2003/06/04 >>午前 戻るホーム憲法目次

第156回国会 憲法調査会公聴会
平成十五年六月四日(水曜日)   午後二時四分開会

○会長(野沢太三君) ただいまから憲法調査会公聴会を再開いたします。
 休憩前に引き続き、日本国憲法に関する調査を議題といたします。
 本日午後は、法政大学名誉教授、テロ特措法・海外派兵違憲訴訟原告団長尾形憲君、自営業加藤正之君、駒沢女子大学学生田中夢優美君及び学習院女子大学教授畠山圭一君、以上四名の公述人の方々に御出席いただいております。
 この際、公述人の方々に一言ごあいさつを申し上げます。
 本調査会は、本年五月から「平和主義と安全保障」について調査を開始したところでございますが、本日は、「国民とともに議論する」という本調査会の基本方針を踏まえ、我が国の平和主義と安全保障の在り方について、特に憲法とのかかわりを中心に、公述人の方々から幅広く忌憚のない御意見をお述べいただき、今後の調査に反映させてまいりたいと存じますので、よろしくお願いいたします。
 議事の進め方でございますが、まず公述人の方々からお一人十五分程度で順次御意見をお述べいただきまして、その後、各委員からの質疑にお答えいただきます。
 なお、公述人、委員ともに御発言は着席のままで結構でございます。
 それでは、まず尾形公述人お願いいたします。尾形公述人。

○公述人(尾形憲君) 私は、一九二三年生まれ、典型的な戦中派です。聞くところによりますと、私は戦争体験者としての公述人ということ、公式の記録にも残る公述である。間もなく消えていく年寄りの遺言としてお聞きいただきたいと思います。この機会を与えてくださったこと、心からお礼申し上げます。
 私が今住んでおります埼玉県の入間市には、戦争中、陸軍航空士官学校がありました。当時の同期生は、あらかた特攻で二十歳前後の若い命をなくしました。歩兵とか砲兵とかいう地上の兵士も大半が戦死ならまだいい、餓死したりしました。この戦争で死んだ軍人軍属二百三十万のうち、実にその六割の百四十万が餓死です。
 同期の一人は、九州の基地から特攻として飛び立ちました。特攻として出撃しました。離島に不時着して、基地に帰ってきたら、既に敵艦に突入したものとして二階級特別進級、天皇に上奏されていました。生きていた英霊があってはならないと、彼は航空軍の参謀によりマラリアの病室から引きずり出され、単機出撃させられました。処刑飛行です。
 私は、特攻が始まったころ、マニラの第四航空軍司令部で諜報を担当していました。特攻の同期が毎日、艦船情報を聞きにやってきます。おっ、今度はきさまか。だが、行ってこいよと言えないんです、もう帰ってこないんですから。
 成功を祈ると送り出した翌日、我、突入すという電報が入ります。航空軍司令官富永恭次は特攻隊を送り出すたびに、おまえたちだけ行かせはしない、最後には私も参謀長の操縦する飛行機でおまえたちに続くと言いながら、米軍がルソン島に上陸すると、真っ先に台湾に逃亡しました。
 特攻の一人は、操縦を誤って離陸できませんでした。富永さんに、おまえは特攻のくせに命が惜しいのか、すぐ出発せいとどなり付けられた彼は、別の飛行機で、田中軍曹、ただいまより自殺攻撃に出発します。
 しかし、彼らも、二千万の人たちを殺し、従軍慰安婦、強制連行から強制労働と多大の惨禍を与えたアジアの人たちの加害者だったことは免れられません。今度のサミットで拉致の問題が取り上げられていますが、戦時中、強制連行されたため離散した朝鮮の人たちは五百万人と言われます。その後始末は一切なされておりません。
 こうした悲惨な戦争の反省の上に作られた平和憲法は、戦後生まれが国民の四分の三という今日、なお圧倒的な支持を保っています。
 憲法制定議会で吉田茂首相は、自衛のための戦争も認めないと明言した平和憲法ですが、朝鮮戦争の勃発後、警察予備隊が発足し、それは保安隊と警備隊、更に自衛隊になりました。自衛隊法成立の際、この参議院では海外出動は認めないと附帯条件を付けております。
 その後、平和憲法は空洞化の一途をたどりました。冷戦の終結とソ連の崩壊でソ連を仮想敵国としていた日米安保条約も自衛隊も存在意義を失ったはずです。ところが、九六年、安保見直しの日米首脳共同宣言で、これまでの極東からアジア太平洋へと範囲を拡大、防衛と治安が使命とされた自衛隊は附則や雑則で海外の出動が本命になります。周辺事態法とテロ特措法は、アメリカが仕掛けた戦争に自衛隊が参戦することになり、自衛隊がインド洋に派遣され、自衛艦がインド洋に派遣されました。
 資料一の下から二段目辺りにありますが、韓国の議員の場合、東アジア地域の安全と平和への最も危険な要素は、北朝鮮の脅威というのはすぐ地続きなのにわずか三一・三%、これに対して日本の軍事力が四六・九%になっています。また、テロ特措法と自衛隊派遣については否定的な回答が圧倒的です。そして、その自衛隊、自衛艦は、テロ特措法を超えてイラク攻撃の空母に給油までしました。アメリカは世界じゅうに張り巡らせた衛星通信傍受網エシュロン、三百キロ上空から地上の自動車のナンバープレートまで読み取って即座に基地に知らせるスパイ衛星、沖縄の象のおりのようなあらゆる電波をキャッチできるスパイアンテナなどで世界じゅうのすべての動きをキャッチしています。そして、あれだけ絶大な武力を持ちながらしょせん武力で民衆の安全は守れないということを九・一一事件は如実に示しました。
 しかし、アメリカはなぜ攻撃を受けたのかということの反省もせず、九・一一の元凶というオサマ・ビンラディン氏をかくまっているとされるアフガニスタンを武力攻撃しました。私は、昨年の暮れ、アフガニスタンに行って方々の難民キャンプを回りました。継ぎはぎだらけのテントに暖房など一切なく、床は地べたに薄い毛布を引いただけです。零下二十度から三十度という寒さの中、朝になったら親子五人が固く抱き合ったまま凍え死にしていたという話も聞きました。こうした罪のない人たちの殺傷の手助けに私たちの税金が使われているのかと思うと、腹が煮えくり返る思いがいたしました。
 カルザイ政権ができて一年半になりますが、ビンラディン氏もタリバンのリーダーのオマル師も見付かっておりません。いまだに内乱状況で米軍基地にはロケット砲弾が撃ち込まれたりしています。政府首脳はカブールの外には出られません。そして、次はイラク戦争です。
 資料二をごらんください。
 ブレア首相のイギリスでですよ。世論調査で世界平和への最大の脅威はブッシュ大統領というのが四五%、フセイン大統領と同率です。アメリカを「世界支配をもくろむ弱い者いじめの暴れ者」とするのが四七%にも達し、「世界の善を推進する勢力」の二三%の倍以上になっています。二月十五日、全世界の六百都市でイラク戦争反対のデモが行われ、一千万人以上が参加、こんな盛り上がりはベトナム戦争以来のことです。こうした、さらにイギリスでは、イラク戦争に反対して辞任した閣僚まで現れました。こうした声に背を向けて、国連憲章も国際法も無視して、イラク戦争を始められました。
 ラムズフェルド国防長官は、十七世紀のウェストファリア条約に言う国家主権、内政不干渉はもう古いと言っています。つまり、アメリカが新しい世界秩序を作るというわけです。大量破壊兵器ということでしたが、今日なおそれは見付かっておりません。最近、ウォルフォウィッツ国防副長官は、あれは戦争を正当化するための口実だったと言っております。
 攻撃は三月二十日、大統領官邸の周辺への集中爆撃で始まります。アメリカが一国の元首を抹殺しようとしたケースはこれまでもありますが、これほどあからさまな殺人行動は今回初めてです。また、アメリカはイラク国民の解放と言っていますが、いまだに略奪、暴行は日常茶飯事で、治安は混乱の極です。
 アフガニスタン戦争は、そしてイラク戦争は石油と天然ガスのためだったのでしょうか。それへの日本の追随は何のためだったのでしょうか。ほかならぬ軍人出身の大統領アイゼンハワーは、一九六一年辞任のとき、軍部と軍需産業の癒着、いわゆる軍産複合体の危険性を指摘しました。
 九・一一以降の国防予算の増大で、九八年以降黒字になったアメリカの財政は再び赤字に転落しましたが、二百億ドルという年間売上げの七〇%が武器というロッキード・マーチンなどの軍需産業や、ブッシュ大統領のバックの石油産業は笑いが止まりません。
 私は経済学者の端くれですが、著名なるケインズによれば、公共投資は生産的なものではあってはならないのです。有効需要に比して生産力が高過ぎるから不況になっているので、弾丸道路やダムを造って生産力を上げたら、一時的に失業の救済はできても、またぞろ前に輪を掛けた不況になります。お札をつぼに埋め込んで廃坑にぶち込み、上を都市のごみで覆ってしまう、覆ったところでそれを掘っくり返す。それじゃ全く無意味な仕事であっても、それで失業者が救済できる。彼らは今まで買うことのできなかった消費財を買うことができ、生産財部門も息を吹き返す。ケインズは、地震、戦争、ピラミッド造りも役に立つと例に挙げています。
 そういえば、一九三〇年代の世界不況から初めに立ち直ったのは、軍拡に乗り出した日本とドイツだったことは特徴的です。アメリカはニューディール政策にもかかわらず、ほぼ完全雇用、といっても百万人ほどの失業者がいますが、に戻ったのは、何と一九四四年です。もっとも、長い目で見れば軍拡が経済を疲弊させずにはおかないということは歴史が証明しています。核軍拡競争によってソ連は国自体が崩壊し、アメリカも世界最大の債務国に転落してしまいました。これと対照的なのは、平和憲法のおかげで軍事費を抑制し、戦後奇跡的な高度成長を遂げた日本です。
 さて、武力で民衆の安全を保障できないとしたら、それは平和な方法によるよりほかありません。
 コスタリカは中米の小さな国ですが、一九四九年、憲法で常備軍を廃止しました。日本ではわずか六%の教育費が、ここでは四分の一、識字率も中南米で抜群に高い国です。隣国ニカラグアからは百万人の移民を受け入れています。ここの平和憲法はお題目ではなく、積極的な平和外交と結び付いたものです。アリアス大統領はニカラグアやエルサルバドルの内戦で粘り強く仲介して和平を実現し、八七年にノーベル平和賞を受けました。彼は九四年来日したとき、日本の軍備費強化を嘆き、その経済力を第三世界の貧困、環境、医療、教育のために使うべきじゃないかと言っています。
 年々五兆円の軍事費、クラスター爆弾を含めた弾薬だけでも一日五億円という無駄金を第三世界の民衆を救うために使ったらどれだけ感謝されるでしょうか。年間の倉庫料だけで百億円単位という備蓄米の半分でも、韓国の四十万トン供与に見習って北朝鮮に無償贈与したらどうでしょうか。
 そのようにして、世界から尊敬され、憲法前文に言う、国際社会において名誉ある地位を占めるようになった日本を武力攻撃する国がどこにあるでしょうか。有事法制やイラク新法は歴史に逆行するものです。
 私は、九七年に若者たちが主宰するピースボートでアフリカ西岸のカナリア諸島を訪れました。ここは日本の遠洋漁業の基地で、日本に対する関心が非常に深いところです。広島、長崎の原爆については地学の教科書にも載っており、ヒロシマ・ナガサキ広場があって、小さいながら学生たちの憩いの場になっています。そして、この広場には、なんと資料三でごらんのような憲法九条の碑があるのです。
 アメリカでは、オハイオ州立大学名誉教授のチャールズ・オーバービーさんが九条の会を作って、全世界に九条を広めようとしています。また、九九年のハーグ平和市民会議では、今後の行動十原則のトップに憲法九条が掲げられています。
 「剣に依って興る者は剣に依って亡ぶ」つたない遺言です。
 御清聴、どうもありがとうございました。

