大亀幸雄 50年の足跡

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 大亀君を送る
             秋山長造

 戦後の混乱の中、昭和二十一年の秋、旧西大寺軽鉄駅前にあった江田三郎さんの寓居で、私は大亀君に初めて出会いました。衣食住に事欠く当時のことで、洗いざらしのカーキ服を着た、目玉のクリクリした童顔でいやに張り切っていたのを覚えています。

 以来茫々五十年、半世紀にわたるつきあいですから長いといえばずい分長いことになります。

 この間江田さんを中心に終始政治行動を共にして来たし、昭和五十二年春江田さんが亡くなって、社民連から日本新党を経て今日の新進党へと公けの進路は別れ別れになったものの、私的なつきあいだけは変わりなく続けて今日に至りました。お互い敬愛の情を持ち合いながら苦楽を共にしてきた数少ない友人の一人といっても過言ではありません。こういうはなしは今の人たちには中々わかって貰えないかと思いますが、そもそも男の友情とはそういうものではないでしょうか。

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秋山長造氏(1987年「江田三郎を語る会」にて)

 大亀君は当初から、理論でも実践でも江田さんに深く傾倒して 「江田一辺倒」 を貫き、江田没後は令息五月君を忠実に守り立て、今日に至ったことは世間周知のところであります。私は中央でいわゆる江田派の諸君ともずい分広くつきあいましたが、江田さんをめぐる離合集散の中で一貫して、身も心も江田さんに忠勤を励んだ者は意外に少なく、私の見るところ東に山形の阿部昭吾君(現代議士)あり、西に岡山の大亀幸雄君ありということになります。義理も人情もわきまえない、あらわなオポチュニズムの横行する今の政界には珍しい美談というべきではないでしょうか。

 大亀君は人も知る強烈な個性の持ち主である上に、岡山社会党や社民連のいわば 「万年書記長」として多年県政界舞台回しにかかわり、蔭の立役者として活躍してこられただけに、毀誉ほう貶相半ばするのはやむを得ない定めでもありますが、それを意に介せず所信に邁進したところに大亀君のアイデンティティー(持味)があったと思います。

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 忘れもしない昭和三十九年秋三木知事の急逝に伴う知事選挙で私が社会党公認候補として自民党公認の加藤武徳君との決せんに破れたあの知事選挙、また昭和四十七年秋当時の加藤知事に対し長野現知事を擁立して決戦を挑んだあの激しい知事選挙は、昭和二十六春の西岡対三木の知事選挙と共に岡山の戦後を画する三大選挙ともいうべきですが、前二者における「大亀書記長」 の活躍は断然群を抜いてすばらしかったです。

 特に四十七年の長野選挙は候補者選びの準備段階から選挙戦の企画・立案・運営・戦後処理に至るまで、大亀君は全能力を打ち込んで働いてくれました。私はあの選挙の事実上の責任者だっただけに当時経緯を逐一承知しているつもりですが、大亀君こそあの長野選挙の最大の功労者の一人と断言して憚りません。

 今日大亀・長野両君がどういう関係になっているかは知りませんが、少なくとも当時の大亀君のめざましい働きぶりは知る人ぞ知るではないでしょうか。

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 こういう思い出は次々に尽きませんが紙数に限りがありますのでこれでやめます。私としてただ一つ心残りといえば、大亀君を県会か国会の表舞台に出して、それこそ縦横に腕を振るわせたかった念願が遂に叶わぬまま、今日を迎えたこと、この一事です。しかしいまそれをいっても仕方のないことですから、この際万感をこめて大亀君長年のご活躍とご功績とそして大亀夫人の内助の功を讃え、今後一層のご自愛ご清栄を心からお祈り申し上げて送別のことばとさせて頂きます。

 大亀君、奥さんいつまでもお元気で!

      (あきやま・ちょうぞう 元参議院副議長)


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