内閣法制局)

《第一条》
イタリアは労働に基礎をおく民主的共和国である。主権は人民に属する。人民はこの憲法の定める形式及び制限において、これを行使する。

《第三条》
すべての市民は、等しい社会的権威をもち、法律の前に平等であり、姓、人権、言語、宗教、政治的意見、人的、及び社会的な条件によって差別されない。
市民の自由と平等とを事実上制限し、人間の完全な発展と、国の政治的、経済的及び社会的組織へのすべての労働者の実効的な参加を妨げる経済的及び社会的な障害を除くことは、共和国の任務である。

《第五条》
一にして不可分な共和国は、地方自治を認め、且つ推進し、国家に属する事務において、最も広い、行政的分権を行い、その立法の原理と方法とを自治と分権との要請に適合させる。

《第三十五条》
共和国は、労働をその全ての形式及び適用において保護する。
共和国は、労働の育成及び職業的向上に意を用いる。
共和国は、労働の諸権利を確立し、及び規制することを目的とする国際的な協定及び組織を推進し、助成する。
共和国は、一般の利益のために法律により定められた義務がある場合を除き、移出の自由を認め、及び外国におけるイタリア人の労働を保護する。

《第三十六条》
労働者は、彼の労働の量及び質に比例し、且ついかなる場合でも、自己及びその家族に対して、自由尊厳な生存を保障するに足りる報酬を受ける権利を有する。
労働者は、毎週の休息及び有給の年次休暇に対する権利を有する。この権利は放棄することができない。

《第四十六条》
労働の経済的及び社会的向上のために、ならびに生産の要請との調和において、共和国は、法律の定める態様及び限界において、労働者が企業の管理に協力する権利を承認する。
(この条文はとりわけ注目に値する。)

ここで留意すべきことは、イタリア労働者階級が自ら抵抗運動に主導権をもって勝利したという自覚をもっていることである。従ってそれは新憲法をあくまで擁護し、実践しようという自覚と意欲にもつながる。こうして、それと同時にすでに何度も見たように、ファシズムに集約された全体主義の敗北と民主主義の勝利、資本主義の後退と社会主義の前進、戦争回避の可能性や平和の絶対確保の必要性という情勢が、これまで可能性の希薄だった問題にも光明を与え、或いは経済改革の民主的闘争にも具体性を与えて、労働運動にも幅と広がりをもたせるものとなった、と労働者階級は考えるようになった。一方で客観情勢の著しく有利と思われる変化があり、他方で抵抗運動の勝利と新憲法の獲得という同様に有利な主体的条件の発展があると、イタリア労働者階級がみるならば、そこには好ましい展望に照応する新しい創意がぜひとも必要であった。

イタリアにおける独占資本の高度な集中と支配(注)は労働者階級の前に社会主義革命の問題を提起したが、すでに見た通り、南部農業地帯は放置されたままで、農民革命が行われず、封建的諸関係が依然として広範に残存しており、他面、工業資本家と大地主とが強固な同盟関係にあったため、社会主義革命の方向は、“ブルジョア民主主義革命が未解決に残した領域”を社会主義への闘争の過程で同時に解決してゆかなければならなかった。そこで、一方で経済の二重構造を変革しつつ、他方で労働者階級が主導権を握って、従来の生産関係を変化させようとする二つの方向が相互に連結してとられるべきであるとされた。ここから又、『構造改革路線』の“民主主義・社会主義革命”という性格も決定付けられるのである。

(注)イタリアの代表的な民間独占企業は、先にすでに述べたが、エディソン(電力)、フィアット(自動車、機械)、アンサルド(重工業)、モンテカティーニ(化学工業、鉱山)、イノチェンティ(産業機械、スクーター)オリベッティ(事務用機械)、ピレツリ(ゴム)、ズニア・ヴィスコーサ(繊維)などである。山崎功氏によれば、(「イタリアの独占体と労働運動」―『経済評論』昭和三二年三月号)「イタリアの産業が要求する動力エネルギーは、その50%以上が電力によってまかなわれるが、この電力の74%はエディソンをはじめとする十大電力会社によって供給される。」又、モンテカティーニの「化学分野における生産品目は117、国内生産75ないし90%、ものによっては100%の生産を代表している。…その資本金は約六万名の株主によって出されているがそのわずか2%の株主が、資本金の34.5%の所有者となっている。…モンテカティーニはその能力の約75%しか生産しないのであり、このようにして価格維持による独占の利益を実現している」という。

