2002/04/10

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154 参院・憲法調査会 「国民主権と国の機構」について

12時30分から2時間20分、憲法調査会で「国民主権と国の機構」につき自由討議をし、委員17人が発言しました。私も、民主党のトップで10分間発言し、私見ですが、衆・参統合による一院制と国民投票の組み合わせという思い切った提案をしました。


平成十四年四月十日(水曜日)

○会長(上杉光弘君) ただいまから憲法調査会を開会いたします。
 日本国憲法に関する調査を議題といたします。
 本調査会は、平成十三年度当初より、「国民主権と国の機構」をテーマに取り上げ、調査を進めてまいりました。
 これまで、学識経験者を中心に十三名の参考人から意見を聴取したのを始め、内閣法制局及び最高裁判所当局から説明を聴取し、委員との意見交換を行うなど、広範な調査を重ねてまいりました。
 また、去る二月二十日には、「国会の在り方と二院制」及び「地方自治と地方分権の在り方」をテーマに公聴会を開会し、七名の公述人から意見を聴取し、委員との意見交換を行っております。

 本日は、これまでの調査を踏まえ、「国民主権と国の機構」について自由討議を行います。
 御意見のある方は順次御発言願います。
 なお、御発言は着席のままで結構でございます。
 舛添要一君。

○舛添要一君 自由民主党の舛添要一です。

 まず、最初に申し上げておきたいことは、この憲法問題というのは極めて今日的な課題であるということであります。

 例えば、国民と国家の関係について申し上げますと、首相公選制、住民投票というような形で直接民主主義的な要素が国民により求められていると思いますので、この点もまず申し上げておきたいと思います。

 それから、今、自民党の中におきまして、与党審査をどうするかというような政と官の関係についての議論がありますけれども、これも、実は憲法の第六十五条「行政権は、内閣に属する。」という規定の絡みにおいて内閣の権限をどうするのかと、これとも非常にかかわっております。

 さらに、今、介護保険が実施されております。介護保険というのは実を言うと地方自治の実験の場であると思っていますし、さらに市町村合併が平成十七年までの特例によって政府によって推進されようとしておりますけれども、これは第八章「地方自治」に大きくかかわっている問題でありますが、この点についても詳細に述べたいと思います。

 それから第四番目に、今通常国会において有事法制の議論がございますけれども、これも我が憲法に緊急事態の規定がないということとの関連で問題になると思います。

 そこで、順不同になりますが、まず緊急法制の問題について一言申し上げます。

 私は、ドイツの憲法のように、ドイツの基本法のように、この憲法に緊急事態を明言すべきであるというふうに思います。基本的人権を定めた立派な憲法でありますから、その基本的人権の制限ということが加わる事態についての想定があれば、これは当然、緊急事態についての条項が憲法にあるべきだと、そういうふうに考えております。もしそれが欠落しているならば、プログラム法として有事を想定する法律があるべきであるというふうに思っています。

 これは、もう憲法議論として申し上げていますので、政治の議論とは一線を画しまして申し上げますが、憲法に明記するかプログラム法にするかは別として、例えば緊急事態というのはどうであるかと。武力攻撃もそうでありますし、大規模テロもそうでありますし、震災のような大災害でもそうであります。さらに第四番目に、その他内閣総理大臣が認める事態ということであっていいと思いますから、そういうことを明記しないで、ただ武力攻撃だけにアドホックに対応するような継ぎはぎ的な法律の整備でよろしいのかと。私は、日本国憲法体制、法体制の整備という観点から見て問題があろうというふうに考えております。

 それから二番目に、直接民主制について若干議論いたしたいと思います。

 三月二十三、二十四の両日に全国の有権者三千人を対象にしまして読売新聞が世論調査をしました。これは四月五日付けの朝刊にその詳細が出ておりますけれども、それによりますると、首相公選制に、望ましいという人が六三%、望ましくないが一四%。望ましいの内訳を見ますと、二十から四十歳代で六七%、民主支持層で六七%、自民支持層で五八%、無党派層で六六%ということになっております。ということは、今の世論のムードというのは首相公選制に極めて積極的に賛成したいということだと思いますけれども、私自身は首相公選制には基本的には反対です。

 それは、常にポピュリズムの危険が伴いますし、例えば不信任決議、解散、こういうことを考えても、国会との関係などで、本調査会でもいろいろ議論がありましたように、余りにも問題が多過ぎると思います。したがいまして、首相公選制の、もちろんプラスの側面もありますけれども、マイナスについて、もう少し国民に対して十分に説明をする責任が我々にもメディアにもあるのではなかろうかというふうに思います。

 特に、議院内閣制とやはり首相公選制というのは整合的ではありません。やっているのもイスラエル、しかしこれもうまくいかなかった。ただ、国民の直接民主制への要望が強いということは議院内閣制に対する非常に幻滅があるわけですから、国会議員として我々はそこは反省しないといけないと思います。

 ただ、憲法改正という観点から見ますと、極論を申せば、大統領制というのも当然あり得ていいというふうに思いますし、フランスのように大統領と首相が併存するシステムも考えられないわけではない。しかし、これは象徴天皇制との絡み合いもあると思います。

 問題は、議院内閣制の下においても、大統領制の下における大統領と同等ないしそれ以上のリーダーシップを行使する内閣総理大臣は十分に作り得るということでありますので、具体的に言うと、イギリスのブレア首相を見れば分かりますけれども、これは他国の大統領と全く遜色ないだけのリーダーシップを発揮しているというふうに思います。正にこれが政と官の関係でありますけれども、この点で憲法六十六条第一項は、「内閣は、法律の定めるところにより、その首長たる内閣総理大臣及びその他の国務大臣でこれを組織する。」。その首長、ヘッドである内閣総理大臣とあるにもかかわらず、更にもっと申し上げますと、あるにもかかわらず、六十五条では「行政権は、内閣に属する。」と。

 私は、やっぱり内閣総理大臣を主体にした形での規定に変える。つまり、内閣総理大臣が国務大臣を任命して内閣を組織するのであって、内閣総理大臣に最終的な責任があると。それをもっと明記する形でなければ首相のリーダーシップが十分に担保できないし、内閣主導でなくて総理大臣主導にしなければ官僚のばっこということになるというふうに思います。そういう意味で、首相のリーダーシップを担保するための制度が不可欠だというふうに思います。

 私はフランスで長いこと勉強していましたけれども、例えばフランス憲法の二十一条、これは、大統領がいるにもかかわらず、ル・プルミエル・ミニストル・ディリージュ・ラクション・デュ・グーベルヌマント、首相は政府の行動をディリージュ、主導すると、主語はプルミエル・ミニストルになっているわけであります。

 問題は、内閣法第三条、これは行政事務の分担管理原則を定めたものでありまして、「各大臣は、別に法律の定めるところにより、主任の大臣として、行政事務を分担管理する。」というようにありますけれども、これがある意味で首相の権限を弱体化することにつながっていると思いますので、私は内閣法の三条の改正ということは必要だというふうに思います。この観点から、与党の事前審査の問題も再検討すべきであると思いますし、政府・与党の一体化、一元化を更に図るための施策を講じるべきだというふうに考えます。

 後ほど同僚の議員から議論があると思いますけれども、この文脈でも参議院の在り方ということが問われていると思います。非常に極端に衆議院の優越ということを打ち出せば、首相は国会議員じゃなくて衆議院議員から選ぶ、参議院は政権の存否にかかわるべきでない、問責決議案はなくてよろしい、参議院選挙の結果が政権の行方に影響することがあっちゃならない。例えば、五十九条の二項の、参議院否決法案に対する衆議院の再議決要件を三分の二としていますけれども、これを五分の三とか二分の一に改めるということも考えていいと思いますので、私はやっぱり、今一つの極端を申し上げた。逆に、人事案件や何かについて参議院の優越ということもあっていいと思いますので、参議院の在り方というのを考えることはこの首相のリーダーシップの問題にもかかわってくると思います。さらには、私は行政権の一部である内閣法制局が憲法解釈を独占するということがあってはならないと思いますから、憲法院なり憲法裁判所なりを作るような形で、司法ができる限りで違憲立法審査をやる機関を作るべきだというふうに考えています。

 早口になりますけれども、最後に地方分権の話を一言申し上げたいと思います。

 私は、地方組織を再編すべきであって、平成の廃藩置県、具体的に言うと、正確に言うと平成の廃県置州、道州制ないし連邦制への方向を目指すべきでありまして、三千二百以上も市町村があるというのは多過ぎますから、八百ぐらいにできればやりたい。これをなくして、それは外国のまねじゃなくて、江戸時代そうだったわけですから、こういう地方組織の再編がなくて行政改革や政治改革は完成しないというふうに思っています。もちろん財源の地方移譲もそれに伴って必要です。

 一言、最後に住民投票について申し上げておきますが、これの憲法上の正しい位置付けがないから非常に混乱をしているわけであります。

 住民投票条例につきましては、日本国憲法は「地方公共団体は、その財産を管理し、事務を処理し、及び行政を執行する権能を有し、法律の範囲内で条例を制定することができる。」と第九十四条で定めてあります。これを受けまして地方自治法が定められておりまして、首長や議員の提案に加えて有権者の五十分の一以上の署名で住民が直接条例制定を請求することができます。ただし、条例は法律の範囲内で国の法令に反しない限りにおいて、これは地方自治法十四条一項で認められているのでありまして、その効力については法律は言わずもがな、政令省令などの国の命令よりも劣ります。つまり、投票結果についての法的拘束力はありません。しかし、形式的には首長や議会は住民投票の結果に左右されないとしても、これはあくまで形式論で、政治的には非常な拘束力を持ちます。

 したがって、住民投票をどう憲法上位置付けるか、九十五条の特別法の住民投票以外にこれは明確な規定を設けるべきだというふうに申し上げておきます。
 これで私の意見は終わります。

○会長(上杉光弘君) ありがとうございました。
 江田五月君。

○江田五月君 私は、民主党憲法調査会の事務局長として、国民主権と国の機構について現段階での民主党の考え方を御説明します。そして、その後で首相公選制と二院制の在り方について私見を述べます。

 昨年十二月十八日、民主党憲法調査会は中間報告を発表しました。その第二作業部会の「首相主導の議院内閣制度の確立に向けて」が本日のテーマに関するものであり、民主党は基本的に内閣総理大臣主導の政府運営の実現を目指します。

 明治維新から現代に至る日本の統治機構の最大の特徴は中央集権官僚制でした。明治維新以後、天皇主権の国家体制の下で官僚制度による中央集権システムが構築され、同時に内閣総理大臣の権限を強く制約する内閣制度が確立され、それが慣行化されました。帝国憲法の下では主権は天皇に存したので、行政権は主権者である天皇から直接に統治の正統性を与えられていたのです。しかし、現憲法では行政権はそのような統治の正統性を有しません。逆に、公務員は国民の公僕なのです。行政権の正統性は、主権者である国民から直接に権限を与えられる国会により選ばれる内閣総理大臣が国務大臣を任命し、行政各部を統括するからにほかならないのです。それなのに、この内閣総理大臣の権限を強く制約する内閣制度は、国民主権の民主主義に基づく新憲法が成立しても基本的に維持されました。

 現在の統治の仕組みは、三権は同格だとして、内閣総理大臣の権限行使は閣議によるとしています。さらに、閣議は現実には、前日の事務次官会議によって議が調ったことだけをなぞっています。憲法六十九条、六十六条一項、三項、七十四条などがこの運用の憲法的根拠とされており、内閣法もこの考え方に貫かれています。これは、明治憲法下で行われていた憲法解釈や行政権の運用方法を惰性でそのまま踏襲したにすぎません。憲法秩序は革命的変化を経たのに、行政実態は旧態依然であります。これが日本の中央集権の官僚優位国家の法的根拠となっており、ここに国民主権が形式だけで実質を伴わない根拠があるのです。

