1977年 社会市民連合結成

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江田三郎急逝

 公開討論会終了後、江田三郎は「参加民主主義をめざす市民の会」の事務所を訪れた。

 事務所といってもそれは、武蔵境にある青木茂・サラリーマン同盟会長の邸の一画を借りて、学習塾の教室兼会議室兼臨時宿泊所に使っている場所である。あわてて片づけようとする青年たちを制して、江田はドッカリと腰を降ろした。

 そして懇談となり、やがて江田が菅に「代表の一人になってくれないか」と切り出すのは、前出の江田と菅の署名記事の通りだ。

 江田は、「自分が一線で活躍できるのもあと二年程度だから、それまでに何とかレールを敷いておきたいんだ。あとは若い人が頑張ってくれるだろう」といった。

 青年たちは、「あと二年だなんて、江田さん、これからじゃないですか」と励ました。

 ただ、菅が気になったのは、江田がボリボリと体をかくことだった。本人は、「こんなじんましんは、夜ウイスキーを飲めば治る」と笑っていた。

 しかし、後から考えれば、江田三郎の体内を蝕み尽くした病魔が体表にまで溢れ出たのがこの頃だったのであろう。

 もちろん江田側近は早くから、江田の体の異常に気付いていた。皆は医者にかかることを熱心にすすめた。しかし江田は、「じんましんは体が若いことの証明だそうだ」 「医者は検査ばかりして治療しないから治るはずがない」といって応じなかった。

 本人が医者嫌いだったせいもあったが、重要な会合や遊説日程がギッシリ詰まっていたため、「万一入院を命じられたらすべてが無に帰す」という恐れが、医者に背を向けさせた原因ではなかったろうか。

 江田が初めて病院を訪れるのは五月二日である。慈恵医大の外来で診察を受けた。

 診察した井上医師は早速入院をすすめたが、江田は頑として断って帰宅した。が、意志の力ではもはや持ちこたえられないほどに、体力は衰えていた。

 五月十日、名古屋のパーティーでは立つことができず、腰掛けたままで挨拶した。帰りの新幹線には、両側から人に支えられてやっと乗り込んだ。

 五月十一日、江田三郎はついに入院した。

 五月十九日、井上医師は江田五月に精密検査の結果を告げた。

 「肺と肝臓にガンがあり、膵臓にもあるだろう。その他にも数カ所転移しているとみられる。手術は不可能」と。

 社市連や社会党内の江田派の主要メンバーが二十日に集まり、「選挙を闘えない江田三郎の後任をどうするか」が話し合われた。江田三郎の全国区出馬の事実上の旗あげとなるはずの『新しい政治をめざして』の出版記念会は五月二十五日開催が決まっていた。後継者決定は急がなくてはならない。

 皆は異口同音に「長男の五月君がいい」と言った。

 しかし、五月は、「裁判官という仕事に一生を賭けてみる気になったところです。どんなに説得されてもこの意志はかわりません。私にこだわっていたら、時間的に間に合わなくなる。他の人を説得して下さい」と断った。

 そこで白羽の矢は次男の拓也に立ち、拓也は了承した。

 五月二十二日、江田三郎は呼吸困難に陥った。五月が駆けつけた時には、すでに人工呼吸が始まっていた。父の臨終に立ち会いながら、五月はふと、「今日は俺の誕生日だ」と思い直していた。

 「父はわざとこの日を選んで死んだのではないか―」

 五月は運命的なものを感じた。

 二十二日午後八時三十分、江田三郎は永眠した。

 五月は拓也に、「俺がやろうか」と告げた。拓也は黙ってうなずいた。


 阿部昭吾はこの日、選挙区に帰っていた。江田三郎のために選挙体制を整えたところへ急に候補者が拓也に替わった。条件が変わった以上、少なくとも上林与市郎元代議士、守谷・菊池・佐藤・和田の四県議との間で意志統一しなくてはならない。

 山形二区は江田派の羽越地方の拠点であった。農業共同化等、常に新しい試みに挑戦して来た山形二区の農民運動は、江田三郎の構造改革論の実践例と言ってよかった。江田はこういう山形二区を好みしばしば来訪したから、草の根の江田のファンは多かった。

