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政治資金規正法

 政治資金規正法が成立したのは、昭和二十三年六月のこと。内容は、それまで野放しだった政党その他政治団体に、収支報告を義務付け、寄付の制限を設け、報告書を公開するというものだった。

 折から「昭電疑獄」が摘発されたせいもあって、この法律は国民の期待を集めたのだが、実施されてみるとこれは、抜け道だらけのザル法だった。「保全経済会の献金」や「造船疑獄」等々、政治の腐敗は一向に改まらず、規制強化を求める声は高まる一方であった。

 池田内閣時代に「選挙制度審議会」がつくられ、ここの答申を受けて佐藤内閣時代に、「政治資金規正法」の改正案が国会に提出された。しかし、絶対多数の自民党が、「政治資金規正法と公職選挙法は車の両輪である。一方だけの改正は意味がない」と抵抗し、廃案にしてしまった。

 ところが昭和四十九年に行われた参議院選挙が、時の首相、田中角栄の体質そのままの空前の金権選挙であったから、国民の批判はまたしても沸騰した。なにしろ自民党の全国区候補者を全国の企業グループに一方的に割りふって、企業の選挙競争をさせたりしたのだから。

 だが、この「企業ぐるみ選挙」は、大方の国民の反発を招き、当の企業の社員層にも不評であったから、自民党は議席を減らした。

 しかも皮肉にも、海外旅行に出て選挙運動を一切しなかった青島幸男さんと、菅直人君(現在社民連副書記長、衆議院議員)ら青年とともに全国を辻説法行脚した市川房技さんが、一位と二位で当選した。国民はなかなか味なことをやる。

 これには自民党内からも反省の声が高まって、国中首相が自らの金脈発覚で退陣し、その後首相に就任した三木武夫さんは、かねて主張していた「政治浄化」実現に積極的にのり出した。

 ダーティーなイメージの前任者の後に「クリーン三木」と呼ばれる後継者を持ってくるところに、自民党という政党の幅広さと奥深さを見たような気がして、感心した。しかしこの後が悪い。三木さんが情熱を燃やせば燃やすほど、自民党内の「三木人気」は冷えていった。

 首相就仕早々に打ち出した歯切れのよい「企業献金全廃論」が、日に日に歯切れを悪くしていくさまが、自民党内の三木さんの立場を雄弁に物語っていた。

 それでも、三木さんは土俵際で踏んばり、選挙の公営部分を拡大した「公選法一部改正案」と併せて、「政治資金規制法一部改正案」を国会に提出した。

 「政治資金規正法改止案」は、政治資金の授受について量と質の両方で制限を加えることを内容としたものであった。量的には、個人なら年間2,000万円まで、会社や労働組合ならその規模に応じて、と寄付の金額に制限を設け、質的には、国または地方公共団体から補助金等の給付金を交付されているいわゆる特定会社や赤字会社、外国人や外国法人等からの寄付を禁止することとした。

 一方、政治資金の公開を強化するため、政党及び政治資金団体は年間一万円を超える寄付、その他の政治団体は年間100万円を超える寄付をすべて公開し、個人献金奨励の意味から一定の要件を充たす個人の寄付は、所得控除の対象にすることとした。

 当時、選挙になればビラ合戦で、駅前などでビラが紙ふぶきのように舞っていたのを覚えている人も多いだろう。それは、政党機関紙の特集号の形をとれば候補者を宣伝するビラを無制限に配布できたからだ。そこで、これを規制する代りに、公費による各候補者同規格のビラを同数配布してよいことにしようという内容の公選法改正案が出されたのである。


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