江田五月 活動日誌 2001年8月(26〜31) >>日程表 ホーム総目次8月目次前へ次へ


8月26日(日) 靖国問題、不良債権、雑用

今日は、夕方まで宿舎で雑用。午前中は、久しぶりに定番のテレビ3番組を見ました。NHKの日曜討論では、靖国参拝問題につき、菅幹事長が、若い世代に広がる「偏狭なナショナリズム」に、危惧の念を示したのが、印象的でした。私は、率直に言えば、国民を戦争に駆り立てた指導者と同様に、国民の戦意をかき立てた靖国神社も、戦争責任を免れないと思っています。「二十四の瞳」を何度も読んだ頃の気持ちこそ、大切にしたいと思います。

サンプロの柳沢大臣は、真面目さはよく分かりますが、やはりその領域のプロに過ぎないという印象です。先国会で、銀行によって査定基準が違うことを追及され、自己査定だから仕方がないと弁解。今日は、本当は引き当てさえしておけば問題ないのだが、うるさく言われるので、不良債権を少しオフバランス化しようということだと弁解。しかし、今の危機はそんな悠長なことをいっている事態を越えているのではないでしょうか。まず、金融機関に対する明確な基準に基づく一斉検査で、不良債権の全体像を明らかにすべきです。

昼からは、たまった郵便物に返事を書いたり、メールの整理をしたり、掃除や洗い物をしたり。妻は孫のベビーシッター。夜、新宿で落ち合って夕食。



8月27日(月) 東ティモールへ

今日は、8時に宿舎を発って、成田空港へ。

先ほど全員集合し、結団式を終え、いよいよ10時55分発のJAL725便で、ジャカルタ経由デンパサールに飛びます。今日はそこまで。明日はディリ入りです。

今夜、パソコンが使えるかどうか、楽しみに待っていて下さい。(09:58)


デンパサールへ

ホテルエントランス

今日は、7時間のフライトでジャカルタ着。日本との時差2時間。1時間半ほど待って、さらに1時間半ほど飛んでデンパサール着。やっとホテルに着いたところです。日本との時差は、1時間戻って1時間です。

ここは世界有数の観光地なので、ホテルもパトラジャサという立派なリゾートホテルですが、夜中に着いて早朝出発ですから、もったいないことです。

スチュワ−デスさんが、「江田さん」だったので、同郷かと思ったら、大分県の人でした。といった程度で、本日は変わったことはありません。



8月28日(火) ディリ到着、入国審査、船のホテル、フレテリン集会

今日は、9時40分発のMZ8480便で、バリ島のデンパサールから東ティモールの首都ディリへ。メルパティ航空は、いつも座席以上の予約を受け付ける傾向があるため、8時過ぎには空港に到着。超満員でしたが、1時間50分の飛行で12時半に無事到着。デンパサールと時差が1時間あり、これで日本と同じ時間となりました。

コモロ空港は、入国管理も税関も、整っているとはとても言い難いですが、きちんと機能していました。2年前の住民投票の時はまだインドネシア領、暴動直後の時は入国管理などとてもとても。お役人が一生懸命仕事をしているのに、まず感動。荷物が1つだけ引っかかり、中を点検するために、開錠を求められました。あまりに非能率なので、文句を言うと、やけに威張って怖い顔をされました。そんなところだけ「官僚制」を学ばなくても良いのですが。

昼過ぎに空港を出ると、夕方からのフレテリンの最終キャンペーンに出かけるのでしょうか、車の行列。どの車も、若者を満載。子どももたくさんいます。交通事故が起きそうで、選挙の衝突よりもその方が心配です。

フレテリン最終集会に急ぐ人々

町は、人で溢れて賑やかさを取り戻していますが、屋根のない建物の残骸など、暴動後の傷跡はまだ残っています。私たちのホテルは、タイの客船(と言っても自力で航行できません。)「セントラル・マリタイム・ホテル」。1963年に門司からユーゴスラビアまで船に乗った時を思い出します。沖合に係留され、設備はすべて整い、2年前とは雲泥の差です。遅めの昼食を取りながら、日本政府の駐在事務所長の松浦さんから、事情説明を受け、さらにこれからの行動を打ち合わせ。只今17時。これから、フレテリンの集会を見に出かけます。

