第二章 遊びと友達と勉強と 目次前へ次「ボランティア活動」

  水泳にのめり込む

 中学入学後、水泳にのめり込んでいくことになる。市内を流れる旭川で、毎年夏、神伝流同志会というグループが水泳教室を開いていた。七月の終わりから、八月にかけての三週間ぐらい、一日二時間程度だった。私は小学校四年の時から習い始めたのだが、年々、熱中の度合いを深めていった。

 神伝流は日本の古式泳法の一派で、戦前は武徳会の傘下にあった。日本泳法はあおり足とカエル足の二つに大別されるが、私たちは、あおり足の方で、横泳ぎ(のし)が基本の型である。真、行、草、二段伸び、三段伸び、双手伸び、たぐり伸び、羽交伸び、片手抜き、双手抜き、手がらみ、足がらみ、手足がらみ、前鴨、後鴨、扇返しなど諸型が昔から伝えられており、まさに「千変万化」である。

 これは、どんな状況でも、水に逆らわずに泳ぐという目的のためだ。急流を下るとき、上るとき、横切るとき、それぞれ型が異なる。両手を縛られても、両足を縛られても、泳げるようにする。飛込みも、城の石垣の上から壕に飛び込むという想定だろう。水が浅いかも知れないから、音を立てずに深く水中に潜らないようにするのが上手なのだ。古来からの「伝書」があり、例会ではそれを読んだが、結局「水の心を心とする」ところに極意があるのだろう。

 中学一年の時まで四年間は、教えられる側で、しだいに水に慣れ、泳ぎが好きになっていった。中学二年になって、一挙に教える側にまわった。「助手」というわけだ。三年で初段、高校一年で二段となり、このころは「助教」となった。高校三年では三段となり「教授」である。今は何もしていないが六段に進んでいる。高校二年の夏からは、事実上同志会のやる水泳講習会の責任者となり、夏の水泳教室の運営一切を切り回した。大学入学後も二年間は、夏休みとなるとすぐに帰郷し、水泳教室の運営に当たった。

 中学一年と二年で教えられる側から教える側へと立場が変わるのは自然なことかもしれない。当時十キロの遠泳をやっており、中一の時から参加した。この時はようやく泳ぎ切ったという感じで、終わるとしばらく立ち上がれないほどへとへとになっていた。しかし中二の時は、十分余力を残して悠々と泳いだ。終わってからの弁当は、自分のを食べた上、疲れ切って食欲もないという参加者のも取り上げて食べたほどだ。この一年間で水泳の技術も体力も、ぐんと伸びたのだろう。

 教える側にまわると遊びどころではない。一学期の期末考査を片手間にやりながら、土のうで護岸したり、イカダを並べたりの準備を始める。教える期間中は朝から準備し、後片付けを終えると陽が落ちている。この間、和船を使うから艪の動かし方、棹の操り方にも円熟した。

 講習会の最後の日は納会だ。昼間は生徒たちを集め、屋形船を借りたりして行事をする。水上での運動会と学芸会だ。そのあと、イカダの解体作業をする。これは実に辛い。六寸(十八センチ)の角材を二十本組んだイカダが八個ある。組立ては大工に依頼していたが、解体は私たちだけでやった。水の中でボルトを抜き、角材は一本ずつ運び上げて、空地で乾かす。喰い込んでくるような重さで、肩がはれ上がり、一週間ほど引かなかった。

高校時代の水泳講習会で イカダの解体を終わると教える側だけのスキヤキパーティーだ。さらに川原のアベックを冷やかしたりして遊び、帰宅するのは真夜中だった。その間、フンドシ一枚で通した。

 生徒の方は約三百人。助手クラスが十人前後、助教以上は七、八人という規模だった。生徒から取るのは維持費程度。教える側には何の報酬もなく、昼食のウドンをタダで食べられる程度だった。そのウドンも自分たちで作る。石でカマドを築く。舟で沖の方に出て、きれいなところを選んで大きな釜に水をくみ、沸騰させる。一方、大きなヤカンでダシをとり、醤油だけで味をつけた汁をつくる。ザルに入れたウドンを湯で温めて、汁をぷっかける。川で体が冷えているから、熱いのがよい。ダシの中にカエルを入れたりする者がいるから困るが、そうすると食べる人口が減るからよい。そこで、時々冗談に「今日のダシはカエルだぞ」などと驚かす。そのうち、女子さえもそんなことにはびっくりしなくなった。皆たくましくなった。時には、近所の非行少年が、ナイフ片手にウドンの恐喝に来ることもある。彼らと渡り合うのも私たちの仕事のうちだ。とにかく、一から十までまったくのボランティア活動である。

 神伝流の教えでは、技術としての泳ぎを習得することも大切だが、普及活動などを通して肉体と精神を鍛えていくことが強調されている。行動的な禅というべき要素が強い。水泳が好きだったこともあるが、一つの道に入って、途中で脱落するのが嫌いな性格が、私をとことんのめり込ませたのだろう。

 高校二年以後、責任者となると、まず教えるメンバーを編成しなければならない。泳法の技術はもとより、一人一人の性格、家庭環境、前年の活動ぶり、シーズンオフに月一回開く例会での発言などを考慮してチーム作りをする。ひと夏のスケジュールを作り、そのメンバーを動かさなければならない。女子については、生理上泳げない期間にまで、一応気を使わなければならない。前に述べた不良グループとの対応という問題もうまくさばかなければならなかった。

 これは、良い意味でも悪い意味でもボスである。平気で喫茶店に出入りしたり、女の子をからかったり、時々は煙草をふかしたりする仲間と、私も良くつきあっていた。

 高校の一年先輩で、将来はリーダーと目されていた人がいた。しかしこの人は高校二、三年の夏は、受験準備のため同志会の活動を中断していた。岡山大医学部入学後復帰し、最年長老だから、リーダーシップを取ろうとする。私は彼の気持ちもよくわかったが、「自分の都合のいい時だけ出て来て、あれこれ命令するとはなんだ」という仲間の反発が強かった。その先輩と私たち以下のメンバーが対立しているような状況となり、先輩は私たちのことを、警察に補導されてしかるべき非行少年グループであるかのように言い出した。それはたしかに正論であったかもしれないが、その段階で彼の指示に従う者はいなくなってしまった。タテマエだけで一つの集団を動かすことはできない。非行少年の方が心がある。


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