1989/12/06

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116 衆議院・文教委員会


○江田委員 先日に引き続きまして文教行政に関して一般質問をいたします。
 私は衆議院に出てちょうど六年少々ですが、その前参議院に六年間おりまして、国会に議席を得て今十二年目でございますが、衆議院に来て六年間、ずっと文教委員会で文部行政、いろいろな提案もしてまいりまして、国民的課題としての教育改革、今教育がなかなか大変な状態になっていますので、私ども、教育にいろいろな形で携わる者が皆、心を痛め、心を砕き、すばらしいあすを担う人間を育てていかなければならぬと思っているわけですが、とりわけ、私はこの間男女の平等の問題、これにずっとかかわってまいりました。

 ちょうど女子差別撤廃条約がこの間に批准をされたとか、男女平等ということになりますと、例えば男女雇用機会均等法ができたとか、大きな変化の時代でもあったわけで、とりわけ教育の場では家庭科の男女共修、従来家庭科といいますと女子教育の中で特に扱われてまいりましたが、しかし家庭というものの営みは、これは別に女子に限るものじゃない。男女の固定的な役割分担というものを排していかなければいけない。男も家庭の営みに責任も持ち、関与もし、女も社会の営みに責任を持ち、関与もし、そういういろいろな制度上の整備をしていかなければならぬ、こういう時代になってきていて、家庭科の問題を取り上げてまいりました。

 この家庭科の男女共修、家庭科の中身自体も大きく、時代の変化に伴いまして家庭の生活の仕方というものも随分変わってきておりますから、例えば今はセックスの問題一つとらえてみても随分常識が変わっていますね、そうしたことで中身も大いに進歩をさせて男女ともに教えるということを主張してまいりまして、今回の学習指導要領でこの点大いに前進をいたしましたので、きょうはそのことを若干フォローアップをしておきたいと思います。

 同時に、先日のこの委員会で、これは出席簿の編成の問題について菱村初中局長から「男女の平等の問題につきましては、御指摘がありましたように、家庭科は直しましたし、それから、今回の新しい指導要領では家庭科以外にも社会科の中でも、それから特別活動のホームムールなどでもそういうことを指導するように、そういう配慮をしております。」そういうお答えがございました。

 男女平等教育への前向きの答弁だと思っておるのですが、ひとつここで政治家の大先輩、教育行政の大先輩でもあられる大臣に、男女平等教育、こういう問題について、あるいは家庭科を男にも教えるという時代の流れ、こうした意義について大先輩としての大所高所からのお考えを伺いたいと思います。

○石橋国務大臣 お答えいたします。
 私は、御承知のとおり戦中派であります。ですから、着物を縫ったりあるいはお掃除をしたりあるいはお台所で御飯等をつくってくださること、これは戦中派は、男子厨房に入るを許さずということで育ってまいりました。そこで、時代の変革というものをしみじみ感じますが、やはり男社会、女社会があって、これが共同して家庭の中においてもまた社会の中においてもますますいいものをつくり上げていく。お掃除や洗濯は女だけにやらせて男は知らないよということであっては相ならないな、私もこう実感をやっとできるところまでなってきた、こう自分自身でも考えているわけであります。

 そこで、生活に必要な知識と技術、これを男も女もともに習得をしていくということ、これはこれからの社会においてすばらしく進歩したことであるな、私はこう考えております。

○江田委員 まあまだそんなお年じゃないと思いますが、長い人生を歩んでこられて、確かに大正生まれの男子の、今の状況について何とも釈然としないお気持ちがあるというのも、私もよく理解はできるつもりですけれども、しかし時代は変わっている。