○会長(野沢太三君) ありがとうございました。
 次に、加藤公述人、お願いいたします。加藤公述人。

○公述人(加藤正之君) ただいま紹介されました加藤でございます。
 本日は、公述の機会を与えていただきまして、誠にありがとうございます。お手元に配付されております私のレジュメに沿って意見を述べさせていただきます。
 日本国憲法の平和主義と安全保障について。
 私は、被爆地広島に住み、被爆者とともにノーモア・ヒロシマを願う市民として意見を述べていきます。
 私は、日本国憲法の唱える平和主義、すなわち、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確立するとの基本原則を支持します。
 したがって、国是である非核三原則を堅持するのは当然のこと、いかなる国の核保有にも反対、つまり非核・中立の立場を日本国が表明し、国の基本政策としていくことこそが国の安全を保障する根本であると思います。
 一、被爆者の心と願い。
 私は、広島の被爆者たちと様々な話合いをしてまいりましたが、その中で、「国破れて山河在り」で始まる中国の詩人杜甫の「春望」がよく話題になりました。長安の都は破壊されたが、山と川は変わるところは何もなく、「城春にして草木深し」と続くあの漢詩のことであります。
 しかし、八・六広島、八・九長崎は違いました。原爆投下によって戦争の様相は一変し、国破れて山河消えの脅威を現実のものにしてしまいました。核の炎は、人間のみならず山川草木や花鳥など、生きとし生けるものすべてを一瞬にして焼き殺し、あらゆるものを破壊し尽くしました。目に見えぬ放射能はその後も人間の体をむしばみ続け、今なお被爆者の体を痛め続けております。
 究極の兵器である核が地球をすべての生き物が住めなくなってしまう自然環境に激変させてしまうことを広島、長崎は犠牲をもって世界に指し示すことになりました。
 原爆の惨禍から生き残った被爆者たちは、ノーモア・ヒロシマ・ナガサキ・ヒバクシャを叫びました。人類が核兵器の時代に入ってしまった今、三たび原爆投下を許してはいけない。日本は核武装してアメリカに報復してはならない。やられたらやり返せの核戦争を仕掛ければ人類が破滅してしまう。人類と核、人類と放射能は共存できない。核廃絶こそ、人類を破滅から救い、生き残る唯一の道であり、それこそが原爆で焼き殺された死没者の霊を弔うことに通じるのだという、人間としての心からの叫びの声であります。
 私たちは、国民全体の被爆体験として、被爆者のこの心と願いを共有しなくてはいけないと思います。
 二、被爆体験は憲法の平和主義に息づいている。
 私たちの前には、さきの大戦を反省し、二度と戦争を引き起こさないという決意の下に作られた二つの基本ルールがあります。一つは国連憲章であり、いま一つは日本国憲法であります。しかし、この二つには根本的な違いがあります。
 我ら連合国の人民は、我らの一生のうちに二度までも言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨禍から将来の世代を救いとうたう国連憲章は一九四五年六月に制定されましたが、このときにはまだ世界は広島、長崎を経験しておりません。一九四六年十一月に公布された日本国憲法は、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないように決意しとうたっております。
 国連憲章が、戦争に反対しながらも最終的には武力による正義、すなわち軍事的安全保障という考え方を取るのに対し、日本国憲法は、正義の戦争はあり得ない、すなわち非軍事安全保障をうたっております。この違いは一九四五年八月六日と九日という人類史の記憶に残さなくてはならない日付を経験した上での基本ルールか否かの違いにほかなりません。
 核兵器の時代に入ってしまった今日、軍事的安全保障では際限のない核軍拡に走ってしまい、核の脅威から人類を救うことはできません。核戦争に勝者も敗者もありません。国敗れて山河消えの破壊され尽くした地球環境をもたらすだけであります。日本国民全体が共有した唯一の被爆体験国としての英知が、核廃絶イコール核と人類は共存できないという理念を日本国憲法の根底に埋め込んだのであります。
 この非核、非軍事の平和理念は、国連憲章が超えようとして超えられないまま今なお戦火をなくすことができない国際社会に対し、核も戦争もない恒久平和の道しるべとして世界に提示し、この先見性と理念に誇りを持って絶対に堅持すべきであります。
 三、NPT条約では核拡散を防げない。
 いわゆるNPT核不拡散条約は、冷戦期の米ソ超大国の意向で作られました。既に核兵器を保有していたアメリカ、ソ連、イギリス、フランス、中国の核保有を認めた上で、これらの国以外に核が拡散しない方が世界はより安全になるという仮説を前提にした条約でした。
 しかし、世界の大半の国々は、核兵器の使用を阻む唯一絶対的保障は核を完全に廃棄することによってしか得られないと確信していました。その確信は、NPT六条の核軍縮、七条の地域的非核化条約の項目に盛り込まれています。他の国々に核兵器の権利を放棄せよと説得するには、五大核保有国が新たな核を作らない、保有する核兵器も最終的には廃棄すると約束して初めて説得力、実効性のある条約となるはずでした。
 ところが、このような約束は結ばれることもなく、それどころか、五核保有国は自国の核開発を強めるばかりで、NPTに対して極めて不誠実でした。
 加えて、安保常任理事国でもあるこれらの国々は、冷戦下にあって、敵の敵は味方、味方の敵は敵といった軍事の論理で核拡散に手を染めてきました。パキスタンのカーン博士は、核兵器開発に必要な部品は世界から買い求めることができた、もしある国が拒んでも別の国から買うことができた、実に簡単なことだったと証言しています。さらに、ソ連のアフガン侵攻のときには、ソ連と敵対関係にあったパキスタンを西側諸国が援助し、パキスタンの核疑惑には目をつぶったのです。
 NPTが成立した七〇年以降、インド、パキスタン、イスラエル、南アフリカ、最終的には核兵器を放棄し、NPTへ核非保有国として参加、そして恐らく、北朝鮮が核保有国となってしまいました。
 このように、NPT条約は、その目的とは逆に核の拡散をもたらしています。
 五大核保有国は保有可能な核兵器を保有し、さらに国際的監視下にも置かれないまま核関連物質を続けています。他方、非核保有国だけウラン、プルトニウムなど核関連物質を国際監視下に置くというのでは余りにも身勝手、差別的であります。
 一部の国々が合法的に核を保有し、それに伴う利益を確保している限り、同じシステムにあるほかの国々も同じように核を保有したいとの誘惑に駆られるに違いありません。そして、その国を強圧的に大国が封じ込めようとするとき、世界に再び悲惨な戦争やテロの嵐が吹き荒れることになりかねません。
 四、北朝鮮の核兵器開発について。
 私は北朝鮮の核兵器開発に絶対反対です。
 拉致を始め数々の不法行為は許すことのできないものでありますし、核兵器開発を強行あるいは続行することは人類の存続を脅かす蛮行であると同時に、北朝鮮にとっても国際的孤立を深めるばかりです。
 しかし、北朝鮮に核兵器開発の断念を迫るのであれば、五大核保有国は自らの核開発を中止しなければ説得力はありません。そして、我が国としても、国の安全上、北朝鮮に中止を求めるのは当然でありますが、五大国を始め核保有国に対しても核兵器の即時廃棄と開発中止を迫っていかなければ、北朝鮮への説得力はゼロに等しいと言わざるを得ません。
 また、アメリカが昨年十二月に発表した大量破壊兵器の不拡散に関する新戦略、いわゆるブッシュ・ドクトリンについて、私は、核兵器の危険性を本気で長期的に抑えようとする意思が感じられず、世界の国々に心から支持されるかどうか疑問に感じます。
 この戦略を要約すれば、核兵器そのものが問題なのではなく、独裁国家やテロリストがそれを保有することが問題であり、この危険を取り除くには先制攻撃もその政権の打倒も辞さない。一方、アメリカ自身は大規模な核兵器庫を更に近代化させていくといった内容のようです。
 私は、次のように考えます。
 核兵器、核関連物質や核技術、専門知識が世界的に蓄積されればされるほど核拡散の危険は高まります。たとえ核兵器がなくなったとしても、核関連物質が存在するだけで拡散は進む危険があります。
 それよりも、まず核兵器を廃棄し、その上で核関連物質を国際的監視下に置く方がはるかに簡単で現実的であります。世界唯一の被爆国として、日本こそこのような国際的合意形成と枠組み作りのイニシアチブを発揮すべきだと考えます。
 五、非核・中立イコールいかなる国の核兵器にも反対を明確に。
 ここで、日本国憲法の平和主義のバックボーンである非核・中立の理念について私の意見を述べてまいります。
 まず、国内にあっては非核三原則や非核自治体宣言など、非核の国日本を徹底させていく。対外的には、五大核保有国やインド、パキスタン、イスラエル、北朝鮮に対し核兵器開発の中止を申し入れ、核兵器の全面廃棄を要求していく。
 このように、世界唯一の被爆国として、いかなる国の核兵器、核開発にも反対との立場を表明すること。この姿勢こそが全世界の国々を説得し、支持を受けるに違いありません。ひいては、我が国の安全を根本的に保障していくと考えられます。
 しかし、残念なことですが、我が日本国政府はこのような方針から大きく外れてきています。国連総会では核兵器の使用禁止決議を何度も採択していますが、日本政府がこの決議に賛成したのは一九六一年だけで、一九八〇年と八一年に反対し、あとの二十回は棄権しています。あの五十八年前の惨禍を日本政府はいかに教訓とし、いかに国民の生命を守ることに生かしているのでしょうか。
 また、自衛のための核兵器を保有することは憲法の禁止することではないとする政府見解も大問題であります。このような日本政府の態度及び見解は、世界の平和と安全は最終的には核兵器の抑止によって保たれているとする核抑止論を容認しているからにほかなりません。
 しかし、核は人類と絶対に共存できないのです。核抑止論、すなわち必要悪的核容認論では核廃絶に近付くことはできません。私は、四十年前、部分的核実験停止条約をめぐって原水爆禁止運動が分裂し、その後の原水禁運動に取り返しの付かない影を落としていった不幸な歴史を思い出します。この条約では地下核実験が除かれていたため、核軍縮にどれだけ役立つか疑問でしたが、それ以上に不幸であったのは、社会主義国ソ連の核実験には反対すべきではないという主張が持ち込まれ、大混乱に陥りました。ソ連の赤い死の灰は許し、アメリカの死の灰には反対という主張と、いかなる国の死の灰にも反対という主張が衝突して、当時盛り上がりを見せていた原水禁運動は深刻な影響を受け、全国民的課題であるはずの核廃絶の運動に亀裂が入りました。
 核戦争の被害は、主義主張に関係なくすべての人間に降り掛かります。私は四十年前の悲しい記憶から、非核はすなわち中立でなければならない、いかなる国の核兵器に対しても等距離イコール中立を堅持してこそ正当性を主張できると考えます。
 したがって、世界に緊張関係をもたらしている現在の北朝鮮の核開発に対し、その中止を強く要求すると同時に、アメリカの小型戦術核の研究開発の最近の動きに対して中止を申し入れるべきです。北朝鮮の放射能は我慢できないが、アメリカの放射能には目をつぶるというダブルスタンダードの態度では、国際社会の支持も信頼も得ることはできません。緊張が高まっている今こそ、日本国憲法にうたう平和主義とそのバックボーンである非核・中立の真価が問われています。
 六、二十一世紀を戦争の世紀ではなく環境の世紀に。
 冷戦終結で米ソの核戦争の危機は遠のき、軍事的緊張と負担から解放されていくのではと、私たちは二十一世紀を明るい希望で語ろうとしました。また、持続可能な開発を合い言葉に、地球サミットで宣言されたアジェンダ21に盛り込まれている地球環境の諸問題、オゾン層、砂漠化防止、大気汚染防止、地球温暖化、森林保全、人口問題、貧困の撲滅等々に本格的に向き合っていく期待が膨らみました。
 しかし、その希望と期待はしぼみ、軍事一色の世界に様変わりしたようです。特に、九・一一同時多発テロ以降、アメリカのブッシュ・ドクトリンによって殺伐とした社会になってきました。圧倒的軍事力を背景に、先制攻撃と一方的軍事行動に支えられた単独行動主義の外交に対してどのように付き合っていけばよいのか、諸国は問われています。
 日本とて例外ではなく、日米同盟の軍事的側面が先に走っていくような方向は望ましいことではありません。大量破壊兵器の廃棄やテロ撲滅も、さらに地球環境の諸問題にしても、はっきりしていることは軍事力優先では解決しないだろうということです。
 国同士が軍事的安全保障イコール軍備で対峙し、紛争解決の最終手段として戦争に訴えるという時代は過去のものです。そのことは、これまで述べてきましたように、八・六広島、八・九長崎の被爆体験が明らかにしていることであり、核やミサイルで地球環境問題は決して解決できません。
 私は、日本国憲法の平和主義の理念、非核・中立と非軍事の安全保障の原則は、二十一世紀を貫く平和理念として堅持していかなければならないと思います。
 これからしばらくアメリカの一極構造ともいうべき時代が続くのでしょうが、そのときに、軍備は最小にしかつ国際協調の話合いを基本にした諸国の安保外交が重要だと考えます。
 私は、国の安全保障は、つまるところ諸国から信頼され、尊敬される国づくりにあると思います。国際的に通用する言葉で理念を語り、誠実に行動することが軍備を超える安全保障につながっていくと信じます。
 以上です。
 御清聴ありがとうございました。

○会長(野沢太三君) ありがとうございました。
 次に、田中公述人にお願いいたします。田中公述人。

○公述人(田中夢優美君) 十五分自分の考えを述べられるチャンスに恵まれたことに感謝しています。
 五月三日に新しい憲法をつくる国民大会で首席をいただいた作文を応募原稿にしました。これをまず読みたいと思います。

 大学生になったら私はチャレンジしていこうと決心していました。とても入りたかった大学に入学できて、この姿を六十二歳で他界した祖母に見てもらえたらどんなに喜んでくださっただろうかと思うと胸が熱くなりました。亡き祖母に、そして祝福してくださる元気な祖父とおじ、そして母に心から感謝して生きています。日ごろ、祖父に学ぶことが大切だといろいろ教えてもらっているので、ポスターを見て最初のチャレンジがこの作文でした。

 私は、日本国憲法施行から半世紀以上が過ぎている今こそ憲法を改正をするべき時期が来たと思っています。日本では半世紀以上もの間一度も改正がなされていませんでした。これは世界的状況下でとても珍しいことです。アメリカでは二〇〇一年の同時多発テロ事件後、本土安全保障省という新しい省を迅速に設置しています。私は、日本もこのように法律も諸官庁も状況を把握して必要なものを作ること、また必要な改正ができることが必要だと思います。

 二十世紀の有事想定の枠を超え、二十一世紀の同時多発テロは今までになかったことが起きています。このことを踏まえ、日本はテロを含む有事を想定しないわけにはいかないと思います。有事とは日本の望む望まないが基準ではありません。まして、自衛のみなので攻撃しないでと日本が一方的に言っても攻撃されないとは限りません。済みませんが軍隊はないので日本には何もしないでください、戦うとしたらアメリカが戦ってくださいという考え方はこのまま続けてよいものではなく、アメリカにも失礼だと思います。