 同じことは司法権についても言えますが、今日は触れません。

 しかし、憲法が国民主権を最重要原則としていることは言うまでもありません。したがって、憲法の諸規定も、この大原則の実現に資するように解釈する必要があり、下位の法律や慣行でこの大原則の障害となるものは改めなければなりません。事務次官会議及び与党の事前審査制の廃止などによる閣議の実質化と責任の明確化を実現することなどを民主党は強く求めています。

 第二作業部会の報告には、もう一つ「違憲立法審査制の確立」という項目があります。憲法第八十一条に規定された違憲立法審査権は、司法の場では具体的な事件について憲法適合性を判断するので、憲法適合性についての抽象的審査権が最高裁判所ではなく事実上内閣法制局の判断にゆだねられているのが日本の実情です。本来は政府の一機関にすぎない内閣法制局が、事実上憲法解釈の権威となってしまっている姿は異常としか言いようがありません。

 司法権以外の権限を裁判所にゆだねることは、さて、憲法上できないことでしょうか。

 私は、個人的には、内閣法制局が事実上行使している憲法適合性についての抽象的審査権を、司法権とは別の国家機能として最高裁判所に移すことも憲法上できないことではないと思います。憲法改正が現実の課題になれば、この点は当然検討の対象とすべきであり、民主党としては、「ヨーロッパや韓国などが採り入れている憲法裁判所もしくは憲法院など、違憲立法審査のできる司法機関を新たに整備することを検討すべきである。」と提言しております。

 次に、首相公選制と二院制について私見を述べます。民主党憲法調査会の中間報告では、首相公選制や国民投票制、さらには二院制の在り方について検討すべきであるとしていますが、それ以上のことは書いてありませんので、あくまで私個人の意見です。

 首相公選制については、国民の皆さんの中に、首相が自分たちとはるか離れたところで政党内の派閥の権力争いで決定されることを嫌悪し、自分たちに決めさせろと国民投票制を、首相公選制を求める声が強い、これは十分理解ができることです。

 しかし、政党が与党も野党も現在のように国民の期待にこたえ切れていない状況で首相公選を導入すると、政党による首相候補選定機能、又はスクリーニングが十分果たされないまま不適切な選任が行われてしまうおそれが強いと思います。現実に首相が選ばれる過程に対する国民の不満は、議院内閣制と政党の機能不全についての不満です。まず実現しなければならないことは、政党政治による議院内閣制の成熟です。そのことが困難だからといって、これを放棄して首相公選制に頼ると、結果は悲惨なことになりかねません。

 さらに、現在の二院制とともに新たに首相公選制を導入することには問題があると私は思います。

 それは、首相公選で示された民意と、衆議院選挙で示された民意と、三年ごとに参議院選挙で示された二つの民意、合計四つの民意が存在することになり、それらがばらばらの民意であった場合にはどれか一つの民意が事実上の拒否権を持つことになって、国政の運営がなかなか前へ進まないことになるのではないかと危惧するからです。

 二院制も一つの意味ある制度ですが、日本の二院制は、周到に設計された制度とは言い難いところがあります。衆参の権限が重複し過ぎており、結局同じことを二度行っていることが多いというのが実態です。もっとめり張りのある権限の分配をすべきです。

 もっと大胆に考えれば、権限の分配の実現は衆参の統合によって端的に実現することができます。例えば、衆議院は三百の小選挙区のみとする、参議院は百のブロック比例と、同じく百の全国比例とします。衆議院に予算と条約の審議、首相選出などの権限を与え、参議院に決算の審議、人事案件などの権限を与えます。法律は両者で審議することとします。その上でこの両者を統合し、国民議会、仮称ですが、とすれば一院制となります。これに政党党首の公選制、これを組み合わせることで、実質首相公選による議院内閣制を実現することを提案したいと思います。

 この場合は、四年あるいは五年に一度、解散があれば更に短期の国民議会選挙の民意だけで政権が決まり、政権交代が起こりやすくなると思います。その際、問題となるのは、次の総選挙までの数年間、多数派の政権党が少数意見を無視して独裁的な政権運営を行う危険性です。

 この点については、私は国民投票制度を導入することが必要ではないかと思います。すなわち、国民議会で審議される法律案などについて、例えば三分の一以上の議員の要求によってその賛否を国民投票で決めることができるようにすれば、多数派の独裁は十分チェックできると思います。その上に地方分権を強力に進めて、生活にかかわる大部分の決定を地方自治体で行い、そこでの、そこに住民投票制度を実現すれば、より直接的に民意を反映した政治になると思います。ちなみに、国民投票制度は現憲法でも許容をされていると思います。

 以上の提案は、国民の皆さんの大多数が現憲法を改正して新しい憲法を制定することを選択する場合の提案で、私はいわゆる憲法改正論者ではありません。私は、むしろ、現憲法の下で安全保障基本法あるいは人権基本法などの幾つかの基本法を準憲法法規、規範として制定して、現憲法を豊富化を行うべきではないかと考えています。そして、その作業が二十一世紀のこの国の形を明らかにするところまで進んだところで、それらの基本法を憲法典の中に取り込む、この作業を行えば、二十一世紀の新しい日本国憲法を作り上げることができると思っております。

 最後にもう一つ、憲法改正には政権担当能力のある二つ以上の政党の合意が不可欠だと思います。政権交代のたびに、憲法秩序が不安定になってはいけません。政権を争う有力政党の合意による憲法典であれば、その憲法典の下でいつでも政権交代を円滑に行うことができます。間違っても、多数派が強引に勢力を拡大して憲法改正を強行することがあってはならないということを強く申し上げておきます。
 以上です。
 ありがとうございました。

○会長(上杉光弘君) 魚住裕一郎君。

○魚住裕一郎君 公明党の魚住裕一郎でございます。
 テーマでございます「国民主権と国の機構」について若干申し述べさせていただきます。

 私は、民衆が主役となる政治というものを掲げてやってまいりました。国民主権の概念をめぐる議論の中で、江橋参考人は、市民が主人公になる政治、あるいは長谷川参考人は、国民のための政治というふうに述べられましたけれども、意を強くするものであります。

 さて、国民主権というものは、すべての政治的価値の源泉は個人にあるという個人主義を前提とするものであります。国民すべてが平等に人間として尊重されて初めて国民が国の政治体制を決定する最終かつ最高の権威を有する、こういうふうにこの原理を理解するものであります。

 さて、国の要素として、国民、領土、国家権力、この三要素というふうに言われているわけでありますが、この国民を規定するものは国籍法であります。現在、日本の国籍法あるいは入国管理政策は世界においても極めて厳しく、人的鎖国政策を取っているんではないかと指摘される状況にあるというふうに理解します。

 グローバリゼーションが本格化して、ヨーロッパ諸国はヨーロッパ統合という関係で、また一方で、アメリカではNAFTAでありますとか、あるいはIT革命絡みでその規制というものを緩和してきたというのが現状でございます。

 国籍の出生地主義、これはアメリカあるいはイギリス、オーストラリア、このいわゆる英米系だけではなく、フランスでも一八八九年から出生地主義が取られているわけであります。

 他方、日本、そしてドイツは血統主義を取ってまいりました。ところが、そのドイツにおいても、一九九九年の五月、出生地主義に変えたところであります。ドイツ人のアイデンティティーを歴史的な運命共同体としてのフォルクに見いだすのではなく、連邦共和国基本法の下で国家構成者としての国民の中に見いだしていく、このような発想の転換があったものというふうに理解をしております。すなわち、改正法では、八年以上合法的にドイツに居住し又は永住許可を得て三年以上経た外国人のドイツで生まれた子は、出生によりドイツ国籍を取得し、十八歳から二十三歳の間にドイツか親の国籍を選択する、そのような制度に変わったところであります。

 日本もそういう状況に入ってきたのではないかと、このように考える次第であります。

 日本においては少子高齢化が問題とされ、外国人の帰化、就労の増加というものも考えていく段階に入りました。先ほど申し述べた人的鎖国政策ともいうべき状況の中で非合法的入国が事実上大量に起こっており、かえって、入国を原則合法化し、透明な条件を課してモニターしていく方が治安上も望ましいのではないかと、このように考える次第であります。

 ITの関係でシリコンバレーが言われましたけれども、これを支えたのもインドや中国系の人々であったということも指摘されております。日本の活力を取り戻すためにもこの政策を転換していくべきではないか、このように考えるものであります。

 国民主権を考える場合に、国民と国家をつなぐパイプとして政党とNGOを指摘したいと思います。

 政党は、社会、国民と国家を架橋する存在というふうに指摘されてきましたし、ただ、一方で、世界的現象として無党派現象というものがあります。ただ、そうであっても、やはり政党の憲法秩序体制の中での意義を失うものではありません。任意結社であると同時に、一種の国政上の役割、機能というものが二面性を有するものであり、自由を尊重しつつ適正な助成と規制を図る必要があろうかというふうに考えております。

 その意味で、成田憲彦参考人が政党法の主張をされておりましたけれども、政党内部には干渉せず基本原則のみを定めることがよいというふうにされておりました。細かいことまでの法制化は政党の活力を喪失させるものと考えますし、他方、政党の腐敗に対する責任追及のための法制度は必要であると私も考える次第であります。

 なお、政党法の議論の際には、ドイツ・ボン基本法の二十一条のような闘う民主制というものもやはり視野に含めておくべきだろうというふうに考える次第であります。

 また、NGO、NPOについては、国民の声を反映させるという点でやはり注目、着目すべきであろうというふうに考えております。

 NGO、NPOは社会のどの分野、部分をどれだけ代表しているかという疑問はあるわけでありますが、政府とのパートナーシップが確立しているカナダでありますとかあるいは北欧諸国においては、社会のために市民の力や創造性を引き出す拠点であると同時にセーフティーネットであると、このような社会的コンセンサスがあるというふうに言われております。徹底した情報公開の下、市民は情報を入手し、NGOを通じて意見を発信する、政府も議会制民主主義を補完する回路としてNGO活動を奨励している。税制等を含めて、日本もそのような方向で是非推進をしていきたい、このように考える次第であります。

 最後に、政と官について若干申し述べたいと思います。

 議院内閣制の下で立法府と行政府の共同体制、高度成長下では十分機能してきたと私も考えます。ただ、今年に入って、外務省過剰介入疑惑事件というものがあり、族議員の問題でありますとか、あるいは政官業の癒着が注目されてきたところであります。

 先ほど、舛添委員が指摘された読売新聞のアンケートによりますと、首相公選制、賛成が六三%、と同時に、法案の事前審査制について変えることは賛成ですか、反対ですかという中では、四九・七%の方が廃止すべきであるという意見表明でございました。この結果は、私は、政治のリーダーシップを求め、かつ、利益誘導等、議員と官僚との不透明な関係の是正が求められている、このように考える次第であります。

 昨年の十一月の八日、いわゆる二十一世紀臨調が首相主導を支える政治構造改革に関する提言というものがなされました。その中で、内閣の主体的法案提出権というものが確認をされ、与党の事前審査制・承認慣行を廃止する、あるいは事務次官会議の廃止ということがうたわれたところであります。

 また、論者によりますと、経済の二重構造、かつての二重構造ではなく、現在の生産性の極めて高い輸出関連製造業と規制と補助金に守られた生産性の低いローカルな製造業とサービス業、この二重構造が政治の二重構造と絡み合って今の日本の構造改革を進めているのを阻止し、阻害していると、このような指摘がございます。

 ただ、そのために、この政治の二重構造を変えるために、同じく議院内閣制を取るイギリスのシステムをそのまま横移しにするというのはいかがなものか、このように思う次第であります。歴史的な背景、システムの前提条件をしっかり見据えながら、かつ民意を行政にもしっかり反映させていくという、そういう観点から政と官についてあるべき姿を更に私どもも検討をしていくべきだ、このように考える次第であります。
 以上です。

○会長(上杉光弘君) 吉川春子君。

○吉川春子君 私は、日本共産党を代表して、国民主権と統治機構について意見を述べます。

 日本国、国民主権は、国家の権力は国民が持っており、政治は国民によって行われる原理であると長谷川三千子埼玉大学教授が述べましたが、私も同感です。

 二十世紀は主権在君から主権在民へ、すなわち君主制から共和制への闘いの世紀であったと言えると思います。日本共産党は一九九二年創立のときから主権在民の主張を掲げました。当時、天皇は神聖にして侵すべからずとされ、一切の権力は天皇が握っており、我が党の主張は危険思想として弾圧されました。