 例えば今単身赴任なんというのも盛んで、単身赴任があるから調理や裁縫を男も学ばなければならぬ、そんなことをもっと超えた話だろうと私は思いますけれども、男もそういう家庭生活、身辺自立の素養なり感覚なり技術なり、そういうものを持っていないともう生きていけない時代でもありますね。俗に、男の連れ合いが先に亡くなった女の人は天寿を全うできる、女の連れ合いが先に亡くなった男は、大体六十過ぎでそうなると二年ぐらいで死んじゃう、それが天寿だと言えばそうかもしれないけれども、こんなことも言われるようなことで、これからやはり男はこういうもの、女はこういうものと決めつけるのでなくて、いろいろな男がおる、いろいろな女もいる、それがそれぞれ個性を伸ばしながら助け合っていく、そんなことになってきておる。

 例えば、セックスの話なんかになりますと、これはもう目を丸くするようなことで、私も家庭裁判所の裁判官なんかやったこともあるのですけれども、今ごろ桃色遊戯なんて学校現場で言うと多分子供たちは何だろうかと目を丸くするようなこともあったりで、そういう時代に、家庭教育の機能も随分失われておりますから、セックスの問題、子育ての問題やなんかも学校の中できちんと教えていかなければならぬだろう。あるいは、家庭の経済活動というものも、例えばこれほどクレジットカードが普及をしてまいりますと、そういうクレジットカードが飛び交う中で家庭経済をどう維持していくかというようなことも素養として相当きちんと教え込んでおかなければ大変だ。悲劇が随分起きていますね。

 そういう時代の家庭科の男女共修ということで、大臣の方から大切なことだというお話ございましたが、そこで確かめておきたいのですが、中学校の技術・家庭科、これは男女とも、家庭領域の家庭生活と食物、技術領域の木材加工と電気、これが必修で、あとの二ないし三単位は、生徒の興味と関心に応じて選択する、こういうことになっているのですが、この選択の部分も技術領域、家庭領域に偏らないフィフティー・フィフティーの時間割りに当然なるべきだと思いますけれども、これはいかがですか。

○菱村政府委員 新しい中学校の技術・家庭科におきましては、女子差別条約との関連も考慮しまして、現行のを大幅に改めております。現行のは御案内のように、男子は男子向きというので技術系列中心、女子は女子向きということで家庭系列中心の内容になっていたわけでありますが、新しい指導要領ではそれをやめまして、今お話がありましたように、男女とも共通に履修する領域として木材加工、電気、家庭生活、食物、四領域に決めております。残りは、あと七領域決めておりますので、その中から生徒の興味、関心に応じて三領域以上選択するということになっております。

 では、具体的にどのようなカリキュラム編成になるのかということになりますと、各学校がそれぞれ教育課程を組むということになりますので、生徒の実態を踏まえて適切にやっていただきたい。もちろんその際には、男子向き女子向きというのではなくて、男女平等の立場で選択ができるようなカリキュラム構成をしていただきたいというふうに私どもは考えております。

○江田委員 男女平等の立場でというお話でございましたので、そういう指針で各学校が自主的にやっていくということなのでしょう。それにしても、ある生徒は家庭科は必修の二単位だけで高校へ行く、他の生徒はさらに三単位を選択して五単位家庭科を学んで高校へ行くということが起こる。そして高校で男女共修の家庭科四単位を学ぶことになると、二単位しか学んでない者と五単位学んでいる者とが同じ高校の家庭科を学ぶということになってうまくつながっていかないという心配が起こるのじゃないかと思うのですが、いかがですか。

○菱村政府委員 今回の新しい学習指導要領では、家庭科だけでなくてそのほかの普通の科目につきましても選択ということを認めております。したがいまして、共通部分はもちろんございますが、それを超えてある生徒は英語を余分にやる、数学を余分にやる、理科を余分にやるというようなカリキュラム構成になるわけでございます。その場合も、高校へ行きましてそのギャップが生じないように高校のカリキュラムで配慮しております。したがいまして、今回の家庭科の履修につきましても今の共通の基礎を押さえておけば高校へ行ってうまくつながるように工夫しているつもりでございます。

○江田委員 そういうことで、中学から高校へかわるわけで、同じ学校でずっと行くわけではないのですから、多少跳びはねるところがあったり重複するところがあったり、そういうことは当然あると思うのですが、余り目をぱちくりでわけがわからなくなるようなことのないうまいつながり方を考えていただきたいと思います。

