1993 シリウス 2

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政策提案 参議院改革      北村哲男

参議院なんかなくしてしまえ

 世界中で、日本の参議院にあたる上院や貴族院をもっている国は、そうとう多くあるが、これらは連邦制度国家や貴族制度をもっている場合であって、それ以外はあまりない。

 列国議会同盟(IPU)の資料によると、普通選挙制度をとっている世界56ヵ国のうち、単一国家42ヵ国の中で二院制度をとっている国は12ヵ国に過ぎず、一院制をとっている国は30ヵ国となっている。残り14ヵ国はいずれも連邦制国家で、すべて二院制である。

 デンマークやスウェーデンは一九七〇年代になって二院制から一院制に移行した。

 こうした事実から、世界の流れとしては一院制かあるいは一院制の方向に行きつつあるという見方もある。

 二院制不要論の論拠は、貴族制度のなくなった一国や連邦制をとっていない国では両院制は不要であるという考え方や、選挙基盤を同じくする形での二院制では、かえって国民の意見統一を混乱させてしまうという考え方。あるいは、一院の政治責任を他の院に転嫁してしまう傾向があってよくないとか、両院の権限を平等にすると議院内閣制の特質が失われてしまう。

 さらには、二重の手数と費用がかかる等々である。これらの参議院不要論の論拠をみると、それなりにもっともである。

 事実、一九七一年スウェーデンが二院制から一院制に移行した直後、日本でも有名な、前尾・河野論争があったそうである。

 当時の衆院議長前尾繁三郎が「内閣不信任案を出す権限もなく、解散もしない参院が重要法案をタテにとって政局を揺さぶるなんてことは健全な議会運営にとって弊害が多い」と言ったことに対し、河野謙三参院議長が「前尾発言は憲法無視も甚だしい。世界中で一億人以上の人口を要す国は全て、二院制をとっている。衆院の二番煎じと言われないよう努力しているのに、いらぬ干渉をするな」という論争であったらしい。

 しかし今、「参議院なんかなくしてしまえ」と言ってもこの制度が憲法上の要請である以上、なくしてしまうこともできなければ、開店休業にしてしまうこともできない。したがって、できるだけの独自性と自主性を強調することを考えぎるを得ない。

 だったらどうすれば、衆院のカーボンコピーと言われないようにすることができるのだろうか。

 これまでも河野謙三議長時代にずいぶんと多くの改革が行われたと聞いているが、国民の目には未だに参議院の特色は明確に映ってこない。一九八九年に、参議院で与野党が逆転して消費税についての野党統一法案が出され、可決されたまではよかったが、衆議院で否決されて以来逆転国会の特色を生かしたものは表面的にはまったく見えてこない。

それでも二院制は必要か

 (1) 二院制不要論がある一方、社会制度の発展段階において、特に民主主義体制国家においては、経験則上、議会は二院制が良いと言われていることも事実である。

 こう言ってしまうと、はなはだ理論的ではないが、民主主義制度は、歴史の現段階の人類の到達した最も優れた政治制度である一面、しばしば過ちを犯すものだという経験則があることも確かである。

 したがって国会の審議でも、同じことを二度繰り返して検討することは審議をより精密にし、一院の軽挙妄動をチェックすることができるし、具体的にチェックしないとしても二院の存在自体が一院を自重させるという機能もある。

 また、一院で、ある法案を審議しているうちに、その審議状況を国民が知ることになり、世論を形成し、一院の審議のときには明確でなかった世論が二院の審議のときにはっきりとしてくるという利点もある。

 こうしてみると、参議院改革の視点は、衆議院に対するチェックの機能を有効に働かす機能をもたせるとともに、衆議院で提起された政策を発展させる方向にもっていくことができるようにすることではないかと思う。

