座談会 (1988/10/07) 社民連、新時代にむけて

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阿部 今年は社民連結成十周年ですが、われわれが結党以来掲げてきた「連合」という精神、これは労働界では実現した。一方、政界においては、相変らず自民党政権が続いており、「自民党に替わる政権の受け皿」はできておらない。その間、社民連は野党結集をはかるべく、連合の接着剤の役割を果たしてきたが、ある意味で試行錯誤ともいえる十年間の歴史を「連合」という点に絞ってふりかえってみていただきたいのですが。

楢崎 十年の流れの中で、いくつかの節目があった。その節目、節目を話していくと、わかりやすいのではないかな。

阿部 重要な選択の節目というのが、何度かありましたな。最初は一九八〇年あたりか。

 大きな流れとして、八〇年の選挙で宇都宮徳馬さんを新自由クラブと共同すいせんし、その後ハワイ会談などがあり、中道四党結集の機運が高まり、新自由クラブとの会派ができ、民社・公明を含めて四党結集の流れが揺れ動いて、最終的に八三年の参院選でむずかしくなり、八六年の衆参ダブル選挙後に新自由クラブが自民党に帰ることで、それ以後は社民連・公明・民社・社会との結集への流れが出てくる。この間には、土井社会党委員長の誕生があり、新宣言がある。

楢崎 われわれは、いままで連合を考えながら挫折していくといった歴史であった。幕末維新にかけての勤皇佐幕、勤皇倒幕から公武合体、尊皇壌夷、尊皇開国と変わっていったように、その情勢に合わせてわれわれも少しずつ理屈を変えてきた。あるときは新自由クラブと、あるときは中道四党と、そして二分会派、社・公・民と変わってきた。

 八六年の衆参ダブル選挙が、社民連にとっても日本の政治状況にとっても節目だったのじゃないですか。新自由クラブでも自民党にもどって、社会党も新宣言を出して、ある種の変化をみせて新しい流れが出てきた。十年史だと終り頃のことになりますけど。

阿部 自民党からとび出した新自由クラブと、社会党からとび出した社民連。保守と革新という枠を乗りこえて二党が手を結んだ。院内会派結成は八一年ですが、伏流としてはそれよりもだいぶ前からあるわけです。社民連と新自クという、共に大藩を脱藩した者同士(笑)の関係から話を進めていただきましょうか。

田 新自由クラブとの連合の布石としては、社民連ができる前の年の十一月の初めに、私は大阪に行くのですよ。われわれが社会党をとび出した直後ですから、どうしても社会党はわれわれに対して敵意を持っているし、こっちも社会党に対して怒っている。そこで私は、「五五年体制を破って、新自由クラブ・公明・民社、そしてわれわれが結集しなければならない」と大阪で演説したんです。それに対して「小さいところが生意気言うな」と言われたけれど、とにかく中道四党結集の最初の提案なんですね。

 いろいろあったけれど、翌七八年五月二十七日に初めて中道四党党首会談をやった。竹入公明、佐々木民社、河野新自由クラブと私とです。そのときの河野洋平さんの言葉、いろいろ言った最後の言葉ですが、「この四党は、保守とか革新とかを乗りこえて、一つの政治結集、政治変革をしていかねばならん」。このとりまとめでみんなのコンセンサスができたのですよ。保守か革新かのイデオロギーの政治の対立を乗りこえようじゃないか。これがずっと続くのですよ。

 その後、新自由クラブの解消でこれが消えさると同時に、社会党が変化してくる。最後は二分会派ということになって、社会党とわれわれの関係もある程度修復されていくことになるのですが、当時の雰囲気としては、「五五年体制」も破っていく、保守か革新かのイデオロギー対立も破っていくということですね。

江田 保守だ革新だと言いながら、かえって保守のほうがアクションをおこしうる時代だった。

 私はある雑誌で対談して親しくなっていたのだが、柿沢弘治さんが、田さんたちが社会党を離党してわずか一、二時間後に、四ッ谷の事務所でアアよかったねと二人で乾杯したという。そういう雰囲気がある時代でしたね。

楢崎 つまり、私たちが社民連をつくった目標は二つ。一つは、社会党を外から変えたい、二つ目は自民党に替わる政党をつくりたい、ということだった。私たちはこの二つをバ力みたいに守ってきた。いろいろ議論もし、けんかもしながら。私は誇りに思ってますよ。新自由クラブとのこともあるし、いま二分会派をやっていることも。

