第三章 学生運動と退学処分 目次前へ次「退学に処す」

  自民党総裁室乱入で逮捕

 委員長一期目の最後の時期に、自民党総裁室乱入事件が起こり、私が逮捕された。この行動について、私の委員長時代の最大の「業績」のように書かれることもあるが、全く不本意である。いつのまにか、巻き込まれていたという気がしており、気持が悪いのである。

 そのころ防衛庁は、首都圏防衛のためバッジシステムを作り上げ、周辺基地に核弾頭使用可能なナイキハーキュリーズを配備する作業を進めていた。私たちはその反対運動に取り組み、乱入事件のあった五月十一日も、詳しいコースは忘れたが、デモをやった。

 デモがあまり景気よくないので、解散後「自民党に抗議に行こう」ということになった。私もそこまでは賛成したが、建物に乱入することなど議題になっていない。自民党本部に着いたが、どこでどうすれはよいかわからない。ウロウロしていると、一部が建物の奥深くに入ってしまった。誰にもとがめられないので、それほど深く考えもせずに、追いかけて入ったら、そこが総裁の応接室か何かだった。社学同の幹部がアジ演説をしたり、革命歌を歌ったりの集会が開かれていた。私が入った直後に、その部屋は自民党職員が出入口に鍵をかけてしまい、連絡で出動した警官隊に、部屋にいた四十一人全員があっけなく逮捕されてしまった。

 総裁室乱入は、社学同の幹部にとっては予定の行動であったのかもしれない。あるいはこのとき「自民党本部に突入し――」というようなアジがあったかと思うが、この連中はいつも「首相官邸突入」などといっている。しかし委員長としての私の呼びかけでデモに参加した学生がいる以上、最後まで見届けなければならないと思って、部屋の中まで入ったのである。

 私は警視庁に留置された。警察官、検事による取調べに対し、自分自身の行動に関する限り、スラスラと供述した。少なくとも私自身は、誰にもとがめられなかったので、建造物不法侵入なんておかしいと思ったし、黙秘しなければならないほどの重大犯罪を犯したつもりはないからだ。取調べ側は、社学同の幹部など、他のメンバーの行動について聞きたがっていた。そういう質問に対して、全く答えずに押し通した。厳しい調べという印象は全くなかった。調べに当たった警官には、その後デモなどで会うと、あいさつ程度はした。検事の方は、その後検事正になり、今でも年賀状のやり取りぐらいの往来はある。

 留置場では最初は他の刑事犯の容疑者と一緒だった。ある男が「今日調べだ。俺は何もしてないのに逮捕だ、調べだとまったくけしからん」といいながら出て行く。帰って来て「いや、まいったまいった、全部調べてやがる。ばれた、ばれた」と高笑いしていた。これは詐欺のベテランであったらしい。別の男が私に「どうせ学生さんはすぐ出て行くでしょう。これをある所に届けてくれないか」と手紙のようなものを渡そうとした。届け先は有楽町の何かの店だったと思う。証拠湮滅に関わりがあるのではないかと考え、断った。

 留置場暮らしはすぐに慣れた。評判の悪い食事も、食べようと思えば食べられる。よく味わえば、何でも結構おいしい。弁当のフタのようなもので、お茶ではなく湯を飲むのも、みじめといえばその通りかもしれないが、それだけのことだ。煙草を喫う時間、体操の時間と決められていて、規則正しい生活になる。途中から私一人だけの房に移されたので、本が良く読めた。友人が差入れてくれたグラムシ(イタリア共産党の創設者)の著作を読んだ。

 自由を拘束されていることについて、何故憤らないのだといわれれば返答に困る。腹を立てるべきであろう。しかし耐えられない苦痛はなかった。ただ、地震があったら逃げられるかな、という不安があっただけだ。医者でもいて、人間ドックのような検査でもやってくれれば、申し分ないという感じだ。私はどこでも「住めば都」と思ってすごすのだが、留置場さえも「住めば都」であった。