 だれが自国を捨てて逃げる他国のために戦ってくれるというのでしょうか。世界のどの国を見ても、自分の国のために一生懸命なのだと思います。日本が戦争放棄していることが、イコール敵が出てこないと思い込んでしまっているのではないかと思います。

 私は、平和をもっと正しく理解する必要があると思います。日本という自分の国がある尊さを大切にすること、国家があって初めて日本人として存在できること、この二つがポイントだと思います。ですから、日本が戦争しないとうたっているから備えが不必要だということではありません。むしろ、世界には多くの国々があるのだから、他の先進国と見合わせても、備えをしっかりする考えに変えるべきだと思います。

 以前から靖国神社参拝への近隣国からの批判、テポドンの的が日本に向けられていること、それに普通に暮らしていた人が連れ去られ、北朝鮮にいたという拉致の事実。これは攻撃とも内政干渉とも無関係な単なる事件と済ませてよいのでしょうか。日本はもっと毅然とした態度を取るべきだと思います。

 そのために必要なのは、幼いころから日本に生まれ育っていることに誇りを持てるように教育することだと思います。そして、世論調査で戦争になったら逃げるという回答が少しでも減ることだと思います。自分の国は自分で守るという当たり前のことを是非教育するべきだと思います。そして、正しいこと、してはいけないこと、思いやりの心、何よりも感謝する心を持つ道徳的教育が大切です。

 最後に、二十一世紀からの日本は、国家の基盤である安全保障を充実させることを最優先するべきだと思います。

 作文はこれで終わりです。この作文で私は安全保障を充実させることが必要だと述べていますが、有事関連三法案が成立する見通しになったのはとてもよいことだなと思っています。作文に関連し、私の考えをここで申し上げます。

 平和とは、無防備でいることが平和ではないと思います。国家が国民と国家を外部から守り、安全な状態にしておくことが平和だと思います。安全保障は国の存亡にかかわる重大なことです。それには国民一人一人が愛国心を持って、日本人全員が日本人自身で国を守るという気持ちが必要だと思います。

 長い歴史の中で形成された日本という国に誇りを持ち、大切にしていかなければならないと思います。自分たちの国なのですから、勇気と誇りを持って国を守ろうという精神が必要だと思います。敗戦後に日本は愛国心よりも個人主義に走り、利己的になってしまったのではないかと思います。日本が戦争になったらどうしますかという世論調査に、いつも逃げるという意見があるのはこの表れだと思います。

 自分の国を愛する日本人としての誇りを持つ、これは国民にあって当然の精神です。これがあってこそ人々は国のために団結し、命をも惜しまぬ真剣さが出てくるのだと思います。私たちは、日本という国家がある有り難さ、国家があって存在できる日本人であるということを再認識する必要があると思います。

 国をめぐって、中東ではイスラエルとパレスチナの戦争が絶えていません。日本は、国を失うということは今までなく来れましたが、この後も攻撃されずにずっとあり続けるという保証はないのですから、安全保障の部分を充実させるのは大変に必要なことだと思います。

 そして、我が国を守るためにある自衛隊を国防軍として我が国に保持するというようなことを憲法にしっかり明記するべきだと思います。自衛隊が日本の国のために有事の際には命を懸けますので、そのためには、いつも自衛隊法上武器を使えるとか使えないという話がよく出ますが、この部分は改正して、しっかり、自衛隊の人たちの人権を守るためにも武器をしっかり使えるようにする必要があると思います。

 国民は、国家の安全のためにある自衛隊にもっと感謝と尊敬の念を抱いてよいと思います。アメリカでは、ブッシュ大統領がいつも演説の際には、諸君のおかげで米国はより安全になった、米軍の制服を着るすべての軍人に特別な言葉を贈りたい、米国はすばらしい仕事に感謝している、また、国家と大義への尽力に感謝するなどということをいつも演説に必ず述べられています。このように、国民は国家の安全を守っている自衛隊にもっと感謝と尊敬の念を持つべきだと思っています。
 以上です。

○会長(野沢太三君) ありがとうございました。
 次に、畠山公述人、お願いいたします。畠山公述人。

○公述人(畠山圭一君) ありがとうございます。
 学習院女子大学の畠山圭一と申します。
 本日は、このような憲法に関する大変重要な調査会の場で私の考えていることについて述べさせていただく、そういう機会を与えられたことを心より感謝申し上げます。
 順を追って、私のレジュメに従って私の考えを述べさせていただきたいと思います。
 私は国際政治という学問分野を専門としておりまして、その専門の分野から今日の世界、特に冷戦後の世界というものはどのように変化をしたのか、それによって今後の我が国の安全保障政策というものはいかにあるべきかということについて、私が考えているところを述べさせていただきます。
 冷戦が一九八九年に終結をいたしたわけでありますけれども、終結に向かうそれよりもかなり早い時期から、徐々に冷戦後の世界というものの姿が、少しずつではありますが、見えてきておりました。
 とりわけ、冷戦が終結するということはどういうことかということについて、私は国際政治を専門とする立場から、まず第一に、仮想敵国というものが非常にイメージとして薄れていくだろうということをまず感じておりました。仮想敵国というものがまず冷戦時代ほど明確ではなくなっております。
 特に、イデオロギーに基づく共通の敵のイメージというものが、これが不明確になってしまいました。そして、そのことによって、これまでは東側あるいは西側といった形で一つのイデオロギーに基づく共通の敵というのがございまして、同盟関係というのもこのイデオロギーに基づく敵対関係がベースに存在していたわけであります。ところが、一九八九年十二月に冷戦が終結して以来、この状態が徐々にイメージが薄れていくというのが冷戦後の一つの戦略環境の特徴であります。
 それから、もう一つの特徴として、冷戦時代でありますと、今言ったように西側、東側というような二つの陣営がありましたために、その同盟国の主導的立場にあるいわゆる超大国というものの力というのが各同盟国に及ぶということがあり、いわゆる国内の対立あるいは近隣諸国との間の対立関係というのが言わば力によって抑えられているというような状況がございました。ところが、冷戦秩序が崩れてまいりますと、国ごとの対立、紛争というものが、むしろそういった信仰や民族感情といったような精神的価値に基づく紛争という形で登場してまいります。この結果、現実には、冷戦が終われば平和になると私たちは大変期待を持って迎えたわけでありますけれども、現実に出てきたのは、コソボの紛争に象徴されるようないわゆる多民族国家における内紛であり、民族紛争でありました。
 このような場合、私は大変厳しい問題だなと思ったのは、精神的価値観に基づく対立というのは、事、正義か否かということの議論ができない紛争でありまして、どちらに味方することもできない、敵対することもできない、ある意味では仲裁することもできないという大変厳しい状況がそこに登場してくるだろうということを感じておりました。
 そして、三番目の問題として心配していたのは、国家以上に安全保障の脅威となる非国家主体、いわゆる国際テロリズムといったものに象徴される非国家主体が存在をするということであります。
 このことは、冷戦後、私たちが、我が国が体験したオウム真理教による地下鉄サリン事件が見事に物語っておりました。いわゆる非国家主体、テロリズム、テロ集団が国家の安全保障に類する、安全保障の脅威になっていくということが、そのとき私たちの目に明らかになったわけであります。
 また、国家とは名乗っているものの、従来の国家観念から考えますと、まるで理性を失ったかのような、あるいは常軌を失ったかのような行動を取るそういう国家、いわゆるならず者国家というものが存在をしている。また、そういう国家が、冷戦後のいわゆるおもしの解けた中で必ずや台頭してくるに違いないということも、当時、私は冷戦が終わる直前から想像をしていたわけであります。
 そして、もう一つは、冷戦の、これは冷戦終結を早めた一つの原因でもありますけれども、いわゆる軍事上の革命と呼ばれる事態が進行していたということであります。それは、攻撃形態あるいは攻撃の手段、あるいはその手法であります。そういったものが急速かつ革命的に変化をしていると。これは情報化社会というその社会の変化に伴って起こってきた現象でありまして、単に軍事的野心といったものから起こったものとはいささかきっかけが違うわけでありますが、そうした軍事的、軍事上の革命というものが進行していたということ。
 そして、もう一つは、大量破壊兵器が使用不可能な兵器であるという不文律そのものが大きく冷戦の解決、終結によって崩れ去っていくだろうと、このようなことを想定して、私は感じていたわけであります。そして、一九八九年以降の世界は、見事にこれらの五つの視点を証明していたかのように私には映っております。
 このようになってまいりますと、私たちが考えなくてはならないのは、脅威というものは果たしてどこからやってくるのかと。敵対する国家からやってくるのか、それともほかのものから脅威というものが及んでくるのかということを考えてみなくてはならなくなったわけであります。
 これまでは、国益に基づき合理的な計算によって行動することを予定されていた国家同士が、それぞれの国益やそれぞれの国家の方針によって作られていた国際関係の摩擦、その対立によって起こってくると言われていた安全保障の大前提が崩れ去ってしまったわけであります。そしてさらに、不特定の主体による対応困難な新しい形式の、あるいは新しい手段を用いた攻撃が大変重大な脅威になってくるという、全く我々今まで想像したことのないような新しい事態が登場してきた。
 そうなってまいりますと、安全保障というものを考えるときの大前提である脅威とは何かという議論そのものの根本的な考え方を改めていかなければならなくなったというふうに私は考えています。脅威の実体というのは、仮想敵国という国家存在ではなくて、むしろ不特定の主体による攻撃形態、手段というものに移ってきているのではないか。もちろん仮想敵国というのは存在するわけであります。むしろ、この仮想敵国という国家存在と、もう一つは不特定の主体による攻撃、あるいは新しい種類の攻撃といったようなものを私たちは加えて考えなくてはならなくなった。
 安全保障戦略の策定も、そういう意味では、これまでのように仮想敵国だけを想定した発想法から超えて、脅威となり得る攻撃手段あるいは形態といったものに対してどのように国の安全保障を確保していくかというような根本的な発想の転換が必要になっているのではないかというように考えるわけであります。
 先ほど、私は不特定主体による対応困難な攻撃の話をいたしました。このことを私たちはかなり深刻にとらえてみなくてはならないわけであります。特に、国際政治を専攻している、研究をしている者にとりましては大変深刻な問題を提起しております。それは、従来、外交戦略において頻繁に用いられてきた抑止戦略というものと強制外交という戦略の非常に重要な柱であったこの二つの戦略がともに限界に達してきているということであります。
 抑止というのは、相手がある行動を起こすときに、そのコストとそれからリスクというものが期待した結果よりも上回ることによって、つまりコストが非常に掛かる、リスクが非常に伴うということで相手が行動を断念するというように状況を設定する努力であります。ですから、相手を攻めたらかえって報復によってリスクが高くなると相手が実感をいたしますと攻撃できなくなるというようにするのが抑止というものでありますが、これは何よりも相手が行動の利害得失を計算するということを前提としております。
 しかしながら、国際テロ集団となりますと、このリスクをいとわないというようなことをもし前提といたしますと、彼らはいかなる計算をしてもリスクを問わないわけでありますから、これはどのような状況があっても抑止力が利かないということになってまいります。
 しかも、さらに、抑止戦略が効果を及ぼすためには、その抑止戦略を行使する側がいかなる事態があっても相手の行動に上回るだけの反撃あるいはそれだけの報復をするという確固とした意思を表示しておかなければならない。あるいは相手が、少なくともこちら側がそういうふうに出ていくであろうということを最初から想定している、実感していなくてはならないわけであります。
 そのことを十分に伝えることが必要になるわけでありますが、まずそのためには相手がどこにいるかということが明確でなくてはならないわけでありまして、そして、その相手が明らかにそのリスク計算ができるということを前提としていなくてはならないわけでありまして、明確な状況に対するコミットメントをするという意思を、少なくとも抑止戦略を行使する側は持っていなくてはならないわけであります。
 ところが、民族紛争や宗教紛争に対しては、これはコミットできないたぐいのものであります。したがって、抑止戦略はほとんど通用しない、民族紛争、宗教紛争についてはほとんど機能しないというようなことが出てまいります。
 次に、強制外交というものなんですが、強制外交というのは、既に紛争が起こっている場合によく用いられるものであります。相手が武力行動を起こした場合、それを断念させるために、まず説得をするための前提条件として一定の威嚇や限定的軍事力を行使することによって、相手に対していったん戦争行動を止めて、そしてその上で説得を行うというのが強制外交でありますが、その説得を成功させるためには交渉、取引あるいは妥協の余地というのを残しておかなくてはなりません。
 ところが、最初から交渉、取引、妥協の余地がない相手に対しては、これは通用しない方法であります。しかも、そればかりか、相手が交渉、取引あるいは妥協が不可能であると判断した場合、つまり宗教的な目的を達成しようとするまではこの戦争は終わらないというような意思を持っている場合は、こちら側の威嚇はかえって相手に絶望感を助長することになり、相手はかえって非妥協的な態度に出るという、そういうことになってまいります。
 また、大国と小国との間、小さい国と大きい国との間でもこの強制外交は通用いたしません。大国による威嚇は容赦のないものになりやすく、逆に融和的であれば小国の方はかえって得るものが大きいと判断をしてこの妥協には応じてこないということになります。北朝鮮が核兵器をちらつかせてその見返りとして大国から何らかの援助を得ようとする戦略はこのたぐいであります。つまり、強制外交の裏をかいたような側面があります。
 このようなことを考えてまいりますと、この強制外交も非常に通用しにくい。ならず者国家あるいは宗教紛争あるいはテロリズムといったような問題を考えるときには、この抑止戦略も強制外交も通用しない。そのようになって、さらに核、大量破壊兵器の拡散現象が起こってきていて、その中で私たちがどのようにしてその大量破壊兵器の脅威から身を守っていくかという問題が重要になってくると思うわけであります。
 そこで、いったんここで締めたいと思うんですが、そのレジュメの二枚目のところに新たな戦略発想の必要があるということを述べておりますが、一つは地域ごとに脅威の形態が違っていると。冷戦時代のように単純ではない、そういう脅威の形態が非常に多様化した、そういう世界像の中でどのようにしたならば世界秩序を維持することができるのかということ。それから、抑止戦略や強制外交が通用しなくなった中で、いかなる安全保障戦略が考えられるのかという問題。そして、同盟国アメリカにとって本土防衛の強化が最優先かつ喫緊の課題となった中で、同盟関係をどのように調整していくのかということ。それから、弾道ミサイル攻撃や国際テロリズムやあるいは大量破壊兵器使用の可能性が増大していく中で、いかにして国土の安全を確保するのかというような、そういう新しい戦略発想が必要となっていくであろうと思うわけであります。
 当然このことは、これからここで御審議なさるであろう憲法第九条の問題と深くかかわってまいります。新しい時代の安全保障、国防をどのように考えるかということが第九条の中にまた反映されていくことになるだろうと思いますけれども、そのことを一言申し添えて、後の質疑応答でまた細かい点については意見を述べさせていただきたいと思います。
 以上でございます。ありがとうございます。