 (2) ところで、他の制度をみると、制度としてはムダのようであるが、誤りをより少なくするために審議を繰り返す同じような制度に、裁判制度がある。

 裁判制度は人類が国家という制度をつくつたときからあるもので、実に古くから歴史を積み重ねた結果、現在の三審制度が殆ど揺るぎない制度として確立している。

 先進民主主義国家では三審制度はおろか、調停前置や行政機関の審査を入れると、四審制や五審制になっているところもある。これほど人類は国民の基本的人権の制約や調整、あるいは刑罰を課すことに関して慎重になっているのが現実である。

 さらに、裁判制度の究極の目的である人権の尊重という問題は、今や国境を越えて、普遍的価値となりつつあり、裁判制度も国家の壁を超えて、一国の最高裁判所で決めたことすら国際裁判所で再び審査し、覆えしうることも議論され、すでにEC諸国においては実践されていることも忘れてはならない現実である。

 しかし、裁判制度を見習うとしても、衆院と参院がまったく同じ基盤から成り、一つのことを同じ機能と方式で審議するのでは二つの制度を置いた意味がない。チェック機能を重視するなら、その機能を十分に果たすような制度と権限をもたせるべきであろう。

特色を持たせるには、可能な限り正反対の対応を

 参議院を文字どおリアッパーハウスすなわち上級者とみて、裁判制度の上級審の役割を果たさせてみたらどうだろうか。すなわち、

(1) 民事裁判の第二審のような継続審として、衆院で十分に審議できなかった点、不十分な点を再度審査しなおす機能。

(2) まったく別の観点からの検討すなわち、法案を中心とする政策面の検討と将来の改正を含めた政策提言までを行う機能。

二つに分けて考えることである。

 もう少し、具体的に考えてみよう。例えば、毎年三月末になると、必ず出てくる法案の一つに裁判官定員法という法律がある。裁判官の定数は右の法律で決まっているから、たった一人の裁判官でも増やそうとすると、そのために法律を作り直さなければならない。これを衆議院で審議し、可決したのちに参議院が審議する。裁判官の数を減らす場合も同様である。この増減は裁判官の全国配置の都合や都市部や農村部において裁判件数が増減したという理由ではなく、主として司法修習生の任官希望者が増えたり減ったりした結果であって、制度そのものの必要性からでないことが多い。

 このような問題は、衆・参で毎年特別な時間を費やして慎重審議をする必要はなく、技術的に解決したほうがよい。同じようなことはどこの省庁にもあり、技術的に解決できる法案や集約は実に多いのである。

 そこで、衆議院のとっている省庁別タテ割り委員会方式で法案ごとに委員会を開くシステムを内容別に二つに分ける。

 まず法案の逐条的な審議については、予算委員会のような大型の法案審査委員会をつくり、そこで技術的かつ逐条的な審議を能率的かつ速やかにやる。そこでは、単なるチェックで通過させる。これが(1)でのべた機能である。

 次に(2)の方式であるが、これは、法案の中で問題となった事項、将来にわたる問題も含め、事実ごとに特別委員会をつくることである。

 今日、一つの社会問題が一つの省庁やそれに連なる一つの委員会によって、完全に解決できる問題は一つだってないと言っても過言ではない。

 たとえば、高齢者福祉や障害者の問題ひとつをとってみても、従来は厚生省プロパーの問題と思い込み、他の省庁は関係ないと思われてきた。しかし、歩道の幅やケアハウスを作るには建設省、駅の階投や移動に関しては運輸省と、いくつもの省庁にわたる複合的に解決すべき問題が重なっている。

 これに対応する幅のある委員会の設置と討議、将来にわたる対策が要求されているのである。

 それぞれの問題のエキスパートを集め、時間をかけ、与野党議員相互の討議を含めて法案をどう生かし、どのように運用していくかを議論し、拘束力のある政策提言に近いものとしていくことである。

 議論の方式も、従来方式の野党議員対大臣および政府委員という形ではなく、野党と大臣、野党と与党との対立、討論方式にすべきである。そこでは、政務次官も大いに活用し、政務次官に副大臣の地位を与え、場合によっては二人に増やしてもよいではないか。