 今の中学の残り二ないし三単位というものについては、男女ともに技術領域、家庭領域のどちらでも選択できる、男子はこう、女子はこうと偏らない選択ができるようになることを念頭に置いておられる、もちろん教科の編成はそれぞれ各学校でやられることだが、こういうふうに理解しておいてよろしいですね。

○菱村政府委員 そのとおりでございます。

○江田委員 昨年だったと思いますが、この委員会で私は、高校の新指導要領は平成六年度実施で、中学の方は平成五年度実施、そうすると平成六年度の高校一年生が中学一年生になる平成三年度から新しい学習指導要領に基づいた履修を行わなければうまくつながっていかないのではないかという質問をして、当時の古村初中局長が中学も前倒しにするというような答弁をされましたが、これはその後そういう方向で進んでおりますか。

○菱村政府委員 その点につきましても、先生の御指摘を踏まえましてなだらかに移行できるような措置をとっているつもりでございます。もう少し具体的に申し上げますと、新しい中学校の指導要領は平成五年から全面実施ということでございますけれども、新しい指導要領で実施できるものはできる限り早くやろうということで、特例を定めまして移行措置を講じております。

 そこで、技術・家庭科につきましては平成三年度の第一学年から順次指導要領によることにしたい、移行措置としてそういう措置をとりたいと思っております。平成三年の一学年の生徒は平成六年に高校に入ります。そのときちょうど高等学校は、新しい指導要領は平成六年度の入学生から実施するということになりますので、前回御指摘いただきましたようにつながらせたという措置をとったのでございます。

○江田委員 それともう一つ、これも前に質問しましたが、平成六年度からの高校家庭科、私立の男子校とか公立の工業高校など七百校以上の高校が施設設備が整っていない、そこで当分の間、生活一般四単位ですが、これは二単位を生活一般で残り二単位は体育など代替科目を履修してもよい、こうなっています。しかし、施設設備や教員の問題は平成六年までまだ四年もあるわけですから、今から最大限努力をして施設設備を整えていけば平成六年度までに代替履修など限りなくゼロにできる、こういうことを提案しまして、これはそういう努力をするということでしたが、その後、この点はどういうことになっておりますか。

○菱村政府委員 高等学校の学習指導要領の全面実施までにはもちろん時間がございますので、その間できる限りこの整備を図りたいというふうに考えております。新しい家庭科の円滑な実施に向けまして、現在各都道府県に対しまして計画的な整備を策定し実施するようにお願いしております。そのためには、当然財政的な援助が必要になりますので、文部省におきましても産業教育振興関係補助金の一層の充実に努めていきたいというふうに思っております。

 それから、これは国の補助金でございますが、各都道府県の持ち分がございますので、そこは交付税で措置することになります。したがいまして、交付税におきましても新しい学習指導要領の家庭科が円滑にできるように、現在自治省に交付税の裏打ちも充実するようお願いしているところでございます。

○江田委員 計画的ということで今お話がございましたが、各都道府県、さらにそのもとの市町村なり各学校なりが今どういうふうに計画的にやっておられるかということの実態調査はされてますか。

○菱村政府委員 今家庭科を置いてない学校というのはわかりますので、その数等は把握しております。ただこれはついこの間告示したばかりでございまして、これから本格的に整備に乗り出すわけでございますので、現在のところ各都道府県の具体的な計画も定まっておりませんし、全国的にどうなっているかというのは現在の時点では難しいわけでございますが、今後十分意を尽くしていきたいと思います。

○江田委員 そうですね。まだ始まったばかりですから、調査をしても今こんなにできているというはずがないので、これはそうだと思いますが、こういう家庭科の男女共修を進めるグループの皆さんが各高等学校にずっとアンケート調査をしてみましたら、なかなか進んだ高校もないわけではないけれども、全くそんなもの寝耳に水というような感じの高校のアンケート調査も随分返ってきているようです。それは当然そうで、だからこそ大いにこれから努力をいただかなければならぬと思いますが、ひとつ万遺漏なきようにこの点はお願いをしておきます。