○会長(野沢太三君) ありがとうございました。
 以上で公述人の方々の御意見の陳述は終わりました。
 速記を止めてください。
   〔速記中止〕
○会長(野沢太三君) それでは、速記を起こしてください。
 これより公述人に対する質疑に入ります。
 質疑のある方は順次御発言願います。
 なお、質疑の際は、最初にどなたに対する質問かお述べください。また、時間が限られておりますので、質疑、答弁とも簡潔に願います。
 椎名一保君。

○椎名一保君 御指名いただきまして、ありがとうございました。自由民主党の椎名一保でございます。
 本日は、公述人の皆様方、本当にお疲れさまでございます。ありがとうございます。尾形公述人におかれましては、貴重な御体験から平和理念をお聞かせいただきまして、ありがとうございました。また、加藤公述人は広島県の御出身ということで、核軍縮、地球上から核を廃絶というその基本理念、私も同感でございます。そのような気持ちを持ってやっていきたいと思っております。
 初めに、田中公述人に御意見をお伺いしたいと思います。
 田中さんのような世代の方が勇気を持ってこういう場に臨んでいただいたということ、そしてその応募原稿、今の御意見をお伺いいたしまして、往々にしてこの安全保障を語るときに、平和的、平和理念を持たないで、相手がこうしたからこうするんだ、こうしなければいけないというような考え方で物事を語る方が多いんです。
 午前中の公述人のお話にもそういう若い人たちがいるというお話を伺いましたけれども、でも、あなたの、安全保障体制を整える、これは基本に平和理念があって、そのために体制を整えなければならない、やはり日本人の命を大切にしようということは他国の人の命も大切にすると、そういうお考えを感じさせていただきました。大変敬服をいたしました。恐らく、今日ここにおられる、少なくとも自民党の委員の先生方は同じ気持ちを持たれたと思っております。
 平和の問題を考える上で二つまずおっしゃられました。一つは、日本という自分の国がある尊さを大切にする、そして国家があって初めて日本人である自分が存在できる、この二点が重要であると、こう述べられました。これを踏まえて、日本という国を大切にすべく、誇りを持てる教育をすべきであると。そして、自分の国は自分で守るというその当たり前のことを教育することが必要であるということを述べられました。いずれにつきましても私は同感でございます。
 率直に申し上げまして、なかなか私どもは、田中さんと同じような世代の方々が安全保障とかということに関しましてどのような意見を持っておられるのか、その日常生活の中でこういうことが話される機会があるんだろうかと、恐らく多くの方はそうお思いだと思うんですけれども。こういう物事に対しての田中さんの世代の周囲の方々の御意見というものが田中さんからお聞きできるかと思うんですけれども、率直に新鮮な話を聞きたいと思うんですけれども、もしそういうことが、そういう機会がなかなかないようであれば、どうしたら、やはり日本人が平和を語る上で最も必要なことだと思うんですけれども、どういう機会を持ってこういうことを啓蒙していったらいいか、こういう機会を作っていったらいいかということについて御意見をお伺いできればと思います。
 ちょっと突っ込んだ話で恐縮ですけれども、先ほど田中さんの御意見にもございましたけれども、憲法九条の話。なかなか憲法九条というのは難しい解釈が必要で、現実、自衛隊というものが存在しているわけですけれども、田中さんの世代の方々が、もう大学生でございますね、恐らくもう中学、高校、憲法を読む機会を持ったり、時間があったと思うんですけれども、率直に言って、もっと分かりやすいものに変えたらいいとか、そういうような意見というのは田中さんの世代、そういう周辺でそういう話、意見を持った方がおられるかどうか、その辺りについてお聞かせいただきたいと思います。お願いいたします。

○公述人(田中夢優美君) 教科書で学ぶときには、教科書に書いてあるのですと、軍備を持たないと書いてあって、それで戦争を放棄しているイコール平和というような教科書があって、それのとおりに教えられるので、そんなものだなと思ってテストに書いているというような感じだと思います。

○椎名一保君 あともう一つ、お仲間の中でこういう安全保障とかこういったことについて意見交換をしたりという機会はおありになりますか。

○公述人(田中夢優美君) 私の周りではさほどないです、私の周りでは。

○椎名一保君 そうですか。

○公述人(田中夢優美君) そうです。

○椎名一保君 やはり大切なことなんで、もう田中さん御本人がこのようにこういう機会に勇気を持って臨まれているわけですから、同世代の方たちももっと積極的に平和理念を基に安全保障のことを話をする機会を持たれた方がいいと私は思うんですけれども、そういう機会を多く、そういう機会を作るためにはどうしたらいいでしょうか。

○公述人(田中夢優美君) 新聞とかで分かりやすく憲法について書いたら、興味を持って読む人が増えると思います。

○椎名一保君 ありがとうございました。
 続きまして、畠山先生にお伺いしたいと思います。
 ただいまのお話とレジュメの中で、先生は、軍事技術の進歩と脅威の性質の変化によりまして、我が国の国防政策が根拠としてきた防衛思想と申しますか、そのものが限界に来ておると。内閣法制局の集団的自衛権や専守防衛をめぐる解釈は、我が国を取り巻く安全保障の実態と懸け離れてきておるんではないかという意見を述べられております。その意見につきましては、私も、五月十四日の本憲法調査会の自由討議の場におきまして同様の意見を述べたところでございますけれども。
 そもそも憲法九条の解釈をめぐって、先ほど御意見ございましたけれども、後ほど少し突っ込んでお答えするというお話でございましたけれども、やはりこのような混乱が生じている根本原因は九条そのものにありまして、たとえ解釈を変更したとしても条文そのものを改正しなければやはり混乱は避けられないんではないかと思います。例えば、今の田中公述人のお話にもございましたけれども。
 そこで、憲法九条、特に第二項の改正について、その内容について具体的な提案があればお聞かせいただきたいと、それが一点。
 先生はアメリカの国防政策についてお詳しいというお話をお伺いしておりまして、今、いろいろ私は報道でしか知ることができないんですけれども、アメリカの国防政策、根本的に変わってきていると、そういうお話を聞いているんですけれども、今の日本がその点について特に留意をしなければならない点につきまして教えていただきたいと思います。

○公述人(畠山圭一君) 御質問についてお答えいたします。
 まず、憲法をめぐる考え、憲法をめぐるその背景にある防衛思想そのものが変化をして、非常に限界に来ているのではないかということについての御質問でありましたけれども、皆様のところにありますレジュメのところの六番と七番について私がその点をちょっと指摘していたわけであります。その中で三つの点を私は挙げております。
 一つは、まず、非常に相互依存体制が高度に進んでしまった世界であるということであります。その結果、我が国の安全保障ということで、我が国の国土の防衛ということだけを想定していたのでは恐らく我が国の生存を達成することができないという、そういう非常にゆゆしい事態がこの五十年の間に進んだということです。相互依存は大変すばらしいものでありますけれども、しかしながら他国の問題に無関心ではいられない時代になったという点であります。その点をまず第一点、言っておきたいと思います。
 それからもう一つは、軍事技術の進歩による、軍隊の機動力が向上してしまったということであります。したがって、必ずしも大部隊が準備を整えて我が国の海岸に押し迫ってくるというようなものではないということであります、今後の考えられる安全保障上の脅威というのは。もちろん、そういう攻撃もあるやもしれませんが、その蓋然性は極めて低いであろうと。むしろ、高まっている攻撃の形態というのは、例えばミサイルといったようなもの、あるいはテロリズムを多用、活用する、いわゆる国家によって支援されたテロリストの活動ですね、そういった国家支援テロリズムといったようなものがあり得るということであります。
 それからもう一つは、先ほど言ったように、国際テロリズムという形で非妥協的な、しかも国家以上のある意味では脅威となる手段を持ち得る集団が出てきたということであります。それから、いわゆる冒険主義と言われている、冒険主義を多用、使用する国家、具体的には北朝鮮のような国家がそれに相当するのだろうと思いますが、そういったものの増大、台頭が出てきていると。
 そうなりますと、我が国の憲法九条というのは、言わばいまだ大部隊が部隊を整えて我が国の周辺に押し寄せてくるということを前提とした防衛、そういうことを前提として作り上げられた憲法の国防規定であるということであります。そうしますと、状況が全く変わっておりますので、当然、その枠にはまらない部分が出てくる。例えば、解釈の問題で申し上げますと、集団安全保障の問題はさることながら、これはもちろん当然認められることでありますが、集団自衛の問題であります。果たして、我が国への攻撃ではなくても、それが我が国の生存にとって死活的な重大な事態をもたらすような紛争が起こった場合に、我が国はこの問題を手をこまねいて見ていることができるのだろうかという点であります。
 現在、後方支援といった形で多少なりともそのギャップを埋めようという努力はなされているわけですが、果たして後方支援で済むような段階でとどまるようなことが、今後もそういうふうにとどまるということを確信できるんだろうかということがまず一点であります。
 それから、先ほど言ったように、ミサイルといったようなものが飛んでくる場合は、例えば北朝鮮あるいは中国といったようなところから飛ばした場合、恐らく十分と掛からず我が国の上空に達してくるわけでありまして、これを防御するためにはどういう、いかなる手段をとらなければならないのか。そうすると、いろいろな議論が出てくるわけですね。先制攻撃だといった議論がやられたりします。しかし、私自身は、先制攻撃が果たして選択肢としていいかどうか、これについては正直言ってまだよく分かりません。それは状況次第だろうと思います。
 ただし、飛んでくるミサイルを自らその技術によってこれを排除するということは、自ら排除することということは、いろいろと手段はあるだろうと私は感じております。例えば、現在議論になっているTMDあるいはMD、ミサイルディフェンスなどはその部類に入ってくるだろうと思うわけです。
 そして、そのような、しかも機動力が非常に高いですから、非常に高機動力を持って我が国領土を制圧するという可能性もあります。我が国領土というのは、何も、我が国の本州あるいは九州、四国あるいは北海道といったような大きな島だけではありません。小さな島でも、いったんそこが占領されるといった場合に、私どもはどのような手段をもってこれを解放することができるかということを考えますと、我が国の防衛政策の中で一大欠点だと私が感じているのは、我が国の憲法解釈上、少なくとも他の国土に、他の国土とは言っちゃいけないですが、一つの領土に上陸するような部隊編成は持っていないということであります。しかし、もし我が国の島嶼部がどこかの軍隊によって占領されるというような事態になったときに、果たして上陸部隊を持たない自衛隊は我が国国民を解放することができるのだろうか、こういう危機感を私は抱いております。それを抱かせたのは尖閣諸島をめぐる混乱であります。
 尖閣諸島にもし仮に他国の軍隊が駐留をする、あるいは、尖閣諸島にはまだ国民はいないかもしれませんが、例えばこれが具体的に対馬といったようなところに他国の軍隊が駐留するというようなことになったときに、私どもはそれを排除する手段は持っておらない。なぜ持たないか。それは他国にとって脅威になるからであるという憲法九条の解釈がこれを止めているという現実を私は見ておく必要があるのではないか。このようなことを自衛隊の問題を考えるときに感じた次第です。
 ですから、もし、少なくとも、自衛する、自衛のための手段はこれを保持するという規定は絶対に必要だろうと思います。それだけは一点申し上げておきたいと思います。

○椎名一保君 アメリカの国防、あと三分程度でお願いいたします。

○公述人(畠山圭一君) アメリカの国防政策でありますけれども、アメリカの国防政策というのは単独主義ということをおっしゃる方がいらっしゃいますが、私はそうとは考えておりません。正しく先ほど申し上げたように、地域ごとに脅威の形態が異なっているということで、今までのような単純な安全保障戦略ではできないというのが、少なくともブッシュ政権あるいはその前のクリントン政権の時代から議論されてまいりました。
 どういうことかといいますと、グローバルなイシューについては、グローバルな問題については、これはグローバルな組織で対応すると。しかし、リージョナルな紛争についてはリージョナルな論理で対応していくと。簡単に申し上げますと、中東なら中東地域については、中東国、中東諸国の独自の安全保障体系が必要であろう、ヨーロッパについてはヨーロッパの独自の安全保障体系が必要であろう、アジアについてはアジアの独自の安全保障体系が必要であろうと。
 ただし、その際、各地域の安全保障体系だけを問題にしてまいりますと、いわゆるブロック化あるいは地域対地域の対立の原因にもなりかねないということから、ここについては世界の大国、まあそれはG8なのか、それとも安全保障理事会の常任理事国なのかは分かりませんが、そうした国々と相協力してすべての地域にそれらはコミットをしていく、それによって地域、リージョナルな特殊性を配慮した、しかし世界全体として平和を構築できるようなシステムに作っていきたいというのがどうもアメリカの戦略の方向性として出てきているというのが私の見解であります。

