1997/03/25 戻るホーム主張目次/前へ|次へ

香山健一氏を悼む

合理主義者で理論的にも透徹

私が大学に入ったのは六〇年安保の昭和三十五年だったが、そのときの全学連委員長は香山さんの次の唐牛健太郎さんだった。香山さんは学生運動の第一線からは退いた“伝説の人”だった。その意味では接点はないが、後に私が政治家になってから社民連代表時代には、先輩ということで個人的にも政局などについて意見を聞きにいった。

全学連を指揮し、共産党を除名されて共産主義者同盟(ブント)をつくり、後に保守派の論客となった香山さんの経歴を転向と批判する向きも多いが、私は評価する。ブントには、それが正しいかどうかは別として、とにかく自分の頭で考え抜き、さまざまな思想的挑戦を繰り返しながら飛躍し、思想遍歴を重ねるところがあった。共産党への入党も考え悩んだ末だと思う。ブントを結成してからも、心の中の思いを表現できずに脱皮し、最後の立場にたどり着いたのだろう。

結局、香山さんは総じて合理主義者だった。理論的にも透徹し、突き詰めた考えがあった。細川内閣以後について尋ねたときには、政治的システムとしては三極構造がいいと、話していた。日本ではグー、チョキ、パーの三つの軸が勝ったり負けたりがいいと。

中曽根康弘氏のブレーンを務めたのは、学問を生かすのに実践者を選んだということで批判するには当たらない。生涯、同じ立場に操を立てねばならないというわけではない。 (談)