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8月12日、玉龍会展、曽我さん初盆

玉龍会展搬出

いよいよ玉龍会展の最終日で、16時で閉まり1時間で搬出をします。電話連絡などをした後に、15時半前に出て展覧会会場に行くと、既に皆揃っており、時刻通りに搬出作業を始めました。

ちょうど1時間で作業を終わり、若干の打ち合わせの後に何も残っていない会場を後にして、数人で前会長の曽我英丘さんのお宅に初盆のお参りに伺いました。18時前に着き、ご仏前に線香を手向けて手を合わせ、奥さんとご子息にご挨拶をして、15分程度で失礼しました。

曽我前会長初盆

 

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8月11日、玉龍会展、懇親会

玉龍会反省会

昨日の強行軍で草臥れ、今日は夕方までゆっくりしました。15時半に出て16時から1時間、玉龍会展の受付に詰めました。次々と知己が見に来てくれ、有難うございました。

玉龍会受付

17時に閉まり、17時半から3時間、玉龍会会員による反省懇親会に出席しました。上月君の司会で、まず私が会長として冒頭の乾杯の音頭を取り、出席者全員が順番に展覧会や出品作品につき発言しました。さらに来年の50回展の持ち方につき意見交換をし、あっという間に時間が過ぎてしまいました。最後に最年長の大崎さんの締めの言葉でお開きとしました。

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8月10日、仏前参り、両親墓参、安宅君、玉龍会展、采紀さんリサイタル

戸澤采紀さんリサイタルで

両親の墓参に妻とともに出掛ける予定なのに、私がのろのろして、結局家を出たのは11時になってしまいました。建部町福渡の妙福寺境内の墓地なのですが、途中で世話になった親族の仏壇に順次線香を手向けながら行くので、到着は13時になりました。

和田さんの仏壇で
岸本さんの仏壇で
妙福寺の墓地

相変わらずの炎暑の中、周辺の草を取り、墓に水をかけ、線香を手向けて手を合わせました。熱中症寸前かと思うくらい、頭がくらくらしました。14時にやっと、近くのうどん屋の「杉茶屋」で昼食にありつきました。

両親墓参

14時半過ぎに帰路につき、15時半ころ、小学校同級生の安宅敬佑君のお宅に寄りました。一緒に様々な場面を経験してきましたが、特に彼の岡山市長時代は、極めてスリルに富んだ市長選を繰り返し、今も様々な場面を思い出します。ちょっと体調を崩していますが、本来の仕事である地方財政の話になると、元気溌溂と自説が口をついて飛び出してきました。

安宅君

16時過ぎに、話を打ち切ってお別れし、玉龍会展に顔を出しました。会場を閉める直前でしたが、今日は100人を超える人が見に来てくれていました。その後、所用を済ませて帰宅し、ほっと一息ついていると、妻のところに連絡が入り、18時半過ぎに再び二人で出掛けました。

玉龍会展で

19時からの開始に遅れて、戸澤采紀さんのヴァイオリン・リサイタルを鑑賞に行きました。現在は東京芸大音楽学部附属高校3年生ですが、すでに数多くの受賞歴を重ねています。今日は東京芸大器楽科に在学中の丸山晟民さんのピアノ伴奏で、私たちは遅れたために休憩後から聞き、ベートーヴェンのピアノとヴァイオリンのためのソナタ第8番とプーランクのヴァイオリンとピアノのためのソナタの2曲を堪能し、さらにアンコール2曲を楽しみました。卓越した技巧で、これから先が大いに期待できそうです。

リサイタル会場

 

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8月9日、翁長知事、長崎式典、立憲県連常幹、玉龍会展

「命」のポーズ

昨夜、翁長沖縄県知事が逝去されました。60年安保の6・15の後に歌った「同志は斃れぬ」を思い出しました。翌日の全国紙の一面トップに一政治家の死の活字が躍るのは、41年前の江田三郎以来ではないかと思います。私の地元の地方紙でも、一面トップでした。常に国の論理に従わされ、煮え湯を飲まされ続けた沖縄の声を、命を懸けて代弁されました。「対決より解決を」と言われますが、弁証法的に言えば、対決が無ければ解決は生まれません。対決を恐れる政治家はいらない、と翁長さんが言っているように思いながら、朝の紙面を見ました。