○椎名一保君 ありがとうございました。

○会長(野沢太三君) 峰崎直樹君。

○峰崎直樹君 今日は四人の公述人の方ありがとうございました。
 民主党・新緑風会の峰崎でございます。
 そうですね、多岐にわたっているのでどこから入ろうかなと思っているんですが。
 実は私は加藤公述人と同じように広島県に生まれ、そして育っておりまして、常々、原爆の問題とかそういうことについて、大変私自身も加藤公述人と同じような考えを持っているんですけれども、一点、中国の方々と一度話をしたときに、皆さんは原爆の被害のことを広島の問題について言われるけれども、広島という名前を聞くと、実は日清戦争のときの大本営が置かれて軍都として栄えた町であると、そのことに対する認識というのはあなたは持っていらっしゃらないのかと、こういう鋭い指摘を受けたことがございます。
 加藤公述人はその点についてはどういうふうにお考えになりますか。

○公述人(加藤正之君) 私も今の質問と同じ考えを持っております。ただ、今日触れなかったのは、ちょっと時間がなかったということで意見述べませんでしたけれども。
 確かに、言われるように、アジアの諸国には、半分、極端に言えば半分ぐらい、やっぱり被爆は仕方がなかったんだ、やむを得なかったんだという、そういう意見があるのは私も知っています。それに対して、広島の被爆者とか市民とかあるいは国民がそういうアジアの声というか批判に対してどのように向き合っていけばいいのかというのは、まだ大きな宿題として残っていると思います。まだほとんど手付かずと言っていいと思いまです。
 そういう点での日本国民全体のそれぞれの議論というか、これはもう戦争責任も含めた大きな問題に発展していくと思いますけれども、そういう問題はちゃんと問題意識として私持っておりますし、この憲法調査会の議論の中でもその辺はきちんと踏まえるといいますか、想像力の中に含めた上で検討していただければと思っています。

○峰崎直樹君 加藤公述人に、今、私、実は中国の方々も原爆が落ちたことはそれは正しかったと言っておられるんじゃないんですね、原爆の被害を受けたことに対するそれはもう大変なことだということは認めつつも、もう一方で加害者としての立場というもの、我々、ともすれば被害者としての意識はよく持つんですが、加害者であったという意識をともすれば忘れてしまうということがあるんですが。
 そこで、今の実は関連して、アメリカの国内において、日本の原爆投下というのはこれは正当化されるのかどうかという議論が実はあるわけですね。これはほっとけばもっと日本の抵抗によって被害がもっともっと大きくなった、だから原爆投下というのはやむを得なかったんじゃないかという意見と、いやいや、やっぱりあれは大量殺人兵器であり非人道的な兵器だからこれはまずいと、こういう意見があったということについて、加藤公述人はどんな御見解をお持ちでしょうか。

○公述人(加藤正之君) 私もそういう点について専門的に研究したわけではありませんけれども、私がいろんな本を読んだりいろんな話を聞いた中では、原爆の開発とかあるいは原爆を直接投下するかどうかというところにかかわったような、かつての軍人とかあるいは核の物理学者とかそういう方たちは大体必要じゃなかったというような意見を持っておられるように私は理解しています。その分と、アメリカの国民ですよね、一般レベルでは全く意見が違って、もう被爆のことを言えば、パールハーバーだ、あれは戦争の犠牲を少なくするために必要だったんだというのがわっとすぐ急速に一般レベルでは出てきて、それが大きな支配になっているという、そういう感じは持っております。

○峰崎直樹君 田中公述人にお伺いいたしますが、先ほど私が、中国の方々の、日本が加害者であったときの広島というのは、そこが基地になって、日清戦争の正に大本営が置かれたところなんですね。もっと歴史はいろいろと古く、さかのぼればいろいろあるんですが、近代以降、明治維新以降、この日本のいわゆる海外侵略といいますか、特にアジアの国々に対するそういう様々な出来事が起きたわけですね。そういうことに対する、田中公述人はそれをどう評価されているのか、まずお聞きしたいと思うんですが。

○公述人(田中夢優美君) 過去に戦争していない国はないというほどに思いますから、よく分かりませんけれども、事あるごとに日本に責任責任といつも話がありますけれども、もう戦争の責任はお取りくださった方々もいらっしゃいますし、何だか経済的な援助などもいろいろしているので、もうその点については十分だと思います。

○峰崎直樹君 例えば村山総理大臣の時代に村山談話というのを発表されているんですが、その中身については御存じですか。

○公述人(田中夢優美君) 詳しくは知りません。

○公述人(尾形憲君) 済みません、耳が遠くて、よく聞き取れないものですが。

○会長(野沢太三君) 御意見がありますか。

○峰崎直樹君 いや、尾形公述人には聞いておりませんから。

○会長(野沢太三君) 田中公述人、もう一度、じゃ。

○公述人(田中夢優美君) 特に詳しくは知りません。

○峰崎直樹君 決してこれ追及型で話しているんじゃないんですが。
 実は、ある女性の衆議院議員で、どの党とは申しませんが、戦前の日本の軍国主義の時代に様々な、例えば従軍慰安婦の問題やあるいは様々な戦争中の出来事を指摘をされたときに、それは私のように戦後生まれの人間にとってみたら実は関係ないことですと、こういうふうにおっしゃった人がおられるんですが、田中公述人はそういう、何といいましょうか、発言をされた議員に対しては、まあ今私がこういうふうにお話ししていて、そういう議員に対しては、それはそうだねえ、もう戦後生まれの人にとっては直接関係ないよねというふうにお思いか、それとも、戦前とやはり戦後というのは、日本という国は今あるのはそういう歴史の上にあるわけですから、やはりそれは私たちも責任があるよねと、こういうふうにお考えか、そこら辺どのようにお考えなのか、ちょっとお聞きしたいと思います。

○公述人(田中夢優美君) 責任は……。いつの戦争のことでしたっけ。

○峰崎直樹君 いや、明治以降でいいですよ。

○公述人(田中夢優美君) 明治以降で。

○峰崎直樹君 特に第二次世界大戦がやっぱり一番大きいんですけれども。

○公述人(田中夢優美君) 東京裁判などで責任をお取りくださった方々がいらっしゃるので、その点についてはもうそこで終わったことだと思っています。
 それよりも、平和時に北朝鮮に、平和時の日本から北朝鮮に拉致されてしまっている日本人について、日本はもっと取り返して日本人を帰国できるようにというふうにした方がいいと思います。

○峰崎直樹君 拉致の問題は私も同じように考えておりますので、これからも国際社会にも訴えながら、また北朝鮮との交渉の中でやっていかなきゃいかぬ課題だと思っています。
 さて、畠山公述人にお聞きしたいと思うんですが、ずっとお話を聞いていて、いわゆる脅威のありようが変わってきていると、そして安全保障の考え方も変えていかなきゃいけないということだったんですが、まず最初にお聞きしたいのは、国連を中心として日本はこれまでいわゆる安全保障の考え方を取ってまいりました。午前中のちょっと実は会議にもあったんですが、国連憲章の第五十一条を軸にして、まず最低限の自衛権というものの存在は、これはそれぞれの国があるだろうと。問題は、その自衛権すら、実は国連の安保理がある意味では安保理決議をして、その侵略を受けた国をある意味では応援するまでの間にのみ実は私は個別的な自衛権というのは存在しているんだろうというふうに思っていたんですが、そういういわゆる国連憲章の安全保障に対する考え方を、公述人は、むしろそこも実は見直していかなきゃいかぬと、こういうお考えなんでしょうか。
 集団的自衛権というものをもう、どんな国も、日本においても、先ほどの、内閣法制局の考え方はもう変えなきゃいけないとおっしゃっていますので、たしか集団的自衛権の問題は、内閣法制局は、権利はあるけれども現行憲法ではできないと、こう規定しているんですけれども、それを変える、変えなきゃいけないというのは、なぜ変えなきゃいけないのかということについて、もう一回ちょっと詳しくお聞きしてみたいと思うんですが。

○公述人(畠山圭一君) まず、国連憲章の条文の解釈でありますけれども、少なくとも国際法上の、しかも、いわゆる日本の国際法学者ではなくて、いわゆる世界の国際法学者の共通した意見の中では、今おっしゃったような形での自衛権解釈では私はないのではないかと承知しております。
 一般的な常識として、国家の自衛権を国連憲章が禁止しているという解釈をしている、少なくとも欧米の文献に私は余り見たことがございません。確かに、日本の国際法学者の中にはそのような説を唱えておられる方はいらっしゃいますけれども、必ずしもそれが国際的なスタンダードであるとは私は思えないんですね。
 この件は、私も国際法学者ではありませんので、具体的にどの法学者がどういうことを言っているかということについて十分承知しているわけではありませんけれども、少なくとも国連憲章の中でそのように解釈されているというようには私は承知していません。この点をまず明確に述べておきたいと思います。
 それから、九条の集団的自衛権の問題でありますが、集団的自衛権ということについては、これを政府の解釈が憲法上できないというのは、そこまでは私は言っていないのではないかと思うんですが、実際にそのように言っているんでしょうか、法制局の解釈は。少なくとも、その精神にのっとって現状として行使する権利はあるけれども、権利はあるけれども行使できないんだということは、確かに法制局の解釈としては出ていますが、それが少なくとも憲法九条の第二項から来ているというようにはっきりそれは明言なさっているんでしょうか。そこは、私自身もちょっと承知していないものですから、うかつなちょっとお答えはできないなという気がいたします。
 ただ、一言だけ申し上げておきますと、例えば今ちょっとお話の、田中公述人の中からもちょっとありましたけれども、拉致の問題でありますが、これは明らかに九条の問題にかかわる問題だと私は思っているんですね。少なくとも平和時に、全く罪のない一般の国民が他国によって、正に侵略ですね、侵略を行った。少なくとも工作員が入ってきてそれを侵略した。もしこれが軍に所属しているとすれば明らかに侵略でありますが、その人たちがやってきて、これを拉致していくということがあったとするならば、これを守れなかったのは法制上の問題なのか、それとも制度の問題なのか、それとも単なる我々の能力のなさなのか。さらに、それに抗議ができないとするならば、これは何をもって抗議できないのか、こういうことを考えていったときに、もしそこに九条の問題があるとすると、これは大変深刻な問題ではないだろうかということを一つ感じるんですね。
 それからもう一点、これは憲法十三条にももとるのではないかと私自身は感じております。それは、少なくとも日本国憲法の中には、生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については国政上で最大の尊重を必要とすると言っているわけであります。これを尊重する義務を負っている我が国の憲法がこれを現実に実現できていないとすれば、それはやはり国家の在り方ということで根本的に改めて考えなければならない問題を含んでいるような事態だと私は思っております。安全保障というのは九条に尽きる問題ではないというのが私自身の考え方であります。
 以上のことだけ述べさせていただきます。

○峰崎直樹君 それでは、ちょっと畠山公述人に引き続きお聞きしたいんですが、我々も、脅威の性格が大分変わってきて、今現在、有事法制が参議院に掛かっておりますけれども、かつての三矢作戦で大問題になってきたわけですけれども、あの当時のいわゆる仮想敵国、ソ連軍が北海道を中心にして上陸をしてくるという、それをどう阻止していくかという軍事思想があったと思うんですが、おっしゃられるように、脅威の性格が、テロだとか、あるいは今、拉致の問題だとか、あるいは海賊船だとか、様々な問題が起きている、あるいは大地震とか大震災とか。
 そういう問題が脅威の主要な問題であるとするなら、やはりそこに焦点を当てた、ある意味では有事の対応を取る。憲法上規定がないからそれをどこに求めるんだというのは、先ほど、今おっしゃった憲法十三条の幸福追求権ですか、そういうものに求めるべきだという声もあるやに聞いておりますが、憲法上の規定は存在していないということの問題は別にしても、今、私どもが見ていて、やはりそうなってくると、そういう緊急事態と言われているものへの対応というものをどう考えるべきか。
 そして、その際に、国会の民主的コントロールと、それから国民の基本的な権利というものを最大限尊重していくと、こういう形で私たち民主党は考えてきたわけですが、その意味で、その点についてどのようにお考えになっているのか、お聞きしたいと思います。

○公述人(畠山圭一君) その点については全く同感であります。
 私自身も、今日出てきている有事法制だけでは不十分であるということは当然承知しております。ただし、だからといってこの有事三法が全く無意味であるかというと、私はそうは考えておりません。そこにはまだ時代後れの部分はありますが、ともかくもここまで来たということ自体が、私は、少なくとも国民的論議の下でここまで来たということ自体はやはり重要な意味を持っていることだと考えております。
 その上で、今、先生がおっしゃったような危機管理の問題、緊急対処の問題ということについてはまだ不十分であるということを認識した上で、しかも新しい脅威に対する対応としては不十分であるということを認識した上で新たなる法制度が必要になってくるのではないか。少なくとも、それに対応できるだけの制度を裏付けるようなものが必要になってくるのではないかというふうに考えております。

○峰崎直樹君 尾形公述人に最後にお聞きしたいと思うんですが、今お話をお聞きして、戦争を体験されて、かなり悲痛なお叫びも私どもの耳に届いて、本当に貴重な体験あるいは貴重な御意見だというふうに思うんですが、今日、日本国憲法を取り巻く状況からすると、尾形公述人からすると、最近の国民の憲法意識といいますか、先ほど、田中公述人のような考え方をされる若い方々も大分増えてきておるんですが、そういったことに対しては、尾形公述人、国民の意識の変化といいますか、そういったことについてはどのようにお考えになっているか、それをお聞きして、私、最後にしたいと思います。