 私たちが社会党を外から変えたいというのを目的にしたように、新自由クラブにも自民党を変えたい、というより保守を革新する、という目的があった。これが、新自由クラブが中道四党で行動しようとするとき、しばしばブレーキとなるのですが、中道四党党首会談などの席では、河野洋平さんと私は「もはや保守か革新かではない」と言い合ってきて、次第に「社会党から出た社民連と自民党から出た新自由クラブが一緒になることは、世の中に変化を印象づけるのではないか」という考えにまとまってきた。

菅 八〇年の参議院東京地方区に共同で宇都宮さんを担いだのが、はずみをつけるきっかけになったと思いますよ。

阿部 あれで両党の関係がぐっと接近した。

 そこでいよいよやろうということで、赤坂の東急ホテルで待っていたのだが、新自由クラブの議員団会議が長びいてね。そのうちに山口敏夫君が「名称でもめてる」と言いに来た。初めの案は「新自由クラブ・社会民主連合」という名称だったのだが、発足を目前にして「新自由クラブ・民主連合」という意見が出て、どうしてもまとまらないというわけ。

楢崎 前の日にぼくらは、名称も含めて政策を練り合わせてきたわけで、寝耳に水だった。

江田 十九日か二十日かぐらいに政策のすり合わせが終わって、これでやりましょうということになって、二十一日に新自由クラブの会議の直前に柿沢さんが新自由クラブを離党した。そこで、「新自由クラブ・民主連合」というふうに、「社会」を除いた。それはいいも悪いもない、どうするかということで、新幹線の中にいるぼくに電話がかかってきた。すぐ返事しろと。重要なことを決めるときは、いつも短い。(笑)

楢崎 決心をするのは五分間。(笑)このときと、それから二分会派のとき。

 政策にかかわったのは誰と誰?

楢崎・江田 ぼくたち二人。書いてきては少しずつ手直しする。

阿部 手直ししたのは、原発問題をどうするかだったと思う。

江田 政策というより、どう書くかだった。

 新自由クラブの側で言えば、逆に中道四党問題はさらに大議論のあったところで、例えば河野さんと対立して西岡武夫さんが離党する、あるいは柿沢さんが離党するといった中で問題になったのは、われわれは中道四党ではなく自民党を外から改革するのだという西岡さんたちの自民党改革派と、中道四党路線推進グループ派の河野さんたちとの二つの大きな流れがあった。

 田さんが言われた四党党首会談が節目、節目にあるたびに反発が中にあった。河野さんはそこで、四党結集はムリだからまず二党でやろうかということになったのではないか。八〇年の選挙、このとき落選していらした宇都宮さんを二党が共同で推すことで、新自由クラブと社民連の、個人レベルでないグループとグループの共同作業になったのではないか。

 私は、小さいながら新自由クラブと社民連はうまくいったのだと思うのですが、その頃、民社党と公明党をうまく引っ張り込むのが難しくて、連合は拡大しなかった。

阿部 「五五年体制」の打破から中道結集を言う河野さんと、自民党改革を言う西岡幹事長が激突して、新自由クラブは二度目の選挙で惨敗する。西岡脱党直後の選挙ですね。それで七九年選挙で四人になった。山口さんは中道結集志向だったが、田島さんはそうではなかった。そして、新自由クラブの中だけでなく、われわれとの間もうまくいかなくなった。結局、八三年の参議院選挙直後までの二年数カ月はもつわけですが。

 新自由クラブとの会派を解消してからしばらくは、われわれの中にも挫折感があったりしたものだが、そうしているうちに社会党の新宣言が出てきて、社会党とのつながりが見えてきた。でも、社会党はわれわれのこの無茶がなければ、新宣言までのあゆみはなかったのではないですか。

 社会党とのかかわりは、楢崎さんが言われたように、新自由クラブの西岡さんたちが外から自民党を変えようとしたのと共通しているのですが、そういう意志はわれわれの中にもあったのじゃないか。江田(三郎)さんや楢崎さんが社会党を出ることで新宣言が出てきたということも言える。社会党の変化とわれわれとは常に関連があるわけです。

 私が社会党を出てから、飛鳥田委員長とはひそかに二度会った。ひそかでなければならなかった。ところが、石橋委員長時代になると、公然と会うことができたのですね。

 私は、新自由クラブと社民連は記号であらわすと、+0(プラスゼロ)、−0(マイナスゼロ)の関係になると思う。新自由クラブは自民党に穴をあけようとして、結局穴があかなかった。そして、自民党へ帰っていった。われわれのはうは、社会党にボコボコ穴をあけ(笑)、こんなに大きくしてしまった。そしてわれわれは現在、二分会派を組んでいるという現状にある。

 社会党は「五五年体制」なので、当初われわれは横においてきたのだが、もう一つ重要な動きとして、自民党と手を組んで自民党の中に入っていこうという動きが、とくに公明・民社にあった。