 上林与市郎をはじめ、まだ社会党に籍を置く人々が、江田三郎そして拓也のための選挙対策に心を砕いたのは、こうした背景があってのことである。

 選挙対策の打合わせも終わり、一同が遅い夕食をとっていた時、NHKの大河ドラマ 「花神」を映し出していたテレビの画面に、白い文字が流れ出した。何事かと目を凝らした一同は総立ちになった。

 白い文字は“江田三郎死去”を報じていたのである。

 二十三日早朝から、江田三郎の死を知った人々が慈恵医大に駆けつけた。午前七時、入棺。

 五月は、阿部、大柴、山田耻目に言った。

 「昨日は私の誕生日でした。この不思議な暗合に、父の無念さを思わざるを得ません。父の死に水をとった時、やはり自分がやろうと決心したんです」

 五月はすでに横浜地裁所長に電話し、辞職の意を伝えていた。所長は「私自身が最高裁へ行って手続きをしましょう」と言ってくれた。

 午前十時、一乗寺に柩を移した。

 通夜の準備にとりかかった頃、東京の区議たちが詰めかけてきた。こういう場所で選挙の話もはばかられ、大柴と阿部は区議たちを連れて寺のわきの喫茶店に移動。一同が席につくや、大柴は区議たちの顔をねめまわして言った。「わしは脱党を決めたよ」

 ホッというどよめきが流れた。すると大柴は阿部に、「阿部君、どうする?」と訊いた。倉持和朗、栗原一郎等、区議たちは口々に 「阿部さんも踏み切ってくれ」と決意を促した。

 「私はすでに踏み切っている。しかし私の場合、大柴さんのような豪傑でもない、著名な政治家でもない。従って私が踏み切る時は、仲間の少なくとも八〇%をまとめ切ってから、グループとして脱党する。これには若干の時間がかかる。が、私はかならずやりますよ、棺桶の片一方を担いだ以上、絶対心配はいりませんよ」と阿部は答えた。

 大柴は眼を閉じて、何度もうなずいたが、区議たちの中には半信半疑の表情の者も相当いた。

 二十四日が葬儀で、翌二十五日、京王プラザホテルでの出版記念会は、一転して追悼集会となった。徹夜作業で整えられた壇上で、江田三郎の遺影が、あの人なつっこい笑みを参列者に向けていた。

 父の遺影の前で、江田五月は以下のような挨拶をした。


 本日は亡き父、江田三郎の遺作「新しい政治をめざして」の出版記念会に、皆様御多忙中のところ、このように大勢の方々がお集まり下さいまして、心からお礼申し上げます。これほどまでに多くの皆様方の願いと思いを、父に代わり厚く感謝します。父は弱冠二十四歳から政治を志し、戦前は農民運動に身を捧げ、一時は身体の自由まで捧げました。戦争中は厳しい弾圧の中で志の堅持と身体の自由を見事に両立させ、戦後国会議員として在職二十五年、昨冬の総選挙で落選してからは、結党以来参加し、限りなく愛し続けた社会党の頽廃と決別し、政治の可能性を信じて社会市民連合を作りました。その可能性が、まさしく見事に現実として花を開こうとした矢先、今月二十二日、急逝したことは皆様ご承知のとおりです。

 父の愛し集めたコレクションは、民芸のおもちゃ、古道具、花と木といろいろ変転してきました。父は一つのコレクションを始めると、それに徹するのではなく、ある程度集まったところで次のコレクションに変えるというところがありました。これを人は節操の無さというかも知れません。しかし政治家の仕事は常に全国を飛び回らなければ果たせないところがあります。それは過酷な旅といえましょう。父の趣味は、この政治の任務を楽しく果たしていくために、実に有益なのでした。コレクションの質を高度にすることにより、旅が収集の方法として有効でなくなるのでは、収集のために旅を楽しむということができなくなります。こうしてみると、父の趣味における変節は、政治の過酷さを緩和しこれを楽しむという目的に奉仕していくことになりましょう。これが父の政治の方法なのです。