○公述人(尾形憲君) よく聞き取れなかったんですが、最近の国民の憲法意識がどうかということですか。

○峰崎直樹君 そういうふうに理解していただいて結構です。

○公述人(尾形憲君) それについては、前々回だったでしょうか、日本経済新聞での三年前の意識調査、社説にありまして、そこでは、憲法は変える必要があるというのが非常に多いわけですけれども、どういう具合に何を変えるのかというのはありませんでした。議員の方々では、もう九〇%ですか、何か改革する必要があるというような御意見だったように載っていますけれども。
 私も憲法は変える必要があると思います。ただし、それは憲法の第一章、天皇条項です。あれを除かなければならないという具合に考えております。
 以上です。

○会長(野沢太三君) 山下栄一君。

○山下栄一君 今日、四人の公述人の皆さんに感謝申し上げます。
 こういう機会はそんなにないというふうに思いますし、そういう意味で、特に憲法の議論を本格的にやり始めて何年かたつわけですけれども、五年をめどにこの憲法の問題について、衆議院、参議院それぞれで意見をまとめようということで、今、約半分過ぎたという状況なんですけれども。
 今日、特に午後につきましては、さきの大戦を経験された方、尾形参考人、それから広島の、被爆地広島の代表として加藤公述人が来ていただいたわけでございます。また、世代の代表という意味で、若い世代を代表として田中公述人が来ていただきました。畠山公述人は、識者の代表でもあると思いますけれども、また世代の代表という意味でもあると思うんですけれども。それぞれ意義のある私は今日は公聴会になっているというふうに感じておりまして、来ていただいた皆様方に心からの感謝を申し上げます。
 私、午前と午後、聞かさせていただきまして、この憲法の平和主義、大事な日本の憲法の根幹を形成する考え方なわけですけれども、身近な問題としてちょっと全公述人にお聞きしたいんですけれども、暴力という問題でございます。
 戦争は大変な暴力の極致ともいうべきものだと思います。人を殺すことが正当化される。特に、この暴力に対する不感症といいますか、痛みが感じにくい、そういう今、時代状況ではないかなというふうに感じております。
 最近、議員立法で児童虐待防止法という法律作りました。また、家庭内暴力、ドメスティック・バイオレンス、DV法という法律も作りました。また、子供の世界におきましては、陰湿ないじめというのが小学校、中学中心に三万件、これはもうほとんど減らない状況ですし、校内暴力も、暴力の形態を変えておるけれども、ますます増えております。こちらの方も三万件を超えているという、そういう状況でございます。青少年の凶悪犯罪も、凶悪犯罪は特に増加する一方であります。
 イラク戦争もそうですけれども、ハイテク戦争で余り実感がわかない形で悲惨、残酷の極致とも言われる戦争がテレビで放映され目の当たりにするという、そんな状況の中でこの暴力についての非常に感覚がどんどん鈍っているのではないかと。足を踏んだ方は余り、鈍感だけれども、踏まれた方は絶対忘れないという、そういう意味では他者への配慮というようなものもこのごろ物すごく鈍くなってきているというふうに思います。
 家の中でも地域でも、特に学校の校訓なんかもそうですけれども、暴力は絶対駄目だと、こういうことをどれだけ徹底されているかというふうに言われますと非常に心もとない。我が家でもそうかも分かりません。家の中でそういうことを教えているのかというふうなことを考えましたときに、暴力というのは絶対悪だと、強そうに見えるけれども、それは弱さの象徴なんだというようなことも含めて、この暴力についての意識をしっかりとやっぱり育てていくというところから、そういうことを取り組むことが私はこの平和主義というふうに直接つながっていくのではないかというふうに感じておりまして、私は倫理観が、暴力は絶対悪だという倫理観が非常に育ちにくい、そういう今環境にあるというふうに思っておりまして、平和は勝手に来ない、作るものであるというふうに考えますときに、この暴力に対する考え方をもう一度国民的な問題として取り組むことがこの平和主義の議論につながるのではないかと感じるわけです。
 こういう考え方につきまして、それぞれの公述人の方から御意見をちょうだいしたいと思います。

○会長(野沢太三君) どなたから行きます。

○山下栄一君 順番で結構です。

○会長(野沢太三君) 順番ですね。
 それでは、尾形公述人からよろしくお願いします。

○公述人(尾形憲君) 暴力についてということなんですが、例えばアメリカでは五段階に分けてテロ警戒レベルというのがありまして、ついこの間、第二段階までは行ったが、またその後、第三段階になったりなんかしました。
 先ほど申しましたように、あれだけ絶大な武力を持っていながら、アメリカは民衆の安全は確保できなかった。したがって、暴力といいましてもいろんな形の暴力があるわけでして、これに武力でもって対処するということはできないということを先ほど私申し上げました。
 大体、今日のテーマの「平和主義と安全保障」ということなんですが、平和主義、大変奇妙な言葉ですよね。平和を望まない国あるいは人間はいないはずです。それじゃ、戦争主義というのはあるかと。そういう言葉はありません。ありませんけれども、現実に、先ほど申しましたように、アメリカは戦争国家になっています。ブッシュ大統領も言わば戦争を望む人間、そういう具合になっています。したがって、国家としての暴力、これは正しくテロです。イラク戦争、アフガニスタン戦争ともにテロです。テロに対してテロをもってする、これは絶対制圧できません。
 私が例えば先ほど申しましたように、アメリカの武力による考え方ですが、一九四六年から五十年後、九六年まで、アメリカが核、兵器のために使ったお金ですね、これをドル札で重ねますと、何と月まで行って地球近くまで戻ってくる、そういうような膨大な金額になります。
 したがって、武力に対し武力、目には目、歯には歯という形で制圧することは絶対できません。そういう武力が用いられないように、平和な方法で、いろんな形で、例えばイラク新法が問題になっていますけれども、イラクに対しては、例えばペシャワール会がパキスタンで展開しておりますような、ああいうような民衆の手での井戸掘り、医療、あるいは国境なき医師団、ああいうような平和な形で行われるべきだという具合に思います。
 例えば、カンボジアにしても、それからチモール、東チモールにしても自衛隊が行っていますけれども、土木工事は自衛隊でなければできない、そんなことないんです。国内に今不況でたくさん技術者がいます。そういう人たちを送って、現地で、現地の人たちの手をかりて、それで土木工事をやるがいい。そうしますと、地元に金も落ちる。そういうような平和な方法で暴力には対処すべきだろうという具合に思っております。
 以上です。

○公述人(加藤正之君) 暴力と一言で言っても、いろんなレベルで、家庭とか学校とか地域とかあるいは社会全体とかいろいろあると思いますけれども、私が最近一番関心があるのは、もう国家としての暴力といいますか、その最終的な究極的な形は戦争だと思います。その戦争がどうして起こるかということをいろいろ考えたりするんですけれども。
 ここで、私たちの生活というのは、生産と流通とそれから消費という流れの中で物を生産し、拡大して豊かな社会を作っていくという形を取っておりますけれども、戦争に使う武器というのは、生産のところでストップして、流通、消費のところは国民に全く返ってこない。それは考えてみれば当然でありますし、それは全部国が税金で買い上げて、戦争の武器、人を殺したり物を破壊したりする、そういうものに使われていく。
 それから、国家として、軍需産業といいますか、産業の民主化というか平和産業というか、そういうところに対して焦点を当てて考えていくということが私は余りにも少ないんではないか。もっともっとその点について国民とかあるいは国会においても議論してほしいなと絶えず思っています。
 作られた武器はどうしてもさばかなきゃいけない。そうしたら、必ず政治とその産業が結び付いていくんですね、政治と産業が。で、その使い先が必要になって政治が展開されていくという、そういう側面も私たちは歴史的に、現在もそのようなことを経験しておりますので、やっぱり産業、平和産業といいますか産業の民主化といいますか、まあ言葉はどうでもいいんですけれども、兵器がどんどんできていくということについてもう少し私たちは問題にしていくことが大事じゃないかと、最近特にそういうことを思っています。
 以上です。

○公述人(田中夢優美君) 暴力といいますけれども、国家が持つ武力というのは暴力ではないと思います。暴力というのは、一人の人が例えば勝手に、憎いからといって人を殺してしまったりするのは暴力になると思いますが、国対国、また国の安全を守るためにする武力行使というのは暴力とは違うと思います。
 あと、暴力が日本の社会では絶えないというのがありますけれども、学校の、青少年の犯罪とか、そういういじめとかいうのはよく今問題になって事件でよくありますけれども、これは、道徳の教育を小さいときからしっかりしておけば少なくなっていくと思います。日本では、私が小学校のときには、道徳の時間がありましたけれども、実際に道徳の授業はありませんでした。そういうところが欠けているから犯罪とかを平気でしてしまう人が増えてしまうんだと思います。
 以上です。

○公述人(畠山圭一君) 今、一般論として暴力ということが出ていますので、私も一般論として暴力ということについての考えを述べたいと思うんですが、もちろん、暴力というものは大変用いられるケースが増えている、これは大変ゆゆしいことでありますけれども、問題は、暴力を行使することが現実にこの地上からなくなるのだろうかということをまず一点我々は考えておかなきゃいけないだろうと思います。だからこそ暴力に対しては明確な罰というものがあるんだろうと思うんですね。
 ところが、果たして国内と国際社会においてこの罰というものをどのように考えていくかということの考え方が根本的に違うということを私たちはやはり理解しておく必要があるのではないかと思います。
 国内にあっては法というものがあります。そして、その法というものはいわゆる権威というものによってこれを執行する。時には力を行使して、言わば暴力をもって暴力を罰するということも行っているわけであります。そして、一つの暴力に対してこれを罪とし、あるいはこれを罰を加えるという形でできるのも、これまた国家があるからであります。
 私たちが裁判を受ける場合に、その裁判、人が人を裁くという行為を行っている、それが許されている理由は何か。それは、やはり国家という最大の権威たる権威があるからであると思うんですね。権威としての存在があるからでありまして、これは決して一人の個人が恨みを持って人に対して罰を与えているわけではないわけでありまして、これを作っているのは、正しく国家というものが存在し、それによって権威付けられた一つの統治の機構が存在するからだろうと私は思っています。
 しかしながら、国際社会ではどうか。国際社会においてそのような世界政府のような存在があるかといえば、これはないわけであります。そして、この世界政府といったものをまた各国がどのような形でこれを世界政府と認めるかということについては、恐らく当面、しばらくそのような権威ある存在は登場してこないであろうと思います。国連といえども単なる国際交渉の場であって、それを、国連もそれ以上の大変重要な役割は持っておりますけれども、決して万能ではない。世界に命ずるような、いわゆる武力あるいは力をもってその各国に制裁を加えるような力は国連も持っておりません。
 その中で、では国際秩序をどのように、その暴力というものをどのようにコントロールしていくかということを考えていくのが正しく安全保障でありまして、私ども国際政治学を専攻している研究者は日夜その問題に苦慮し、頭を悩まし、どのような国際秩序を構築していくことが必要なのか、そのための国家戦略、国際戦略とはどのようなものなのかというようなことを研究しておるわけでありまして、この点は、先生がおっしゃるように暴力に対する例は全く同感でありまして、私もそういう原点から発してこの国際政治を研究しておるものであります。

○会長(野沢太三君) よろしいですね。
 吉川春子君。

○吉川春子君 日本共産党の吉川春子です。
 四人の公述人の皆さん、本当に御苦労さまです。
 まず、尾形公述人にお伺いいたします。
 戦争体験者としての痛切なる御意見、本当に心に響きました。私はこの二月に韓国の西大門刑務所を視察いたしまして、植民地時代に日本がどういうことを朝鮮半島の方々に行ってきたかということをつぶさに見まして、非常に韓国やら朝鮮半島の方々が日本に持っている意識というもの、強い批判持っているわけですけれども、当然であろうなというふうに思いました。
 それで、私たちは、野党は、従軍慰安婦に対して補償と謝罪をする法律案を参議院に今出しておりまして継続中でございますが、先生が先ほどこういう問題について、強制連行その他の問題について何も日本はやってこなかったではないか、何もきちっとした処理をしてこなかったではないかとお述べになりました。戦後もう六十年近くたつわけなんですけれども、この時期にやっぱりこういう問題について何をなすべきとお考えなのか、尾形先生の御意見をまず伺いたいと思います。

○公述人(尾形憲君) 韓国の人たちからいろんな訴訟が出ております。慰安婦の問題、あるいは今出ました強制連行の問題等々、しかし戦後わずかな補償が出たのは台湾兵の補償だけです。
 去年の日朝首脳会談で、私、非常に残念に思ったのは、北が経済協力を求めるという、そういうことだけで済ませてしまっている。それじゃ、一体、北については、北だけでなくて南もそうですけれども、今言いましたような人たちについての訴訟をやっぱりきちんと取り上げて、国がおわびをし、きちんと補償もするという、そういうことをさせなければならない、そういう運動を私たちは進めたいというように思っております。
 私が現在かかわっておりますテロ特措法、海外派兵は憲法違反であるという訴訟、残念ながらたった三回で結審、六月の二十五日に判決を出す、そういうような、司法の独立はどこへ行ったのかというような、そういうような状況です。
 私たちは、非常に難しいことですけれども、今言ったようないろんな形で彼らと連帯をする。例えば、遺棄毒ガスの問題にしてもそうです、それからフィリピンの混血遺児の問題なんかもそうです。いろんな問題について、私たちは国際的な民衆と連帯しながら、私たちのできることをできるところでそれぞれがやっていくよりほかないんじゃないかという具合に思っております。
 以上です。

