1999/08/06

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参院・国旗及び国歌に関する特別委員会

○江田五月君 今回の日の丸・君が代の議論の発端は、官房長官がたびたびおっしゃるように広島県の世羅高校の校長先生の出来事でした。

 きょうはまた広島原爆記念日で、小渕総理も参列をして午前中式典が行われた。もう一つ、今、重要な日になるであろうと思われている九日、これは長崎の原爆記念日になる。広島のこと、長崎のことは日の丸・君が代と関係があるのかないのか。関係がある、そういう思いを持っている人も大変多いので、何か象徴的な偶然の一致を感ずるわけでございます。

 私の場合でも、例えば私の父は戦前、戦争反対で二年八カ月投獄されました。父の獄舎が多分窓が北向きだったんでしょうか、南の空が見えない。行商で生活を支えて父に差し入れをする母に対して、私の父が、秋のある日でしょう、シリウスはまだ見えないかと。私は自分の主宰するグループをつくったときに、名前をシリウスとつけました。

 私自身はそういう生まれですから、その時代のことはまだ生まれていないですから追体験で知るしかありませんが、原体験を持っている皆さんの強烈な思いというのはまだございます。私は、まあ器用に生きよう、もう国民みんながそう言うならいいじゃないかと思ったりしますが、しかし、いやいや、あの時代の思い出を風化させることはできないとこだわる皆さんの思いというのもやっぱりこれは大切だと思います。

 そういう戦争中の日の丸・君が代が悲しい使われ方をした時代のことを話をすると、どうも何かこの委員会の中にもあるいは世間でも、残念ながらそういうことに対してあざけるといいますか罵倒するといいますか、そういう人々の心の痛みに対して何かとげとげしく反応するような風潮がある。私は、やはりこれはいいことじゃない。何かこういう日の丸・君が代の問題を議論するときにどうも物が非常に言いにくい。何なんだろうか。日の丸・君が代というものが何かしら一つ持っている不可侵性といいますか神格性といいますか、そんなことがこの社会を非常に住みにくくしているということがあるんじゃないかという気がいたします。

 そんなことで、日の丸・君が代を国旗・国歌に法定することに対して抵抗する気持ちを持っている皆さんのそういう思いを、官房長官はどう思われますか。そういう思いはおかしいんだと言うのか、そういう思いは大切なんだと言うのか、そこのところをお答えください。

○国務大臣(野中広務君) きょうは広島に原爆が投下をされた日であります。小渕総理もまた出席をし、多くの犠牲者にその弔意を表し、また再びこの悲劇が起こらないことをお誓いした次第であります。私どもも改めてあの広島と長崎の惨禍を思い、世界で核が存在しないための一層の努力をし、かつ決意を新たにしていかなくてはならないと思うわけでございます。

 今、委員から、日の丸・君が代が過去の一時期、あの戦争の激しかった時期の歴史が多くの方々に今なお重く心の上に残って心の痛みとなっておるというお話がございました。私はそういう痛みが残っておる方々が存在することは事実であろうと思っております。

 けれども、先ほど本岡委員にもお答えいたしましたように、日の丸・君が代が生まれ出てきたそういう我が国の長い千年を超える歴史を十分踏まえながら、これを国民によく理解をしていただき、そして戦争中のあの一時期、誤った戦争への手段の一つに使われた反省もまた十分事実としてこれを記録し、教育し、理解させられ、そういう中から、またあの大きな犠牲の中から、戦後の五十四年の平和をこの大きな犠牲の中から築き上げたことを、さらには平和憲法のもとにきょう五十四年の平和が築かれてあることに思いをいたし、そしてそういう中におきましても、なお残念ながらこの国旗・国歌の問題が教育現場において混乱が続いておる事実を思ってみたり、あるいは二十世紀を締めくくるに当たり、新しい世紀へ、慣習法として定着をしたとはいえ成文化することによって明確にしておかなければならないと考え、その端緒として広島県におきます世羅高校の石川校長のとうとい犠牲もあったりいたしましたり、また春には日本共産党が「論座」やあるいは「前衛」の中でそれぞれ、自民党が正面から議論することを避けて、そして定着しておるからということで法制化から避けてきたという指摘をなさいましたことも一つの契機でありました。

 いろんな契機を合わせながら、こういうものをこの時代で法文化することによって、次の時代へ新しく我が国が国際社会に通じる国としてやっていくために、教育の中で生かし、そして日の丸・君が代が法文化されてきちっと整理され、また、他国の国旗・国歌に対しても深い敬意を表する国際国民として我が国が雄飛できるように願ってこの法案をお願いした次第であります。