 一九四五年、我が国は第二次世界大戦に敗れ、ポツダム宣言を受け入れ、平和と基本的人権の保障を基調とする現憲法が制定されました。日本国憲法前文は、日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、我らと我らの子孫のために、諸国民との協和による成果と、我が国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を制定するとして、国民主権を宣言しています。

 小澤隆一静岡大学教授は、当調査会参考人として次のように述べました。

 国民主権の原理は、アメリカの独立革命やフランス革命によって樹立され、日本では現在の憲法によって初めて採用され、今日に至るまでその内容を豊富化させてきた。国民主権の原理は、西欧近代におけるその成立以来、今日に至るまで普及発展し、世界の多くに憲法の基本となっている。今日なお重要な役割を果たしており、二十一世紀中も相当程度の間、重要な役割を果たし続けるだろうと。これは、人類普遍の原理として永遠に守られるべきものであり、いかなる改憲論もこの部分を変えることができないことは論をまちません。

 二院制について小澤教授は、参議院は、直接内閣の基礎となる衆議院とは違った立場で、ただし全国民の代表としては同等の立場で内閣のチェックを行うことが期待されると述べています。

 敗戦後、新しい憲法に向けた議論の際、貴族院を参議院として残すことは、戦前果たした反民主的な、反民主主義的な行動について厳しい批判と、参議院議員を天皇の任命にする考えなど、新生日本にふさわしくないものがありました。しかし、五十年にわたる国民の努力の結果、参議院は今日、国民の人権を守る役割を果たし、二院制は日本の民主政治になくてはならないものです。

 参考人の隅野隆徳専修大学教授は、参議院が全国民の代表機関であるという性格は尊重され、また発展されるべきだと指摘し、第一に、下院での性急な行為や、場合によっては過誤の修正、回避という任務、第二に、民意を確実に反映させることを指摘しています。そして、参議院には解散がなく、議員は六年の任期を持ち、三年ごとに定期的選挙によって民意が表明され、他方で衆議院の解散及び総選挙が言わば政治的な性格を強く持って行われることと相まって、参議院独自の重要な役割を果たしている。総体として、日本国憲法の二院制は妥当な基本制度になっている。第二に、国会における慎重な審議の保障によって国民の知る権利と国民の政治判断への貢献が国会において特に必要であり、しかもその点で参議院の役割が重要である。衆議院が政治の論理、数の論理に左右されることはある面でやむを得ないとしても、参議院は政権形成から一定の距離を置くということは重要な意味を持つとしています。

 主要国ではおおむね二院制を取っていますが、それは、一院だけでは重要法案について慎重で的確な判断ができないこと、審議に時間を掛けることによって世論への浸透、変化を国会に反映できる等、人類の英知が結集した制度であるからです。我が国で民主主義を成熟させていくためにも二院制を守っていくべきです。

 我が憲法は、内閣の存立を国会の信任にかからしめる議院内閣制を取っています。小澤隆一参考人は、議院内閣制の健全な運営のためには、両院による内閣の行政運営に対する適切なコントロール、これが不可欠なものとし、参議院においても適切なコントロールを行使するよう期待し、内容としては、国政調査権の行使、質問権、問責決議等による内閣の責任追及であると述べています。私自身、国会の審議が形骸化していると感じることが間々ありますが、内閣に対するチェック機能を果たすためには、参議院は法案と一般質問など国会審議の充実を図る必要があります。

 小泉総理は、首相のリーダーシップを強めるとして首相公選制を主張していますが、これに対して当調査会では、委員からも参考人からも多くの問題点が指摘されました。内閣は連帯して国会に対し責任を負うとしているのであって、首相のみの突出を憲法は認めていません。現憲法では、大臣の選定、罷免権を総理が持ち、十分にリーダーシップを発揮できる制度になっています。これ以上首相の権限を強めることは国会として行政府の暴走に歯止めが掛けにくくなり、国民の人権保障のために危険な制度です。

 曽根泰教慶応大学大学院教授は、憲法の全面改正だと思う、イスラエルのようななかなかややこしいことが起きると言い、また浦田賢治早稲田大学教授は、我が党の小泉議員の、三十七年前の内閣調査会の首相公選制は独裁への危険性を内包しているとの指摘にも、異論がないとしています。

 首相公選制はアメリカ型の三権分立につなげるものであり、現憲法の議院内閣制とは両立せず、改憲につながる議論です。我が党は、首相公選制は首相と政府を国会から事実上独立させて執行権を独走させ、国権の最高機関としての国会の地位を制度的に脅かす危険を持つもので反対です。

 選挙制度は議会制民主主義の土俵です。衆議院は小選挙区比例代表並立制で、四百八十議席のうち三百が小選挙区です。参議院は直近の選挙から比例代表区に非拘束名簿方式を採用し、当時の全国区制度の弊害を取り除こうとした八二年の選挙制度の改革の結果を無視しています。

 小澤参考人は、国民の中には様々な政治的意見を持つ人が含まれている、両院がそのような国民すべての代表であるためには多様な民意が反映される選挙制度を採用することが望ましい、選挙制度は立法府の裁量によるところが少なくないが、それでも少数意見が著しく過小にしか代表されない、民意の正確な反映という趣旨から大きく逸脱するような選挙制度は裁量の限界を超えたもの、いわゆる死票を大量に生じさせるような選挙制度はこの要請にそぐわないとし、このたび本院に導入された候補者名と政党名のいずれの投票も可とする比例代表選挙の方式は、国民にとって極めて分かりづらい選挙制度ですので、改めていただきたいと述べています。

 また、隅野専大教授も、何よりも国民の意思の議席への公正な反映のための選挙制度を追求することが大事である、その点で、十八歳選挙権を日本では認めていないのは今日の世界の趨勢から大変立ち後れており重大問題だと、また、女性の国会議員が日本では諸国に比べると少ない点を指摘しています。被選挙権年齢を低くする必要性は、前田英昭駒澤大学教授からも指摘されました。

 小選挙区制は死票が多く、また今日の日本では女性が進出しにくい選挙制度であって、国民の意思が国会の議席に反映されません。必ずしも反映されません。日本国民は、正当に選挙された国会における代表を通じて行動しとされており、代表民主制の基礎である選挙制度が公正で有権者の意思を正確に反映するものでなければ、憲法の基礎が揺らぐことになりかねません。民主的な選挙制度に改めるべきです。

 最後に、人権が侵害されたときの国内最後の救済機関は裁判所ですが、裁判所は憲法判断をほとんどしない現状に照らして憲法裁判所設置の意見もありますが、最高裁の機能に問題があるとの私の質問に対し、最高裁は当委員会で、もっと憲法判断を行うべき旨の発言を表明しており、改善を期待したいと思います。

 また、迅速な裁判の保障、三十七条が不十分な結果、行政裁判所の設置を求める声が当委員会でも表明されました。人権侵害救済についての対応の遅れを防止するためには、まず行政レベル、あるいは男女共同参画条例で、地方自治体レベルでの救済措置を充実させるなどの努力が行われています。

 現憲法では特別裁判所を設置することはできません。これは、戦前、軍法会議などで裁判が複線化されていたため、基本的人権が侵害された歴史があるからです。これを繰り返さないために、憲法は特別裁判所を禁じています。

 迅速な裁判、国民の基本的人権の保障のとりでとしての裁判所の役割を果たすためには、裁判官の増員、国連などが勧告しているような裁判官の人権教育の実施、司法権の独立を自ら尊い任務とする裁判官の養成によって可能となるのではないでしょうか。特別裁判所を設けるのは筋違いです。

 以上見たように、国民主権は国民の間にいよいよ根付き、これからも豊かな内容に発展されるべきであり、また、統治機構について憲法が十分に生かされていないことが幾つか指摘されました。改めるべきは憲法の方ではなく、法律以下の制度や運用実態であることが参考人の陳述からも裏付けられたと言うべきでありましょう。
 以上で終わります。

○会長(上杉光弘君) 平野貞夫君。

○平野貞夫君 国会改革連絡会の平野でございます。

 約一年間にわたる国民主権と国の機構というテーマの調査を総括して、二つの問題を申し上げたいと思います。

 一つは、国民主権の根源は憲法制定権であり、これを機能させる制度を整備していないことは近代立憲国家とは言えないという問題でございます。

 御承知のとおり、憲法前文は、「主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」と規定しております。また、九十六条では改正権、すなわち制定権と言ってよいと思いますが、それは国民の承認、制度として国民投票による過半数の賛成を必要とするということを規定しております。

 具体的な国民主権の行使としての参政権、国民の代表者として選ばれて構成する国会、選ばれた人が構成する国会、それから発生する内閣や行政権のあらゆる機能は、この国民の憲法制定権によって発生するものであります。したがって、この憲法制定権が活動、機能する制度が整備されてこそ具体的な国民主権が健全に機能するものだと思います。

 ところが、日本国憲法が施行されて五十四年目になりますが、当初は占領軍の方針で、独立後は極端な改憲論と教条的護憲論の衝突で、国民投票制度を中心とする憲法制定権を発動させる制度が整備されていないことは誠に遺憾なことであります。これは、厳格な意味で日本は憲法体系が確立していない、整備されていないということでありますし、憲法に基づく政治、すなわち立憲政治が行われていないとも言えることでございます。早急に、国民投票制度を中心とする憲法改正の諸手続制度を整備する必要があると思います。

 現在、与野党の中に、憲法改正について合意ができてから整備すればよいとの意見や、あるいは改憲を阻止するため改正手続制度の整備をしない、行うべきでないという意見があります。これらはいずれも憲法を冒涜する発想であります。憲法をどうするかという根本問題は、国会に決定権はございません。国民主権という限り、なれ合い、感情論、政治的思惑をやめていただきたい。憲法制定権の発動を整備することを放棄して国民主権を論じることは、自己矛盾であり自己撞着であると私は思います。

 冷戦終局後、日本の自立が盛んに論じられております。真の日本の自立は、国民のこの憲法制定権を機能させることを整備してこそ初めて可能だと思います。

 第二に、最近、特に憲法調査会設置後、政府・与党の憲法運用には極めて国民主権を機能させる憲法の条文や原理に反するものが続出していることを具体的に指摘したいと思います。

 何度もここで申し上げたんですが、まず第一に、小渕内閣が総辞職した、そして森政権に替わる憲法七十条の運用は、明らかに七十条を拡大解釈あるいは直接規定されていないものでございます。政治家の判断というより、私は内閣法制局や官邸の官僚たちの憲法観を疑うものでございますが、明らかにあれは、その後の問題から、展開からいいましても憲法に反した行為であったと。したがって森政権の正統性が疑われた。こういうことがやっぱりあってはいけないと思います。

 それから、小渕、失礼しました、小泉首相になって、首相公選に関する私的諮問機関というのを作られました。私的とはいえ公の立場でああいう機関を作るということは、そもそも憲法を私は無視したものだと思います。内閣法を改正すればともかく、現段階では内閣に憲法発議権はありません。それが、議院内閣制の根本にかかわる問題を総理という立場で研究しようということ。勉強したければ人にないしょに学者を呼んで勉強すればいいのでございます。この調査会か審査会かは知りませんが、に東京大学の学長たるものがなったことは、私は見識を疑います。ここはやはり、憲法というものの大事さを小泉さんはよく理解してほしいと思います。

 それから、これも何度も申し上げましたが、熊本地裁のハンセン病判決の控訴断念、これにかかわる政府談話というのは、これは司法権を無視したものでございます。憲法を無視して自分だけのパフォーマンスに使うなんということは、憲法政治を本当に私は冒涜した行為だと思います。

 それから、昨年、百五十三回国会での自衛隊海外派遣法の問題でございます。当時、私は自由党で、反対いたしましたのですが、憲法上の自衛隊の位置付けをせずして、なし崩しで自衛隊を海外に派遣するということは極めて危険なことでございます。ああいうやり方というのは、私はやはり憲法政治に反する政治運営だと思います。