○吉川春子君 次に、田中夢優美公述人にお伺いします。
 今から六十数年前の戦争体験について、当時、大人であった方からお話を聞いていらっしゃるでしょうか。その点についてお伺いします。

○公述人(田中夢優美君) 聞いていません。

○吉川春子君 もう一つ、田中公述人にお伺いします。
 日本に生まれ育っていることに誇りを持てるような教育を行うべきであるというふうにさっき述べられました。私は自分が日本人であるということに誇りを持っておりまして、日本がもうとっても好きで、優れている点というのは一杯、自分としては誇りに思って持っているんですね。もちろん、いろいろ今申し上げましたような足りない点もあるから批判もしているんですが、非常に日本人であるということに私は誇りを持っています。
 それで、田中夢優美公述人としては、どのような誇りを日本に感じていますか。感じているとすれば、お答えください。

○公述人(田中夢優美君) 長い歴史の中に、詳しくはよく分かりませんけれども、武士道のような人の忠誠心とか、あとは深い思いやりの心とか、あとは、武士の時代には殿様のために一生懸命だったというのから、今になってくると国のために一生懸命になれる精神とか、そういうものが日本人の誇りだなと思っています。

○吉川春子君 続きまして、畠山公述人にお伺いいたします。
 さっき、仮想敵国の概念が不明確になってきたというお話がありましたが、私は、日本国憲法、とりわけ第九条とか前文の思想は仮想敵国を持たない、こういう立場に立った憲法だというふうに考えているんですね。その点についてどうお思いになりますでしょうか。
 それと、いろいろテロに対して、あるいは他国の侵略に対して武力による攻撃があった場合にどういうふうに備えるかという理屈でいきますと、限りなく軍備拡大、非常に財政的な負担も莫大に増えるというふうに思いますが、その二点についてお考えをお聞かせいただきたいと思います。

○公述人(畠山圭一君) 今御指摘の点なんですが、確かに憲法九条そのものは仮想敵国は想定しておらなかったかもしれません。その点については、私もそういう考え方は十分妥当性のある御意見だと思います。
 ただし、その憲法九条の想定した社会状況がいち早く崩れ去ったところから現実には安全保障体制を整えていかなければならなかったというのが実は残念ながら戦後の姿であったのではないかと。そこを、いろいろと憲法を変えずに、どうにかいろいろとその辺りの欠点を補いながらやってきたというのが実は戦後の歴史であったのではないだろうかと、私はそのように感じております。
 そもそも、これは憲法の制定過程の問題で、私自身が一つの国際政治を論じるときに必ず日本の出発点、戦後の出発点のところに必ず返って検討するんですが、少なくとも日本国憲法ができた当時はまだ冷戦は始まっておりません。したがいまして、少なくとも憲法が想定していた当時は、アメリカが少なくとも占領をし、そして、いわゆる平和主義国である連合諸国が連帯をすれば、日本には軍備は必要ないということを前提にして安全保障政策も想定されていた。
 ところが、それがわずか数年のうちに状況は変わっていく。これはいわゆる朝鮮戦争がきっかけでありますけれども、そのころから急速に環境が変わってしまった。それを、憲法の前提とする思想を変えることなく、取りあえずは解釈あるいはその時々の状況に合わせてどうにか日本の安全を守ってきたというのが現実ではなかっただろうかというように認識しております。

○吉川春子君 加藤参考人にお伺いいたします。
 加藤参考人が核は人類と絶対に共存できないというふうに述べられまして、私も全く同感でございます。
 広島、長崎に代表される戦争体験、そのほかいろいろあるんですけれども、そして、それと様々な平和運動が日本人をして日本国憲法第九条を今日まで守ってきて、そして、戦争はもう本当に嫌いということが肌にしみ込む、そういう国民性を育ててきたというふうに思います。
 国会に初めて憲法調査会ができまして、私どもはこの憲法調査会の設置に反対をしたんですけれども、設置された以上、大いに議論をしております。
 この日本国民の、戦争はもう絶対嫌だ、何とか戦争なしに平和のうちにもっともっと発展していきたい、繁栄していきたい、こういう意識を育てていくというか、多くの国民に持ってもらうために公述人は頑張っておられると思うんですけれども、そのことについて御意見があればお述べいただきたいと思います。

○公述人(加藤正之君) 大変大きな問題だと思いますけれども、私自身は、戦後の日本を振り返って、特に憲法をめぐる平和主義について、大体三つの意見を持っています。
 一つは、憲法を現実に合わないから解釈で変えようと、要するに解釈改憲と、それから、自衛隊の設置によって軍備をどんどん増強していくという、そういう保守的な政治の動向と、それから二つ目は、野党といいますか、当時は革新という形で言っておりましたけれども、革新というか野党の方が、三分の一という壁ですよね、三分の一国会議員を確保しておけば要するに国会で発議できないからそれでいいんだということで、つまり、国会で過半数を取って憲法を守るというか憲法を実現するんだという、そういう側面というのはほとんどなかった。ほとんどなかったというよりも、ゼロと言ってもいいぐらい。三分の一を守ればそれでいいという形での運動に終始して、ずっと今日まで来たと思います。
 それからもう一つは、裁判所、最高裁が特にそうですけれども、憲法問題をめぐって争う国民の民主主義というものをシャットアウトしましたよね。統治行為論とか何かいうそうですけれども、高度な何か政治的なことについては裁判所が関与しちゃいけないということで、民主主義あるいは憲法にうたわれておるいろんな項目について国民的な議論をどんどんやっていくという、そういう道が、さっき言いました三つの要件によって、私たち国民から見たら閉ざされてしまったと、非常に民主主義というものが衰弱してきていたんじゃないかというふうに私自身は思っています。
 したがって、この衰弱した民主主義をどのようにもう一回よみがえらせていくかということで、この憲法調査会の方たちが論議を深めていただきたいなと思います。そういう中で、私自身の意見は、先ほど言いましたように、やっぱり憲法の出発点、大前提、戦争を二度と繰り返してはいけないというそこにもう一回戻って、そこから議論を、戦後の日本のいろんな民主主義政治について問い掛けを発していきたいなというふうに思っております。

○吉川春子君 終わります。

○会長(野沢太三君) よろしいですね。
 平野貞夫君。

○平野貞夫君 私の所属しております会派はちょっと複雑でございまして、公述人の方々に事前に説明しておきますが、国会改革連絡会という会派でございますが、衆議院にあります自由党と、それから無所属の会というのが参議院にございますが、この二つの政党が、少数でございますので一つになって作っている会派でございます。
 それから、私は、今日二時から参議院の与野党国対委員長会談が一時間ございまして、誠に失礼でございましたんですが、四人の公述人の方々の話を直接お聞きしておりません。レジュメを読ましていただきましたので、それで質問させていただきます失礼をお許しいただきたいと思います。
 最初に、尾形公述人のお話、御意見でございますが、陸軍士官学校の戦争体験者としての立場からのお話、御意見でございます。実は私の兄も五十六期でございまして、大変共通した認識を持っておりまして、ただ自衛隊を私の兄は認めておりまして、アメリカに、やっぱり米軍にすべて支配されるやり方について大変疑問を持った意見なんですが、そこはちょっと先生と違うわけでございますが、率直に申しまして、私も、PKO法ぐらいまでは結構日本の政治も憲法の精神というものをできるだけ生かそうという形で立法をしておったんですが、周辺事態法以降は、全く私、やっぱり憲法の精神を踏みにじった、その場限りの有事法制の立法の仕方になっていると私も思います。今日も審議しております武力攻撃の事態法もそういう性格を持っておると思います。
 ただ、私申し上げたいのは、ならば、現実の問題もございますので、現在の憲法のままでいいのか、今の憲法の精神を体して少し変えるのか、あるいは変えずにこれで日本人はやっていくのかというきちっとした国民的な合意を今作るべきときではないかと思います。
 率直に言いまして、畠山先生のお話にもありましたように、それは憲法を作ったとき、占領時代と冷戦時代、今と違うわけでございまして、特に冷戦時代というのは、武力を使わない代理戦争を日本でソ連側とアメリカ側がやっていたわけでございまして、もうそういう時代じゃございませんので、しっかりとした日本人としての安全保障の在り方というものを確立する時期だという、そういう意味で、私は、憲法の見直し、新しい憲法を作ろうという立場でございます。
 そのことについて、尾形先生、ひとつコメントをしていただければ、何か御指導していただければ有り難いんですが。

○公述人(尾形憲君) これは、先ほど申しましたように、私は、憲法はもう絶対変えるべきではないという、そういう意見ではありません。ただし、世界に先駆けて非武装、不戦を主張した憲法九条、あるいは前文の思想、これは絶対守るべきだ。現に、これも先ほど申しましたように、これはびっくりしたんですが、カナリア諸島に憲法九条の碑がある、あるいはチャールズ・オーバビーさんが世界に憲法九条を広めようという運動をしている、あるいはハーグ平和市民会議でもって憲法九条が十項目の原則のトップに取り上げられている。そういう意味では正しくこれからの二十一世紀あるいはもっと先の世界の思想を先取りしたものだろうという具合に思っております。
 したがって、そういう点であくまでも平和に徹する、そういう方向で、この憲法を守るというんじゃないんですね、生かしていく、積極的に生かしていく、そういう必要があるのではないかという具合に思っています。
 以上です。

○平野貞夫君 ありがとうございました。
 加藤公述人にお尋ねいたしますが、実は私、昭和三十年の初め、初期ですね、原水爆禁止運動にかかわったことがあるんです。私の指導教授が安井郁先生でして、原水爆禁止運動の重要性というのも私も教育をされております。
 おっしゃるように、五大核保有国が何か核を持っていることを既得権にして様々な政治が展開されていることは誠に、もう本当に残念なことですが、これもまたどうにもならぬことでございまして、日本としてはこの核兵器廃絶運動というのが、これはもう我々民族のテーマだと私は思っておりますが、私これでも十年昔は自由民主党にいたこともある人間なんですが、どう五大国の核保有をなくしていくかという問題。
 私は、やっぱり地球環境保全、地球環境を一番壊すのは戦争だと思うんですよ。そういう意味で、地球環境問題と核保有との問題のジョイントというものを何かこう結び付かないか、理論的に結び付かないかと思っていますが、核兵器廃絶運動をやろうとすればどういうところにポイントを置いたらいいかということをちょっと教えていただければ有り難いんですが。

○公述人(加藤正之君) 大量破壊兵器の中で、生物兵器、それから化学兵器については一応国際的な禁止条約があります。それで何とか条約的な規制というのはある程度は可能だと思います。しかしながら、核兵器については世界の仕組みが複雑なんですよね。
 それは、先ほどNPT体制の問題点の中で意見述べましたけれども、私の意見は、日本こそ非核の国と、それから中立という、どこの核兵器に対しても中立を取るという。だから、今現在問題になっている北朝鮮の核開発について反対すると同時に、アメリカが最近戦術核といいまして、広島型の三分の一ぐらいの戦術核を研究開発しようということで、今表面化しておりますけれども、こういうアメリカの動きに対しても、私は日本としてそれはやめてくださいとはっきり言うべきだと思います。それを言えないと、唯一の被爆国としての悲願だとかいうことを言っても、やはり説得力がないし、世界の支持は得ることはできないというふうに思います。
 だけれども、どう言いますか、いわゆる核の傘と言われることがありますね、日本の安全はアメリカの核の傘によって守られているという。この理論に対しても、私はそれは違うんじゃないかというふうに思っています。
 具体的に言いまして、例えば核の傘から日本がもう離れますというふうに仮に態度を明らかにした場合に、果たして脅威が増すだろうか。おっ、核の傘を離れたぞ、やっつけろという国が実際に出てくるだろうかということを本当に考えた場合に、私はそうはならないと思います。あっ、日本はやっと本気になったかな、言うこととやることが大体一致してきたんじゃないかというふうに、私は世界は見てくれるんじゃないかと思います。
 そういう意味合いからいきまして、もう戦後五十年近く続いた核の傘に対する依存から離れて、やっぱり非核の立場というものを鮮明に世界に明らかにするという、そういう時期に来ていると思います。
 今言われたように、五大国の核兵器を廃絶させるためにはどうするかというのは、それはもう日本の今の状況だと、世界的な世論を日本を先頭にしてやっぱり巻き起こして、それぞれの五大国の国内政治がそれを反映して、やっぱり核はまずいぞというふうにそれぞれの五大国の政治が変わっていくのを私たちがどういうふうに援助してやっていくかということではないかと思うんです。
 それからもう一つ、環境との関係では、私ここに書きましたけれども、二十一世紀は環境問題が最大のテーマだと思います。
 率直に言って、戦争に対してこれだけのエネルギーと労力とお金を使っている暇はないんじゃないかなというのが私の本当の今の気持ちなんです。だから、軍備はもう最小限にして、いろんな環境上の諸問題に取り組んでいくということが大事だと思うんですが、遺憾ながら今のアメリカは、もう世界が寄ってたかって対抗しても、それを超えるような軍事力を持って、最終的には軍事で問題を解決してくるということで、この間、いろんなアフガンの戦争にしてもそうですしイラクの戦争にしてもそうですし。
 このアメリカを変えていくというのは私たちにはちょっと思い付きませんから、やはりここはアメリカとの距離を一定保ちながら、深入りせずに、軍事的な深入りというのは僕は絶対にいけないと思います。これ以上深入りせずに、これ以上というのは、私の場合は専守防衛という意味ですけれども、専守防衛に徹して、ある程度距離を取りながら、アメリカとかを中心とした世界のやっぱり国内の政治とかそういうものをじっと待つという時間が相当続くと思います。それが三十年になるか五十年になるか、私にはそれははっきり言えませんけれども、大体それぐらいのスパンでこの問題は見ておいて、その中で日本はどういう距離を保ちながら付き合っていくかということを考えなきゃいけないと思います。

