第一章 生い立ち

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  ボロ家でターザンごっこ

 父は、帰国後すぐに、戦前参加していた日本農民組合(日農)の運動に復帰し、社会党の建設にも全力を注ぐことになる。私たち家族は、父の実家のある岡山県御津郡建部町福渡や、母の実家のある岡山市西大寺(当時は上道郡西大寺町)で暮らすことになる。西大寺でも、間借り先は転々と変わった。幼児であった私でさえ頭がつかえそうな気がするほど天井の低い部屋や、三角形の部屋などに住んでいたこともある。

 当時はどの家でも食糧の確保が第一の難題だったが、父の農民運動で救われていた。農村にオルグに行き、帰りに何か食糧をもらって来たり、農村の人たちが岡山へ来たとき、手みやげ代りに野菜を持参してくれたりした。ぜいたくはできないが、なんとか量だけは確保できていたようだ。私自身、当時はあまりがつがつ食べたりしなかったせいもあろうが、とにかくひもじい思いをすることはなかった。

 二十二年四月から幼稚園へ通った。当時の幼稚園が何をしていたのか、さっぱり記憶に残っていない。ただ常日ごろ食事中に便所に行ってはいけないと厳しく言われていたため、昼の弁当の時間、小便をがまんしているうちに耐え切れず、そのまま漏らしてしまい、幼稚園のパンツを借りて帰ったことはおぼえている。また、園長先生が退職される時、園児代表でお別れの言葉を述べたりした。

 幼稚園に通っていたころ、誰にも教わらず自分で「ひらがな」とはどういうものかを発見した。数少ない絵本をいろんな人に読んでもらうから、その文句はそらで覚えてしまう。絵を見ないで、何かわけのわからないくねくねしたもの(ひらがな)を見ながら読んでいくと、同じ発音のところに、同じ形のもの(ひらがな)が出てくるとわかったのだ。たとえば「め(目)」「めだか」「あめ」など、「め」の発音があるときには、必らず「め」の字が結びついている。その最初の字が何であったか忘れてしまったが、とにかくすごい発見をしたような気がして。その後すぐにひらがなは読めるようになった。

 この時代は満六歳、来年学校だというのに、ひらがなの読み方も教えないのが普通だった。誰もが生活に追われ、子どもに「勉強」を強制する余裕なんかなかった。

 母は拓也の育児の他、党活動にも忙しかった。父が私を自転車に乗せて、周辺の各地に連れて行くこともたまにはあった。目的地に着いたら。父は党や日農の仕事だ。私は一人で置きっ放しにされ、近くで遊んでいる。父の仕事が終われは、また自転車で一緒に帰るだけだ。幼稚園に半年通ったころ、ある日突然、誰かが幼稚園に私を呼びに来た。「岡山へ引っ越すことになった。すぐに家に帰ろう」という。急いで帰ると、すでにトラックに家具などが積まれていて、そのまま出発した。七輪に火を起こし、みそ汁を作っている最中にトラックが来たらしく、トラックの荷台でそのまま食事の用意をして、岡山へ着いてから食べるという、まったくあわただしい引っ越しだった。

 父は昭和二十二年四月の地方選挙で県会議員に当選していた。(一年少々で県会議員全員が議会事務局から正月用の塩ブリをもらい、配給の規則違反を追及された「塩ブリ事件」で一人だけ辞任してしまう)支持者が好意で家賃無料の家を貸してくれたのだ。

 この家は江戸時代に建てられた下級武士の「官舎」のようなものらしい。岡山城の外城の内側で、当時の町名を三番町という一応は市の中心部の一角である。建築後百年以上も経過していただけに、畳は腐っているし、ワラぶきの屋根ごしにところどころ青空が早えた。雨が降ると便所へは傘をささなければ行けないし、すぐに床上浸水となってしまう。その後の話だが、夜寝ているとドーンと大きな音がして目が覚めた。何事もなかったようだが、翌朝起きてみると縁側のヒサシが落ちていたというようなこともあった。

 しかし敷地は百坪(三百三十平方メートル)もあり、まずまずだった。門があり、そのすぐ内側に厩がある。槍を置く場所もあり、土蔵もあった。庭には当時使わなかったが井戸があって、マサキ、アオギリ、バべ、大きなザクロが二本など、木も茂っていた。ギボシ、イチハツなどが植えられ、庭園風になっていた。

 この家に私たち家族だけで住んだことはほとんどない。社会党関係の人などが必ず同居し、多いときは四家族になった。それに加えて独身の青年党員もいた。西大寺での居候から、他の家族との同居と続いて、私自身、生活とはそんなものだと思っていた。一世帯一住宅が普通だと気づいたのはいつごろだろうか。

 この家には思い出が多い。何年に一度か、ワラ屋根をふき直す。日農の人たちがワラを持って集まり、庭にワラが山積みされる。屋根からその上に飛び降りられるのが、何よりも楽しみだった。当時はターザンに人気が集中していたころだ。よくターザンごっこをしたが、屋根替えの時だけは本当のターザンになったような気分だった。

 少年雑誌に掲載されていた「少年王者」という物語の主人公真吾も、ケニヤで動物に囲まれて暮らすというストーリーだった。ターザンや真吾にあこがれて、アオギりの上にいろんな材料を持ち上げ、ちょっとした小屋を作ったりした。昼寝ぐらいはできたし、犬も引っ張り上げて遊んだりした。母はハラハラして見ていたらしいが、小学校三年ごろから六年ごろまで、年を追うごとに樹上の小屋は改造して立派なものになった。

 マサキやザクロの枝からは、縄を吊ってぶらさがり、エイヤーツと飛ぶ。三本とも根元から傾いてしまうほど、毎日のように繰り返した。

 庭には池らしきものの跡もあった。土を掘り返して水を入れ、魚を飼ってみたが、なかなかうまく行かない。五、六年のころには、セメントを買って来て、従兄に手伝ってもらってコンクリートで固めた本格的な池を作った。床下侵水すると金魚が床下に散歩に行ってしまい、困った。

 岡山では幼稚園には行かず、二十三年四月岡山市立弘西小に入学した。六三制に切り替った年だ。ランドセルなんか持っている生徒はまったく珍しく、もちろん私も買ってもらえなかった。誰かに貰ったお年玉で、肩から下げるズックのカバンを買ったように思う。

 私の特殊な環境のせいもあろうが、当時は貧乏は当たり前のことで、何も苦にならない。かえって金があり、ランドセルなんか持っていた子の方が肩身の狭い思いをしていたのではないだろうか。私自身、何か悪いことをしなければ金持ちになれるはずがないと信じ、貧乏は善、金持ちは悪と、直結させていた。父は貧乏人のためにいろいろやっている。だから、父は立派な人であり、政治は大切な仕事なんだ。その程度の認識をもっていたようだ。

 このころ、父あての郵便物の中に、進駐軍によって開封されているものがあった。封筒の底をハサミで切り、バンソウコウのようなものではり直していた。おおっぴらな信書開披であった。


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