 それから、百五十回国会での参議院における公職選挙法改正、強行改正のこのやり方は、政党政治の本質を崩壊させたものでございます。

 憲法調査会ができて、どうして政府・与党はこんなに憲法を無視した行動をやるでしょうか。私は、積極的な憲法改正論者でございますが、現在のそういった政府・与党の体制で憲法改正は行うべきでないという意見を持っております。憲法の本当の本質、民主主義というものをよく政府・与党の方は理解していただきたいと思います。

 最後に申し上げたいことは、日本人には二つ憲法を持っているということでございます。現在の日本国憲法とともに心の中にある日本人の憲法は、なれ合い、なし崩し、何でもありという憲法の原理でございます。この日本の、日本人の心の中にある、これは与党だけじゃございません、私どもまあ持っておると思いますが、ここのところをやっぱり本当に直してこそ、私は本当の日本国での憲法政治ができるものだと確信しております。
 大変失礼なことを申し上げました。
 以上でございます。

○会長(上杉光弘君) 大脇雅子君。

○大脇雅子君 明治憲法から現行の憲法へ、天皇主権を明記する欽定憲法から、現行の憲法は主権在民、国民主権となりました。

 マサチューセッツ工科大学教授のジョン・ダワー氏、「敗北を抱きしめて」の著者で、次のように述べております。日本という国家が相も変わらず連続している面を探すよりも、一九二〇年代後半に始まり一九八九年に実質的に終わった一つの周期に注目する方が有用である。そして、高度経済成長を支えたのは官僚制的資本主義であると言いまして、占領軍が最も重大な影響を残した行動は実は不作為という行動であった。つまり、経済の面に関して占領軍は官僚組織の力を抑制しなかった。官僚制度を温存したことにすべての罪があるというように述べておられます。すなわち、行政、我が国の国の機構の中心化現象というのは、官僚制であり、官僚制の弊害が政策の実現を阻んでいるということに着目しなければならないと思われます。

 行政の権限が情報の秘匿と管理、そして通達行政を根幹として進められている現状を我々は直視する必要がありましょう。行政が複雑多様化し、行政の技術性や合理性が専門性を求めて、議員から実質的な政策決定権を奪っているという現状であります。官僚と与党が利益団体を共有することから、官僚と族議員と業界の癒着が始まっています。

 これに対して、私は立法府としての国会の復権について述べたいと思います。

 国民の立法権の保障が最も重要であります。現実の国会での審議は閣法が圧倒的で、とりわけ成立率も大きいと言われております。平成十三年度までの内閣提出案件は八千二百四十二法案で、継続案件を含んで成立率は八八・二%、議員立法は、衆議院が三千十五件で成立率は三六%、参議院は千六十三件で成立率はわずか一六・五%であります。

 内閣提出法案は憲法の第七十二条、内閣法第五条に基づいて、いわゆる肥大した官僚群の政策意思というものが提示されているわけですが、国会が議員立法を活性化するためには必要不可欠な要件が幾つかあります。

 一つは、現在の公設秘書制度を見直しをすることも含めて議員スタッフの充実が重要であります。また、衆参法制局、国会図書館の立法調査局の機能を更に強化することが喫緊の課題であります。さらに、公聴会あるいはパブリックコメント等、国民の声を直接聞く制度を最も活性化する必要があります。

 現在、私が指摘したいのは、請願制度の空洞化の問題であります。現実、請願は会期の終末までに、終末に各委員会の全会一致で採否が決まり、既に立法化された請願については何ら審議もされません。閣法又は議員立法等法案審議前に、市民から正当な請願の権利に基づいて提出された案件を真摯に審議する機会が設けられるべきであると思います。

 さらに、市民が立法をするためには法制局等が市民にも開かれるべきではないかと思われます。地方自治が大きく国の委任事務を自治事務とし、地方におきましても、条例制定権というものが国民の意思をどのように形成するか、その民意の反映の手だてが問題になっております。地方自治にも、そのような市民に開かれるべき立法補助手段が充実することが必要であると思います。

 二院制に関しましては、幅広く国民の意思を反映させる方式として、議員選出形式や定数や任期等異なる衆参両議院を設けて国権の最高機関として位置付けたこの制度は維持されるべきであろうと思います。

 確かに、衆議院の優越性は規定しておりますが、参議院は六年の任期で、良識の府としての存在意義を十分に果たし、更なる立法機能をアップさせることが必要であります。さらに、参議院においては、議員の自主自立性を尊重し、党派を超えたクロスボーディングの投票方法を導入することが重要でないかと思われます。

 また、首相公選制に関しましては、議院内閣制を形骸化させ、行政優位の官僚政治や、リーダーシップに名をかりた危機管理対策をますます強めたり、国民に犠牲と負担を強いる構造改革の推進に利用されるおそれもあることを忘れてはなりません。

 特に、首相公選が英雄待望論と結び付くことによってかえって人々の政治への責任を放棄させ、民主主義の空洞化をもたらし、危険な政治状況を作り出すことを危惧するものであります。首相と国会とで判断が異なるとき、どちらが国の意思決定なのか、法的に大きな問題となります。

 国会の行政府に対する監督、統制機能の強化こそ必要であり、行政優位に拍車を掛け、強権政治の推進につながる首相公選論には賛成できません。政党も国会議員も民意との距離を埋める努力を十分にし、国会が国権の最高機関として首相を選出し、内閣をチェックするという現行憲法の制度を真実生かし切ることが大切であろうと思われます。
 一回目の陳述を終わります。

○会長(上杉光弘君) 世耕弘成君。

○世耕弘成君 自由民主党の世耕弘成でございます。
 今まで法曹界、学界等に身を置かれた専門的な視点からの御意見が多かったわけですが、少し素人感覚で幾つか申し上げてみたいと思います。

 その前に、まず先ほど舛添議員から引用のありました読売新聞の調査結果の中、世論調査結果の中で一つ大変気になる数字がありました。それは、この憲法調査会、もう既に二年以上機能しているわけですけれども、この憲法調査会に関心があると答えた人は三二%にしかすぎなかったと。逆に、関心がないと答えた人は六四%。関心があると答えた人の倍もいたということで、これは非常に残念な数字だなと。諸先輩、同僚議員の皆さん、あるいはいろいろな専門家を呼んでかなり深い議論をしていると私も思っておりますけれども、なかなかそれが国民に評価をされていないということが非常に残念だと思っています。

 しかし、この憲法調査会に対する国民の評価というのは、ある種、今の政治に対する国民の評価が一つ投影されてきているのではないかなというふうに思っています。というのは、この憲法調査会が、やはり国民から見た場合、憲法の在り方について決める場ではなくて、あくまでも調査をするだけの場であるというところにやはり国民の関心が低いところの最大の原因があるんではないかなと、私はそういうふうに思っています。

 やはり、憲法調査会も、憲法の議論というのは、国会で行う憲法の議論というのは、国民から請託を受けた国会議員がやはり現実的に、プラグマティックにやはり国民に対して方向性を示していくということも非常に重要ではないかなというふうに思っております。

 私自身、初当選してからまだ政治の世界に身を置いて三年半なわけですけれども、その中で政治というものについていろいろと考えてまいりました。政治というのは一体何なのだろうかということを考えてまいりました。その中で、自分なりに今一つの結論を得ているのは、政治というものの役割とか機能を本当の意味で、短く大胆に要約をすると、やはり決めるということではないかというふうに思っております。いろいろな価値観がある、いろいろな意見がある、だけれどもそれを全部同時に実現することは不可能という中で、しっかりと議論をした上でやはり一つの結論を導いて現実の政策行動につなげていくというのが政治なんではないかなという気がしております。その点でいえば、この日本の政治というものには、やはり決めるという機能が決定的に欠如をしているのではないかという思いがしております。

 先ほど、平野議員から、なし崩しとかなれ合いとかいう御指摘がありましたけれども、私も全く同感でございまして、やはり村社会の伝統というのを非常に根強く引きずっていて、徹底的に議論をしてそして最後は多数決ですぱっと物を決めていくという習慣が、単に我々の中だけではなくて、日本社会全体に欠如をしているような気がします。

 他党のことは分かりませんが、我が自民党でも、私は入党して以来、手を挙げて多数決で物を決めたという経験は全くございませんで、大体、全会一致か議長一任という形で決まっていきます。これは、単に自民党だけの問題ではなくて内閣でもそうでございます。閣議というのは、これは多数決ではなくてあくまでも全会一致で決められる、そしてまた、閣議で、私は当然、閣僚の間で活発な議論が行われているのかと思っておりましたら、大臣経験者の方に聞いたら、閣議での発言というのはすべて事前に登録をしなきゃいけないということを聞いて、内閣でもそういう活発な議論の結果、多数決で物を決めるという機能が機能していないんだなということを痛感した次第でございます。

 やはり、この憲法を考えていく中でも、この日本の法体系の中で決めるという機能がどういうふうに位置付けられているのかというのをしっかりと考えていく必要がある、それがどういうふうに機能をしていくのかというのをしっかりと考えていく必要があると思っております。特に、決めるという観点では、単に平時の物事を決めていくだけではなくて、一朝有事のときにどう物を決めていくか、単に戦争だけではなくて、例えば首相に事故があった場合等の危機管理全般ですけれども、そういうときにどういうふうに決めていくかという仕組みも意識しておく必要があると思っております。

 現在、国会でこれから有事法制の議論も行われていくことになるわけですけれども、一部有事法制があるから有事が起こるというような議論がありますが、これは消火器があるから火事が起こるという議論と私は同レベルだと思っておりまして、もう一度日本の憲法から法律あるいは政令、条例に至る法体系を全部点検して、どういう事態においても一種マニュアル的にきちっと物事を決める仕組みが確立されているかどうかというのをチェックすべきだと私は思っております。

 やはり私は、政治が物を決めないということが国民からも大きな失望を受けているんではないかと思っています。政治が物事をきっちり決めないのであれば国民が直接決めようじゃないか、そういう風潮が根底にあって、やはり最近の首相公選論とかあるいは住民投票等による直接民主主義といった動きが出てきているのではないかと思っています。これは私は、政治の貧困に対してあいくちが突き付けられたに等しいことだと思っておりまして、議員としても真剣に反省をしなきゃいけないんではないかと思っています。

 しかし現実に、首相公選導入、先ほどの読売新聞の調査では、六三%が望ましい、また住民投票を求める動きも非常に強まっているわけでございます。
 私も、住民投票はともかく、首相公選制につきましてはこれまでも真剣に検討をしてまいりましたし、今までは首相公選論者の一人でありました。あえて過去形で言わせていただきますけれども、首相公選をきっかけに憲法改正に取り組めば国民が納得しやすいのではないかとか、あるいは毎年年中行事のように国のリーダーが替わっていく現状に対して、やはり安定的に一定の任期を持って仕事をやった方がいいんじゃないかという意見を持っておりましたけれども、しかしこの考えは今少し変わりつつあります。

 特に最近の世論というものの非常に激しい動きに関して、この中で首相公選制を導入して本当に大丈夫かなという気持ちを持っております。こういう中で首相公選制を導入した場合、やはりポピュリズムによって、不適切な人がそれこそやぶから棒が出てきたように首相に選任されることになるのではないかという懸念を私は持っておりますし、また、ナチス・ドイツが国民投票という手法を多用して権力を獲得していっていったという事実、あるいは第二次世界大戦下の日本やドイツが、まあ国民が情報を正しく適切に与えられていたかどうかという問題はちょっと置いておくとしましても、東條内閣やヒトラー政権を圧倒的に支持していたという歴史的事実も忘れてはならないと思っています。

 この内閣支持率の乱高下なんかを見ていると本当に不安になります。マスコミの支持率調査で、四〇%を切ったら赤信号で一〇%を切ったら退陣だなんというのがもう今何か当たり前の法則のようになっていますが、非常に危険だと思っていますし、アジアの国会議員たちと私は議論をしたときにそのことを鋭く指摘をされました。今の日本の世論の動き、特に内閣に対する支持が、ある日突然低くなってみたり、ある日突然高くなってみたりするその現状を見たときに、いつ日本人が軍国主義を支持する世論にぱっと傾いても不思議はない、恐怖感を持っているという意見を言われまして、これに対してはもう私、返す言葉もなかったというのが現実でございます。