 そして父が最後に作り上げた社会市民連合は、まさしく政策における変転と政策決定方法における一貫性を政治組織の原理としたものであったのであり、父の生き方を原理とした政治組織なのであって、これが花開き、結実することこそが父の政治的芸術の完成であった訳です。

 その種を植えつけたばかりで急逝した父の無念は、想像を絶するものがありましょう。父は種を植えつける作業に生命を捧げました。どういう花が咲くのか、父には種を植えつけたものとしてわかっていたからこそ、一つでも多くの種をまくために生命を捧げたのであります。これは、父が共に闘った農民の直観でありましょう。

 また農業というのは、土壌が良くなければ収穫はあがりません。花は路傍のスミレも、大輪のボタンも、ペンペン草でさえも、それぞれに美しい愛すべきところがあります。しかしどのような花でも、土が良くないと育ちません。父の作った社会市民連合は、私の聞くかぎりでは、この土壌のようなものと思われます。種類は何であっても、美しい花を咲かせるための。肥えた土壌を作る仕事が、社会市民連合の組織論であるようです。父のいう新しい政治は、土壌に目を向けた政治であります。

 父は死を知っていたのではないかと思います。今から考えてみると、父の落選後の挙動には、その節がいくつもあるのです。

 父は今年に入り「俺ももう六十九歳だ。君たちのように若くない」と言いはじめました。これまで口にしなかったことです。そして四月中旬以後、口をすっぱくして医師の検査を説得しても、どうしてもこれを容れなかったのは、これを受け入れた瞬間に父の種まきの仕事が終わることを知っていたからでしょう。

 私は父に休養と診療をすすめたことを、今では後悔しております。父は種をまきながら命絶えることを希望していたように思えるのです。

 そして父は、その肉体が種まきのできる限界に達するまで、一粒でも多くの種をまいて、あとは仕事を終えて永遠の休息に入ったのです。

 父はもう一つ最後の種をまいたようです。私は誕生日に死ぬという父の最後の行動により、私は裁判官の職を去りました。父は死までも一つの種にしたのです。

 私は裁判所と、裁判官の仕事を心から愛しています。この清潔さの中にいるうちに九年間の裁判官生活で、私は政治の実践と無縁な全くの市民となっていたのであります。政治は泥沼であり、これは常識人のする仕事でないと思っていたのです。

 その私に、今何だかとりつかれたように、政治への情熱がわいてきているのです。父のいう新しい政治、能力ある人がどんどんリクルートされる組織、実りある政治討論、明るいきれいな政治、これを実現するための政治原理を、つかみかけてきたような気がするのです。今は人に語りかけたくて仕方がないのです。

 しかし父の死によって芽生えた新しい政治の芽は、まだ未熟で、いつ踏み倒されるかもしれません。

 父の死は道をはずれた孤独の死、ハムレットの悲劇の死ではなく、政治的大勝利を生み出す死であります。父のこの命をかけた大仕事を何が何でも実現させることが、社会市民連合のためというより、むしろ日本の政治のため、日本国民のため、その政治的成熟のために必要であります。

 そして国民という土壌を十分政治的に成熟させて、父のような命をかけた政治活動をしなくてもすむように私も頑張ります。

 父は落選して一市民として永眠しました。その最後の書「新しい政治をめざして」により、ますます多くの市民、江田三郎ができることが父の希望であります。私も努力します。勇気を持ち、全力をあげて今日から出陣しましょう。


 この席で大柴滋夫は社会市民連合代表となり、同時に江田五月の後見人を宣言した。

 社市連は、参議院選挙に候補者を、全国区の江田五月の他に少なくとも九名立てることを決めた。十名以下だと、新聞やテレビで「諸派」扱いにされてしまい、「社会市民連合」という新しい看板が使えないからであった。

 また、参院選と同日投票が決まった都議選にも、候補者を十名立てようということになった。しかし、投票日までわずか四十日しかない。言うは易く、行うは難いことであった。


社民連十年史

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