[表] 大企業の集中度 (1954年)

《資料》経済企画庁調査局海外調査課 『海外経済月報』 昭33.11.12月号

さらに、イタリア経済における独占の形態の特徴は、私的独占企業と並んで国家の直接、間接の支配下にある政府企業が大きな比重を占めていることである。それは、私的独占と政府企業とが完全に分離独立している訳ではなく、両者の間には複雑な絡み合いがあり、結局、両者が一体となって、イタリア経済の経済的実験を握っているのである。巨大な政府企業の代表的なものは、産業金融機関としての『イタリア動産金庫』(IMI)と天然ガスの採掘、配給に独占権を持ち、石油精製、石油化学なども行う『有機合成国策会社』(FNI)などがある。

新しい局面において、社会主義革命を民主主義革命を通じて推し進めるためには、そして当面の目標である社会構造の変革を達成するためには、労働者階級自らの手で、二重構造を解決させる直接の決め手となる農業改革と、重要産業の国有化を図るべきだとされた。しかも、これを摩擦なく実現するには、労働者階級を中心とする広範な勤労者大衆の多数派の形成(いわゆる“新しい多数派”)による闘争が必要であり、これを背景に労働者政党が国会において多数を占めることも必要とされた。そこから、労働者階級が国会で支配権を握れば、それによって民主的諸改革が可能となる民主的政府の樹立も決して困難ではないとする見通しが生まれてくる。しかも、ここでは、議会的手段を利用することも出来るという、かつてはほとんど実現性の少なかった方向が、はっきりした一つの可能性として提示されるに至った。こうして、これらが可能である展望、即ち「社会主義へのイタリアの道」を歩みうる展望は、くり返し述べるように、『新しい事態の検討であり、国際及び国内分野に生じたさまざまの変化の検討』(トリアッティ)を「出発点」として、より現実的となり、新憲法の存在によって更に保証されている、とイタリア共産党は考えるのである。

“経済構造の革新”、“構造の改革”といった表現が、『構造的改革』、あるいは『構造改革』という一定の概念規定によって画一化されてくるのは1950年以降のことである。言葉の表現の多様性が物語るように、その方針も具体化されるまでには多くの時間を必要とした。そして、『構造改革』と新しい民主主義政府の樹立が完全に結合されて、日程にのせられたのは、即ち、「イタリアにおける社会主義への道」が“民主主義・社会主義革命”として明確に打ち出されてきたのは、すでに見た通り、1956年のソ連共産党第20回大会の後のことである。だが、これは、社会主義への道の多様性が国際的に確認されるのを待っていたということではない。むしろ、この国際的確認を冷静に毅然たる態度で受け止めたイタリア共産党は、民主憲法の防衛、憲法に依拠する闘争、経済構造の改革、中小生産者及び市民の、反独占闘争への参加の呼びかけなどの諸問題が提起された時、すでに独自の道を歩み始めていたのであり、多様性の理論を実際に実践していたといえるのである。

こうして、打ち出された『構造改革』を基本方針とするイタリア共産党の路線は、社会主義体制全体が大きく伸長してきた時代、平和と民主主義との再評価が行われ、或いは戦争の回避と平和共存が承認されるに至った新時代における階級闘争の新しい型である。同時にイタリアという特殊な二重経済・社会構造をもった資本主義国における社会主義への新しい道である。より具体的には、その資本主義構造を、現存する民主憲法と広範な大衆の力をバックに労働者の側から民主的に改革し、それによって反独占、民主的プロレタリア独裁の権力獲得を究極的目標として掲げる新しい闘争の一形態として定義づけられるのである。そして、これは、戦後の「ナショナリズム」の勃興と国際政治の多極化に基づく世界的なイデオロギーの多元化、とりわけ社会主義イデオロギーの多元化の潮流に導かれて、イタリアという特殊な土壌の上で、これまでのマルクス=レーニン主義の公式理論、教条理論に、なによりも「ナショナリズム」を優先させて作り上げた、特殊イタリア的マルクス主義理論の実践に他ならないのである。


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