 私自身、そういう経験も踏まえて、元々は首相公選の早期導入論者ではありましたけれども、早急な導入には慎重な立場を最近では取るようになっております。

 そして、まずは現行の議院内閣制度の仕組みの中でできる限り国民の意見をうまく取り入れる形で首相を決める仕組みを構築することが重要だと思っております。特に、議員の改選と首相が選ばれるという行為が全く無関係だというところに国民の不満が非常に集積していると思います。

 我々、自民党の中で今検討のたたき台として国家ビジョン策定委員会というところで政治システムというのをやりました。これは官と民の関係だとか事前審査の廃止、そればかりを言われていますが、実は第一章で選挙のやり方、特に選挙において公約の掲げ方というのを一番に述べております。やはり政党が選挙を戦うときには、選挙に勝ったらだれを総理大臣にするかということをやはりきっちりと掲げた上で選挙を戦う、これが私は議院内閣制度を保持しながら国民の今いろいろ持っている首相、政治のリーダーシップに対する不満を解消する手だてになるのではないかなというふうに思っております。
 以上でございます。

○会長(上杉光弘君) 川橋幸子君。

○川橋幸子君 民主党・新緑風会の川橋でございます。
 まず最初に、総論的な意見を述べさせていただきます。

 四月一日の毎日新聞の社説でしたが、こんな表現がありました。旧憲法、明治憲法ですけれども、不磨の大典と発布勅語で呼ばれたそうでございます。また、当時、山県有朋首相の施政方針演説では、千歳不磨の大典とも言ったそうであります。不磨の大典という意味は、「一言一句変えてはいけないという意味ではない。千年も万年も「磨滅」することなく憲政というシステムが続くという趣旨」、これが社説が訴えている趣旨でありまして、私も同感であります。

 次いで、当調査会の参考人でおいでになられました佐藤幸治教授は、これはこの当委員会でも、あるいは三月二十六日朝日のインタビュー記事におきましても同趣旨のことを言っておられます。どういうことかといいますと、憲法というとすぐ法典を考えるけれども、英語のコンスティチューションには体質、構造、伝統という意味があると、そうした憲法コンスティチューションを血肉化していくことが大変大事だということでございます。

 佐藤教授は、憲法の考えている姿と実際とがこの統治機構についても非常に懸け離れていると、現実の政治、統治システムを憲法の考えている姿に近づけることが必要だという、こういう論者でいらっしゃいまして、私も同感でございます。かつて、憲法九条につきまして、新し過ぎるという話があると改憲論があり、今、国際貢献の観点から見ると古過ぎるから変えようという、こういう声があることを比較憲法学者の樋口陽一教授は心配しておられますけれども、統治機構についても私は同じような心配があると。

 私は、出口を急ぐのではなく、国民投票制度について検討することは意味があるとしても、出口を急ぐではなく、中身を検討すべきだということが総論的な意見でございます。

 さて、時間が少のうございますので、私は女性の代表というわけでもなくて、全国民の利益を代表しているつもりでございますが、女性に関する問題を何点か述べさせていただきます。

 まず、皇室典範の改正でございます。
 かつて、国連の女子差別撤廃条約批准のときに、皇位継承者が男子に限られている皇室典範が問題になりましたが、そのときの政府答弁は、天皇は国民でないから憲法上の国民の基本的人権は認められなくてもよいと。これはあしき法律家の論理、詭弁であります。

 今回、愛子内親王誕生の際、国会は皇孫殿下誕生のお祝いを決議したわけでございます。中には、男子のお世継ぎの出産をこれから期待できるからという声があるわけでございますが、これは雅子妃殿下に対して更にプレッシャーを掛け、個人の尊厳を侵害するものだと考えます。皇室典範の改正を訴えるものでございます。

 その次は、選挙制度の問題について申し上げさせていただきます。
 昨年の参議院選から比例代表制の非拘束名簿方式、つまり元に戻ったわけでございますが、そもそもこのことの発端は自民党内の問題、お金で党員を獲得して順位を決めるという、こういう問題からすり替えられて導入されたものであると私は思っております。しかし、私も、我が国では職能代表の意味が乏しいから、こうした非拘束については見直すべきだと思っております。

 比例代表制が意味を持っていたと思いますのは、地盤、看板、かばんという点で不利であった女性、障害者、マイノリティーなどの新人の政治への参入を、開かれた政党の在り方といった観点から、政党の政策によって容易にしてきたことが挙げられます。女性の場合は、このことによって議員比率を高めることができました。今回、非拘束になったことにより、数で調べますと、参議院選挙の当選者数は、九五年に二十一人であったものが、九八年に二十人、二〇〇一年に十八人と明らかに減っているのでございます。

 諸外国の例を見ますと、女性比率といいますのは、北欧で四〇%、大陸系中欧で三〇%、英米系で二〇%という比率から考えますと、日本の一〇%というのは途上国の平均にも及ばない、これが現実でございます。これから考えますと、政党内のアファーマティブアクションやクオータ制、フランスの場合は直憲法の中で男女同数条項、パリテを入れたものでございまして、国際的に日本の女性の地位が危惧されているこういう状況の中では、男女共同参画社会基本法の趣旨に基づいて、選挙制度についても検討すべきだということを申し上げたいと思います。

 次は、司法との関係で申し上げさせていただきます。
 司法制度改革、これは今回の統治機構の中で様々御意見を伺って私もよく理解できたと思います。司法の民主化といいましょうか、内閣、行政の民主化と同時に、ブレーキを踏む方の司法の民主化も進めるべきだと思います。

 しかし、司法制度改革の中で欠けている部分があると思います。それは、国際社会における我が国司法の制度の在り方であります。個人通報制度という、こういう制度をプロトコルで規定した人権関係の条約が幾つかございます。それに対しまして日本の場合は、司法の独立、裁判官の独立から問題があるとして、政府は大変長い間この批准をしていないわけでございますけれども、司法の独立といいますのは行政からの独立をいうことでございまして、司法の独立あるいは裁判官の独立という問題はまた我が国特異の問題ではなく、このグローバリゼーションの中で、国際司法の中で協調していく必要があるとすると、こうした条約の批准は急ぐべきだと思います。

 一つだけ挙げさせていただきますと、国際人権規約の中に個人通報制度が書かれているわけでございますけれども、条約本体の批准国数は百五十近く、それから通報制度の批准国数が百近く、こういう状況の中で、日本だけがこの通報制度を批准しておらない。先進国だけではなくて途上国でさえも多数を占めている、批准国が多数を占めている個人通報制度については、是非批准に踏み切るべきだということを申し上げたいと思います。

 大変言いたいことがあるもので早口で申し上げてお聞き苦しいかと思いますが、あと数点申し上げさせていただきたいと思います。

 国民主権の問題が今回のテーマでございました。第十条の日本国民たる要件につきましては、先ほども同僚の魚住委員の方からも御指摘がありましたが、私も同感でございます。国籍取得の要件を開かれたものとすべきだということでございます。日本のように、民族性、文化性、これが個人のアイデンティティーとして尊重されるべきなのですが、この辺を消しゴムで消し去るような形の帰化の申請届けというものは問題ではないかと思います。

 この点で、元参議院議員、民主党の参議院議員竹村泰子さんが、帰化申請書の帰化後の氏名につき、日本風の名前に変えることを法務省は指導していないと言うけれども隠微な形で実質的に押し付けていると、何回も繰り返して質問されたわけでございますけれども、私はこの点、竹村さんの意思を引き継いでこの場で主張させていただきます。法務省は更に努力すべきだと思います。

 また、在日外国人の地方参政権を認めるべきこと。それから、難民認定、今回アフガンの問題で日本の難民受入れの問題が国際社会でも指摘されているわけでございますけれども、難民認定についても門戸を開放すべきこと。それから、二十五万人とも言われておりますような高度経済成長時代の三K職場に入ってこられました外国人労働者、オーバーステイといいますけれども、法務省では不法滞在という日本語で申し上げますが、外国人労働者の特別在留許可につき一定の基準を設けて、これは民主的に運用すべきことを訴えたいと思います。

 以上は、外国人のためではなくて日本のため、日本国民のためである開かれた国民要件としての人権保障の問題であることを訴えたいと思います。

 あと一般的なことも申し上げたいのでございますが、同僚議員と重複するところはたくさんございます。

 一点申し上げたいと思いますのは、参議院の在り方の中でございますが、今最も急いで改めるべきは、両院をまたいで党議拘束を掛ける政党の在り方であります。両院をまたいで党議拘束を掛けてということは、衆議院の結論がそのまま参議院の結論になるということでございますから、参議院の存在意義を全く失わせてしまうものであります。この点は成田参考人も指摘しておられました。是非、衆議院優位でなければならない事項もあるとは思いますが、すべてについて両院にまたがる参議院の党議拘束、両院をまたぐ党議拘束を、これを廃止することを、現在、参議院改革協議会において参議院の在り方の論議が進んでいるわけでございますので、この当調査会からも提言できるような、報告できるような、そういう議論の絞り方をしていただきたいと思います。
 以上でございます。

○会長(上杉光弘君) 高野博師君。

○高野博師君 公明党の高野でございます。
 これから述べることは、党とは関係なく、全く個人的な私の意見であります。

 最初に憲法観的な話なんですが、当委員会でも何のために憲法論議をしているのかと、その原点を私は確認する必要があるのではないか。

 現在、我が国は、政治的、経済的、社会的にも未曾有の危機にあるのではないか。これからの十年は恐怖の十年だと言う人もいるのでありますが、国家の存立が揺らいでいるかのような事態であろうと思います。これを構造改革で乗り切れるのかという問題があります。私は、これらの危機のよって来る原因というものが、直接であれ間接であれ、憲法にあるとする、あるいは国の在り方にあるとするならば、早急に対応する必要があるのではないか、少なくともこれらの危機と憲法の問題についての関連性について議論すべきではないかと思います。そうでないならば、すなわち関連、関係がないというのであれば、十年でも五年でもゆっくり議論し、法律論をやっていればいいんではないかと思います。

 私の認識は、政治、経済、社会、文化、教育、これらの様々な問題の根底に国の在り方そして憲法、これらの問題は憲法の問題に帰着するという認識であります。

 他の国の憲法事情等を見てみますと、国の在り方が問われて、あるいはシステムを変えるためには、あるいは更には大きな政策転換を行う場合には、基本法である憲法を改正している。極めて現実的な対応をしていると思います。例えばドイツの場合には、戦後の国際情勢の変化に対応して、自国の防衛のために軍隊を持つ、あるいは徴兵制を復活するような改正も行っている。我が国の場合は一文一句変えていないんですが、実質的に解釈改憲をやってきている。しかも、それも限界に来ているんではないかと思います。憲法改正についての世論も賛成が多くなってきていると。

 そこで、現実と憲法との乖離を埋めて、歴史とか伝統とか文化とかあるいは国民性を踏まえて新しい国家像を目指して、国の骨組み、あるいは根本の法を変えることは当然ではないかと思います。その際には、当然のことながら現憲法の三原則は厳守すべきだと思います。

 私は、この憲法論議をする大前提として、あるいは国家像なり、国の、国家のアイデンティティーは何かという議論の中では、その中心となるべき理念、哲学、その国、社会の中で最も尊重されるべき普遍的な価値は何かということが重要ではないかと思っておりまして、一つの制度なりシステムなりあるいは法律なりが、この良しあし、あるいは正しいかそうでないかという判断の基本的な基準というのは、人間の尊厳、あるいは人間の尊厳を実現するという権利ではないかと思っておりまして、それを根本に据えた上での平和の問題、環境、福祉、教育、これをどうあるべきかということを考えるべきだと思っております。

