1988

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京都府社会民主連合

副代表 西 村 喜 一

 一九八七年四月、京都社民連に初の府議会議員が誕生した。三上代表夫人・三上信子さんが社民連・社会・民社三党推せんという地方議員レベルでは未曽有のスタイルで当選した。それは長い長い苦しみの中での出生であった。

 同年五月二十八日、京都社会民主連合の結成が宣言された。これが十年前、京都社民連が嵐の海へ船出する合図のドラの音であった。社市連時代、三上代表が参議院地方区で敗れたとはいえ十万票近い得票をし、府下長岡京市では全国社市連当選第一号議員を生むなど一定の成果を挙げていた折とて、参加党員も多く意気盛んなスタートではあったが、その裏で悲劇は着々と進行していた。党内事情その他は紙面の都合上割愛せざるを得ず、表に現れた選挙結果で我々の十年間の苦闘を知ってもらうしかない。無論新しい政治集団の発足には試行錯誤は付き物だが、それにしても結成当時の選挙対策は個人のエゴが随所に発揮されるなど、余りにも非科学的であり過ぎた。

 知事・市長選への対応の失敗、衆議院二区補選の無謀な出馬の結末の大惨敗は、京都社民連に対する有権者の期待感を完全に打ち壊すのみならず、京都政界の中で孤立を余儀なくされ、四面楚歌の中での統一地方選の大敗北、続く総選挙の敗戦へと確実に連動した。

 地方選では四千余票から七百票に票を減らした候補もあり、供託金没収の者さえ出るという惨状となり、党員は意気消沈し、それらが党に対する不平不満となって一時は収拾のつかない有様であった。その混乱が、引き続いて闘わねばならなかった衆議院選挙に大きく影響した。党内から叛乱者が出て、幹部数名が選挙中に記者会見で候補者や陣営を批判するという、かつての社会党にもなかった暴挙をあえてしたため、京都社民連の最後の頼みの綱である三上代表も予想外の惨敗を喫するという大打撃を受け、京都社民連も沈没寸前の状態となった。党の前途を見限って離党する者が相次いだ。事務所も縮小せざるを得ず、協同組合の一隅に間借りするという、まさにピンチの連続ではあったが、残った同志の固い結束でなんとか生き残る努力が続けられた。

 しかし打ち続く敗戦の痛手から立ち上がるには、余程の決意と確固たる方針が必要であった。連日の会議の末、我々が生き残る方策が幾つか立てられた。

 先ずこれ迄の唯我独尊の選挙戦略を改め、政策の近い他党との共闘の道を模索し始めた。当面の選挙対策としては、一九八〇年の参議院選挙全国区に全力を挙げて失地を回復すること、そのためには直ちにその準備に入ること、また次期総選挙には独自候補を擁立せず、中道各党の中で選別し、他党の候補を推せんして闘うことなどであった。その間にも党勢を挽回するための血の惨むような努力が続けられた。

 そのエネルギーが参議院選で爆発した。京都社民連は全国区秦豊候補の割り当て目標の百%達成を目指し、早くからの準備も整い、全党員が燃えていた。しかもこの選挙は、はからずも史上初の衆参ダブル選挙という一大政治決戦となった。京都社民連は方針通り衆院一・二区とも民社・公明の候補を推せんし、各地で参戦し戦果を挙げた。その結果、秦豊候補の奇跡的な繰り上げ当選に寄与し、また衆院では推せんの公・民四候補全員当選という好成績で党員の意気は大いに上がり、京都政界での孤立化もある程度解消した。京都社民連が息を吹き返したのである。

 その勢いをバネとして我々は八一年知事選に取り組み、他党と協力して勝利したのを初め、府下各地の首長議員選で推せん候補の連続勝利を勝ち取った。特筆すべきは、大山崎町長選でも社民連単独推せんの候補者が、他党推せんの連合艦隊に打ち勝ったこともあった。

 我々の次の狙いは京都府市議会への進出であった。我々は慎重に目標を設定し、民社・新自クと接触し、紆余曲折の末、京都で三党連合の結成に成功した。八三年自治体選挙は三党の協力により、各々の党の公認候補を他の二党が推せんするという画期的な選挙であり、我が党の候補は当選こそ果せなかったが、大きく票を伸ばして次回の展望を開いたし、新自クは初めて京都市議会に議席を得た。我々の連合という方針は誤りではなかったという確信は持ったが、矢張り京都府市議会に議席が無いということは痛手であった。次回こそは石にかじり付いてもと、我々は心に誓った。

 統一選挙の疲れを癒す間もなく、参議院選挙では新自ク京都と組んで比例代表区を闘ったが、この時は我が党田英夫代表(当時)唯一人の当選で新自クに大きな借りが出来た。この時の借りと、共に闘った同志的な友情が、古都税問題に絡んだ京都市議選で、既成政党全部を敵に廻す新自ク京都との共闘に我々を追い込んで行った。この敗北の傷痕は大きな痛みとなって残った。その後の衆議院選を最後に新自クは解散し、京都政界からもその姿を消し、京都社民連は暫時また逼塞しなければならなかった。しかし次回統一選に望みを賭ける我々に時間は無い。折を見て立ち上がらねば!!

 京都社民連の初期のキャッチフレーズに「不屈の男たち」というのがあった。その不屈の男たちは重い足をひきずりながら、先ず社会・民社の歴史的和解という難問に取り組んだ。京都社民連が間に立って、何度も両党の幹部と話し合った。その結果先ず、社民連の候補を両党が推せんするという前代未聞の共闘体制が出来上がり、悲願の府議会進出という目的が達せられた。今我々は、次期参議院選に社・社・公・民四党連合候補実現のため汗をかいている。


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