 あの、八四年の十月の二階堂擁立劇の前、九月末に竹入、佐々木、私の三人が会った。そのとき、竹入さんが二階堂さんの名前は出さなかったが、中曽根続投はいかんと言った。そして、首班指名に手を貸さないかと話した。当時、佐々木さんは自民党と手を組むべきじゃないという論だったが、竹入さんの熱気に押され気味になったくらい、当時竹入さんは、積極的に手を貸して自民党の中に入っていこうと動いていた。

 八三年の総選挙で自民党が惨敗したとき、中曽根政権は新自由クラブと連立して伯仲状態を切り抜ける。それが刺激になって、公明・民社の政権へのすり寄りが激しくなる。中道四党の流れが細くなるのと連動するように、われわれと社会党のパイプが太くなっていった。

 新自由クラブが社民連と手を組んだとき、公明・民社はしまったと思った。新自由クラブは七九年に大平さんに投票して、入閣はできなかったが、布石を一つ打ち、その前後に自民党の一部を巻きこんで政権構想を持った。その動きは聞いたことがあります。

 それには、こういうエピソードがあります。八〇年選挙の直前、大平さんが亡くなった葬式の後に大平さんの息子さんがお礼に来て、父は今度の選挙は負けるかもしれん、そのときは新自由クラブはもちろん、田さんのところとも手を組まなあかんなあと言ってました、と言われた。その後、神崎製紙の社長からも同じことを言われました。亡くなる前の日に、新自由クラブ四人と社民連五人を入れなければだめだと思って言っていたんですね。

 自民党の中にも連合ということを考える人たちがいて、それに公明・民社がきわめて積極的に呼応していってしまうということになります。

阿部 自民党の中の“よりまし勢力”としては、河本派というのがたびたび野党の注目を浴びるのですよ。社会党の石橋さんも、河本さんが自民党を割って出て来るなら手を組んで、野党も大結集の政権をやるという意味のことを言ってきたことがある。

楢崎 河本派の渋谷直蔵は私の同期生ですが、「おい、河本派がまとまって出るなら野党結集して新党をつくろう」、「お前さん、責任持つか」と言い合ったりしたこともある。これは向うで壊れてなくなったが、この種のことは底流でいくらもある。公にしなかったが……。

阿部 その頃すでに石橋さんは、社会党新宣言を出すことでほぞを固めていたと思う。もう一つは歴史の経過の中で、社会主義協会という社会党のガンが漸次滅びていくというのも、無視できない側面だと思う。社・公・民・連という、以前とは別の組合せの四党結集をどうするか、という話が出るようになって「二分会派」になる。

 二分会派問題は八六年の選挙結果から始まるわけで、社会党も民社党も惨敗、公明党も現状維持。自民党は圧勝。野党の中でかろうじて社民連が増えて三人から四人へ。楢崎さんの言う長期低迷から躍進、江田代表に言わせれば三割増となる。

 しかし、選挙直後の状況を見れば、民社も社会も、まあまあこのままでいこうというタコつぼ構造になりかかっていた。そこで、このままではおかしいのではないかということになって、党の中で動きが出て、社会党の中では、一説によると朝日新聞の石川真澄氏が書いた論評などがきっかけで石橋執行部が退陣していく。そして、新しいものを出していかなければということで、土井委員長が出てくる。しかし、一方、民社党は現体制が執行していく。

 そういう中で、二分化問題がおこってきた。われわれの中にじっとしているか、動くか、どうするかが問題になった。民社党の側からの呼びかけにただ応ずるだけでは員数合わせにすぎなくなってしまう。そこで、社会党・民社党・社民連が将来政権交替に向けて定常的に話合いをするということで、二人、二人でやりましょうということになった。

 最後まで決まらなかったのは名称問題で、本来は「社会党・民主連合」、そして「民社党・民主連合」というかたちでやろうということで半ば了解がとれていたところ、社会党のほうが護憲共同との関係があって、すぐには変えられないということで、じゃあ後まで残そうということになった。ここまでふみこんだという認識ではないですか。

阿部 途中経過としては、四党結集のために社民連は三分会派をとろうということになった。ところが公明党から権藤さんがやって来て、「選挙で減ったのは民社と社会だから、うちのほうまで気を遣ってくれなくても構わないと、竹入委員長の伝言です」と。それでまとまったんです。

 二分会派ができた後に売上税問題がおきてくる。売上税については四党の売上税等粉砕闘争協議会ができる。代表は四党首。書記長四党、国対四党、政策四党という各級の四党全部がやる。その中で、多少のぎくしゃくはあったとしても、九十九%はつぶそうということでまとまっていって、四党による牛歩等の作戦で粉々にした。先輩に聞くと、戦後初めて野党が与党のものを破ったということです。

