大亀幸雄 50年の足跡

戻るホーム大亀目次


 さびしさを越えて   江田 五月

 大亀さんの引退は、前々からご本人が口にされていたことであり、特に今年に入ってからは、自らを叱咤する意味もあったのだろう、事あるごとに時期まで特定して言明されていた。

 ご病気が第一の理由だとは言っても、軽々しくは言えないが、寿命を宣告されたという種類のものではなく、悲しいとか寂しいとかいうものでもない。

 むしろ逆に、政治という過酷な営みに人生の大半を捧げた大亀さんが、敢えて心を鬼にして決断し、これまでの舞台を去って、人生の締めくくりを展望しながら、次の人生を歩み始めるのだから、後のことが心配にならないように私たちがしっかりし、大亀さんの新しい出発を祝福しなければならない。

 特に私は、父・江田三郎の最期を思って、その感を深くする。「戦場に斃れる」とか 「斃れて後やむ」とか、中道の死を美化する言葉があるが、そんなことは、観客のいう言葉で、当事者の思いは誰が知ろう。

 人に囃されて倒れるまで踊るバレーシューズを穿かされた人生の、どこが美しいか。その意味で私は、大亀さんの決断を正しく受け止め、それを讃え、それを私たちへの教えとしなければならないと思う。

 私が最初に大亀さんを知ったのは、昭和二十年代の半ば、まだ小学生の頃だ。

 岡山市三番町のわが家は、貧しい時代を考えてもなおひどい、腐朽寸前の状態。そこに常に何人かの父の心酔者が、寝泊りしていた。私は、そうした若い理想主義者に囲まれて、少年時代を過ごした。

 ある日、レクリエーション大会があった。「好きですか、嫌いですか」 に、何をかは伏せたまま各人が答える。後でこじつけの理由を言う。父の出題は 「亀さんの鼻汁」。おとなは爆笑だったが、私にはわけがわからなかった。後に、「亀さん」は大亀さんで、肋膜炎で気胸術を受けたりしていることを知った。

 弟の誕生日に、大亀さんや仲井富さんと一緒に写した当時の写真が、今も私の手許にある。しかし普段は、大亀さんは、私たち家族からいえば鬼のような存在だった。ある日、久しぶりに父が帰郷するというので、母と一緒に岡山駅に迎えに行った。父が降りて来て、てっきり一緒に帰るものと思ってまとわりついていたら、事もなげに私たちから父をもぎ取り、どこかへ連れて行こうとする。演説会か何かがセットされていたのだろう。くやしくて大亀さんに石をぶつけた。覚えておられるだろうか。

 父が亡くなる直前、私だけが担当医から父の病状の説明を聞いた。肝臓の転移癌で、余命数か月。社市連旗上げの直後だが、私は現職の裁判官。父の政治決断とこれに行を共にした皆さんの活動には、全く何も関係していなかったので、途方に暮れた。

 社市連の会議があり、私も出席した。父の病状の輪郭を説明し、参院選全国区の出馬断念を主張。余命がないのに、国民に信を求めることはできない。しかし病状の核心は説明できない。出席者は私の説明を納得しない。

 別室に呼ばれた。政治の世界の事で、病気は致命的。段取りも何もわからず、うろたえたが、癌だとは決して言わず、断念説に固執した。そんな中で、大亀さんと二人だけになった時、「癌か」とずばり訊ねられ、「そうだ」と答えた。他の誰よりも、大亀さんを信頼するという私なりの判断だった。

 私自身が出馬することになったいきさつから、その後今日までのことは、何の秘話もない。ことごとく大亀さんを信頼してきた。師事したと言ってもよい。ちょっと不安で寂しいのは事実だ。

  (えだ・さつき 衆議院議員)


さびしさを越えて

戻るホーム大亀目次