翁長知事ご逝去

その後、テレビの高校野球中継を見ていましたが、途切れて長崎平和祈念式典の模様が中継されました。2007年のこの日、私は参議院議長に就任して最初の公務として参列し、献花しました。11時2分に私も黙祷し、田上長崎市長の平和宣言、子どもたちの合唱、グテーレス国連事務総長らの挨拶を聞きました。市長は政府に対し、明確に核兵器禁止条約の批准を求められました。

田上市長の平和宣言
子どもたちの合唱
グテーレス事務総長

12時15分過ぎに出て国道2号線を西に走って倉敷市に入り、13時から2時間弱、鳥井良輔県議事務所で、立憲民主党岡山県連常任幹事会に出席しました。鳥井県議の司会で、まず高井崇志県連代表が挨拶し、災害対策本部の活動状況の報告を受けて意見交換し、県連事務所の設置、県内の支部設置、県連大会の開催、立憲パートナーの拡大、自治体選挙対策本部の立ち上げ、広報体制などにつき協議・決定し、その他についても自由に意見交換しました。終了後、玉龍会の吉田綾舟さんの揮毫による「生命」の前で残ったみんなで命のポーズを取ってみました。

立民党県連常幹
同(カリユシで)

次いで岡山市に戻り、16時半ころに短時間、玉龍会展に顔を出しました。私の高校同期生をはじめ大勢の知己が来てくれましたが、会えずに失礼しました。

玉龍会展

 

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8月8日、玉龍会展当番、事務所、蒼秋展等

高校同期生と

今日の午後は、昨日から始まった玉龍会展で、会長の私が志願して会場係を務めました。12時半に自宅を出て13時前に会場に着くと、既に午前中に私がご案内した何人かが来ておられ、失礼しました。

やがて高校同期生が誘い合わせて来てくれ、生駒、浦野、亀川、児島、斎藤、高野(50音順)の諸君で、賑やかに時間を掛けて鑑賞して、その後は皆さんでお茶をしに出掛けました。本当にありがとうございました。また、森腰君の奥さんと竹内君の奥さんがそれぞれ子ども連れで来てくれ、そこに私の孫のももちゃんと一生君がママと一緒に来て、大勢の子どもたちで未来の希望に溢れた会場となりました。ももちゃんと一生君は、筆で来場者記帳をしました。

私の作品の前で
子ども達も来て

15時半に会場を中座して法律事務所に入り、若干のデスクワークや電話連絡をしました。事務所にいると次々と所用が沸いてくるので、1時間で出て展覧会場に戻り、同時に開催されている夢想庵グループと隣人達による蒼秋展と西日本教育書道展を鑑賞し、それぞれ会場係の皆さんにご挨拶をしました。前者は油彩展で日本海の広い海岸が印象的、後者は生徒たちの書写の発表会で一生懸命の様子が伝わってきました。

デスクワーク
蒼秋展
西日本教育書道展

17時に終了し、自宅にももちゃんを連れ帰って暫時賑やかに過ごしました。

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玉龍会報 第49回玉龍会展に寄せて~出品者コメント~を掲載しました

会長 江田五月

今月6月末で、8年務めた日中関係の公益財団法人の会長任期が終わりになるので、中日友好の
ご案内で、4月の連休に仲間と、上海から雲南省昆明経由で、さらに奥の麗江を訪ねました。唐
の時代から始まった雲南とチベットとの交易の街道、「茶馬古道」の要衝の都市で、少数民族が
集中しトンパ文字がつかわれていたところです。
近くに標高5,596メートルの処女峰を擁する玉龍雪山があり、ロープウェイで4,506メートルの基
地まで登れます。玉龍会と同じ名前でもあり、悪天候を押してロープウェイに乗り込みました。
登り口で携帯用の酸素ボンベを渡され、吹雪の基地に着くと、酸素の薄さを実感しました。とい
うことで、今回の出品作品に「玉龍雪山」を選び、龍泉寺の合宿で悪戦苦闘しながら書きました。

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8月7日、読経、玉龍会展、事務所

玉龍会展初日

台風の影響で、東日本はずいぶん涼しくなったようですが、西日本は相変わらず炎暑です。昼過ぎまで自宅でゆっくり高校野球のテレビ観戦などをしているところに、13時に両親の菩提寺である妙福寺の福島住職が読経に来られ、門前の小僧よろしく私もご一緒にお経を上げさせていただき、暫時ご住職と懇談しました。