 ところで、今家庭科関係の学習指導要領の問題にちょっと触れたわけですが、この家庭科以外に男女平等教育ということで今回学習指導要領の改訂で扱っている分はありますか。

○菱村政府委員 特別にこれという言い方は難しいかと思いますけれども、社会科とか、それからホームルームの指導事項の中にはそうした趣旨の内容を入れております。ちょっと今、手元にきょうは持ってきてないわけでございますけれども、そういうふうな形で学校教育全体を通じて男女平等の教育をするというのが基本であろうというふうに思います。

○江田委員 さて、その学習指導要領ですが、家庭科のように前進をしたと思われるものもあれば、どうかなと心配なところもございまして、その中でも今私ども心配しておりますのが例の国旗・国歌という、割ににぎやかな議論になっているのですが、これはやはり心配をしております。

 昨日、海部総理大臣が記者団の質問で、それぞれの国が国旗・国歌を持つことにどの国が反発しますかと逆に尋ねるというようなことで、日の丸・君が代が国旗・国歌として十分定着していると思うとか、戦争の歴史といったって、何事にも光の面と影の面があって、悪いことは悪いことだけれども、いいことはいいことと教えなければならぬと私はいつも言っている、そんなお答えのようでした。戦争でいい面というのはよくわからないのですが、どうですかね。

 西岡前文部大臣がことしの二月十日に記者会見で、国旗・国歌の指導に従わない場合は処分の対象になるのかという質問があったのに対して、当然守っていただくことになるので、指摘のとおりだと述べて、教師が指導に反した場合の文部省としての処分もあるという姿勢を明確にされたという新聞の報道があります。

 別の資料によりますと、文部省の担当官が、職務命令を出してその命令に従わないと処分をする、こういうふうに説明をした、こういう記述もあるのですが、これはそんなような何か肩ひじ張った態度を石橋文部大臣もおとりになるつもりですか。

○石橋国務大臣 今委員御指摘のことについては私も承ってはおりますが、午前中の鴻池委員への答弁の中にも触れましたですが、学習指導要領ということで、さっきも話をいたしましたとおり、スタンダードな形で、国旗・国歌というものを掲揚するんだよ、「するものとする。」という法律用語だそうですが、そういうことであった。だから、現場において事あるごとに国歌を歌ったり国旗を掲げたりするということを当然教えなければならない、これは文部省の指導としてきちっとしてやらなければならないことである、こういうことになります。

 でも、ではそれをやらなかった場合どうするんだということになって、処分をするしないということ、これはやはり文部省の法律ではできないと私は思いますよ。任免権者でありますところの都道府県教育委員会、市町村教育委員会、この場においてそれぞれ判定をすべきことである、一般論としてはどこまでもそういう形になると私は思います。

 ただ、事国旗・国歌のことにまで処分をしなければならないような形にするということ、これは明らかに指導力の欠如だと私は思いますね。そうした意味の中においてこの問題は処理していった方がいいではないかという考え方です。

○江田委員 指導要領というものの法的拘束性の問題ということですが、指導要領に法的拘束性があるとして、それで、それに違反したら、さあ処分だ、そんなことを教育の場で余り言ったって、こんなことをしている教育は、これはそれでもう落第ですね。まして文部省ですから、文部省は大所高所、大きな立場に立って全国的に教育のあり方を見ながら、こんな気持ちでいるんだからしっかりやってくれよ、こういうことでいいんだというのが今の大臣のお気持ちだ、そんなふうに伺いましたが、まずはそれでよろしいですか。

○石橋国務大臣 要は、指導をして、やってもらえるようにしたいんだということでございます。

○江田委員 指導要領に違反したら処分だとか――指導するということで、それでよろしいのですけれども、これはちょっときちっと指摘をしておきますと、指導要領も随分細かいのですよ。