 弁護士が面会に来て「週刊誌などが大分騒いでいるよ」と教えてくれた。「お父さんが談話を求められてもっとがんばれみたいなことを言って、押し通している」ともいった。釈放されてからも、父は逮捕されたことには何も言わなかった。ただ総裁室乱入という行動は間違いだと父が思っていたことは確かだし、私もそう思う。この行動が一般に与えた印象、その後の運動への影響などを考えれば、まき込まれたではすまされないと思う。そこが結果責任をとる政治の厳しさだろう。

 あんなことをやっても、社会の変革に何の助けにもならない。単なる人さわがせにすぎないものであった。反省しなければならない。もっとも、人さわがせも、一部の人によると、耳目聳動作戦という立派な戦術になるのだが。

 満二十一歳の誕生日は留置場の中で迎えた。翌二十三日午後、処分保留のまま釈放となった。その日は、駒場で代議員大会が開催されていた。警視庁から真っすぐに駆けつけ「留置場にいる間、この代議員大会のことばかり考えていた」と、演説の枕言葉にしたことを覚えている。

 その直後の五月二十五日、池田勇人首相が、人づくり政策と大学管理制度の強化を打ち出した。自民党総裁室に討入りするような学生はけしからん。そういう暴力学生の温床になっている大学の現状は改められなければならない、というわけだ。総裁室乱入は、そういう発言をしやすいチャンスを提供したわけだ。いずれにせよ、それ以後学生運動の目標は「大学管理法反対」に集中することになった。こうして、沈滞した学生運動が、ちょっとした高揚を迎える。

 私にとってはその前に委員長の再選問題がある。私はもともと一期しかやるつもりはなかったし、半年の任期が終わりに近づいて「やれやれ」という気持だった。しかし社青同学生班協議会としては「駒場の委員長のポストは絶対に守らなければならない」という方針で、私に「もう一度やれ」という説得が始まった。

 当時、社青同が学生運動の中でしだいに発言力を増していったのは、駒場の委員長ポストを握っているという事実が大きく作用していた。セクトの力関係からいえば、それを手離せないのは事実だ。しかし他方では社青同学生班協議会の中心になっていたのは、後に社青同解放派に発展していくグループである。そのグループはしだいに独自の暴力革命理論を整備し始め、私たち社青同内で構造改革的な考え方をしているグループとの考え方の差は、しだいに大きくなっていった。私としては学生班協議会の説得を、率直に受け入れる気にもなれなかった。

 最終的に、学生班協議会の幹部と私がこの問題で話し合ったが、最後は、「委員長になっても君の行動には干渉しない。好きなようにやって良いから」といいだすので、私も承諾せざるをえなかった。

 二期目の副委員長候補は別の人に交替した。「人気がある」という学生班協議会の主張が正しかったのか、私は当選したが、副委員長には、決戦投票の後、結局社学同から出ていた中島義雄君(現大蔵省主計局)が当選した。

 二期目の執行部が成立した後は「大学管理法闘争」一色だった。社学同などは最初からストライキ提案をしていた。夏休み直前で、学生の姿も少なくなっていく時期だから、私たちはストは時期尚早と判断、授業放棄で取り組んだ。しかし当時の状況から判断すると、秋には委員長としてストライキ提案をしなければならないということが予想された。「ストになると退学だな」という懸念が頭の隅にこびりつき始めていた。

 夏休みには、それまで事実上成立していた社青同、社学同、構改派の三派連合を組織的に定着させようと、全国的な組織作りの仕事に追われていたような気がする。駒場では仲良くやっているのだが、全国的な段階では各派のエゴがぶつかり合い、駆引きも多い。こういう仕事はあまり好きでなかった。特に私は、他大学の社青同のメンバーよりも、駒場の他セクトのメンバーの方と親しく付き合っており、全国レベルの活動にはまったく不向きだった。

 九月は前期の期末試験である。私は教養学部で必要な単位のうち、理科一科目を残していただけで、それも受験する必要はないから、まったく暇な状態だった。蓼科高原に行き、じっくり読書していた。


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