 その代わり、発言については大臣と同じ責任をもってもらえばよい。特別委員会のテーマは、ODA予算、安全保障問題、戦後補償問題、核エネルギー問題、医療問題、税務、土地問題、図書館・公園など公共施設問題、障害者問題、脳死臓器移植問題、文化・スポーツ、外国人労働者問題、アジア・アフリカなどの南北問題、環境問題、交通政策、フロン・ダイオキシンなど化学環境汚染問題など、どれをとってもアップ・ツー・デートなもので、国民生活に直接関係があり、総合的かつ継続的に取り上げ、長期的視野に立って政策化し、法案化しなければならない問題は山ほどある。

 法案審議そのものはある程度の期限を切って結論を出すが、そこにおいて議論された問題は一定の結論が出るまで討議し、その結果についてはある程度政府を拘束する力をもたせるべきである。

 特別委員会は、国民生活に直接関係ある具体的な問題を取り上げ、審議し、それほど長くない期間に結論を出し、一定の方向を出して、政策化、法案化できるものでなければ意味がないのである。

 この発想は、タテ割り行政、庁別委員会、族議員と関係省庁官僚のなれ合い審議、これらをすべて断ち切り、否定するところから出発しなければならない。

 タテに対してはヨコ、議員対政府官僚に対しては議員対議員、政府提案に対しては議会からの対案、そして政策提言、会期内処理に対しては結論が出るまで原則として継続審議など、これらを保障できる機構をつくることである。

党議拘束についての再考

 衆議院と同じ形の審議方式をとって党議拘束を緩和せよといっても無理である。国会対策委員会中心の議会運営をとらず、特別委員会でテーマごとに議員同士が議論する場をつくれば、党議拘束はおのずと緩和されていくのではないだろうか。もちろん政党政治が基本である以上、限界があることは前提としてである。

 問題をヨコに広げてみるとよい。「脳死問題」を例にとってみよう。医師の立場、法律家の立場、宗教家の立場、一般の親子や家族の心情、諸外国との比較、医学の進歩、これらを代表する人たちが議論して脳死を論じ、臓器移植を考えるとき、党の立場がいかにナンセンスかわかるであろう。

 脳死が特殊事実というなら、子どもの権利条約でもよい。この条約を基本的に反対する立場は極めて少数にすぎないが、これを国内的にいかに発展させ、子どものためのものにするかを論じていくと党議拘束は基本的に問題にならない。

 あれほど、反対が叫ばれたPKOの問題でも、国連のPKO活動自体に反対している議員は社会党にはほとんどいない。要は、はじめから自衛隊を出動させるというから、角をためて牛を殺すような議論となり、国会闘争になり、史上最長の牛歩国会になってしまったのである。

 国連のPKO活動に日本はどのように協力していくのか、あるいはどういう形の国際貢献がよいかという立場からの議論をやるべきであり、そこに初めから党議拘束があってはならない。

 議論を尽くした後、最後の決定時に党議決定が働くのは止むを得ないとしてもである。

 順序を逆にすれば、PKO活動の相当部分までは与野党は一致した結論を出すことができ、最後に残った部分についてはじめて党との調整が図られ、党議拘束を持って対決をせざるを得ないということになったのではないだろうか。

政党の議会運営の改善

 制度の改革例ではないが、法案についての物理的抵抗、強行採決、審議拒否、審議妨害、牛歩戦術などの方法について、参議院ではこれをやめるという議会運営をしたらどうだろうか。

政治を変える国会改革の視点

 まず、国会の政府からの独立性、そして国民の立場からのチェック機能の強化である。

 さらに、国会のもつ調査局、法制局などの機能強化である。これらの機関は潜在的に実力のあるところだが、議員活動との密着度、機能性が実に少ない。

 あれだけ苦労してつくった議員立法が日の目をみることが少なく、実に非生産的である。これらを生かす工夫も大切である。

 そして、国会を本当の意味の議論の場にして議員同士で法案の審議、討論をして、国民の目に触れさせることである。

 これらの視点は、国会全体のことだが、「まず、隗始めよ」との故事にもあるように、参議院を無用の長物と言われないようにするには、まず参議院の改革から始めようではないか。


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