○江田五月君 官房長官、まことに申しわけないんですが、私が許されている時間は非常に限られておりまして、いろいろお話しいただくことは大変大切だと思いますが、ひとつ簡潔にお願いをしたいと思います。

 私が聞いておりますのは、日の丸・君が代が持っている過去の歴史に心を痛め、そのことをずっと忘れることはできないとこだわる皆さん方の思いというのは大切なんじゃないですかということなんです。

 二十世紀のことは二十世紀のうちにというふうにおっしゃいますけれども、法定すること、法制化することによって、そういう皆さんが今なお心を痛めておられる過去の出来事はどうなるんですか。これは断ち切られるんですか。そういうものはもう歴史のかなたに葬り去ってしまうんですか。それとも、法制化するということも含めて、いろんな過去の事実がずっと積み重なって日の丸・君が代の現在があるという、そのことは私は法制化によって否定することはできないんだと思いますが、いかがですか。

○国務大臣(野中広務君) おっしゃるように、否定することはできないと思います。
 ただ、それだけに、過去の一時期において多くの国々や、とりわけアジアの諸国の人々に対して多大な損害と苦痛を与えた事実をさらに謙虚に受けとめ、また、現在の我が国の平和と繁栄が先人たちの方々のとうとい犠牲の上に築かれたということを特に忘れることなく、今後とも、我が国はもとより、世界の平和と繁栄のために一層努力しなければならないと考える次第であります。

○江田五月君 アジアの人々に多大な苦痛を与えたと、そちらをそのままにしながら法制化の方だけやる、これはやはりバランスがとれていないんじゃないか。ここで官房長官、アジアの人々に対し具体的にどうというのは今すぐにまだ出てこないと思いますが、言葉だけではなくて、ちゃんと過去の傷をいやす手段をとる、その決意をお聞かせください。

○国務大臣(野中広務君) 過去の大戦におきますそれぞれいろんな傷跡につきましては、サンフランシスコ平和条約やそれぞれ二国間の平和条約その他の関連条約等におきまして一応の決着を見、それぞれ法的にも解決済みだと申しますものの、なおアジアの国々の方の中にはそれぞれ今なお戦後処理として残った問題があるわけでございます。

 こういう問題について、どのようにして傷を埋めていくか、これは今また二十世紀末における私どもの重要な任務であろうと考えて、それぞれ今関係当局にその具体的なありようについて検討をさせておるところでございます。

○江田五月君 過去の思い入れというのにもっともっとこだわりたいところですが、時間がありません。

 過去の日の丸・君が代に対してつらい思いを持っている皆さんの立場、日の丸・君が代を否定したいと思う皆さんの気持ち、そのこともこの法制化によって否定し去るものじゃないんだ、皆さんのそういう気持ちは大切にして未来に生かしていくんだと。そのことを確認しておきたいと思います。

 ところで、今、官房長官は、日の丸・君が代、これはセットで慣習法になっている、それを成文法にするんだと、そういうことを言われました。
 私も、日の丸については、確かにこれまでのお話にございます、例えば自衛隊法、自衛艦には国旗を掲げるとか、あるいは商標法、国旗には商標は成立しないとか、国旗というときに、さて、国旗は何だろうなと、それはだれも思わない。それは日の丸であって、これには商標というもの、商標権は成立をしないんだとか、こうした国旗イコール日の丸ということについての一定の法的確信が存在をしている、法的確信によって支えられた規範となっている。これはそうだと認めていいと思うんですが、君が代の方は、これは法制局長官、いつ慣習法になったんですか。

○政府委員(大森政輔君) 慣習法の性質上、いつ慣習法になったかという問題についてはなかなか答弁が難しい事柄であるということは従前も申し上げているわけでございますが、御承知のとおり、この法的確信を伴うというのは、個々の国民の主観的な意識を問うものではございません。それは客観的、制度的な評価の問題として考えるべきであろうと思っているわけでございますが、国歌君が代につきましては、確かに現行法令上国歌について定めた規定はないということは言えようかと思いますが、長年の慣行により君が代が国歌とされるという認識が確立し、広く国民の間に定着しており、我が国の国歌といえば君が代を意味するということは従前そのように取り扱われてきたわけでございます。