○平野貞夫君 田中公述人に一つお伺いしたいんですが、日本人の誇り、そしてもっと毅然とした態度で臨むべきだというのはそのとおりだと思いますが、田中さんが高校生あるいは中学生のころ、憲法についてどのような教育を受けられたか、これは一言か二言で結構でございますが、憲法というカリキュラムがあったのかどうか、また、憲法について先生方からどんなお話を、教育を受けられたのか、ちょっと教えていただけませんか。

○公述人(田中夢優美君) 中学校と高校で公民と現代社会で憲法についての授業がありましたけれども、明治憲法と大きく違う点で、天皇陛下が象徴になっていることと、平和主義にしていることと、そんなことを大きく取り上げて、余り細かいことはそれほど授業ではありませんでした。

○平野貞夫君 畠山先生、時間が少なくて恐縮でございますが、やっぱりアメリカの外交政策、安全保障政策が我が国に決定的に影響を与えますし、また我が国の憲法運用もそれの影響を受けるわけですが、現在のネオコンと言われるブッシュさんのシンクタンクは将来どういうふうに展開するかということについて教えていただきたいんですが。

○公述人(畠山圭一君) ネオコンについての、ネオコンサーバティブという存在についての御質問ですけれども、私個人の考え方あるいは感じ方、それから、少なくとも私がここ十数年間ネオコンサーバティブという人たちの動きを見て感じるところを申し上げますと、少なくとも影響力はこれから衰退していくと思います。
 もう恐らく今回のイラクとの戦争に関して、それからいわゆるテロに、テロ攻撃を受けたその対テロ戦争ということについては、ネオコンの人たちの主張というのは大変ある意味で説得力を持っておりました。しかしながら、ネオコンサーバティブと言われている人たちの理論というのは、軍の近代化、特に情報化社会における軍の近代化、それから軍事作戦の近代化ということが主張でありまして、それ以上でもそれ以下でもないんですね。いろんなほかのことはいろいろ言っていますが、この問題を取り上げたのは、たまたま状況がそうした状況にかなっていた、その一つの理論的裏付けとして彼らの主張は説得力を持っていたということでありまして、ブッシュ政権内の人脈から見ましても、ネオコンサーバティブと言われている人たちは必ずしも主流ではないということを私たちは注意しておく必要があると思います。そこさえきちんと間違わなければ、今後ともアメリカに対してはある程度の信頼感を置いて大丈夫だと私は思っております。

○平野貞夫君 ありがとうございました。

○会長(野沢太三君) よろしいですね。
 大脇雅子君。

○大脇雅子君 四人の先生方には、貴重な御意見、ありがとうございました。
 まず、尾形先生にお尋ねをいたします。
 先生は、テロ特措法・海外派兵違憲訴訟の原告団の団長をしておられるということで、憲法九条、あるいは先生の行っていらっしゃる訴訟に対する各世界の人々の反響というか、意見というか、そんなものにはどういうものがあるか、教えていただきたいと思います。

○公述人(尾形憲君) どういう方法があるかということですか。

○大脇雅子君 どんな意見が寄せられているか。反響。

○公述人(尾形憲君) 先ほど申しましたように、ハーグでの集まりとか、それからいろんなところに反響があるんですが、実は、これは先ほどお手元に差し上げました「なぜテロ特措法・海外派兵違憲訴訟なのか」という、そういうようなブックレットのおしまいにこの訴訟、それから有事法制についての世界各国からのメッセージが寄せられています。
 その中には、先ほど申しました憲法九条の会のチャールズ・オーバビーさん、あるいはアメリカこそテロ国家の親玉だと決め付けたノーム・チョムスキーさん、それからハワード・ジンさん、いろんな方々からメッセージをいただいております。
 日本は絶対有事法制を通しちゃいけない、憲法を固く守るべきだというような意見が寄せられています。ただ、その中には、自衛隊は認めると、よその国から引き揚げろという、そういうような感想の方もいらっしゃいますけれども、いずれにせよ、憲法九条を絶対守れ、あるいは発展させろという、そういうような御意見がたくさん寄せられています。

○大脇雅子君 お寄せいただいている方々のお名前を具体的に二、三読み上げていただけますか。どんな方たちから。

○公述人(尾形憲君) メッセージのことですか。

○大脇雅子君 そう。名前を。

○公述人(尾形憲君) 台湾の台湾促進和平基金会執行長、簡、これは何と読むんでしょう、かねへんに容易の易、貿易の易ですね、それからつちへんに皆という字、これは日本の漢字じゃないんですが、そういう方が台湾の平和十五団体の署名を集めて送ってきてくださっております。
 それから、アメリカは、先ほども申しましたノーム・チョムスキーさん、それからノリ・ハドルさん、それからハワード・ジンさん。ハワード・ジンさんは小泉首相あてにも平和憲法をきちんと守れという、そういうメッセージを送ってくださっています。それからトーマス・スタートヴァントさん、トム・アトリーさん、トーマス・ラッシュさん、マリー・パーセルさん、クリジストフ・ルワンドウスキーさん。この方、ポーランドです。それから、ニュージーランドのフレッド・オバマーズさん、クシラ・マーフィさん、それからエレン・コジマさん、ロバート・ホルトさん、それからジョナサン・アンド・ヒロミ・ヤマザキ・センダーさん、アリエル・グロスさん、それからブラジルのレダ・ユキコ・マタヨシさん、それからタカシ・タネモリさん、ハナ・ラパポートさん、マリオ・ジメネズさん、それから先ほど申しましたチャールズ・オーバビーさん、そのほか手元には持ってきておりませんですけれども、先ほども申しました違憲訴訟、裁判所がきちんとした事実審理を行い、きちんとした公正な判決を出せと、そういうようなメッセージがやはりたくさん寄せられております。もし必要ならば、後日また事務局の方に届けたいというように思っています。
 以上です。

○大脇雅子君 加藤さんにお尋ねします。
 広島で人文字ができて、ノー・ウオー・ノー・ディーユーというあの人文字は私も大変感動をいたしました。武器というのは使用することを前提としていて、廃棄をするということは考えていないので、例えば核の原子力潜水艦などもごみとするときに大変大きな環境問題を起こしますし、毒ガスなども砒素の処理に困ってしまうということで、ともかく武器を作ること、そして軍縮をすることというのは本当に大きな環境破壊をもたらすというふうに思います。
 核の廃絶の運動をされておりまして、憲法九条に対してどんな思いを持ち続けて運動されてこられたのか、お尋ねをしたいと思います。

○公述人(加藤正之君) 冒頭、私の意見で発表しましたけれども、核兵器と人類といいますか人間は本当に共存できないというのが、広島とか長崎の被爆者たちの本当の叫びなんですね。この廃絶に向かってどのように近づいていくのかということで、それぞれ取組があるんでしょうけれども、残念ながら世界はそうではなくて逆の方向ですね、核の拡散と核兵器はどんどん増えていって、それがもう環境破壊の最たるものにもしかしたらなるかもしれないという、そういう時代に入っていると思います。
 私、最近よく考えるのは、もしかしたら広島、長崎に次いで第三番目の原爆投下するのは、想像はしたくないんですけれども、アメリカかもしれないという非常に私、危機感持っています。今のアメリカの動き、開発の状況、あるいはブッシュ・ドクトリンと言われる戦略を見ると、核を声高にして、そんなに被害が及ばないような形で核を使っていくというのが最近非常に私、感じておりますので、そこの開発に対して、日本からそれはやめてくれというメッセージを、もちろん被爆者、広島市民とか長崎はもちろんですけれども、やっぱり国を挙げてそういう立場に立ってほしいと思います。
 それから、先ほどの劣化ウランの話ですけれども、アフガン戦争でも使われて、それからこのたびのイラク戦争でも使ったということはアメリカも認めています。この劣化ウランに関連して、ちょっと私、今資料を持っておりませんので正確は言えませんけれども、沖縄の方に米軍が配備したことがあったんですね。それはちょっと被爆国というか、日本人の感情からしてまずいので、どっか遠くにやってくれということで、あれどこでしたかね、鳥島かどっかに多分移ったと思うんですけれども。
 そういう、自分たちの国に対する核についてはある程度敏感に反応するけれども、イラクとかあるいはアフガンで使われた劣化ウランについては全く反応しないという、これはやっぱり世界の諸国にとっては日本はおかしいんじゃないのということを、決して信用されることじゃないと思います。
 だから、核兵器については、もうともかく非核・中立の立場からあらゆる国の核兵器について反対していくということを、もう日本を挙げて取り組んでほしいというのが私たちの願いなんです。

○大脇雅子君 ありがとうございました。
 田中さんにお尋ねします。
 田中さんが昔の戦争について経験談を聞いていないということは、私は大変ショックを受けました。今言われた劣化ウラン弾とか、あるいはデージーカッターとかクラスター爆弾とか、イラクでたくさん落とされて子供や女性や老人が亡くなったわけですけれども、そういうことに対してはどんなふうにお感じになりますか。

○公述人(田中夢優美君) イラクに関しては、市民への被害を最小限にしようとしてアメリカは、攻撃の作戦面のときに同時に話していまして、それで今までにないほどにやっぱりピンポイント爆弾だとかを使われていましたから、その市民への被害は最小限にできたことだと思っています。

○大脇雅子君 最後に、ちょっと私も、そういう考え方もちょっとショックなんですけれども、やっぱり愛国心というのは人類愛というのが基礎にならないと、やはり一つの命というのは地球より重いというふうには思う考え方もあるんだと、戦争体験者はそう思うんだと理解していただきたいと私は切望します。
 さて、畠山先生にお尋ねしますが、抑止と共生外交の効果の限界が来たと。確かに、冷戦構造後の国際情勢の中では違ってきます、国際的な日本の地位も違ってきますが、そういう中でアメリカとの同盟関係の未来というのを先生はどのように俯瞰しておられるでしょうか。

○公述人(畠山圭一君) 日米関係、特に日米の同盟関係の将来像ということなんですが、私は恐らく今後の流れからいって、日米同盟というのはますます強化される方向に動いていくと思います。それは、先ほども申し上げましたように、いわゆる同盟関係というものが二国の安全保障というものとは質を次第に異にしてきているということなんですね。地域の安全保障、地域の秩序の安定化のために必要な同盟関係というスタイルになっていくと私は思っています。
 これは、決してアメリカが、もちろんアメリカはアメリカの国益というのがあるんでしょうが、それだけではなくて、やはりこの地球をいかにして平和に保っていくか、安定させた秩序を維持するかということに尽きるわけでありまして、私は今までのお話を、皆さんのお話を伺ってきて、基本的には同じ考え、哲学の下に立っているんだろうと思います。
 例えば、広島にあるいは長崎にもう原爆投下を許さない、あるいはさせないという思想については、これは全く私は否定はしません。いわゆる、いかにすれば再びそういったものが撃ち落とされないようにするのか、また、いわゆる撃たれないようにするのかということと、それから相手に撃たせないようにするのかという問題なんですね。そうしたときに、安全保障というのは、そういった事態をいかにして作らないようにするかという知恵のようなものであります。しかしながら、人間というのは、人間の思考というのは決して万能ではありませんし、神ではありませんので、そして現実に暴力というものに訴えようとする、現実そういう存在がある限りはそこに知恵を巡らしてそれを少しでも解消していくように努力し続ける、ある意味では非常に絶望的な試みかもしれませんが、それが私たちの務めであろうかと思っているわけですね。
 今御質問の中にありましたけれども、日米安保条約というのは二つの条項が、二つの目的がございます。一つは、いわゆる日本の安全保障、日本の国防でありますね。それともう一つは、地域の安全のための貢献というのが安保条約のもう一つの柱でありまして、この部分についての日本の役割はむしろ高まっていると考えざるを得ない。しかも、今日の国際社会の中で、少なくとも世界の秩序を維持していく上でアメリカの力というのは決して無視できないものがございます。
 少なくとも日米同盟関係を通じて、日本がこの問題について日本側からも一つの戦略的提案というものがなされることによって、十分に地域の安全保障、地域の平和、安定のために日本側からもそこに積極的に参加することによって、秩序を維持するための、何というんでしょうか、政策立案に関与していくことというのはこれからは十分に可能になってきているのではないかと思っております。
 先ほど冒頭に、私の発表のときに言いましたが、アメリカというのは、グローバルなイシューについてはグローバルに対応しようということについては何ら否定していません。そして、地域のいろんな構造が非常に複雑になっている以上は、それぞれの地域特有の構造に合わせた安全保障を展開したい、そうなるならば、当然アメリカは、地域のリーダーとして立っていくであろう幾つかの国と密接に関与しながら地域の安定のために貢献をしていきたいというのがアメリカの発想法でありまして、グローバルにはグローバルな対応を、リージョナルなものについてはリージョナルな対応というのがアメリカの基本的コンセプトになっているという点が答えになろうかと思います。

○大脇雅子君 ありがとうございました。

○会長(野沢太三君) よろしいですね。
 以上で公述人に対する質疑は終了いたしました。
 この際、一言ごあいさつを申し上げます。
 公述人の方々には長時間にわたり有益な御意見をお述べいただきまして、誠にありがとうございました。本調査会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。
 お述べいただいた御意見につきましては今後の調査に生かしてまいりたいと存じます。(拍手)
 以上をもちまして公聴会を散会いたします。
   午後四時四十八分散会


2003/06/04 戻るホーム憲法目次