構造改革論の思想的意義と現実的課題 目次次へ

二、 グラムシの思想


アントニオ・グラムシは1891年、イタリアのサルディニア島に生まれた。イタリアは、スイスに接する北部が産業も進み、経済的にも比較的豊かであるのに対して、南部は零細な農業以外に見るべき産業を持たない文字どうり貧困のどん底にあった。イタリア社会は、"南北"という二重構造をもっており、それ故、公式的、教条的な方式を適用するだけではとうていその社会の構造的な改革や体質改善を期待することのできない特殊な地域であった(このことは現在でも言えることである)。貧しい南部に属するサルディニア出身のグラムシは、大学卒業後北イタリアの工業都市トリノで労働運動に従事し、工場評議会運動を始めたりしたが、この彼が、何よりも痛感したのは、イタリア社会内部における経済的・産業的な水準の極端な「落差」の問題、即ち「南北問題」であった。このことについては、さらに後に述べることにする。

そこで、トリノにおける実際の労働運動にたずさわったグラムシが得た確信は、社会主義とは、単なる公式理論の問題、或いは単なる教条的実践の問題ではなく、現実そのものの中で、理論を実践的に実現していく一体的な運動にほかならない、ということであった。「理論と実践との同一化は一つの批判的行為であり、それによって実践は合理的で必然的であることが証明されるようになり、或いは、理論が現実主義的で合理的であることが証明されるようになるのである。これこそ、理論と実践との同一性の問題が、とりわけ、過渡期と呼ばれるある歴史的時期に、即ち、最も急速な変革の運動の時期に、提起される理由なのである。」(グラムシ選集「哲学と歴史との諸問題」)こうして、理論と実践との合致を説くグラムシの立場はつまるところ、教条化しつつある「正統」マルクス主義に対して、特にその客観主義の理論に対して、実践的行動の主体としての人間の問題を甦らせようとする立場に他ならなかった。

グラムシは又、知識人と大衆の問題、イデオロギーの問題、弁証法の問題など、全てを彼の実践の体験とイタリアの特殊な歴史的条件とから直接に学びとったものとして論じている。彼の思想の中にはヘーゲルからクローチェ(B.Croce,1886〜1952)へと引き継がれた鋭い歴史感覚と、パレート(V.Pareto,1848〜1923)、モスカ(G.Moska,1858〜1941)、ミヘルス(R.Michels,1876〜1936)らによって、マキャベリから引き継がれた「権力」に対する冷徹な洞察力とが脈々と生きている。その意味において、グラムシは西欧的思惟の伝統の上に立って、その思想と行動とを形づくった人物であり、たとえ「正統」の立場からは「異端」とみなされたにせよ、常に「人間」の問題を念頭におきながら、マルクス=レーニン主義の古典に立脚してイタリア文化の再評価を行った卓越した思想家であった。

しかし、彼は1922年に政権をとったファシズムの犠牲になって、26年ムッソリーニによって獄につながれ、10年あまりの長きに亘る獄中生活の連続の後、悪名高いバリー監獄で虐待された為に衰弱し、37年ついに病死した。彼の思想と言われるものは、大部分がこの獄中でノートに書きつらねられたものである。

イタリア・マルクス主義の偉大な思想家であったグラムシは又、イタリア共産党の発展に貢献した先駆者であり、指導者でもあった。第二次大戦後のイタリア共産党はめざましい発展を遂げ、成長を示してきたが、(現在、イタリア共産党は党員約200万人でヨーロッパ最大である。)このような発展の基礎をすえたのが、その建設者の一人グラムシであった。トリノ大学以来の友人であり、やがてその後継者となったパルミーロ・トリアッティ(Palmiro Togliatti,1893〜1964)は、グラムシについて至るところで次のように指摘している。「グラムシは、イタリアにおける最初の真の完全な、首尾一貫したマルクス主義者であり、イタリアで始めてレーニンの思想と十月大革命の国際的意義とを把握した人であり、西欧全体の知的発展についての豊かな知識と我が国(イタリア)の諸条件についての深い知識とに基づいて、最近50年間に亘る西欧のマルクス主義理論の深化と発展に最も大きく貢献した思想家であった。)と。

理論と実践との同一化の過程を社会主義運動の究極に求めたグラムシは具体的にはマルクス主義を的確に把握することによって、プロレタリアが主導権を確立し、国民的階級となり得るための諸条件を徹底的に追求した。そして、労働者階級が自己の政治支配の条件を作り出し、国民全体の指導階級となりうるのは、全国民的な意味をもつ問題を自らの問題として引き受け、国民生活の現実を認識する限りにおいてだけであることを明らかにし、イタリアのプロレタリアの主導権への道を具体的に示したのであった。この点について、トリアッティは、「グラムシが革命的マルクス主義の理論を解釈し、革新するやり方の中には、我が国の歴史的諸条件によって決定される"国民的な道"をとおって、社会主義へ前進する必要がある、という確認が含まれている。彼が我々の前に切り開こうとしたのは、実にこの"国民的な道"に他ならない。」(トリアッティ『グラムシの思想と行動の現実性』)と書いている。

イタリア共産党は、グラムシのこの"国民的な道"の思想に忠実に従うことによって、プロレタリアを国民の指導階級としての地位に向って、大きく前進させることをその目標とした。そして、グラムシの示したこの"国民的な道"のなかに、後にその後継者トリアッティによって明文化された『構造改革』という政治路線の思想的、理論的基礎を我々は見出すのである。


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