民主党 参議院議員 江田五月著 国会議員わかる政治への提言 ホーム目次
第2章 選挙制度を考える

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解散と万歳

 官房長官がうやうやしく黒塗りの盆を捧げ持って衆議院本会議場に入ってくると、議場を埋めた議員たちの目は一斉に、盆の上の一点に集中する。そこには紫のふくさがあり、言うまでもなく解散詔書。

 この一枚の紙によって、数秒後には自分たちの「クビ切り」が宣言されるわけだから、議場は一瞬、水を打ったように静まりかえる。

 官房長官から詔書を受け取り、これを議長が朗読する。これを前回、つまり昭和五十八年十一月二十八日の官報号外、衆議院会議録(衆議院の正式の議事録)で見れば次のとおりだ。

 中曽根内閣不信任決議案(石橋政嗣君外十三名提出)
○議長(福田一君) 中曽根内閣不信任決議案を議題といたします。
○議長(福田一君) ただいま内閣総理大臣から、詔書が発せられた旨伝えられましたから、朗読いたします。

   〔総員起立〕
 日本国憲法第七条により、衆議院を解散する。

   〔万歳、拍手〕
   午後三時三十六分

 この瞬間、代議士は前代議上となり、〔万歳、拍手〕と書いてあるとおり議場は一転、「万歳」「万歳」の声で沸き返る……。

 これが解散の度に見られる風景だが、なぜ毎度「万歳」なのか。

 国会を解散に追い込んだ野党側が「万歳」というならわかるが、追い込まれた与党側の議員までが「万歳」という。「士気を鼓舞するため」だとか「いちばん無難なかけ声だから」とか「ヤケッパチの絶叫」とか、いろいろ言われる。そしてこの瞬間から一ヵ月近くの間、日本に衆議院議員は存在しなくなる。

 前回の解散のことを振り返ってみよう。

 昭和五十八年十月十二日、田中元首相に「懲役四年、追徴金五億円」の有罪判決が下り、国会は中曽根首相のめざした「行革国会」から急転直下「政治倫理国会」になった。

 野党各党は田中元首相に対する議員辞職勧告決議案を本会議に上程しようとし、与党はノラリ、クラリと体をかわし、そのため国会は空転を続けていた。中曽根首相は「行革法案」は通したい、だがそのためには野党の要求をのまねばならない、まさにハムレットの心境であっただろう。もしかするとこの時期、中曽根さんは秘かに「田中さんが辞職してくれますように」と神仏に祈っていたかもしれない。

 しかし元首相は辞めるどころか、「不退転の決意で戦い抜く」と開き直った。こうなっては中曽根首相の選ぶ道は、行革法案等をすべて廃案にするか、強行採決の暴挙に出るか、解散・総選挙で結論を有権者に委ねるか、この三通りしかなかったのである。

 中曽根首相は、野党との話し合いをつけ、行革法案を成立させたうえ、会期末に社会、公明、民社、社民連の四党が共同で「内閣不信任議案」を本会議に上程したのを受けて、衆議院を解散した。だからこの時の解散を「田中判決解散」とか「政治倫理解散」と呼ぶのだが、このネーミングは、自民党議員にとっては何とも困ったものだっただろう。

 それなのに自民党議員まで「万歳」を叫んだ。彼らの姿をテレビで見て、奇妙に思った人も多かっただろう。結果としても自民党は、予想どおり議席を減らしたのだし。

 だが、最近になってふと思う。あの解散がもし二ヶ月早かったら、自民党はもっと減っていただろう。

 中曽根首相は一つだけ、男の意地を通した。田中元首相が要求していた「10・12判決前の解散」だけは断固として拒絶したのだ。もしこの横車を通していたら「ロッキード隠し解散」と呼ばれ、後々まで汚名を残したに違いないし、自民党は大敗しただろう。

 そう思うと、あの時「万歳」を叫んだ国民党議員の中でも中曽根首相に近い人たちは、「親爺、よく踏んばったな」という意味をこめて、本気で「万歳」と叫んでいたのかも知れない。


解散にも二通りあって

 解散権は「首相の伝家の宝刀」といわれるが、時には首相の意志に反して、否応なく解散に追い込まれることがある。

 そのケースを憲法では第六十九条で「内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない」と規定している。

 だから、厳密に区別すれば解散にも二通りあるわけで、首相の意志により伝家の宝刀を抜くのを「七条解散」、首相が衆議院から不信任され、やむを得ず行うのを「六十九条解散」と呼ぶ。

 だが、「六十九条」の例は少ない。現行憲法となって以来十三回あった総選挙のうち、「七条解散」によるもの九回。「六十九条解散」によるもの三回。そしてあとの一回だけが「任期満了」による選挙だ。

 面白いのは、三回しかない「六十九条解散」のうち、同一人物が二回も代議士の首切人となっていることだ。その人物は吉田茂首相で、昭和二十四年の第二次吉田内閣と、昭和二十八年の第四次吉田内閣が不信任されている。

 最後の一回は、まだ読者の記憶にも新しいと思うが、昭和五十五年五月十六日、大平内閣が不信任案を可決された時である。この時の様子を社民連の阿部昭吾代議士(社民連書記長)が自伝『草の根悠久』の中でこう活写している。

 「――前略――そうこうしている間に、安倍晋太郎政調会長が福田派の若手に担ぎ出されるようにして議場を出て行く。そこでまた三十名ぐらいドドドッと議場から出て行って、六十何名分ぐらいの空席。入れかわりに、今まで姿を見せなかった中曽根が入って来た。共産党の演説が終わったら、議長は「これにて討論は終了しました。ただちに採決に入ります」と言って、議場閉鎖。これで勝負がついてしまった。

 私はサッと飛鳥田さんの議席を見たら、不信任案を提案した当の本人が、真っ青になっている。そして、「阿部昭吾君」「田島衛君」と点呼が始まって、堂々巡りで不信任案の採決になったところ、民社党の春日常任顧問が民社党の最前列に出てきて、「どうだ、わしの言った通りだろう。解散だよ、解散。だから不信任案なんてものは、かりそめに扱っちゃならぬのだ」と同党若手に大きな声で言っていた。自民党席は放心状態。といった具合で、とうとう解散になった――」

 この時、飛鳥田社会党委員長をはじめ野党議員のほとんどは、可決を予想していなかった。なにしろ、昭利二十八年三月に第四次吉田内閣が不信任されて以来、内閣不信任案は二十一回も出されながら可決された例がなかったからである。

 ところが「本会議のベルが鳴るまでの造反者」言われていた自民党反主流が、本当に本会議を欠席してしまった。

 結果は、賛成二百四十三票、反対百八十七票という大差。自民党から実に、七十三名の欠席者が出たのであった。

 これには不信任案を出した野党の方がびっくり。「ハプニング解散」の呼び名が付けられたのも、もっともである。


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