そして只今、18時過ぎ。集会は、1万人は下らない大盛況で、「ビバ、フレテリン!」と気勢を上げていました。選挙では極めて優勢で、3分の2を獲得するかどうかが焦点ですが、かつての指導者であるシャナナ・グスマンもラモス・ホルタも、今はフレテリンと距離を置いています。

フレテリン最終集会での監視団一行 フレテリンの最終集会


8月29日(水) 焼けた家、連続会談、レセプション

昨夜は、「焼けた家(Burnt House)」というレストランで、夕食。一昨年の暴動で焼かれた家を、そのまま利用しており、なかなか風情がありました。そういえば、2年前おいしい中華料理を頂いたディリでただ一つのレストラン、リマジャヤは、今も焼けて無惨な姿のままでした。

今日は、選挙運動の冷却日で、いっさいの運動は禁止。私たちは、10時からフレテリンのル・オロ党首など指導者の皆さんと会談。12時、コスタ・ベロ夫妻のご自宅で、民家の昼食。15時、無所属女性3候補と、16時、社会民主党幹部と、18時、民主党幹部と、選挙支援センターの会議室で連続会談します。

船のホテル

夜は、日本政府代表団の杉浦外務副大臣主催のレセプショプン。挨拶をお願いされています。



フレテリン本部、地元料理、ロドリゲス国防相

今日は、予定を着々とこなしています。

船のホテルですから、台風でも来ると、おそらく大揺れして、ベッドから落ちたりすると思いますが、今のところ揺れはほとんどありません。

9時20分からミーティング。10時から、フレテリンの選挙本部を訪ね、ル・オロ党首と約1時間会談。この建物は、インドネシア統治時代はパンチャシラの思想教育を行う拠点だったそうですが、UNTAETによりフレテリンに割り当てられています。前線の兵舎のようなたたずまいです。

ル・オロさんは、中年の紳士。比例区の名簿第1位です。選挙を通じ、国民が平和、自由、民主主義を自分たち自身のものと実感できるようにすることがもっとも大切と強調していました。外交的には、インドネシア、オーストラリア、アジア各国と友好関係を結んでいきます。フレテリンが各政党から挑戦を受けていることについては、選挙自体が大切なのであって、多党制を堅持すると強調。仮に3分の2以上を獲得出来ても、1議席の政党とも協議をしながら憲法を起草することも言明しました。

フレテリン・ルオロ党首と 民家の子どもたち
ロケ・ロドリゲスさんと

昼は、スーパーマーケットに寄った後、予定どおりコスタ・ベロさんのお宅で食事。お婿さんは31歳の裁判官。ベロさん自身は、私と同年ですが、既に孫が3人いるそうです。

13時から1時間、暫定国防相のロケ・ロドリゲスさんとUNTAETの執務室で会談。軍隊を持つかどうかについては、例えば不法操業による漁業資源の損害がいくらになるかを考えると、適切な軍備は保持するとの結論になると強調。5つのD、defence、deplomacy、democracy、development、decentralisationが大切。但しご自身は、国防大臣就任は固辞すると言明されました。文民優位原則は堅持するとのこと。軍事力は、PKFが8000人、国軍は現役と予備役を合わせ3000人程度と考えているとのことでした。



女性候補、社民党、民主党、日本レセプション

午後は、15時から1時間強、選挙支援センターでの会議室で、マリアさん、オランディーナさん、テレーザさんという3人の無所属女性候補と会談。いずれも、政党から独立した女性運動の指導者で、これまでの運動で主張してきたことを憲法制定論議の中で生かすために、立候補したとのこと。無所属候補は個人で、政党は1政党あたりで、いずれも500人の推薦人を集めれば、立候補でき、個人は1人当たり2500米ドル相当、政党は1政党当たり5000米ドル相当の選挙運動現物支援を得られるとのこと。面白い仕組みです。5000票取れば当選できるようですが、なかなか難しそうです。