 私も見てびっくりしたのですけれども、中学校の理科の指導要領で、例えば「レンツの法則、フレミングの法則は取り上げないこと。」フレミングの法則というのは、何か左手とか右手とか、忘れましたけれども、電流がどう流れた、磁力がどうなったとかいう話ですね。「取り上げないこと。」あるいは「水中の物体に働く浮力や物体に働く重力と浮力の関係に触れる」が、「アルキメデスの原理は取り上げないこと。」というような、取り上げたらそれですぐ処分だなんておかしな話のようだけれども、随分細かいことだと思いますが、処分なんというのは、そういうものでない教育の現場をつくるようにひとつ努力してもらいたいと思うのです。

 ところで、学習指導要領というものが本当に法的拘束性があるのかどうか。昭和五十一年の最高裁判決、これを鬼の首でもとったように随分おっしゃるようですが、その五十一年最高裁判決と法的拘束性ということについて文部省の共通理解というのはどういうことになっているのか、これをちょっと説明してみてください。

○菱村政府委員 昭和五十一年の最高裁判決ではいろいろな争点があるわけでございますけれども、学習指導要領につきましては、まずそういうものを制定する国の権能みたいなものがあるかというところから始まっていると思います。それにつきましては、この判決では、一定の「教育における機会均等の確保と全国的な一定の水準の維持という目的のために必要かつ合理的と認められる大綱的な」範囲内でそれを認める、権能を認めているわけでございますが、そこで、学習指導要領につきましてこの判決は具体的にいろいろ吟味をしております。が、結論的に全体として「全国的な大綱的基準としての性格をもつ」ということで、この基準をいわゆる指導の基準として認めていると考えております。

 そこで、その場合の基準でございますが、「遵守すべき基準」というような言い方もしておりますし、それから原判決におきますそれは指導助言にとどめるべきであるという考え方につきましても、最高裁のこの判決では一応ネガティブに解しておりますので、そういうのを総合して考えれば、国側が従来主張しております教育の全国の遵守すべき基準としての、言葉はともかく、この法的拘束力といえばそれを認めておる判決であると理解しております。

○江田委員 その法的拘束力、言葉はともかくということなのですが、法律の議論というのは言葉の遊びみたいなところもあったりで、余り言葉の遊びに入ってもおもしろくないのですけれども、ではどういう意味で法的拘束力があるということなのですか。

 この判決は、私も見てみますと、まず教育基本法十条についてかなり大きな議論をするわけですね。子供の学習権、教師の教授の自由、こうした教育人権を憲法上の権利として認める、同時に、必要かつ相当と認められる範囲内での国の教育内容決定権を認めるということですが、そういう基準設定の場合に、教師の創意工夫の尊重、こういう教育基本法十条、これは基本ですよ、こういうことも言っているわけです。同時に、教育に関する地方自治の原則、これも考慮しなければならぬ。そして、「機会均等の確保と全国的な一定の水準の維持という目的のために必要かつ合理的と認められる大綱的なそれにとどめられるべきもの」である、こう言っておるわけです。

 指導要領というものはこうでなければならぬ。そして、授業時数とか教科名だけではこれは狭過ぎるが、この事件当時の中学校の学習指導要領の内容を通覧すると、おおむね全国的に共通なものとしてこういうことを教えなさいと言って決めていることが最小限度の基準と考えても必ずしも不合理とはいえない事項だ、それが根幹をなしていると認められる、ある程度細目にわたり、詳細に過ぎ、法的拘束力――ここに言葉が出てくるのですが、「法的拘束力をもって地方公共団体を制約し、又は教師を強制するのに適切でなく、また、はたしてそのように制約し、ないしは強制する趣旨であるかどうか疑わしいものが幾分含まれているとしても、」と括弧書きで出てくるところにこの法的拘束力という言葉がちょろっと出てくるわけです。