 ちなみに、人間の尊厳というのは、個人の尊厳とは違いまして、人間と人間との関係の中でその人があるがままの姿で尊重される、尊厳を認められるというのが人間の尊厳でありまして、改憲か護憲かというそういう議論は、それによって何を守るかという、それが、その視点が重要であろうと思います。本質的には、この人間の尊厳という価値が尊重されるかどうかというによるべきであって、憲法は絶対的、固定的に考える必要はないというのが私の考え方であります。

 最後に、国際社会と我が国の在り方についてでありますが、国際社会あるいはこの地球社会がどんな方向に行くのか、どういう形になるのか、それを見極めた上での我が国の国の位置付け、あるいは国家像、これを描くべきだと思っております。

 今、グローバリゼーションの流れにありますが、このグローバリゼーションの中では一つの価値観、あるいは文化、経済システム、これを各国に押し付ける、あるいはのみ込んでいくという流れの中にあるわけですが、そういう中では主権国家の歴史とか伝統とか文化、あるいはそういうものが尊重されるような共生の社会、いわゆるインターナショナリズムとは違った大きな流れでありますが、このグローバリズムの中で最も尊重される価値というのは市場の原理であり、競争原理であると思いますが、これは強者の論理であり、力の論理。したがって、強い者がどんどん勝つ社会になり、貧しい者はより貧しくなっていくというような社会であります。

 我が国がこのグローバリゼーションに対応した社会を目指していると思いますが、我が国の場合には、自己責任型の社会を目指すということで経済構造改革あるいは司法改革ということをやっているのでありますが、私は、自己決定能力のある人は自己責任型社会であっても問題ないと思いますが、自己決定能力のない弱者、例えば子供であり高齢者であり障害者等に自己責任を求めるのはこれは無理であり、弱者にとってはつらい社会になるんではないか。そういう中では、人間の尊厳というものを実現する権利はなかなか持ちにくいのではないか。

 したがって、競争原理から、共生の論理というか協力型の社会、この協力原理が支配的になる国家を目指すべきではないか。そういう視点に立って、人間の尊厳という理念で将来の国家ビジョンを描いた上で憲法を考えることは重要であろうと思います。
 以上です。

○会長(上杉光弘君) 宮本岳志君。

○宮本岳志君 日本共産党の宮本岳志です。私は、地方自治と地方分権に絞って意見を申し上げます。

 御承知のとおり、日本国憲法は章を起こして地方自治を規定しており、この憲法における地方自治規定の先駆性ということは、去る二月二十日の公聴会でも指摘をされました。また、池上公述人も紹介されましたように、平成十二年四月十九日、本調査会において与党委員からも、この憲法の保障が地方自治の発展に貢献したことは言うまでもないとの指摘があったように、日本国憲法と地方自治法を中心として戦後の日本の地方自治が発展してきたことは、衆目の一致するところであります。

 憲法が言う地方自治の本旨とは、住民自治の原則と団体自治の原則のことであり、地方自治体のことは住民の意思に基づいて決定し住民の参加によって執行する、地方自治体は方針の決定や執行について国に対して自主的であるということです。

 さて、これに照らしたとき、今日、むしろその地方自治の本旨をゆがめる事態が進行しつつあることを指摘しないわけにはいきません。

 先日の公聴会でも、すべての公述人から、今日、国と地方自治体の在り方をめぐって口々に批判と懸念が表明されました。地方分権と言いながら税財源の移譲がなされていない問題、国が地方を画一的に平均化しようとしているのではないかとの指摘、そして広域連合や通達行政の問題点の指摘もありました。国による市町村合併の強引な押し付けについても、複数の公述人から、地方自治の精神に逆行するとの指摘があったことは極めて重要だと考えます。

 そもそも、市町村の規模をどのようにするかは、地方自治法第七条が「関係市町村の申請に基き、」と定めているように、市町村の自主性によって行われるべきものです。しかもそれは、廃置分合と言われているとおり、決して合併だけでなく、分割や分立も認められるべきものです。つまり、いかなる規模が適正であるかを決めること自身が地方自治の重要な内容であり、これを国の一方的な物差しで合併だけを押し付けるのは、地方自治と地方分権を乱暴に踏みにじるものだと言わざるを得ません。

 総じて、地方自治をめぐる本委員会の議論から明確になったことは、憲法の地方自治規定の先駆性を認めた上で、現状がまだまだそこに追い付いていない、むしろそこから逆行しているということではなかったでしょうか。この点からも、現行憲法を変更する必要など全くないということを申し上げたいと思います。

 次に指摘したいのは、地方議会における議員定数の削減問題です。
 憲法九十三条は、地方自治体に法律に定めるところにより議会を設置すること、その議員は住民が直接これを選挙することを定め、それを受けて、地方自治法九十条、九十一条には人口に応じた議員の法定定数が定められています。
 ところが、現状は、この法定定数を全く無視した無原則な定数の削減が減数条例によって押し付けられ、まるで減らせば減らすほど良いかのような議論や、我が党が地方自治法上の法定定数を指摘したのに対して、行革に反するなどという論難すら一部に見られます。

 行財政の無駄をなくす努力は当然ですが、地方議会や地方議員は決して無駄ではありません。そもそも、地方議員定数を行革の対象にするということは、憲法の定める地方自治の本旨と全く相入れない、正に議会の自殺行為であるということを申し上げたいと思います。

 最後に、徳島市の吉野川可動堰の可否を問う住民投票を始め、現在、秋田県本荘市において国立秋田病院の存廃を問う住民投票条例を求める直接請求が行われています。住民自らの意思を直接投票という形で示す運動の広がりは、住民の切実な意思と要求を直接地方政治に反映する上で極めて意義深いものだと考えます。また、地方自治の新たな発展としても注目すべきことだと思います。

 現状では、住民投票条例が制定されなければ投票は実施できません。我が党は、これまで住民投票の実現のために各界の皆さんと力を合わせ取り組んできましたけれども、今こそ地域に重大な影響を及ぼす問題について住民が意思を表明する機会を安定的、普遍的に保障するための住民投票制度の制定が必要だということを指摘いたしまして、私の発言を終わります。

○会長(上杉光弘君) 田名部匡省君。

○田名部匡省君 国会改革連絡会の田名部です。

 私は、憲法というのは時代の精神に即して作られるものでなければならない、もちろん国際社会と協調も大事なことでありますから、そして最後は、国家の基本的な原理を国民の皆さんが自ら作るというものだというふうに考えます。

 憲法の改正は、国民の合意がなければならないことは論をまたないところでありますけれども、国会で議論を大いにやり、国民に問題を提起する、すべての国民に分かりやすく、そして理解できる議論をして、国民がどういうふうにこれを考えて改正しようとするか、そのことを徹底的にやらなければならないと、こう思っております。

 地方分権一つ取ってみても、国会と地方の関係を一体どうするのか。わけても、国会の在り方、議員の定数、そういうものにもかかわってくる問題でありますから、そしていま一つは、やっぱり国会議員もこれだけの不祥事を起こすと、金の掛からない仕組みをどうやって作るかということも大事なことであります。

 衆議院と参議院に、いわゆる二院制の在り方も今のままでいいのか。特に、私は、この参議院の方は決算とか行政監視とか、あるいは会計検査院とか行政監視院を国会の方に置いて、そして徹底的にやっぱり我々が活躍できる、そういうものを考えるべきだと。

 世論調査を見ても、女性天皇についての意見が八〇%賛成という意見もあります。あるいは十八歳の、先ほども議論ありました選挙権、そういうものも考えていかなきゃならぬ。

 特に、私は、スウェーデンの中学校の社会の本をいただきましたが、もう中学生から憲法とか法律とか、あるいは犯罪とか結婚とか、そういう規定をきちっと教わる。世の中に出たときに困らぬ、そういう教育をしているというのを見て非常に感心をしたことがあります。

 何といっても、首相公選の問題も出ておりますが、公約したことを守れない首相であっては一体どうするのか。国会議員の選挙公約、選挙のときに演説を聞いておっても、言うことと当選してから全然違うと。こういう仕組みというのは一体どうなのかなということをいつも気にしている一人であります。

 いずれにしても、政治というのは国民に信頼を受けなければならない。その信頼を受けなきゃならぬ国会議員がこれだけの問題を起こすということになると、これは信頼されない人たちに一体任せていいのかという問題等もありまして、制度全般をひとつ検討して、国民の期待にこたえる、そんな制度に、これ議論だけしているんでなくて、本当にもう短期間にこの憲法をどうするかという問題に私は取り組んでいくべきだという考えを持っております。
 終わります。

○会長(上杉光弘君) 大脇雅子君。

○大脇雅子君 三権分立の一つ、司法に関して発言をさせていただきます。

 我が国は小さな司法と言われます。一般会計予算に占める検察組織に関する割合は〇・一三%です。裁判所の予算は、一般会計に占める割合は〇・三九%です。これは平成十四年度の一般会計に占める割合で、裁判所と検察を含めまして〇・五二%という極めて僅少な予算しか配分されておりません。

 それに比較しまして、民事訴訟法の裁判所別の受件件数を見ますと、平成十三年度で、地裁は十六万四千百五十件、高裁は一万八千二百七十件、最高裁は四千六百七十件で、戦後初頭に比べまして三、四倍の増加率を示しております。簡裁に至りましては三十万件の民事訴訟が係属しております。刑事訴訟で見ましても、現在の地裁の係属事件数は九万九千九百九十三件となっておりまして、戦後の約十倍近くを占めております。

 にもかかわらず、小さな司法ではこれに対応できていないということが深刻な問題を提示しております。まず、十分な行政と立法府に対する機能のチェックを果たしていないということが言えると思います。さらに、市民のニーズにこたえていないということが第二点でございます。

 裁判は公正であることと迅速であることが両立する必要があります。日本の風土上、多様な紛争解決のメカニズムが用意されなければなりません。そして、司法を通した民主主義の実現のためには、市民の司法参加ということが改めて問われなければなりません。

 司法制度審議会の報告書によりますと、これらは司法改革の推進力として法科大学院というものを前提として開発型の言わば司法制度改革が唱えられておりますけれども、もう少し市民の立場に立脚して、法曹人口が決定的に少ない、裁判官、検察官、弁護士のそれぞれの人口を増やすために司法制度改革も、司法試験の資格制度の見直しも必要だと思います。

 私どもは、憲法裁判所や軍事法廷等、現行裁判所が禁止している特別裁判所は認めることが、設ける必要はないとの立場に立ちます。そして、現行の上告審における違憲審査の判断を更に活性化することが重要であると考えております。

 なお、社会民主党は、現行の有事法制の制定、法整備に関しましては反対の立場であることを最後に付言したいと思います。憲法、平和憲法の体系の枠を超えていくこの有事法制に反対でございます。非軍事の手法による平和を維持し、創造するために活動する権利を国家が保障することが重要であろうかと思います。

 中村哲というアフガンで活動しておられる医師が、井戸を掘るというところでの著書で、活動の力の源泉は日本の平和憲法であると述べております。そして、この平和憲法を改正することは、タリバンの仏像を破壊するという行為の百倍にも匹敵する暴挙だと述べておられることに私どもは心を留めなければならないと考えました。

 さらに、女性の視点から一点意見を述べさせていただきたいと思います。
 女性を、政策決定の過程に参加するための手法について、議席のクオータ制、いわゆる割当て制を実現するか、あるいは候補者のクオータ制、割当て制を推進するか、道は二つございますけれども、参議院における比例制が非拘束名簿になったということも受け、衆参の選挙制度の中で新たにこの制度が議論されるべきだということを提言して、私の意見陳述を終わります。

○会長(上杉光弘君) 近藤剛君。

○近藤剛君 ありがとうございます。自由民主党の近藤剛でございます。私からは、国民主権、特にその行使の在り方につき、所見を述べさせていただきます。

 我が国におきましては、国民主権は主として国政選挙、すなわち衆参両院議員選挙に参加することによって行使されます。この代議制民主主義が有効に機能するためには、政治上の言論と結社の自由が確保されること、そしてその投票価値の平等が保障され、主権者の意思が公平に国政に反映させる仕組みが確保されることが絶対に必要な条件であります。特に投票価値の平等は、主権者たる国民にとりまして常に保障されるべき基本的権利であるべきであります。憲法十四条におきましては、すべて国民は法の下に平等であることが保障をされております。住む地域によりまして、あるいは投票をする場所によりまして、日本国民の一票に格差があってはならぬことは当然であります。

