1977年 社会市民連合結成

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’77参議院議員選挙

 五月二十六日、父の死以来ほとんど睡眠をとらなかった江田五月は、ついに過労で倒れた。日大駿台病院に緊急入院。検査の結果は、「胃に相当深い潰瘍、手術必要」。

 しかし、インタビュアーは病床まで追ってきたし、選挙準備の欠かせぬ作業もある。手術日までの間に一日一仕事、こなさねばならなかった。ポスター用の写真撮影、立候補声明と社市連代表就任記者会見は、手術前に行った。NHKの政見放送のビデオ録りは期限ギリギリまで延ばしてもらって、手術後に行うことが決まった。

 六月三日、江田五月は胃の三分の二を切除する手術を受けた。手術は成功したが、当分流動食しか食べられない。それも少量ずつ、一日六回に分けて食べるのである。体力を回復するのは容易ではなかった。

 しかも、江田の病室は安静の場とは言えなかった。社市連の選対会議がここにまで持ち込まれ、立候補を決意した新人候補が次々と挨拶に来た。ある意味では、こうした騒がしさが江田にとっては救いでもあった。病床に釘付けの江田を置きざりにして、選挙戦の火蓋は切られようとしていたからである。

 参議院選候補者は、以下の九人が決まった。

 全国区
 青森地方区
 埼玉地方区
 東京地方区
 石川地方区
 愛知地方区
 滋賀地方区
 京都地方区
 大阪地方区
 江田 五月
 間山 稔
 西田 英郎
 菅 直人
 家田 徹
 川島 利枝
 北野 利夫
 三上 隆
 山口 たけかず

 しかし、最後の一人がなかなか決まらなかった。一時は日大全共闘の秋田明大が決まりかけた。安東仁兵衛に伴われて、秋田は江田の病室を訪ねたりもしたのだが、結局、秋田周辺に反対が出て、この話は白紙に戻った。

 十人めの候補者が決まったのは、公示の前々日であった。池山重朗が、原水禁事務局長のポストを捨てて出馬してくれたのである。

 六月十六日、参議院選挙は公示された。

 社市連の候補者は、準備不足のまま選挙戦に突入した。既成政党の強さを、今さらのように思い知らされた。運動員の数、宣伝物の量、宣伝カーのスピーカーの音量からして段違いであった。

 「しかし社市連には政策がある」―これを合言葉に、「社市連は政治に何を求めるか」を武器にして各選対は頑張った。

 江田五月が病室を出て、街頭に姿を現したのは六月三十日である。第一声は渋谷で上げた。

 おかゆをいつも持ち歩いて、一日六回、しかも一回に一時間くらいかけてゆっくり食べなければならない。選挙カーには乗らず、別の車で演説会場に行かなければならない。さまざまな制限がついていた。それでも、倉敷、岡山、大阪、京都、名古屋、横浜、川崎、大宮、浦和などへも出かけた。

 どの演説会場でも反響は大きく、好意的だった。岡山では、土砂降りの雨なのに、多数の人が駅頭で待っていてくれた。

 新宿の街頭演説では、宣伝カーから降りると聴衆に取り囲まれ、もみくちゃにされた。「俺はどこへ行きゃいいんだ」と聞いたら、誰かが「国会へ行けばいいんだ」と答え、ドッと拍手と喚声が起こった。

 最終日の夜、吉祥寺駅前で、江田五月、菅直人は揃って最後の訴えをした。あらかじめ場所取りをする人手のない悲しさ、他の候補者から七時半までという約束で場所を譲ってもらった。その後、駅からやや離れたデパートの前へ場所を移したら、大勢の人たちは宣伝カーについて歩いて来てくれた。

 投票の結果、江田五月は139万2475票、全国区第二位で当選した。トップで当選したのは、社会党国際局長の田英夫。六年前に続いて二度目のトップ当選である。

 江田は高位当選を果たしたものの、社市連の残る九候補は全員落選した。同時に行われた都議選でも、社市連は次の九候補をたてたが、こちらも全員落選であった。 (新宿区・羽曽部力、江東区・力丸寛、渋谷区・北田繁、杉並区・後藤さよ子、豊島区・山路芳、北区・大関幸蔵、足立区・杉森和子、町田市・古宮とし男、南多摩・小林久枝)。

 まさに死屍累累。しかし生まれたての小政党・社市連としては、意気に感じて立ち上がり、結果として傷ついた仲間たちに対し、報いる道はなかった。



東京社会市民連合準備会における江田三郎 1977/03/31 社会市民連合事務所開きでの江田三郎


江田三郎急逝後、長男江田五月の記者会見。 社会市民連合準備会の代表委員。左より大柴滋夫、江田五月、菅直人。


1977/07/10投票の参議院選挙。翌日の開票速報に見入る。 江田五月、全国区第二位で初当選を飾る。

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