 しかし全体としては、「教師による創造的かつ弾力的な教育の余地や、地方ごとの特殊性を反映した個別化の余地が十分に残されており、全体としてはなお全国的な大綱的基準としての性格をもつ」、「その内容においても、教師に対し一方的な一定の理論ないしは観念を生徒に教え込むことを強制するような点は全く含まれていない」、したがって法的見地からは是認できる、こういう言い方なのです。これはそういう読み方をしてよろしいですか。

○菱村政府委員 今御指摘のありました点は、判決に沿ってのお言葉でございますので、基本的にそのとおりだと思います。

○江田委員 ですから、学習指導要領というのは、今言ったような地方ごとの個別化の余地も十分あるとか教師による創造的、弾力的教育の余地もある、教師に対し一方的な一定の理論や観念を生徒に教え込むことを強制するような点は全くない、そういうものであるのが指導要領なんですよ、こう最高裁は言っているわけで、そういう準則というもの、これは法的拘束力はあるのですか。そういうものが法的拘束力あると言って、一体何の意味があるのですか。

○菱村政府委員 今御指摘のありました中で、「教師に対し一方的な一定の理論ないしは観念を生徒に教え込むことを強制するような点は全く含まれていない」といいますのは、その指導要領の中にそういうものがないということでございまして、これは、例えば進化論をある一定の立場から教えないなどというのがアメリカではまだ一部ではあるようでございますけれども、そういうようなことは排除する、インドクトリネーションといいますか、そういうことの排除だと思います。したがいまして、これはおっしゃっているのとちょっと違って、要するに指導要領にはそういうものがないから必要かつ合理的な基準なのだということを是認する一つの理由に挙げているものだと思います。

 いずれにしましても、学習指導要領は、学校教育法の規定を受けまして、施行規則、さらには告示として法規命令の形式において定められているという点においていわゆる法的拘束力などという言葉を使っているわけでございますけれども、これは、実際は教育の基準でございますから、当然そこには教師の創意工夫の働く余地がある書き方になっておりますし、その具体的な書き方によってそれが教師に対してどういうことを求めているかということは異なってくるのだろうと思います。

○江田委員 その法形式ということで、学校教育法の条項、さらに学校教育法施行規則二十五条でしたかね、それに基づいてといった法形式で、こういうことで決まるものだから、そういう説明は確かにそれは一つの説明です。法律家としてその説明はわかります。

 わかりますが、教育という営みを一体どういうふうに法的に構成するかというのはなかなか難しいことで、教育の営みというのは、確かに行政法的には、国公立学校というのは公の施設、そしてそこに働く人、あるいはそこに籍を置く学生生徒と教師なり校長なり教育委員会、そうした関係が普通の関係とは違う特別権力関係、そんなことを言うわけですけれども、問題は教育という場なのですね。教育における人間の営みを法的に整理する場合にどこまで法律が前へ出てくるのか、これはどうなのでしょうね。

 例えば特別権力関係と言いますね。国公立学校の生徒と教師の関係は特別権力関係である。これは支配、服従の関係、命令と服従ということになりますから、要するに監獄とか公務員、そういうことと同じだ、行政法上そういう説明をするわけですが、文部省はそれを盾にとって特別権力関係だからといってやっていかれますか。そんなことで教育できると思いますか。

○菱村政府委員 教育という営みをどういう側面から見るかというのはいろいろ見方があると思います。もちろん教育の側面からも見ますし、経営の側面からも見ますし、法律の側面からも見ることができると思います。したがいまして、たまたま教育という営みを法律の側面から見て、法律家がそれは特別権力関係であるとか法的拘束力があるという言い方がありますし、事実それは法理論として成り立ち得る考えであろうと思います。

 ただ、学校の先生にそんなこと言っても、これは教育がそれによって高まるわけはございません。したがいまして、教育の場では教育の立場から重要なことをしっかりやっていく、私はそうあるべきだと思っております。