16時半から1時間強、社会民主党のマリオ・カラスカラオン党首と会談。インドネシア統治時代に東ティモールの州知事をしていた人で、フレテリンに好感情を持っているはずがありません。フレテリンの活動家の内、知識階層が中心になって作ったこの党の党首にふさわしいかどうか、議論があるようです。話の中心は、いかにフレテリンがいけないかということ。フレテリンが3分の2を取ると、憲法は自分の思い通りに作り、シャナナ・グスマンを大統領にしないから、そうさせてはいけないと強調。3分の2未満なら協力するのかについては、それはないとのこと。それではお先真っ暗になってしまいます。
3人の無所属女性候補と マリオ・カラスカラオン党首

18時から1時間、民主党のフェルナンド・デ・アラウジョ党首と会談。1989年に、ジャカルタの日本大使館に亡命を求めて飛び込んだ青年です。私も支援活動をしました。穏やかで思慮深そうな人で、シャナナの後継者と見る向きもあるそうです。強い大統領制を主張しているのが、他の党と違うところ。フレテリンは過去の栄光しか残っていないので、連携には苦労するが、社会民主党とは連携可能とのこと。地方区では他党との選挙協力もしているそうです。出来て2ヶ月の政党で、学生運動の出身者などが中心ですが、候補者を揃えており、将来性はかなりありそうです。

民主党のフェルナンド・デ・アラウジョ党首と デ・メロ国連事務総長特別代表と

19時半から1時間半、杉浦外務副大臣主催のレセプション。私も求められて、ちょっと辛口の挨拶をしました。デメロUNTAET特別代表、ラモス・ホルタ暫定外相、ケリー米国外務次官補、エミリオ・ピーレス暫定経済相、マリ・アルカティリ・フレテリン副党首などのほか、塩崎、河野両代議士、旧知の市民運動家、マスコミ関係者など、100人を越えたでしょうか。こんな日が来るとは、数年前は想像できませんでした。感無量というところです。



8月30日(木) 投票監視スタート

今日は、いよいよ憲法制定議会選挙の投票日です。

6時半ホテル発。近くの投票所2ヶ所で、監視活動をしてきました。2年前よりずっと、緊張感が和らぎ、大分なれてきた様子です。投票箱の中が空であることの確認から始まり、一連のプロセスをすべて確認しました。

只今ホテルに戻り、朝食を取ります。その後は、アイレウという山岳地帯に行きます。(09:10)



ディリ県2ヶ所、故障、アイレウ県2ヶ所

今日は、日の出前にホテルを出、6時45分にディリ第117投票所に着いたときは、外は既に長蛇の列なのに、中では準備作業の真っ最中。若い女性の国連職員が1人で、10人以上の現地事務員を指揮しながら、10個の投票箱のチェックなどでてんてこ舞いしていました。7時から投票開始のはずが、事務員らの投票が始まったのが7時半、彼らがそれぞれの部署に着き、一般市民の投票が始まったのは、40分を過ぎていました。

8時過ぎから、ディリ第120投票所に回りました。既に一般市民の投票が始まっていましたが、行列がうまく出来ず、入り口が黒山の人だかり。子どもを連れた女性やお年寄りを先に投票させるため、一苦労していました。

どちらも、選挙で自分たちの将来を決めたいという、熱意に溢れた有権者の群れで、溢れていましたが、2年前と違って、ぴりぴりした緊張感はなく、逆に国連職員だけが必死で、後はちょっともたもたという感じ。それでも、投票率はかなり高率になりそうです。
投票を待つ長蛇の列 ディリ第120投票所

10時にディリを発って、アイレウ県へ。山岳地帯です。ところが途中で車がオーバーヒート。代車を待ちながら、地元の子どもたちと遊びました。子どもは、年齢よりもずいぶん幼く見えます。栄養状態などが原因でしょうか。