 その後の成果をめぐって各党いろいろあったのですが、この点については楢崎さん、阿部さんがずいぶん努力された。その間、民社党の中で「独自性がないじゃないか」という意見が出たときに、春日一幸さんが「いやあ、この教訓を生かして次に展開しよう」と言われた。この言葉を聞いて、楢崎さんと阿部さんが田辺誠さんとの会談をセット。このことがあって、社会党と民社党の歴史の公然たる次の段階に入った。

 社民和解の空気が強まり、両党国会議員が「友引会」を結成、いろいろな動きが出てくる中で、次は消費税の動きが出てきた。それに並行して十一月二十日、「連合」がスタートし、追い風に追い風が重なって、うまくいけば一、二年の間に野党の連合も、と期待したのが、今年の消費税問題、並列して比例代表統一名簿。

 われわれはみんな野党連合に大賛成していたのに、それがなかなかしっくりいかない。そのうちに消費税問題では、公明・民社の態度がもう一つ揺れてくる。しかも、その前段階で社民連が院内会派からはずされるという事態がおこる。選挙のことでは社会・民社がうまくいかない。せっかく、売上税問題でぐっとうまくいっていたのに、その後の一年間で逆行しているのが現在の状況じゃないかと思う。

 今後の展望としては、短期的には見にくいが、長期的には総評が来年解散するということで、期待をこめて四党が連合を組めるのではないかと思っている。

 いや、冬の時代だ。

 寒冷前線が来ているのとちがいますかね。(笑)

江田 まとめ風に言うと、社市連から社民連、十一年になりますか。この十年間は意味あるものだと思いますね。ぼくたちは、日本の戦後の大きな柱である議会制民主主義をきちっとしたものにしなければいけない、政権交替も自民党の中でのたらい回しじゃなく、ちがった性格の政権の交替が必要じゃないか。それをいままで保守・革新と思ってきたけれど、なかなか動かない。なりゆきで政権を動かしてきているのが自民党だと思うが、それを、社会を下からしっかり支える層とでもいうか、市民性というか、そういう層が主人公になって政権をとっていく、それは野党連合であったり、新党であったりすると思うのですが。新党もバラバラの労働戦線じゃなく、組織的労働勢力の結集であったり、市民性勢力の結集でなければならない。そのことを一貫してずっと言いつづけてきた。

 ある意味では、新自由クラブは新保守でいくか新リベラルでいくかの内部矛盾があって揺れたり割れたりする中で、ぼくらとの離合集散があった。そして、結果的には保守の中に帰っていった。新自由クラブが存在した間に自民党は脱皮したかと言えば、ほとんど見るものはなかったと言わざるをえない。

 ところが、ぼくらのほうはこの間ずっと同じ道を歩いてきた。中道四党結集から社・公・民・連という動きもあるのですが、大きな政権担当勢力をつくるには、中道各党との協力はなければならないもので、中道各党との協力は現在も続いている。その間、「社会党を除く」というのは長い間模索されたのだが、それは社会党が政権担当党になりうるかどうか疑問があったからで、社会主義協会とのきびしい論争の七七年夏の余波が、ずっと続いたからです。だから、社会党との関係は冷たいものにならざるをえなかった。しかし、中道各党は、もう一つの政億担当勢力なのか、自民的の補完勢力なのか、ぼくらはそのせめぎ合いの中できた。ところが、社会党の新宣言、その前に平林書記長時代、彼は社民連の総会に初めて出席したという、かなり大きな功績を残されている。

阿部 八三年でしたね。

江田 このとき以後、社会党も連合があたりまえということが活字ではっきり書かれるようになった。そして、機を同じくして労働界の変化、資本とは対時しながらも常に抵抗と若干の物とりであったバラバラの労働勢力からもう一つの大きな社会的存在にならなければと、長い期間と多くのエピソードを含みながら「連合」という壮大な労働統一勢力ができあがっていく。

 それと並行して社会党の変化があらわれた。そこで私たちがいままで一貫して主張してきた路線のあらわれが、社・公・民・連になって出てきたと言えます。国会では、野党がちょっとあぶないなと暗いかげをおとしていると言われていますが、社会党の新宣言は揺らいでいない。それに現在の自民党は三六〇議席を超えているので補完勢力はいらない。

 現在は冬の時代ではあるが、悲観しないで、もう一まわり階段をあがれば前へ進むことで未来は明るいと思いますよ。もう一つの政権、もう一つの日本を提案できる大政治結集ができると思います。明日は近いという感じですね。