○江田委員 ひとつそこを履き違えないようにといいますか、恐縮ですが、間違えないようにしていただきたいと思うのです。法律の目で見たいろいろな説明の仕方がどこまで現実にそのまま通っていくのかというのはそれぞれの営み、営みによって違っているわけでして、教育という営みでは、法律で整理した人間関係というものをそのまま強行することによって教育という営み自体が壊れてしまうという営みであって、生徒と教師の関係も、指導を受ける指導する、あるいは教育を受ける、しかし、おれは指導する側だ、おまえたちは指導に従え、これでは教育は成り立たなくなってしまうという関係もありますよ。

 教師を尊敬することも必要だけれども、しかし同時に、子供の成長発展、子供の伸びていく力によって教師自身がみずから高まっていくという、人間としての相互のぶつかり合いでそこに生じてくるものが教育だという、そういう視点も欠かしてはいけない。そこへ何か法的拘束力なんというものを持ってきたらたちまち教育が崩壊をしてしまうというようなことになるのじゃないかと思うのですが、そこを間違っていただいては困る。

 そこで、今の指導要領の日の丸・君が代のことなんですけれども、文言が「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする。」こうなっているのですが、「意義を踏まえ」というのは何の意義を踏まえるのですか。「その」というのは何ですか。

○菱村政府委員 入学式や卒業式が学校の生活の中において一つの特別な儀式として、入学式の場合には新しく入った、卒業式の場合は学校社会から出ていくということで大変意味のある行事だと思います。それは、通常は厳粛な中でしかも教育的な雰囲気の中で行われるものでありまして、子供たちにとりましてもそれは教育の一つの課程として非常に重要なものである、そういう意義でございます。

○江田委員 「など」というのは、例えば創立記念日であるとかいろいろな学校の儀式がある、そこで「など」ということだということですね。「その」というのは、入学式、卒業式あるいはそういうさまざまな儀式、そういう儀式ごとにいろいろな意義があるので、その儀式の持っている意義を踏まえてやれ、こういう意味だというふうに理解するのだと思いますが、今の御説明とちょっと違うのかなという気もするし、いやそうだとも思うし、どっちですかね。ちょっとわかりますか。

 「その意義」というのは、入学式、卒業式あるいはいろいろな儀式がある、それぞれの儀式の意義というものに従ってと、こういう理解ですか。

○菱村政府委員 繰り返しになりますけれども、入学式、卒業式というような行事は学校生活の中で大変有意義な折り目をつける行事でございます。ですから、通常は厳粛で清新な雰囲気の中で新しい生活への展開の動機づけを行うとか、そういう意義を持っているわけでございます。ですから、そういう意義を持つ機会でございますので、「その意義を踏まえ、」ですから卒業式、入学式それぞれの意義ないしは、その「など」がいろいろございますが、いろいろある学校行事等もその意義を踏まえてという趣旨でございます。

○江田委員 もう時間がありませんので、これ以上突っ込めないのですけれども、私は余り異を唱えるつもりもないのです。しかし、入学式、卒業式というのは一体どこにだれがそんなことを決めたのだ。入学式、卒業式というのは全然ほかにどこにも、指導要領の中にも何もないのですね。

 入学式、卒業式はずっとやっているからということなんで、入学式はこういうもの、卒業式はこういうものと、何かおおむね社会常識でわからぬわけでもないけれども、そうまで入学式、卒業式の意義はかくかくしかじかと決めなきゃならぬものなのかどうか。それぞれの学校でいろいろな対応の仕方があっていいのじゃないか。それぞれの学校で我が学校の入学式はこういう意義を持った行事とする、その行事にはこういうものがふさわしいとかこういうものはふさわしくないとか、そういう学校のいろいろな意義づけ方、意義づけの仕方があっていいのじゃないかと思いますが、いかがですか。

○菱村政府委員 学校生活の中ではいろいろな行事がございます。始業式とか、終業式とか、運動会とか、創立記念日とか、開校記念日とか、学芸会とかいろいろございますけれども、やはりその中でも入学式と卒業式は際立って子供たちにとって重要な行事であるというふうに理解しているわけであります。

○江田委員 いずれにしても余り大ごとにならぬように、ひとつよろしくお願いいたします。終わります。


1989/12/06

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