読経
ご住職と懇談

14時過ぎに妻とともに出て所用を済ませ、15時ころに今日から始まった玉龍会展の会場に顔を出しました。前会長の曽我英丘さんの後を受けて、私が会長になって初めての展覧会で、今月12日まで天神山文化プラザで開いています。昨日の搬入のお手伝いが出来なかったので心配でしたが、立派に出来ていました。事務局の森腰君、植野さん、吉田さんらがおられ、お客さんの入りも順調のようでした。

16時前に法律事務所に入り、若干のデスクワークと電話連絡をしました。

電話連絡

 

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8月6日、上京、所用、日鳥連挨拶(常陸宮、環境省)、帰岡

常陸宮邸で

広島に原爆が投下されてから73年。世界の人々の間では、国境を越えて核兵器廃絶の声は高まっていますが、国家間では様々な動きが絡み合って、将来展望は見えて来ません。そんな相変わらずの炎暑の中、妻に送って貰って岡山駅に急ぎ、9時前の新幹線で上京しました。

旭川も朝から炎暑

12時過ぎに着いて手際良く所用を済ませ、15時前に日本鳥類保護連盟の名執芳博専務理事らと落ち合い、タクシーを拾って、私の連盟会長就任の挨拶回りに出掛けました。まず最初は、連盟総裁の常陸宮殿下の御用邸で、宮務官に出迎えられて訪問記帳をしました。大木が生い茂ってセミが我が世の春と鳴き声を張り上げ、東京のど真ん中とは思えぬ野趣に溢れたお住まいでした。

名執専務理事らと落ち合い

さらにタクシーで環境省に急ぎ、16時過ぎから10分ほど、自然環境局の正田局長、鳥居官房審議官らに就任の挨拶をして懇談しました。ここは私も、ごく短期間ですが、環境相として馴染みにしていただいたところです。さらに中川大臣のところに名刺をお預けし、伊藤副大臣と渡嘉敷副大臣がどちらも居られて簡単に就任挨拶をし、笹川・武部両大臣政務官のところと森本事務次官のところに名刺をお預けしました。

正田局長、鳥居官房審議官らと
渡嘉敷副大臣と

環境省の建物は地下道で地下鉄に繋がっており、直ぐに東京駅まで急ぎ、17時過ぎの新幹線で帰岡し、20時半前には岡山駅に着きました。

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8月5日、城下公会堂、岡山空襲、40℃、高校野球

「映像で語り継ぐ戦争」

相変わらずの炎暑で、午前中は自宅でゆっくり高校野球のテレビ中継を見たりして過ごしました。

釣り好きの友人が、釣果を携えて来るとのことでしたが、暑さに負けて早々に陸に上がり、釣果無しで来ることになり、12時過ぎに妻も一緒に出て、城下公会堂で昼食を食べました。

城下公会堂で昼食

その後、13時ころから彼のお誘いで、地元のテレビ局RSKの開設する岡山映像ライブラリーセンターの企画展「映像で語り継ぐ戦争」を見に行きました。将校だった彼の父親の軍服写真やサーベルも展示されていました。空襲で完全に焦土と化した岡山市中心部の航空映像もありました。

父親の遺品

自宅に帰る途中、車の中の計器で外気温が40℃と表示され、驚きました。その後、自宅で高校野球のテレビ中継を見ました。長岡花火の縁で中越高校の健闘を期待したのですが、慶応高校にサヨナラ負けしてしまいました。慶應義塾の塾歌を、久しぶりに聞きました。学生時代以来だと思いますが、概ね記憶が蘇って来ました。

外気温40℃
中越高校サヨナラ負け

 

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8月4日、熱暑

世界にも日本にも、気になるニュースが溢れ出て来ました。しかし、熱暑の厳しさに負けて、終日自宅でテレビを見ながら、一時も戸外に出ずにゆっくり過ごしてしまいました。

豪雨災害の現場で復旧に当たっている皆さんのご努力を思うと、じっとしているのが恥ずかしくなるのですが、私などが出ていくと、足手まといになるばかりか、自分自身の健康さえ維持できないのではないかと、自分勝手な理屈で納得しています。