第三章 学生運動と退学処分 目次前へ次「闘う自治会の再建」

  自治委員長に就任

 私は二年でも自治委員を続けた。この頃はすでに主流派は社学同とマル学同に分かれ、反主流派も構造改革派(構改派)と民青(日本共産党の青年組織)に分かれていった。私は社青同以外の活動家とも付き合うようになっていた。もっともマル学同、民青の活動家は共に自派の理論を絶対に正しいとし、他のセクトについては犯罪者呼ばわりをするという極めて排他的な人ばかりであった。さすがに私も付き合いきれないから、結局、社学同、構改派の諸君と話し合うことが多かった。セクトが違っても仲良くやっていた。現在の内ゲバなど、想像もできない時期だった。

 自治委員をやり、社青同に入っているが、一般学生であるという感じの生活は続き、講義や試験にも適当に付き合って、三十六年の秋には、専攻学部として経済学部を選んだ。文Tからは、原則として法学部か経済学部を選ぶのだが、その頃はマルクス経済学をもう少し突っ込んでやりたいと思っていたからであった。

 十月からは、駒場に残っていながら、経済学部の講義を聴くことになるのだが、その頃から「社青同で自治会委員長候補を立てよう」という話が持ち上ってきた。当時社青同駒場学生班のメンバーは十五人ぐらい。この年の入学者に横路孝弘君(現社会党衆院議員)らもおり、しだいに増強されていた。しかし駒場の自治会活動に携わっていると「公認」されていたのは、先にあげた四派であり、社青同はその四派と肩を並べるまでにはなっていなかった。

 この年の十一月末から十二月初めにかけて行われる正副委員長選挙(全学生の投票による)では、四派がそれぞれ候補を立てて乱立となることは確実だった。社青同が割り込むとすれば絶好のチャンスである。全国各大学の学生班で構成している社青同学生班協議会からも「検討してほしい」との要請があった。駒場学生班でも、積極的な意見が強く、結局、候補者を出すことは決まった。

 問題は候補者である。運動経験のある二年生から選ぶしかなかろうが、そうすると任期は翌年六月初めまでだから、留年しなければならない。だから、浪人した人やそれまでに留年している人は避けようということになった。メンバーの経済的事情もある。生活費をアルバイトで稼ぎながら学生生活を送っている人を、委員長の座に据えることは、残酷である。そういう条件も考慮して、私に白羽の矢が立てられた。私はどうせ当選するはずがないと思っていたし、当選して留年することになっても「ここらで道草を食うのも悪くない」と思っていたから、立候補を了承した。よく父の江田人気を利用して、その長男ということで票を集めようという意思があったのではないかといわれるが、そんな論議はなかった。副委員長候補も同様にして決めた。

 正副委員長候補は、個人名で「政見」を出すことになっていた。西洋紙に細かい字でガリ版印刷をし、合わせて五、六枚を裏表ぎっしり埋めたものも珍しくなかった。その内容は、古典的な共産主義運動の形式を踏んだもので、まず「情勢分析」がある。世界の構造は、帝国主義諸国と社会主義諸国の対立という図式に沿って動いているとか、いやそうではなく、ソ連も社会帝国主義の色彩を強め、各国人民の戦いを抑圧しているとか、また日本帝国主義は米帝国主義から独立し独自の海外進出をねらっているとか、いやそうではなく米帝国主義に従属しているとかいうことを各セクトの理論にもとづいて書く。次いで 「総括」である。安保闘争は勝利か敗北か、その中で全国的な学生運動はどうであったか、駒場の運動はどうだったか、総括する。最後に「運動方針」であり、こういう運動を進めるという方針を書くわけだ。一字一句、真面目に読む人がいるのかどうかさえ疑わしく、選挙ではとても効果がないとみられるこのような文書を、あたかも一つの決められた「様式」であるかのように、各候補者が出していたのだ。

 余談であるが、こんな文書はほとんど一般学生に読まれない。このためサークルなどを含めた人々が連名で出す推薦ビラがあったり、その他様々の文書合戦をやる。中には、わかりやすく書いた「五派対照表」みたいなものもある。「社学同=デモで機動隊に突っ込むことを至上の喜びとする」「マル学同=学習によって戦う主体を鍛えることを目指す。ただし、いつどこで戦うのか、はっきりしない」などと、五派の特徴を一覧表にしている。こういう文書も、セクトの関係者が出す。自分のセクトの悪口も書くのだから愉快だ。

 私たちの「政見」ビラでは、情勢分析、総括、運動方針という書き方をやめた。内容的には、政治運動を重視したものだったと記憶しているが、スタイルだけは、あまりに古典的な書き方をやめ、分かりやすくしたのだ。他の四派にとっては、これは許すことのできない事であったのかもしれない。「右翼」「日和見」などの非難が激しかった。

 選挙期間中、昼は各教室を回って、立候補の弁をぶつ。夜は駒場寮の部屋を回って、投票をお願いする。昼の教室回りはともかく、寮回りは嫌だった。寮は生活の場であり、六人の大部屋とはいっても、寮生個人個人の生活がある。慣習になっているからとがめられないとはいえ、個人の生活を侵害することに、ひどく抵抗を感じていた。

 こんなことをやっているうちに投票、開票となり、私達のコンビが当選してしまった。「これはえらいことになったぞ」と急に不安な気持になった。客観的にみて五つのセクトのうち、最もカの弱いのが社青同である。正副委員長に当選したのはいいが、自治会を正常に運営していけるのかどうか、自信などあろうはずがない。

 しかしこの不安は杞憂だったようだ。社学同、構改派が自治会運営に協力することになったからだ。当時最もセクト的な主張をしていた民青、マル学同に自治会運営をゆだねることは危険だということは、私たち社青同を含めた三派の共通の意思だった。そのため三派による折衝が行われ、連合して駒場自治会の運営に当たることが決まったようだ。私がこのような折衝に当たったわけではないが、誰が考えてもこの三派が結び付くのは自然だっただろう。当選後初の自治委員会で執行部に当たる常任委員二十人を選ぶが、常任委員はこの三派による独占となった。

 委員長に就任したからには、講義に出席することなど、あきらめなければならない。一年留生を覚悟していたから、語学を含め、大学の単位を目指した勉強は一切やめた。結果的にはこの状態が二年間続くことになってしまったのだが……。


第三章 学生運動と退学処分 目次前へ次「闘う自治会の再建」