 学習指導要領、これは学校教育法に根拠を持ち、そして最高裁判所も法規としての性格を有するということを認めているわけでございますが、この学習指導要領におきましても国歌という言葉が使われております。これは、君が代が我が国の国歌とされるということが既に確立していることを当然の前提としているというふうに解されるわけでございまして、このような状況から、国民の間に君が代が我が国の国歌であるという法的確信が存在しているというふうに判断しているわけでございます。

 なお、ちなみに、この学習指導要領、これは記載が若干の変遷をたどっていることは委員御承知のとおりでございますが、昭和三十三年、四十三年当時は、歌については君が代を斉唱するという記載がなされておりました。それが、五十二年に至りまして国歌を斉唱させるとなり、平成元年以降は国歌君が代という記載になっております。このようなことからも推測いたしまして、学習指導要領は法的確信を伴う慣習法を前提としているというふうに判断しているところでございます。

○江田五月君 これまで答弁されていることは私も一応踏まえて聞いていますので、質問の方も同じ質問を繰り返さないようにしますが、答弁の方も同じ答弁を繰り返さないようにしていただきたいんです。

 国旗の方は、国会が例えば自衛隊法を制定する、商標法を制定するときに国旗という言葉を使って法律をつくっているわけです。その国旗は何であるかということに国会が何も関心を持たずに法律をつくったわけじゃないんです。国旗イコール日の丸ということが一定の頭の中にあって、そしてそういう法律をつくっておるわけで、国権の最高機関、唯一の立法機関である国会も、国旗という言葉を使うときに、それに何らかの規範性、何らかの命題がちゃんとあるということを前提にしてつくっているわけですから、これが法的確信に支えられている慣習法だということは私は認める。

 しかし、国歌の方はそういうものはないんです。いろいろおっしゃる、文部省の文部大臣告示で決まるとかそんなものじゃない。私はこれは馳委員の質問の中で出てきますから細かく言いませんが、例えば昭和五十四年の真田法制局長官、あるいは六十三年の味村法制局長官、やっぱりそこは違う答弁になっているんじゃないですか。何か突然あなたの代になって国歌の方も君が代であるということが慣習法になったと。おかしいんじゃありませんか。

○政府委員(大森政輔君) 先ほど学習指導要領は法律じゃないという御指摘があったわけでございますが、それは確かにそのとおりでございますが、最高裁判所においても指摘しておりますように、学校教育法及び規則の委任を受けた文部大臣告示でございまして、法律と同様の法的性格を有するということは明らかであるわけでございます。
 そして、法制局の従前の答弁を引用されましたけれども、真田元長官は「国民的習律」という言葉を使っております。また、味村長官は国歌については「事実たる慣習」という言葉を確かに使っているわけでございますが、国民的確信があるという言葉をも同時に述べておりまして、必ずしも規範的性格を有しないと規範的性格を否定したものではないというふうに理解しているわけでございます。

○江田五月君 味村長官の説明は、片方は、日の丸は慣習法だと、もう一つ、君が代は事実たる慣習だと。この二つは違うんですね。

 慣習法というのは法例の二条にちゃんとある。事実たる慣習は、民法の九十二条でしたか、別のものなんです。我が国の国歌は君が代だという一つの命題が国民の中で認識が確立していて、それが定着をしていると。

 仮にそうだとしても、そのことに法規範性があるかどうかというのは、私は大森長官に法律の講義をするほど法律が達者じゃありませんからそれ以上申し上げませんが、やっぱりおかしい。私は、やはりここは、国歌を君が代とするという新たな法規範を立法でつくろうとしている、慣習法を単に条文にするだけではないということを言っておかなきゃならぬと思います。

 ところで、君が代について政府がいろいろと解釈をしておられます。政府解釈、政府の見解、あるいは内閣総理大臣の解釈、これは何か法律的な意味があるんですか、官房長官。

○国務大臣(野中広務君) 政府といたしまして、さきに石垣一夫衆議院議員から君が代の「君」の解釈及び君が代の歌詞の解釈を含む国旗・国歌に関する質問主意書が提出をされましたことから、これに対する答弁書の中で御指摘の件について答弁をしたものでございます。

 また、政府といたしましては、今回この国旗・国歌に関する法律案を国会に提出するに当たりましては、君が代の歌詞などについて政府の見解を示すことが必要があると考えまして、これまで衆議院及び参議院において、審議におきまして政府の見解をお答えしてきたものでございます。

 これらの政府の見解は政府自身の見解でございまして、国民お一人お一人が君が代の歌詞の意味などについてどのようにお受けとめになるかにつきましては、最終的には個々人の内心にかかわる事柄であると考えております。

