1988

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岡山県社会民主連合

書記長 大 亀 幸 雄

 全国社民連は一九七八年三月二十六日に結成されたが、岡山社民連はそれよりも一週間早い三月十九日に結成された。岡山社民連の立党の精神、政治方針は、大会宣言に端的に集約されている。


 大会宣言

私たちは、故江田三郎先生の遺志を継承・発展させて、本日ここに「岡山県社会民主連合」を結成しました。私たちのめざす新しい政治は

一、平和主義・民主主義・社会主義の理念のもとに、新しい自由な社会主義を実現すること。

一、自由・公正・参加・分権・連帯の原則にもとづいて、みんなの能力が生かされる日本を実現すること。

一、現代の課題に実現可能な政策で挑戦し、八〇年代の政治のリーダーシップを実現すること。

一、大企業中心の自民党政治と対決し、その他の革新政党とは連合時代にふさわしい協調、連帯の関係を実現すること。

一、すべての県民に門戸を開放し、あらゆる職業の人々の参加をもとめ、市民参加の手づくりの政党を実現すること。

にあります。

 県民のみなさん
 戦後三十年つづいた自民党と社会党に代表される二大政党政治の時代は終りました。これからは、政策の一致を条件に、いくつかの政党が協力しあう「連合政権の時代」であります。

 私たちは、新しい時代にふさわしい新しい政治の創造をめざして私心なくたたかいます。県民のみなさんのあたたかいご支援を心から訴えます。

 一九七八年三月十九日  岡山県社会民主連合結成大会


 一言でいえば「連合時代にふさわしい新しい政治の創造」といえると思う。まさに壮大なロマンである。だが、現実は率直にいって革命の連続であった。ミニ政党の悩み、財政難、はげしい路線論争、とくに既成政党からのすさまじい攻撃。それから約十ヵ年、岡山社民連はさまざまな困難をのりこえて成長してきた。その足跡をスケッチ風に述べると、つぎのとおりである。

※1977年 参議院全国区選挙−江田五月は1,392,475票を獲得。もちろん断然トップ。県内では有史以来の高得票。

※1979年 衆議院議員選挙−故江田三郎未亡人・江田光子さんを擁立。34,432票で惜敗。

※1983年 衆議院議員選挙−江田五月は87,110票でトップ当選。岡山一区では有史以来の高得票。

※1986年 衆議院議員選挙−江田五月は87,815票で連続トップ当選。これも有史以来の成績。

※地方議会選挙でも前進。県会議員には橘民義(岡山・公認)、佐古信五(倉敷・推薦)、井本丈夫(赤磐・推薦)、市会議員には寺田明生(岡山・公認)、則武伸一郎(岡山・推薦)、寺田和子(岡山・支持)、金谷光夫(倉敷・公認)、金尾政雄(笠岡・公認)といずれも当選。町村会議員も多数当選。

※事務局の専従体制にも重点をおく。現在は、大亀書記長を中心に江田秘書六名、女性職員二名の九名が常駐。毎週日曜日が定例事務局会議、既に三六〇回を突破している。

※毎週月曜日の朝、「おはよう七・三〇、江田五月です」と銘打っての駅前演説。これも三六〇回を突破、なかなかの評判である。


 なんといっても画期的なことは、昨年五月二十四日に行われた“江田三郎没十年墓前供養と語る集い”であった。山口鶴男社会党書記長、田辺誠社会党前書記長、永末英一民社党副委員長をはじめ、県内外から約三〇〇名が参加、まさに歴史的ドラマである。マスコミ報道もそれにふさわしく賑やかであった。

 「連合構想の発展を誓う」「遺志継ぐ、社党書記長」「野党結集、墓前に誓う」「江田理論を再評価」「実質的な名誉回復」「先生の教えを受継ぐ」と、こんな調子である。

  江田理論 それぞれ評価

 社民連の生みの親で、社会党書記長などを務めた故江田三郎氏の没後十年の墓前供養が二十四日、故郷の御津郡建部町の妙福寺で営まれた。参列したのは江田氏とゆかりのある人たちばかり約三百人。地元建部町は、多賀谷真稔・衆議院副議長、山口鶴男・社会党書記長、永末英一・民社党副委員長、江田氏の長男の江田五月・社民連代表ら各党首脳の来町に「町制始まって以来」(町当局)のにぎわいとなった。

 引き続き、近くの同町保健センターで開かれた“江田三郎を語る集い”では、生前江田氏と親交が深かった九人が登壇し同氏の思い出話に花を咲かせた。社会党内の旧江田派の流れを組む水曜会代表の田辺誠・同党前書記長は「江田先生のゴルフは女学生のゴルフ? といわれましてネ。何せ、自分で勝手にルールを作って進めるんだから」とエピソードを披露しながら「江田先生が示した道は日本の道でもある。水曜会を(わが国の政治の本流にして)一日も早く解散できるよう努力したい」。山口書記長も「(江田氏没後の) この十年の歳月は (党にとっては)余りにも長すぎた。江田先生の示した路線に沿って歩む時がきた」とそれぞれ“江田理論”を評価した。

 また、地元を代表して、御船剛吉郎・建部町長は「江田先生は郷土が生んだ偉大な政治家。県内外から大勢の方々が参列され、喜びにたえない」と歓迎の言葉を述べたあと、秋山長造・社会党県本部委員長も「江田先生は生前、“船頭小唄”を愛唱しておられたが、この歌のように(社会党が)枯れすすきになったのではダメ。長男の五月君には国際的感覚を持ったスケールの大きな政治家になってもらいたい」と激励していた。

(1987年5月24日「山陽新聞」)


 それから約一ヵ年。売上税をめぐって野党共闘が成立、社会・民社の歴史的和解の動きも前進、ついに民間労組「連合」も発足。まるで故江田三郎が政治の表舞台に登場してきた感じである。

 だが社民連の歴史の中に、解党的危機ともいえる時代のあったことも否定できない。一九八三年〜八四年にかけてである。社会党・民社党との合併説、社民連独自強化説、政界再編・新党結成説など議論百出、とめどなく論争はつづけられた。しかしそれも、故江田三郎の郷里、建部町で開かれた第四回全国大会において、新代表に江田五月を選出、「再生・前進」を誓いあって危機は乗り越えられた。

 いま社民連の活動には多くの市民が拍手を送っている。まさに社民連の出発である。岡山社民連は第三回大会において、二つの政治方針の実現に全力投球することを決定した。

 第一は、社会党と民社党の歴史的和解をすすめ、その上で、社会・民社・社民連と平和・進歩・公正を求める市民勢力が手を握り、新しい市民的革新政党の結成をめざすこと。

 第二は、社会・民社・公明・社民連を中心に、ミニ政党にも参加してもらい、「反自民野党連合」を結成し、野党共闘の飛躍的前進と革新・中道連合政権の実現をめざすこと。

 そのための活動はさまざまな形で前進しつつあるが、なんといってもその焦点は、来年七月に施行される参議院岡山選挙区候補の統一問題である。

 いま岡山社民連は革新・中道統一候補の実現をめざして奮闘中である。もし成功すれば、労働界の「連合」とタイアップして政界の「連合」も実現。新しい政治潮流、政界再編の芽は大きく前進するに違いない。


1978年3月19日、岡山県社会民主連合結成大会。


1988

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