 しかるに、我が国におきましては、いまだにこの主権者たる国民に保障されるべき基本的権利が確保されていないのが実情であります。すなわち、選挙区によりまして一票の格差が大きく異なる状況が依然として続いているのであります。

 具体的に申し上げますと、参議院におきましては、議員当たりの人口を都道府県別に見てみますと、東京では約百五十万人、鳥取県では約三十万人とほぼ五倍にも達する格差があるわけであります。衆議院におきましても、神奈川七区では約六十万人、島根三区では約二十三万人と二・五倍を超える格差が存在をしております。そして、格差が二倍を超える選挙区が何と九十五もあるのであります。これでは、憲法十四条に言います法の下の平等が実現されているとは到底言えないのであります。

 このような票の格差が現実の国政に大きなゆがみをもたらしてきたことは、残念ながら否定できません。特に、都市部のサラリーマン層の声が十分に国政に反映されているとは言い難い状況にあります。誤解を恐れずに申し上げれば、政策分野によりましては、少数の代表者による多数に対する支配と言われる状況すら見られるのであります。

 国民一般に政治に対する白けた雰囲気が充満をしております。選挙に対する関心の低下、あるいは無党派層の増加の傾向が見られるのも恐らくそのような状況が影響しているのではないかと思われます。

 このような状況を招いた背景には二つの原因があろうかと思います。まず第一が、言うまでもなく国会の不作為であります。第二が、そのような国会の不作為を許す結果となった最高裁判所の違憲審査に対する消極的な姿勢であります。

 違憲審査権を定めた憲法八十一条にもかかわらず、我が国の最高裁の違憲審査に対する姿勢には一貫して消極的なものがありました。そして、憲法によって付与されておりますこの重要な機能を積極的に果たそうとする気概が一向に感じられないのであります。このことによりまして、我が国の国政上多くのエネルギーと時間が憲法解釈に費やされてきた事実があります。憲法九条にかかわる解釈論争はその典型的なものであろうかと思います。その結果は、内閣法制局が実態面で最高裁の役割を果たすがごとき事態を招いていることは、先ほど江田委員から指摘されたとおりであります。

 一票の格差の問題につきましても、差別を受けたと考える有権者からこれまで何度も裁判が提起をされております。しかし、衆議院議員定数配分については、平成十一年の判決で二・三〇九倍は合憲、参議院につきましては平成十二年の判決で四・九八倍は合憲とされたのであります。しかし、その数字の根拠は不明確であります。そして、その判断は国民の納得を得られたものとは到底言い難いのであります。

 海外に目を転じてみますと、米国は日本と同様に付随的違憲審査制を取る国であります。しかしながら、米国の最高裁判所の違憲審査に対する姿勢と運用は我が国と違います。極めて積極的であり、能動的であります。一九六三年には一人一票の原則を明確に打ち出しております。そして、六九年には各選挙区間の人口の格差、すなわち一票の格差は六%でも違憲との判決を下しております。八三年の判決では、わずか〇・七%の格差でさえも違憲とされたのであります。

 法の下の平等が民主主義の基本であって、投票価値の平等が常に保障されるべき国民の絶対的権利であると考えるのであれば、米国最高裁の判断の方がより普遍的であり、理解することも容易であろうかと思います。

 我が国の政治の現実から判断をいたしまして、将来にわたりまして、国会自身に、最高裁の合憲判断を、判決を大きく超えて、ある意味で既得権益の放棄につながります一人一票に向けた選挙区画定作業を自ら実行する勇気を期待することは、残念ながら悲観的にならざるを得ません。である以上、代議制民主主義下におきますあるべき国民主権を実現するための残された選択肢は、最高裁が姿勢を大きく変えるのでない限り、極めて限定的なものでしかありません。その一つは、投票価値、平等を憲法上明記をすること。もう一つは、大陸欧州に見られます憲法裁判所の設置なども視野に入れた大胆な司法改革の推進であろうかと思います。

 以上の論点につきまして、今後更に掘り下げた議論が当調査会の残された調査期間内になされることを期待をいたしまして、私の発言を終わります。

○会長(上杉光弘君) 松井孝治君。

○松井孝治君 民主党・新緑風会の松井孝治でございます。
 既に会派を超えて同僚委員の皆様がいろいろな御発言をされました。できるだけ口語的な表現で私の意見を述べさせていただきたいと思います。

 そもそも憲法でございますが、先ほど同僚委員の発言にもありましたように、英語で言えばコンスティチューションでありまして、正に憲法というのは国の形、国体そのものであろうかと思います。その意味で、国の形として現在の日本国憲法をどう議論するのか、どう変えるべきかについて私見を申し述べさせていただきたいと思います。

 まず第一に、私が考えます国の形の変更ですが、一言で言うと、戦後あるいは戦前から引きずっている中央官僚主導の官僚社会主義的な国家、社会の成り立ち、しかも官僚社会主義的と言った場合に、その行動原理が真の国益に基づくものではなくて、行政各部中心主義といいましょうか、分担管理原則に基づいて各省の省益追求ということにこの国の政府の職員が行動原理を置いている、この体質を変えなければいけない。それが第一の論点としてあろうと思います。

 第二の論点としては、国民の政治へのガバナンスの欠如といいましょうか、国民が自律的にこの国の、硬い言葉で言えば統治に参画している意識を持っていない、持ち得ない状況にある。場合によっては、被統治者意識を持っていると言ってもいいかもしれません。そのような現在のこの国の国家と国民の関係、これをどのように直していくのか。国民が言わば自律的個人の集積体として政府の意思決定にいかに責任を持ち、その意思決定に参画していくような仕組みを作り出していくのか。そのことが我が国の国の形を変える際の基本的な原則として、我々は肝に銘ずるべき問題であろうと思います。

 その観点から、まず第一に私が申し上げさせていただきたいのは、現在の議院内閣制の機能がこのままでいいのか、その機能を更に発現していくために何が必要かということであります。

 私は、基本的に今の内閣の分担管理原則というものを変えていかなければいけない。これは、正に官僚内閣制というふうにやゆされるような形に現在なっているわけであります。

 意思決定、先ほど同僚委員から、この国の政治について決めるという要素が非常に欠如しているんではないかという指摘がありましたが、私も全く同感でありまして、もっと意思決定を透明化し、だれの責任でその意思決定を行ったかということを明らかにしていかなければいけない。当然、内閣は国会に対して連帯して責任を負うというのは憲法上の規定にあるわけですが、その連帯責任ということを履き違えているのではないか。

 閣議の意思決定の仕方についても、同僚委員から既に御指摘がありましたが、すべてコンセンサスというやり方で意思決定が行われている。この今の閣議の意思決定の仕方が、現状では、行政各部、すなわち各省が事実上閣議決定について拒否権を持ってしまっているという実態になっているということは非常に憂慮すべき実態であると思います。

 現在、与党においては事前審査制というものが慣行として確立しているわけでありますが、これについても典型的な事前調整型の意思決定であろうと思います。行政各部、すなわち各省及びその行政各部と利害を一にするような政治グループが事前にすり合わせをしてコンセンサスビルディングを行う、そのコンセンサスビルディングによって決定された政策というものを一丸となって国会においてはできるだけ実質的な議論をせずに通してしまう。この意思決定の仕方が、ある意味では政治的な安定性ということのために官僚と政治が作り出してきたやり方かもしれませんが、国会における実質的な審議というものをなくしているんじゃないか、国会審議の形骸化というものを招いているんではないかと思います。その意味では、この現在の与党の事前審査制、ある意味では政府・与党の意思決定の二元体制というのは憲法六十五条の趣旨に反する可能性もありますし、国会の審議権を事実上先取りしているということで大きな問題があろうと思います。

 先ほどから、同僚委員の方々で首相公選制についての言及がございました。

 私は、首相公選制というものが何を意味するかによって議論が多少異なってくるかと思いますが、現状の国民の首相公選制についての期待の表れというのは、ある意味では、今の議院内閣制の機能不全に対する国民のフラストレーションであると我々は謙虚に受け止めなければいけないのではないかと思います。その意味では、首相公選制、いわゆる大統領型の首相公選制が適切かどうかはともかくとして、民意をいかに日本の政治に反映させていくかということについては、我々はいろいろな偏見あるいは先入観にとらわれずに議論をしていく必要があろうかと思います。

 さらに、これも同僚委員から既に御指摘がありましたが、この国の形を変更するに当たって非常に大事な要素は、地域主権というものをどうやって実現していくかということであります。

 今の憲法では、憲法の第九十二条以降に地方自治の規定がございます。従来の国と地方の関係を変えないんであれば、憲法九十二条の地方公共団体の組織、運営についての規定というものはいじる必要がないわけでありますが、先ほど来の指摘にありますように、今は非常に大きな転換点にあるわけで、国の権限を大幅に地方、地域に移譲していく必要がある。その際に、国と地方自治体の権限関係を規定できるのは、私は国家の基本法典である憲法をおいてほかにないと考えております。その意味でも、憲法の地方自治についての規定については、これは基本的に国と地方の役割分担をはっきりと憲法に規定する方向できちんと議論をしていく必要があるのではないかと考えております。

 さらに、これも既に同僚議員から指摘がございましたが、憲法解釈や審査の在り方について現状のままでいいのかどうか。特に、憲法が非常に、我が国憲法が硬性憲法でなかなか改正について事実上いろんなハードルがあるという中で今、憲法解釈によってそれをすり抜けようという動きがあるということは、やはり我々は注意を要さなければいけないと思います。

 その意味で、今、憲法解釈について、私も内閣法制局の存在が問題だと思います。司法権の一部である最高裁の違憲立法審査というものが極めて受動的にしか行われていない状況の中で、事実上、憲法解釈を行政府の一部である内閣法制局が担っているという現状は極めて不健全なものであると思います。

 これについては、司法の在り方、あるいは議会として、国会としてどのような憲法解釈を持ち得るのかということも含めて、憲法解釈についてどのような主体が担っていくのか、先ほど来、憲法院という言葉も御発言の中にありましたけれども、そういう存在も含めて我々は検討をしていく必要があるのではないかと思います。

 官僚社会主義という意味においては、官僚社会主義を変更していくという意味においては、先ほど来も言及がありましたが、会計検査院的機能をどのように位置付けるのか、これについてもきちんと議論をしていく必要があると思います。

 結びに、一点問題提起をさせていただきたいのは、冒頭に舛添委員から御指摘がございましたが、有事の問題でございます。

 私は、現在の日本国憲法の平和憲法としての理念というものは尊重する立場にいる者でございますが、逆に、この基本法典としての憲法の大きな役割は、全体の利益と個別の利益の調整ということにあろうかと思います。

 有事に際して、国家が基本的人権を一部制約する必要があるという状態は当然考えられるわけでありまして、そうした基本的人権の制約をどのような基準によって行うのかということは、基本法典に明確に位置付けるべき問題ではないかと考えます。国家の、国の形を規定する憲法に、正に国家の最も本源的かつ伝統的機能である有事に際しての国家と国民との関係が位置付けられていないというのは、これは政治的な立場の相違を超えても、この憲法調査会としてきちんと議論をしていかなければならない課題であるかと思います。

 一番最後に申し上げたいのは、この憲法の硬性憲法としての位置付けでございます。

 少なくとも、その硬性憲法としての位置付けについても国際的比較の下で我々は考えていかなければいけない。正にこの国の形というのを国民が決定していくということであれば、その憲法改正手続についても議論が必要であろうかと思います。

 その意味で、今は正に現行憲法に規定される憲法改正手続が法律によって定められていないこの状態というのは異常としか言いようがないわけでありまして、その憲法改正手続の不備というものをできるだけ早く正常化していくことも我々にとっての非常に重要な任務ではないかということを申し上げさせていただきまして、私の意見陳述を終わらせていただきます。
 ありがとうございました。