○江田五月君 君が代が古今和歌集あるいは和漢朗詠集の時代からあった、そして長く続いてきたから国歌としてふさわしいという、そういうお話ですが、古今和歌集や和漢朗詠集の時代からずっと続いてきている歌はほかにもいっぱいあるので、それらが全部国歌にふさわしいなどということはないと思います。また、古今和歌集の時代に君が代というのが、今のこの日本国憲法の云々というそんな解釈が成立するなんということは到底あるはずもない。そして、君が代が古今和歌集の中で登場したときにその歌の意味というのは決まるので、時代が変遷して解釈が変遷するというのもどうも何か、憲法についてはそういうことがあるにしても、和歌についてそういうことがあるというのはすとんと胸に落ちないことでございます。

 今の官房長官のお話、とにかくそのときそのときの政府やあるいは内閣総理大臣が、自分はこう、あるいは私たちはこう解釈をしているということを言っているだけのことであって、最終的にはそれぞれの国民の解釈だと。

 さて、文部大臣、最終的に国民の解釈、そして学校現場ではということになるんですが、学校現場の校長と教師とか、あるいは教師と子供とか児童生徒とか、この関係について、よくこれは特別権力関係なのだからというような説明がなされることがある。文部省はそういう説明をしたことはないというふうにも聞くんですが、特別権力関係、これはおとりになるのかとられないのか、端的に答えてください。

○国務大臣(有馬朗人君) 文部省といたしましては、公立学校の校長と教員、あるいは教員と生徒の関係を特別権力関係とはとらえておりません。

○江田五月君 さて、そこで文部大臣に、もう時間がありませんので、一つ。

 子供たちの中に、どうしても自分はこの君が代は歌いたくないと。それはいろんな理由があるでしょう。例えば自分の両親が戦争中にキリスト教の関係でいろんな苦しいこともあった、そのことを思い出して歌いたくないと。そういう子がいるときに、この子に歌わせることを強制はできない、学校現場で。

 さて、内心の自由ということを教えるチャンスですね、こういうことがあったときには。その子供がどういうことで歌いたくないのか。歌いたくないその子をほかの友達の非難や興味の眼にさらすのではなくて、なぜ歌いたくないのか、なるほどそうなのか、そういうことはみんなが大切にしなきゃいけないことだ、決してその子をいじめその他で扱うようなことがないようにと、そういう教育をなさいますか。

○政府委員(御手洗康君) 基本的には小学校六年生の憲法学習の中で基本的人権についてしっかりと教えるように学習指導要領で決めているところでございますし、実際にも教科書等におきましては基本的人権に関する記載がございますので、各学校において適切な指導が行われているものと考えているところでございます。

○江田五月君 文部大臣に一言ぜひ答えてください。

○国務大臣(有馬朗人君) これはたびたび同じことを御答弁申し上げておりますので、ごく手短にお答え申し上げます。

 入学式や卒業式における国旗・国歌の指導は、国旗・国歌の指導を行うのに最もふさわしい入学式や卒業式の意義を踏まえまして国旗を掲揚し、国歌を斉唱するものとしているもので、このことは児童生徒の内心にまで立ち入って強制するということではございません。

○江田五月君 私が聞いたのは、さらに進んで、その子のなぜ歌いたくないのかという理由、これが内心の自由にかかわるようなときにはいい教材なんですから、この子が歌いたくないのはこういう理由だ、それはみんなが大切にしなきゃいけないことだと、そういう教え方というのを学校現場で認めますかということを聞いているわけです、文部大臣。

○政府委員(御手洗康君) 学校教育における基本的な考え方は先ほど申し上げたとおりでございますけれども、委員御指摘の点は具体的な指導の場面にかかわってまいりますので、一人一人の子供の具体的な行為をとらえてどういう指導をされるかということは、その子供とクラスの子供の関係、あるいは親御さんとの関係、そういったものを踏まえて各現場で、くれぐれも児童生徒がそのことによって傷つくことのないよう、適切な教育的な配慮のもとに行われるべきものと考えますので、文部省として、一律にそういった場面を設定して、やるとかやらないとかということについてはお答えいたしかねる次第でございます。

○江田五月君 というような次第で、私はやはり日の丸と君が代に大きな違いがあると。私ども民主党は、法制化をするなら、国旗イコール日の丸、これに限るべきだと、そういう修正案を提出したいと思います。

 終わります。


1999/08/06

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