やっとラウララ郡コトラウ村の投票所に着いたときは12時過ぎ。1300人ほどの有権者ですが、既に9割近くが投票。さらに進み、アイレウの町中に14時頃到着。整然と投票が行われていることを確認して、パンとチーズの昼食。市場へ入ってみましたが、やはり貧しさが際だっています。

15時に現地を発って、17時にディリ第120投票所を通りかかったら、まだ長蛇の列。16時終了なのに、終わっていないのです。第117投票所に行くと、こちらもまだ行列が残っていました。調べてみると、住民登録と選挙人登録の事務のミスで、本人確認が手間取り、遅れてしまったとのこと。不正とまでは言えませんが、始まりと終わりの遅れは、やはり問題です。2票制なのに、2つの投票箱が同じ色と形で、並べておかれているのも、改善の余地ありです。

全体としては、選挙は成功だと思います。これからの国作りは、ますます大変でしょう。国民が自分たちの選択で未来を決定するということを、1つ1つ経験している様子の中には、私たちにとって学ぶべきことがたくさんあるはずです。



8月31日(金) 放送局、裁判所、ディリ発

今日は、いよいよ帰国の旅に。

9時から、東ティモール唯一の放送局を、次いで10時から、上級裁判所を訪ねます。13時15分のMZ便で、ディリを離れ、デンパサールへ。21時半頃のJL便で、ジャカルタ経由成田へ。明日8時半頃の到着予定です。

今からホテルを出るので、しばらく活動日誌は休憩です。


放送局、裁判所、バリ、帰国

今日は、予定どおり9時から1時間弱、テレビ局にジェイソン局長を訪ねました。UNTAET傘下にありますが、名前をTVTL、つまりTV Timor Lorosa'e (現地のテトゥン語で、「東ティモール」の意味)と変え、親しみやすいようにするため努力しているとのこと。狭い施設で、ニュース番組の放送も番組編成作業も、1つの部屋でしています。

VCDで、民主主義や憲法などについて、映像入りの教材を作り、全国に配っています。しかしディリとバウカウ以外はテレビが行き渡ってなく、巡回で住民に見せているそうです。大変な努力ですが、現地に娯楽は少なく、多くの人々が見ることでしょう。

女性裁判官のマリア・ナテルシアさんと

10時から1時間弱、上級裁判所に女性裁判官のマリア・ナテルシアさんを訪ねました。「バリのウダヤナ大学で法律学を学び、1993年2月に卒業後は、インドネシア統治下の東ティモール州政府で働いたりしましたが、昨年1月、弁護士、検察官、裁判官から仕事を選ぶ機会があり、裁判官を選びました。今は、地区裁判所所属ですが、2000年1月から10月までに起きた重要犯罪を裁く特別部で、2人の外国人裁判官と一緒に合議部を構成して働いています。法律や裁判の仕組みは、UNTAETの規則で決められ、国際条約に反しない限り、原則としてインドネシア法が適用されますが、違いもあります。地区裁判所は8つ作る予定ですが、今はまだ4つ。裁判官は25人です。検察官も弁護士もおり、法律扶助などの弁護料公費負担の制度もあります。」

「はじめは合議での議論は大変でしたが、今では十分やっていけます。証拠に照らして事実を確定し、法律を適用しますが、自分の考えをしっかり持ち、自分の信念で議論します。裁判機構はUNTAETの傘下にあり、司法行政についてはみんなで協議しますが、事件については、UNTAETはもちろん他の誰の指示も受けることはありません。新しく作る憲法で司法をどう規定するかについては、あまり議論がありません。」

書き忘れていましたが、行く先々ですべて、「日本国憲法」の英語版付きの小冊子を渡しました。これですべての仕事はお終い。13時15分のMZ8490便でディリを発ち、只今デンパサールのホテルで休憩中。21時45分のJL726便で帰国です。


江田五月 活動日誌 2001年8月(26〜31) >>日程表 ホーム総目次8月目次前へ次へ