1977年 社会市民連合結成

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開かれた市民参加の道  社会市民連合の実験

 公開討論会の当日、私は身体の調子がよくなかった。しかし、議論の進むなかで身体の奥からエネルギーがわき出てくるのを感じた。私たちがはじめた社会市民連合の新たな実験が広がりうる具体性をそこに見たからである。

  若者の熱情にふれて

 
菅君は三十歳だという。私の下の息子よりも年が若い。たしかにゼネレーションのちがいはある。討論のなかでも、たとえば社会主義についての評価などで、この違いを感じた。だが、若者の特性は社会と時代の流れに身をゆだねるのではなく、自らの熱情によって変革の意志を具体的な行動でぶつけていくことであるだろう。私の青春時代にはそれが社会主義であったし、そのまま現在にいたっている。

 菅君たちにとっては、社会主義というイデオロギーよりも、アクティブな市民派として直接的な行動にたちあがることの方が、より社会変革の意図を具体化することに直結しているのであろう。社会主義を心情としてとらえても意味はないと批判されて、「クールだな」と感じつつも、イデオロギーを教条的にとらえて自己満足している青年よりもきわめてラジカルな青年達だという印象を受けた

 社会主義に魅力がなくなっている現在、イデオロギーでそれをおしつけるよりも、現実の社会変革の方向と行動を具体化することによって再生することの必要性を、新鮮な印象とともに痛感したしだいである。

  市民の積極的参加がカギ

 さて、社会市民連合はだんだんと形造られつつあるが、最大の課題は“市民”の積極的参加があるか、どうかにかかっているといってよい。このことが成功裡に展開されないかぎり、この実験は意味のないものとなるであろう。小型社会党として何人かの議員を持ったとしても、まったくそれは意味はない。社会主義協会とわかれた政党をつくっても、古い社会党体質をそのままひきつぐとすれば、五五年体制の崩壊から新たな連合時代の政治を創造することはできない。こうした危惧をのりこえる道は、市民の積極的参加をえる以外にはない。

 “市民”という概念は、日本の政治風土においては定着していない。社会党のなかでよく言われたのは、革命をおこなうのは労働者階級なのであって市民ではない、ということであった。たしかに、現代社会において労働者は大きな位置をしめている。だが、労働者という概念で現代の革新指向の人々をすべてくくることができるであろうか。私はそうは思わない。

 というのは、労働者自身も第三次産業労働者が五〇%をこえ、第二次産業労働者もブルーカラーへとかわってきている。労働の質の変化は、労働者の意識的変化と結びついている。また、公害反対闘争やさまざまの市民闘争のラジカルな提起は、これまでの労働組合運動の質を問いなおしてきている。こうしたことから、総評も「国民春闘」を提起し、生活闘争をおこなわざるをえない状況になってきている。

 アクティブな市民の登場が求められているのは、このような状況変化によってだけではない。それは、日本における市民社会の成立がきわめて遅れているからに他ならない。社会主義のモデルがソ連型であってはならないということについては、大方の共通認識となってきているといってよい。だとするならば、日本における市民社会の成立が、社会主義へむけた過渡期社会との関連できわめてクローズアップされざるをえない。

 民主主義についても単なるスローガンではなく、参加民主主義とか直接民主主義という提起があり、具体的な運動展開がされていることは、市民社会の形成へむけての動きに他ならない。民主主義が、社会主義者による単なる戦術的スローガンから、市民社会と結びつき、社会主義社会への戦略的な位置が与えられるときにはじめて、圧倒的多数者が参加する社会建設が可能となるのである。

 こうして、いまや市民の役割は、既成の教条的な左翼や利益団体のエゴを打破するとともに、新たな社会を建設する主要な勢力なのである。私はこうした観点から、社会市民連合が市民派の大々的な登場の舞台になることにかけたのであった。

  菅君を代表の一人として

 公開討論会が終わって、菅君をはじめとした参加民主主義をめざす市民の会の若い諸君と親しく懇談した。そこで、私は菅君に社会市民連合の代表になっていただけるように依頼した。その後、正式に受諾する旨の回答をいただいた。私は心からありがたいと思う。

 公開討論会で篠原先生から、社会市民連合がこの討論会を重大なイベントにすることができるかに今後がかかっているという指摘をうけた。この指摘に、菅君の代表受諾でこたえることができたように思う。ようやく社会市民連合は態勢がとれ、本格的なスタートをきれることになった。

江田 三郎


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