阿部 よくも悪くも自民党政権で四十年間きている。しかし、ペレストロイカにしても中国の近代化にしても、従来の旧い教条主義から、市場原理を採り入れるなど時代に合わせて変化しようとしている。ところが日本は、戦後四十年間の社会体制、国家体制、経済・文化等々、どこをどのようにしようかという政策を、野党は持っているか。今後も自民党政権のままでいいのか、端的に言えば、都会はこのままでいいのか。

 地価・住宅・環境・通勤問題等、一極集中がもたらす重層的矛盾は、個人の努力では解決できない。限界を感じはじめている人が多いですね。しかも高齢化社会がいや応なしにくる。また世界で一番長い労働時間など、いろいろなものが議論はされるが、そう簡単には変わっていかない。

 その一方で、国際化が進み、数年前には想像もできなかった問題も次々発生してくる。小なりといえどもわれわれのように変化を求める政党としては、少なくともこれからのビジョンを出していかなければならないのではないか。

 大きく言えば、二段階あると思う。

 一つは、われわれが社民連をつくるときに言ったことは現在も生きているということ。旧来型の保守・革新ではなくて、江田三郎さんの言われた市民型、「公開・参加・分権・自治」といった考え方。そのときから当然、市場原理を基本的に認める中での調整といった理解の上で成り立っていた十年前の市民の参加による分権・自治の精神は、現在も生きている。

 また、もう一つは、自民党ができなかったことをやる。GNPは高くなったが、「国・企業富みて国民貧し」というのが現在である。これは、戦後一貫して産業育成にウェイトをおいたままで、たしかにそれは成功はしたが、それをある時期、労働時間の短縮だとか住居だとかの社会資本の蓄積に転換しなければならなかったのに、それをしないでずっときている。だから、いま、それを大転換する時期にきていると思う。

 ミッテランが、フランスの政権交替は「社会的進歩をめざす社会党と経済的進歩をめざす保守党との政権交替だ」と言っている。保守党が政権を握ると、産業への従事、もっと働け、もっともうけろと言い、社会党になれば、労働時間の短縮だ、バカンスだ、住宅要求だということになる。社会的進歩と経済的進歩が交互に替わることで長期的には調和することになる。日本では経済的進歩ばかりが進み、社会的進歩が遅れるということで今日の状態となった。ミッテランの政権交替論を参考にしていけば、これからの展望が出てくると思う。

 社民連がかねて言ってきた“市民が主人公である政治”が、ビルマ、フィリピン、韓国、台湾も含めて燃え上がりつつある。ピープル・パワーというか、いまアジアでおこっている従来型でない民主化の動きは、デモクラシーとよばれるものではなく、市民が主人公の政治への変革だと思う。これは、社民連にとって心強いことではないか。こういう傾向が世界的におこっている。

 もう一つは、旧いイデオロギーにとらわれないペレストロイカなどの動きは、新しい変化だと思う。アメリカも資本主義の花が開いているというような単純なことではなく、いろいろな問題がおきていて、今回の大統領選挙をみてもデュカキスの政一策などはきわめておもしろい。

 社民連が言ってきたことが世界的に変化としてあらわれてきたことはうれしいことじゃないですか。

阿部 田さんをはじめ社民連が一貫して支援してきた金大中氏、あるいは金泳三氏、かつての政治犯のお二人がともに国会に議席を得て、オリンピックの開会式に慮大統領のすぐ傍におられた。こういう光景を見ると、時代の潮流を感じますね。

 七八年に私と大柴さんは、朴政権時代の韓国に行ったが、帰国後比叡山での全国運営委員会で一部の方から激しく批判された。「あのような独裁国に足を踏み入れた」と言って。私や大柴さんは「いや、北だけでなく朝鮮半島の南も北も認めた上で、独裁政権下で民主化運動をしている人々を支援すべきだ」と答えて論争になった。現在、全議員が日韓議員連盟に加盟している社民連の中にも、こういう論争があったことを思い出すと今昔の感に堪えませんね。

 十年前には東西がイデオロギーで対立していた世界も、現在は南北の貧富の格差のほうがより深刻なテーマになっています。この格差をどうしたら埋められるか、この地球という限られた空間で、どうしたら人類が共存できるか。この、ある意味では難問中の難問を解決できるのは、結局、田さんが言われた「市民が主人公の政治」が地球規模で成立するときかも知れませんね。われわれはそのパイオニアであったのかも知れない、とそう思いたいものです。

 本日は皆さん、お忙しいところを有難うございました。


座談会 (1988/10/07)

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