○会長(上杉光弘君) 山口那津男君。

○山口那津男君 公明党の山口那津男です。
 憲法四十三条は、両議院が選挙された、両院が選挙された議員で構成されるということを決めておりまして、国民主権の下におきまして、この選挙というのは基盤的な制度になるわけであります。また一方で、憲法十五条で国民の選挙権、これを基本的人権の一つとして位置付けているわけであります。この人権という視点から見ましたときには、単に選挙する機会を与えるというだけではなくて、私は国民の意思がこの選挙を通じて国政に反映される機会をできるだけ広く保障するということをも含むものだと、こう考えます。

 私自身、幸か不幸か、三つの選挙制度を経験いたしました。一つは衆議院の中選挙区制度、そして次に小選挙区、さらに参議院の選挙区と、この三つの選挙を経験した個人的な感想を今から三点、ちょっと述べたいと思っております。

 一つは、小選挙区と中選挙区、衆議院の制度の比較であります。この小選挙区制度に変えていった大きな目的として語られましたのは、政策論争が起きて政権が交代する可能性が高まるということであります。それと、もう一つは、お金の掛からない選挙が実現をするということでありました。しかし、私は二回、小選挙区をやりましたが、そのいずれをも実現することはできませんでした。政策を選挙の現場で有権者に比較して論争する場面というものは一度も経験したことはありませんし、また政権交代も現実には起きなかったわけであります。また、お金が掛からないかといいますと、これは制度自体がもたらす結果ではありませんで、激しい選挙で議席をかち取ろうとすれば、お金は掛け放題でもチェック機能は容易に働かないということにもなり得るわけでありまして、これも実現の限りではなかったわけであります。

 それどころか、憲法的に最も重要だと思われますのは、この民意の反映という点からして死に票、死票が余りにも多いということであります。この二回の選挙を通じて、大都市部で小選挙区で当選した人の得票率で五〇%を超える人はほとんどおりません。およそが大体三〇%台であります。これに投票率を掛け合わせますと、絶対得票率というのは実に一〇%から二〇%台にとどまっているわけでありまして、この死票が過半数を圧倒的に超えていると。こういう選挙結果というものは、私は民主主義の制度として極めてゆゆしい結果だと思うわけであります。

 中選挙区と比較した場合、中選挙区は定数が複数になりますので、この当選者の得票率を足し合わせたものは過半数を超える蓋然性が極めて高いわけでありまして、現実にもそういう結果をもたらしております。そういう意味で、投票する人は何らかの意味で国政に自らの意思を反映するチャンスが多いということが言えるわけであります。

 この制度論議のときにしばしば比例代表制度と小選挙区制度の比較がなされましたが、私は、中選挙区制度というのは、結果として比例代表と小選挙区制度のいい面を両方、選挙区制度のいい面を両方併せ持った制度と考えているわけであります。そして、この衆議院の制度を中心といたしまして、参議院としては、この衆議院の制度では反映されにくい民意を代表するような選挙制度というものを考案すべきであると考えるわけであります。

 もう一点、投票価値の平等ということでありますけれども、これも、十五条が実に平等権を保障した十四条の隣にあるということも巡り合わせだろうと思います。私は、投票価値が二倍以内であることが憲法の要請だと考えております。ですから、制度を作るときには一対一に限りなく近づけるべきでありまして、その後の様々な要素によって二倍以内なら許せる、一人が二票を持つような結果を認める選挙制度というのはよろしくないと、こう思っております。

 さらにもう一点、外国人の、永住外国人の選挙権であります。
 これも、司法部が必ずしも否定をしなかったと。立法政策の問題だとした点を考えましたときに、この一定の数が、数というか集団がこの日本国内に存在する以上、やはりそういう人たちの意思を反映する選挙というものを考える必要があるだろうと思います。

 日本の司法は極めて抑制的に判断をしているところでありますが、立法政策の問題だと、こうゆだねた投票価値とこの永住外国人の選挙権につきましては、むしろ立法府が積極的なこの政策実現に努める、そういう課題を今放棄している状況ではないか、少なくとも怠慢と言えるのではないかと思います。

 以上の三点が私の感想でありまして、もっと幅広い議論は後にゆだねたいと思っております。
 以上です。

○会長(上杉光弘君) 吉岡吉典君。

○吉岡吉典君 日本共産党の吉岡です。
 私は、日本国憲法について論議する場合、いつも頭の中に出てくることの一つは、憲法制定議会当時の憲法担当大臣であった金森徳次郎氏が、憲法制定は日本を世界の水準に押し上げたのであると言っておられることであります。明治憲法の下では世界の水準になっていなかったということであります。

 考えてみれば、明治憲法では、主権はアマテラスオオミカミの神勅に基づいて天皇に与えられたものとされていたのです。ですから、世界の水準になかったということがはっきり言えると思います。

 現行の日本国憲法は主権が国民に存することを宣言し、これは人類普遍の原理であると明記いたしました。憲法学者の宮沢俊義氏は、この人類普遍の原理というのは、リンカーンの国民の国民による国民のための政治を意味すると、こういうふうに述べております。国の政治を国民が行う、そういう憲法が制定されたわけであります。

 私はここで、この国民主権との関連で、象徴天皇制の問題についての考えを述べておきたいと思います。


 日本国憲法で国民主権が明確に確立された後にも天皇制は残りました。しかし、それは政治上の権限を持たない象徴という位置付けに変わりました。したがって、明治憲法下と違って、天皇制をなくすかどうかということは日本の政治にとって死活の重要問題ではなくなりました。そのため、私どもの党の綱領では天皇制打倒は掲げておりません。

 しかし、象徴とはいえ、一つの家族がそれを世襲で受け継ぐ天皇制は国民主権と矛盾し、民主主義の時代に合わないものだと私どもは考えております。したがって、私どもは、現行憲法の枠を超えて、日本社会が発展し、そしてその新しい段階においては国民の総意の下にこの天皇制をも廃止するということが日程に上るだろうという展望を持っております。

 我々が目指している本格的な改革に取り組む民主連合政府の下では、天皇条項を含めて現行憲法のすべてを守るものでありますから、天皇制に手を付けるようなことはもちろんいたしません。

 私どもの現在の憲法との関連で考えている象徴天皇制についての考えは以上でございます。
 終わります。

○会長(上杉光弘君) 市川一朗君。

○市川一朗君 私は、二院制の問題に絞って私見を申し述べたいと思います。

 ほとんど周知の事実でありますが、現行憲法の制定過程におきまして、当初、GHQは一院制を主張したわけでありますが、日本側の強い主張によりまして二院制になったという経緯がありました。そうした経緯があったことが要因の一つだったのかなと私は思っておりますが、我が国の二院制は、両院とも直接公選制が取られておるにしては衆議院の優越性が極めて強いと思っております。憲法第四十三条で「両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する。」と規定されておりますけれども、極めて衆議院の優越性が高いと。その結果として、例えば参議院無用論が論じられるに至っている面があるのではないかというのが私の基本的な問題意識でございます。

 そこで、まず二院制そのものについて触れる必要があると思いますが、私は、民主主義国家におきましては、立法府である国会が立法に当たりまして国民の総意を二度にわたる慎重な審議を通じてより正確に確認するというシステムになっております二院制の方が一院制よりも優れていると思っております。これに対しましては、いわゆる効率性を重んずる考え方を中心といたしまして一院制を主張する有力な反対論があります。国の統治機構を効率性重視の論点から、観点から論ずることは極めて危ない危険な発想ではないかと私は考えております。

 ところで、少し飛びますが、二院制を採用している国にほぼ共通しておりまして我が国にも当てはまる幾つかの特徴点がございますが、一つは、上院議員の任期は下院議員の任期より長いと。そして、上院は部分交代制が取られている点が挙げられております。なぜそうなっているのか。

 これにつきましては、下院において総選挙が行われると構成員の全部交代制によって議席の政治勢力が一挙に大きく変わり得るが、その際、上院にはその劇的な変化をある程度緩和する働きが期待されているからだというのが通説とされておりまして、いわゆる上院の保守的役割論であります。上院のこうした保守的役割論につきましては、民意の正確な反映にはかえって邪魔ではないかという考え方もあるわけでありまして、大きく議論が分かれているところでございます。

 その際に改めて問題となりますのが、憲法第四十三条の両院の直接公選制の規定ではないかなと私は思っております。つまり、上院の保守的役割論を重視する考え方に立ちますと、上院議員の選出方法について直接公選制以外の仕組みを導入することは十分考えられることでありまして、現在でもイギリスの貴族院はそうなっているわけであります。

 しかしながら、我が国におきましては、さきにも申し上げましたが、現行憲法制定時において、GHQが当初一院制を主張しました。最終的には、両院とも国民の選挙で選ばれるのであれば二院制そのものには反対しない旨を日本政府に伝え、そして二院制の採用が決定した経緯があります。私は、その経緯の持つ意味は極めて大きいと思っております。

 当時GHQが主張し日本側も了解したいわゆる国会の直接公選制は、当時、戦後の日本につきまして、両院の直接公選制を担保として議会制民主主義を確立し、もって真の民主主義国家を建設するという基本的考え方に立脚したものであったと思っておりまして、非常にこの考え方は二十一世紀の今日でも重要視すべき考え方であると思っておる一人でございますが。

 ところで、両院とも直接公選制が取られているにしては、先ほど申し上げましたように、現行憲法の衆議院の優越性が余りにも強いんじゃないかと。二院制の下で、参議院に期待される役割をこれでは十分に果たすことができないということになっているのではないかというふうに思うわけでございます。

 現行憲法上、衆議院の優越性に関する規定は、委員の皆さんに改めて御紹介をする必要はないと思いますが、法律案、予算の関係、条約の承認、それから内閣総理大臣の指名、内閣に対する信任、不信任など一杯あるわけでございますが、参議院が衆議院と対等の関係に立ちますのはわずかに二つでございまして、一つは憲法改正の発議、それからもう一つは皇室財産授受についての議決のみでございます。

 したがいまして、素朴な国民感情といたしましては、国政上重要な問題のほとんどは衆議院で先に審議され、その結果が参議院で覆ることは全くと言ってもよいほどないのでありますから、参議院は無用ではないかということになるわけでございまして、いわゆる政治不信につながってくる問題がそこにはあるというのが私の認識でございます。

 この衆議院の優越性に関する規定につきまして、必要最小限の範囲にとどめるべきではないかという議論をしました場合に、最も懸念される問題点は国政の混乱であります。有名な言葉でございますが、二院制は、両院が結局同じ結論になるなら意義が低いし、異なる結論になるなら混乱要因であるという、いわゆる根強い二院制反対論がありまして、これと激突することが予想されるわけでございます。

 これから先の詳細な議論、論ずる必要があるわけでございますが、本日はちょっとこの辺を論じ切るには不可能でございますので、国政の混乱と二院制の問題について、私の私見、一、二のポイントについて触れておきたいと思います。

 一つは、予算についてでございますが、私は、予算につきましては、例えば議会において予算成立に至るまでの間は政府は前年度の予算を施行すべしという規定が明治憲法第七十一条にありましたが、例えばそういう同趣旨の規定を設けて両院での対等な、そして慎重な予算審議を確保する必要があるのではないかということでございます。

 二つ目は、内閣総理大臣の指名でございますが、これにつきましては若干考え方が変化しまして、やはり内閣総理大臣の指名の最も典型的な場合は、衆議院の解散・総選挙直後のときじゃないかなと思います。そういうことを考えますと、それに関します現行憲法の衆議院の優越性の規定は、これは残した方がやはり妥当なのかなと。

 こういったようなことで、いろいろ問題によりましていろいろ議論をしていかなきゃならないわけでございますが、いずれにしても、二院制の議論が本格的に期待し得る場は参議院における憲法調査会で、ほかにはないということを改めて主張いたしまして、討論を終わります。
 ありがとうございました。

○会長(上杉光弘君) 本日の自由討議はこの程度といたします。
 委員各位には、貴重な御意見をいただきまして、誠にありがとうございました。


2002/04/10

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